科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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「原爆下の本因坊戦」  囲碁を文化と世界平和の使節に!
   「原爆下の本因坊戦」
      囲碁を文化と世界平和の使節に! 


 アメリカ大統領オバマが「核兵器のない世界」を呼び掛け、ノーベル平和賞を受賞しました。この状況は核廃絶運動、世界平和運動を励まし、ちからづけるものです。11月にはオバマ氏が来日する機会に広島・長崎を訪問するようにとの呼び掛けもなされています。
 8月に、囲碁雑誌「囲碁梁山泊」の会で、「原爆下の本因坊戦」の話が出ました。このエピソードを、オバマ氏にも知ってもらおうと、彼の来日を機に手紙を書くことになりました。
 そこで以下のような手紙を、関西棋院宮本直毅九段と私の連名でホワイトハウスに送りいました。
 この手紙がオバマ氏の手に渡るかどうか分かりませんが、私たちの思いを少しでも世界の人々に知ってもらいたいと思います。
 この手紙は「碁梁山泊」2009年秋号にも掲載されています。



敬愛するアメリカ大統領バラク・オバマ殿

 1009年度ノーベル平和賞受賞おめでとうございます

 今年4月にプラハでなされたオバマ大統領の核兵器廃絶に関する講演は人類にとって記念すべきものと思います。
 この宣言は原子爆弾の被爆者を初め、核兵器を廃絶して世界平和を望む人々に大きな喜びと希望を与えてくれた歴史的講演と思います。これを機に核兵器廃絶の機運が世界的に一層盛り上がってきました。また、この度のご授賞はこの運動に更なる力を与えることでしょう。

 広島の原爆投下は、私たち日本の囲碁ゲーム愛好家にとって忘れられない「原爆と囲碁」について一つの史実があります。ご存じないかと思いますが、それは広島で行われた囲碁のタイトル戦「原爆下の囲碁対局」というものです。(「囲碁」とは盤上でなされる2人ゲームです。ごは数千年前の歴史を有するもので、発祥地は中国ですが、現代の形式は主に日本で整備されました。現在では囲碁はアメリカを含めて世界中に広まっております。囲碁の意義についてこの手紙の最後の脚注をