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科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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総合イノベーション戦略 「技術革新のための産学協同フォーラム」に望むこと
総合イノベーション戦略

 「技術革新のための産学協同フォーラム」に望むこと

  政府主導の革新的な技術開発(イノベーション)に繋げるためのフォーラムが5月に発足した。このフォーラムは内閣が主催し、主要大学の学長と経済団体のトップにより構成される組織となるそうである。その狙いは、大学と企業間の共同研究や人材交流を促し、企業から大学に資金が入りやすくしたり、大学改革の政策を国に提言したりすることにあるとのこと(朝日新聞)。 
 このような企画は結構であるが、科学と技術を区別し、それぞれの役割をしっかりと検討したうえでの方策論議でないと、掛け声だけの実のないフォーラムになりかねない。6月に報告された「2019年度科学技術白書」でも、日本の科学・技術の基礎力が低下していることを指摘し、基礎研究の重要性を説いている。だが、それをどう解決したらよか実効性のある具体的方策は示されていない。基礎研究の意義を真に理解してないので、形式的な項目羅列に終わっている感がある。


科学と技術は別
 自然科学の本来の目的は自然の仕組み(原理・法則)を解明し認識を深めることであるが、自然科学には二つの社会的役割がある。まず知的欲求に基づいて自然の仕組みを知ること、およびその知識を技術として活用することである。前者は自然観や哲学の形成など精神文明にも寄与するから、科学は精神文化の一翼である。後者の技術への応用は物質文化への寄与である。それゆえ、科学は社会の上部構造と下部構造の基礎であるから、文化国家として不可欠なものである。

 だが、日本では科学と技術を同一視し、あるいは混同して一語で「科学技術」とされることが多い。かつての「科学技術立国」政策の提言はその例である。明治維新以後、西欧近代科学を役に立つ知識、つまり技術として導入し、富国強兵政策に活用してきた。この「科学=技術」の精神構造は現代まで引き継がれている。それゆえ、「科学振興」といえば「技術振興」となり、「基礎科学」は「基礎技術」を意味することになりかねない。
 科学と技術は相互に連繋して発展するものであるが、両者は、それぞれその目的も社会的役割も別であるにもかかわらず、「科学=技術」と誤解した議論が多すぎる。科学と技術を区別しない議論は本質を踏み外して、公害問題に見られるように、誤った「科学批判」を招き、人類の未来を見誤ることになりかねない。


長期的展望を持った適切な方針を提示するには
 科学と技術を区別し、それぞれの存在意義と役割を正しく認識することが不可欠である。今度の「技術革新のための産学協同フォーラム」においても、研究資金源である企業(産業界)の優位は明らかだから、大学側が余程頑張らねば、科学より技術が、基礎より応用が優先されるだろう。それでは元のままである。
 科学・技術の「基礎力」をつけるには、いうまでもなく、現代の先端技術には高度の科学理論が不可欠である。それゆえ、基礎科学は技術イノベーションのインフラでもある。基礎科学が弱ければ、先見性や発想の転換も弱く、独創的思考は生まれない。それでは技術イノベーションも起こりにくい。一時的に新技術の開発に成功しても長続きはせず。外国の後追いばかりになる。

科学・技術の「基礎力」をつける要点は次の二つにある。
1.目先の成果に捕らわれず、長期的展望を持った計画を立てること役に立つことが直ぐに分からないテーマでも、また、すぐ成果を期待できない長期研究も助成し育成すること。この点が日本の弱点であった。外国ですでに成果の現れた課題に慌てて取りつくから後塵を拝することが多かった。
 基礎研究は目的・目標のはっきりしないものが多く、また成果を得られる保証も無いから、リスクは高い。基礎科学の研究は何の役に立つか直ぐには分からず、長年の研究を要する。その様な研究の成果こそ、将来多大の貢献をするものであるから、上に立つ者はその研究の意義を見抜く力量と忍耐力が必要である。日本ではこれが欠けていた。基礎技術に関しても同様である。基礎 科学を尊重する精神風土でこそ独創的創造性は豊になる。日本で生まれたアイデアや成果を協力して育て活かすことをせずに、欧米のものを有り難がり、追従する傾向が強い。良いものを見抜く力量が弱いからである。良いものを見抜く眼識は基礎科学・技術を重視する伝統のなかで培われる。

 日本における基礎科学と基礎技術の協力による成功例は、小柴昌俊東京大学名誉教授主導のカミオカンデにおけるニュートリノ観測に対するノーベル物理学賞の受賞である。超新星から来たこのニュートリノ観測は、浜松ホトニクス社の光電子増倍管製造の基礎技術との協力の成果である。このノーベル賞受賞に際し、例によって「この研究は何の役に立つのですか」との質問に対して、小柴氏は「何の役にも立ちません」と即答した。しかし、この研究はニュートリノ宇宙物理学への道を開いた。さらにその後、ニュートリノ研究を発展させ、「ニュートリノ振動」に関する業績によって梶田隆章教授のノーベル賞に繋がった。
 また、江崎玲於奈氏のダイオードの発見にしろ、中村 修二氏ら3名の青色LEDの発明などは、量子物理学に基づく半導体技術の研究基盤が、当時の日本にあったからであろう。
  京都大学の山中伸弥教授のノーベル医学・生理学賞受賞とiiPS細胞研究の発展も、基礎科学重視の成功例であろう。

 基礎研究は、当初の研究目標が達成できなくとも、その過程で蓄積された知識は、次の研究ステップに寄与し、基礎固めとなる。一点突破では駄目である。日本の科学・技術政策は、目標が明確で、かつ短期間で達成可能なテーマを選ぶ傾向が強い。それゆえ、ユニークな発想は生まれにくく、外国で生まれた物を慌てて追いかけるのが常であった。技術開発にしても、漸く外国に追いついた時には、すでに新たなイノベーションの基礎的開発とインフラ整備が始まっている。
 近年では情報技術(IT)や人工知能(AI)の分野の立ち後れがその典型的例であろう。ある大手の情報通信会社の研究員が、囲碁のソフト開発研究は遊びと見られ肩身が狭い思いしているとの嘆きを聞いたことがある。囲碁ソフトの開発はAIの基礎分野であり、ゲームの理論に留まらず広く多くの分野と関連している。戦後間もないフォン・ノイマンのゲームの理論が技術面で画期的イノベーションをもたらした例があるにもかかわらず、それを見抜けないために、AI開発の重要性に気づかず、非常に後れてしまった。

2.研究組織は、研究費と並ぶ重要な柱である。
 研究組織の基礎強化には若手研究者の育成が不可欠である。折角要請した博士浪人が溢れている。有能だが、定職に着けない若手研究者は落ちついて研究できずにいる。若手のためのポストを大幅に増やし、落ちついて研究できる環境を整えねばならない。研究組織のインフラ強化は若手研究者の育成である。今はこのことが緊急の課題であろう。

 国公立大学の独立法人化以来、研究費の減少と研究組織の弱体化が急速に進んでいることを仕切りに聞く。外部からの研究費が取りやすいのは、目的と成果の見えている短期研究である。毎年の国費削減で、大学は研究費に飢えており、基礎研究は衰退し続けている。そこに「産学協同フォーラム」によって企業から大学に資金が入り易くするというが、このままでは相変わらず、資金の行き先は基礎科学よりも技術重視となるであろう。 研究費不足にあえぐ大学・研究所に誘いを掛けているのが、防衛省の「軍学協同研究」である。
 技術重視の「科学技術政策」を改めねば真のイノベーションはない。 

 今年度の「科学技術白書」で指摘されていることは、「国際的に注目度の高い研究領域が増えているが、我が国はそれらの新たな研究領域への挑戦的参画が不足している」である。それは、上記の二点が欠けていては当然の結果である。

 基礎研究の充実と若手研究者の育成の必要性について、ノーベル賞受賞者は、その都度口を揃えて強調し、学術会議も訴えてきた。その声が漸く為政者の耳に届くようになったらしいが、科学・技術の本質を見誤っていては有効な手立ては期待できない。
 この「産学協同フォーラム」は、経済政策の柱として、イノベーションのために大学の基礎研究を活用することを目的としているようである。「産学協同」は、技術の担い手の産業と科学研究の担い手の大学とが協力して技術革新をしようというものであるからその意図は良い。だが、日本の企業界の体質では「基礎研究」とは、「基礎技術」に重点が置かれたものとなる。それでは「科学・技術」の総合的発展ではなく、「技術革新」であるところに問題がある。


 日本における政・財界は、目先の技術革新にのみに関心があり、土台となる科学と技術の基礎研究の意義とその重要さを理解してない。これでは、例え良くなっても、それは一過性のことであって持続性はない。
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「技術革新のための産学協同フォーラム」に望むこと
宇宙の自転について
宇宙の自転について 

  2019年度の京都賞(稲盛財団)の基礎科学部門に、「宇宙の3次元地図を作る国際プリジェクト」のリーダ-(プリンストン大学名誉教授ジェームズ・ガン氏)が選ばれた。

宇宙の3次元地図の作製は、目立たない地道な研究であるが、宇宙の構造ばかりでなく、宇宙進化の解明にも欠かせない重要な基礎資料であろう。この研究と関連して、私に興味のあることは「宇宙の自転」である。以前から、宇宙の自転の問題に関心があった。昔は、宇宙は全自然そのものであるから、宇宙の自転など問題にならなかった。しかし、多宇宙論まで考えられる現代の宇宙論では、宇宙の自転に意味があるだろう。

宇宙の誕生と発展進化論のシナリオが分かってくると同時に、宇宙は一つではないという多宇宙の可能性が論じられるようになった。それらの宇宙は孤立しているのか、連結しているのか確かなことはまだ言えないが、何らかの相互関連があるであろう。いずれにせよ、自然界の構成が、宇宙は一つでなく他の宇宙が存在するのであるならば、この宇宙の自転の可能性を考察することは意味を持つだろう。全ての系は静止状態にはなく運動・変化をしているから、この宇宙も絶対静止ではなく何らかの回転運動をしているだろう。

 宇宙に自転があれば、その自転の様相(自転軸とその方向、自転の向きなど)を決定することは、宇宙論の基礎的研究に大いに貢献すると思う。
 
  宇宙には右手系と左手系について、非対称な現象やものがある。たとえば、素粒子の基本的相互作用の一つ、弱い相互作用では空間反転に対するパリティ保存則が破れている。化学物質にも生物を構成しているアミノ酸は左旋光のみである。これら非対称性と宇宙の自転とが関連していないだろうか(マッハ原理)?そこで、宇宙の自転に関心を持ったのである。

 もし、この宇宙が自転しているならば、その検証は渦巻銀河の向きの分布状態から分かるはずである。地球上で台風の回転方向はコリオリー力により、北半球で反時計回り、南半球では時計回りであるように、銀河や銀河団の回転の方向の分布を調べれば、宇宙の自転軸とその方向が分かるはずである。

  宇宙創生期のビッグバン後、原子核や原子から成る一様なガス体が膨張を続けながら、ガス体が千切れて銀河・恒星が形成された。その千切れたガス体は重力により収縮を始めて銀河が形成された。もし宇宙が自転していれば、コリオリー力によってそのガスの収縮過程で銀河の渦巻きの向きが自転軸に対して決まるはずである。宇宙を球形とみなすと、自転軸に対して上半分(北半球)では左巻、下半分(南半球)は右巻となるだろうから、渦状銀河の回転状態の分布は一様でなく非対称になる。ただし、宇宙は生成以来膨張してきたから、コリオリー力にその膨張速度を考慮しなければならないので銀河(団)の回転面がずれる。それゆえ、膨張速度の影響が大きい宇宙生成の初期に生まれた遠方の銀河(団)でなく、なるべく遅く生まれた近くの銀河(団)の回転分布を調べるのがよい。それには、宇宙の3次元的地図が是非とも必要である。


 渦状銀河の回転方向の分布を観測すれば、宇宙の回転軸が判定できて、自転が検証されるはずである。回転軸から遠く、また回転軸に対して中央(赤道面)から離れた上下の領域で非対称性は顕著になるだろう。したがって、銀河の渦状態の分布について、方向のみでなく立体的な観測データが必要なのである。 宇宙創生以来、銀河が形成された後、移動しており、衝突もしているから、渦巻きの分布状態は初期のままでなく変化しているだろう。だから、シャープな分布データは得られないかも知れないが、非対称性は残っているだろう。 

 銀河のみでなく、さらにマクロな構造をもった銀河団にも回転の非対称性があるかも知れない。銀河の移動・衝突を考えれば、むしろ銀河団の回転の非対称性を見る方がよいかも知れない。

 私は30年以上前に、この問題に気づき、ずっと関心を持ち続けている。その当時、国立天文台のI氏にお願いして、銀河の渦巻き分布のデータを送って頂いた。しかし、その頃は、データの数も少なく、銀河の方向だけで、距離を含めた立体的分布は全く判断できなかった。
  その後も、その様なデータは増えていないようである。この「宇宙の3次元地図を作る国際プリジェクト」の中に、銀河(団)の渦巻き分布測定を入れてほしい。その結果に期待している。
平成から令和への転換に思うこと
平成から令和への転換に思うこと

 平成天皇の生前退位とその時期が決まってから元号の発表まで、マスコミの報道はしつこくなぜここまで騒ぐのかと、食傷気味であった。そして4月30日の退位、5月1日の即位の前後は、報道の熱気は異常に感じられた。政府はこの生前退位の熱を政治的に利用しようとの意図が見え見えであった。マスコミの宣伝はその雰囲気を盛り上げ、安倍政権にうまく利用されたように思える。

 先ず疑問に思うことは、元号の決定とその発表を、なぜ秘密にしなければならないのかということである。また、その公表方法はなんともったいぶったことか。これで菅官房長官の人気が出たそうだ。人気取りのための自己顕示欲の強い安倍首相は最大限に、この皇位継承を利用した。

 平成天皇は昭和天皇が果たさなかった戦争の償いを、国民と世界に向けて誠心誠意をもって償おうとする強い気持ちが深く感じられた。「国民により添う」と言う言葉は、戦争被害者や災害被害者の見舞いの様子によく現れていた。嘘偽りのないその言動は人々の心を打った。天皇を中心とする皇室の人気は今や最高潮に達した感がある。これは結構なことであるが、この人気を利用して昔の天皇制を復活させようとする危険な動きに留意すべきである。
 
 「令和」の新時代には、世の中が良くなるだろうとの期待を込めた声が報じられているが、先行きの見透しはよくない。世の中を良くするには、先ず、政府が率先して、嘘偽りのない政治や関心を引く口先だけの約束を改めることである。安倍首相の「誠意を持って」とか「真摯に」という言葉は聞き飽きた。嘘偽りのない開かれた世の中を築くために、「誠心誠意」をもって令和の時代を開いて欲しい。
科学と技術の価値、および社会的役割
科学と技術の価値、および社会的役割

 AI(人工知能)の凄まじい進歩には目を見張るものがある。その将来像について警戒すべき所があるので、よく検討しながら開発すべきだ。あまりに急速な進歩は危険である。それにつけても、科学・技術のあり方が改めて問い直されている。

  科学・技術に対する批判は、原水爆開発競争や地球環境破壊などから、1960年代に隆盛になり、大学紛争当時は行き過ぎた「反科学論」まで叫ばれた。福島第一原発の事故により、科学批判が再び台頭した。この科学批判には耳を傾けるべきことも多々あるが、その議論には科学と技術を混同し一纏めにした「科学批判」が多いように思う。科学と技術の目的や社会的機能について、ここに改めて私見を述べてようという気になった。

1.科学と技術を区別すべきだ
 科学は人類の生産活動と結びついた技術のなかから、自然についての知的欲求により、その経験的知識を昇華して生まれた普遍的知識の体系である。したがって、科学と技術は不可分に結びついている。だが、両者はその目的も方法も、したがって社会的役割も異なるものである。
 本来、科学の目的は自然の仕組みを解明し認識することである。自然科学は古来「自然哲学」であった。自然科学には二つの社会的機能がある。第一は精神文明への寄与、つまり自然認識を深めることにより、自然観や人生観の形成に寄与することである。 第二は物質文明への寄与、その知識を応用し技術を通して生活に役立てることである。
 前者は人類の知的欲求を満たすと同時に, 自然観や哲学の形成など精神文明に寄与するから, 科学は精神文明の一部としてそれ自体存在意義がある。それに対して、後者は, 技術を通して物質文明への寄与である。技術の目的は自然の法則性や科学理論を応用して、生活に活用することである。それゆえ、科学と技術との目的は別であり、また、理論も方法もそれぞれ異なる。科学には基礎科学と応用科学があり、応用科学は技術と混同されがちであるが、やはり技術とは区別すべきである。
 科学には、それを形成した文明圏(あるいは民族)の自然観と思考形式が反映されている。17世紀に誕生した西欧近代科学の基礎には機械論的自然観、原子論的自然観、数学的自然観がある。20世紀の現代科学の自然観は、それぞれ進化的自然観、階層的自然観、数学的自然観に代わった。それゆえ、科学は文化であり、思想である。対して、技術には生活習慣や社会制度が強く反映される。
 このように、科学と技術はその目的も社会的役割も別であるにもかかわらず、「科学=技術」と誤解されがちである。日本では特にその傾向が強い。その理由は、一つには、現代では科学と技術が密接になり、基礎科学から技術への応用までの時間・空間的距離は極めて接近していて短期間の内に技術に利用されることにあろう。もう一つの理由は、江戸時代末期から明治にかけて、近代科学と技術が日本に導入されたとき、科学は「役に立つ知識」、つまり技術と同一視され、思想としての科学、精神文明としての科学の意義は無視された。この混同から日本では「科学技術」と一語で括る傾向が強い。欧米では通常“science and technology”と区別されている。この混同の傾向は日本のみでなく、実学重視の東洋に共通した科学観であろう。
 日本は西欧に追いつくために、「科学技術」の知識を急いで吸収し、その「科学技術」を富国強兵政策のために用いた。科学に対する理解とその姿勢は、その後もほぼそのまま今日まで引き継がれている。基礎科学軽視の風土の根はここにある。それゆえ、今でもノーベル賞の受賞者に対し、その学問的意義や精神文化としての意義を差し置いて、「それは何の役に立つのですか?」と聞く人が多い。また、“科学技術立国”としての基本方針にもその発想が強く反映されている。その基本方針は科学・技術における基礎科学の意義と役割を全く理解しない近視眼的見解であると思う。これでは基礎科学と基礎技術の面で、外国の後追い体質から抜け出ることはできない。

2.現代社会における科学と技術の役割
 近代科学が築かれる以前は、人間精神も社会も宗教が支配していたといえるだろう。それゆえ、科学も宗教の下にあった。だが、近代科学は神を必要としない論理を獲得し、宗教から独立していった。その過程で、宗教と科学の社会的地位は逆転した。科学・技術は、生活の隅々に浸透し、精神的にも物質的にも、人類の生活を一変させた。今や、科学・技術は一国の政治・経済を左右するまでになった。
 科学リテラシーについて。昔は、市民的教養の基礎は「読み、書き、算盤(計算)」と言われたが、現代では、それに「科学・技術の基礎知識」を加えるべきである。特に、文系の多い政治、司法、経済、教育の分野の指導者には、科学・技術に関する基礎知識が強く求められる。それなしには、専門家の意見を適切に判断して、正しい政策は打ち出すことはできない。この風土を変えるために、日本における科学教育の内容と制度を根本的に改革しなければならない。
 近代科学成立以降、科学・技術が、哲学・倫理を含む人文科学に比して、突出して急速に発展したために、社会制度や人間生活に歪みが生じ、人間精神の荒廃をもたらしている。このままでは、環境破壊(地球温暖化、汚染など)と高度の兵器開発による人類生存の危機は避けられない。
  哲学・倫理との共生がなければ、精神文明としての科学、思想としての科学は真っ当に存在も成長もしえない。その様に歪んだ科学は、適切な規制のない資本主義社会では経済支配の下で、金儲のための技術の下僕となりかねない。現代では、科学・技術は国政の支配下にあり、基礎科学すらも国威発揚のための技術の下僕となっている。この状態を脱して、「思想としての科学」の復権を唱えたい。文化としての科学が尊重される社会は、格差のない平等で平和な社会であろう。かつて、私は拙著『科学は自然をどう語ってきたか』(ミネルヴァ書房1999年)で「精神文明としての科学の復権」を主張した。
 科学と技術を区別せずに、一纏めにして「科学」として論ずる議論は、本質を踏み外して人類の未来を見誤ることになりかねないと思う。

3.科学と技術の価値について
 上記のように、科学は精神文明の一部としてそれ自体存在意義がある.「科学の価値」には, 科学理論それ自体(科学知)の有する「理論的価値」と, 技術を通して社会生活に活用する「利用価値」とがある。この両者を区別して科学の価値を考察する必要がある、と言うのが私の考えである。社会的「利用価値」は技術への応用の価値であり, 科学自体の有する「理論的価値」ではない。真善美に価値を認めるように, 科学知はそれ自体価値を有する。人間には自然の仕組みについて強い好奇心があり, それを知る喜びがあるからである.それゆえ、科学は価値とは無縁な「没価値」ではない。自然科学は客観的に存在する自然の仕組みや自然法則それ自体は価値とは無関係であるから、それを探究して得られる科学知は技術的利用価値とは無関係という意味で「没価値」である。
 科学理論(科学知)の価値評価は, その理論の正確さと普遍性によって決まる。つまり自然の仕組みを解明する活動(科学研究)において、適用範囲が広くかつ厳密正確な理論ほど科学的真理に近く, したがって知る喜びも大きい。さらに, そのような理論は科学研究における理論の有効性 (適用範囲と応用力)が大であるから「理論的価値」は高い。
 ただし、科学理論も、科学の進歩に伴って変化してきたから, 科学理論に対するこの価値評価も絶対的なものではない。科学も完全ではなく本質的に不完全である(教育改革通信238号、『近代科学はなぜ東洋でなく西欧で誕生したか』(吉岡書店)参照)。科学理論の真偽の評価は, 実証に基づいて社会的・歴史的になされるものであるから, その理論の価値評価も個人的好みや信条ではなく, 社会的・歴史的に客観的になされるべきである。それゆえ, 「科学の価値中立性」(後述)に関する判断も, 現代の状況だけで決まるのではなく、地域や時代を超えて 社会制度にも依存せず普遍的になされるべきである.
 科学理論の技術への活用における「利用価値」に関していえば,それは両刃の剣であり,善用、悪用いずれにも利用できる。社会制度や文化様式や生活スタイルにより,科学の技術的利用の仕方も異なる。科学理論自体には利用目的はなく、善用し易いとか悪用し易いといった性質はない、すなわち利用価値に対して中立である。
 他方、技術の価値についていえば、科学と技術は,その存在目的が異なるので価値判断は同一には扱えない。それでも、技術知識そのものは、科学と同様に,価値中立的であるとの考え方もある。その技術を誰が何時何処で利用しようと, 同じく有効に働くからというわけである。問題はその技術の利用目的と利用方法であり, それによって技術の善悪が決まるというのである。だが、技術は,社会的であろうと個人的であろうと, 生活の手段に活用するために生まれた。それゆえ、個々の技術はその使用目的が限定されているから、善用、悪用の区別がつきやすい。
 技術とは何かを, 武谷三男は「技術とは人間実践(生活的実践)における客観的法則性の意識的適用である」と規定した。この定義は, 技術の最も本質的なところを捉えているであろう。(これに対して技術を「労働手段の体系」と規定する, いわゆる体系説もあるが, それは技術の実体論的把握であり不十分であると思う)。武谷の「意識的適用説」によれば, 技術は目的を遂行するために法則性(法則として確立する前の知識も含む)を意識的に適用するのであるから, 利用価値と切り離せないだろう。
  技術の価値評価は,利用価値の高低でなされる.技術の有効性は, 利用効率や使いやすさ, および有益と弊害との兼ね合いで決まる.有効性の高いものほど技術としての価値は高い。だが, 技術には完全なものはなく, 大なり小なり必ず欠陥と弊害がある.それは技術そのものの不完全さに由来するものと, 利用者の利用法によるものとがある.

科学の価値中立性について
 経験科学の価値についてヴェーバーの「価値自由Wertfreiheit」論がよく引用される。それによれば「価値自由」には二種の「自由」があって、「研究における価値からの自由」と「社会的実践における価値判断への自由=価値判断の表明」である。「研究における価値からの自由」の場合は「価値自由」と「没価値」とをほぼ同義とみなされるようである。経験科学が客観性を保つためには価値判断から分離されねばならないとし、経験科学が教えうるのは人間の行為の目的にいかなる手段が適合するかのみであって、何をなすべきか(価値判断)を示すことはできないと主張して、理論の実践的意図とその評価を厳しく拒否したわけである。
だが、この科学理論の「没価値説」には疑問があるし、科学理論の社会的実践(技術を通しての活用)においては、価値とは無関係でありえず、没価値とは思えない。この疑問を解決するには科学の「没価値説」と「価値中立説」とを区別することにあると思う。
科学理論の「没価値説」は、科学的事実は価値から独立していて価値とは無縁であること、そして科学理論は価値評価や価値判断を行うことはできない、というものであろう。他方、「価値中立性」は科学理論とその利用について、価値と価値判断を一切排除するものではないだろう。価値中立説は科学知の価値、すなわち「理論的価値」の存在を認めた上で、科学的認識活動における科学理論の有効性に関しては価値判断をする。そして、技術的「利用価値」について無関係ではないが、善用・悪用いずれにも使えるという意味で価値中立であるというのである。その「理論的価値」は科学的事実にかかわるものであり、技術的「利用価値」に関わるものではない、両者は明確に区別されるべきである。すなわち、科学理論は価値中立ではあるが没価値ではない、というのが筆者の意見である。
 誤解のないように付言すると、科学は「価値中立」だからといって、科学を研究する科学者が科学の利用について「われ関せず」という態度は許されない。科学者も社会の一員であり、かつ理論応用に対する知識が深い。科学が技術を通して悪用されないように監視し、また悪用されたなら反対すべきである。科学は利用価値中立である故に、科学者はいっそう強くその利用法を監視して、悪用防止に努めなければならない。それは科学者の社会的責任として当然の義務である。

4.基礎科学の大切さ
 自然科学における基礎科学は、主として自然の仕組みについての原理や法則を追求するものである。それゆえ、その成果を技術としてどのように役立つかということとは、一応無関係である。基礎科学のテーマは、それが何の役に立つかを最初から明らかなものは少ない。むしろ何の訳に立つか分からない研究ほど、将来社会的に大きな役割を果たすものである。そのことは基礎技術の開発についてもいえることである。
 基礎科学の振興には、研究の自由が必要であり、長期間の研究継続を認める環境が不可欠である。新しい課題の研究に対する理解が無く、すぐに成果を求めたりする日本の風土には、基礎研究は育ちにくい。基礎科学、基礎技術の研究費は、国公立大学の特殊法人化以後ますます圧迫されている。
 基礎科学で「理論的価値」の高い論文は、科学研究の分野では貢献が大である。基礎科学の成果は、その延長として応用科学を活性化させ、科学全般のレベルを高める。その結果、将来、技術として広く応用活用されるわけである。それゆえ、長い目で見れば、基礎科学の重視が科学・技術全般のレベルアップと振興に欠かせない。
 日本はノーベル賞の受賞を、国を揚げて称賛し喜ぶが、基礎科学軽視の状態が続けば、ノーベル賞級の研究は衰退することを、もっと認識すべきである。そのことをノーベル賞受賞者は、受賞の都度みな口を揃えて強調し、基礎科学予算増加を訴えている。しかし、その声はなかなか関係者には届かない。
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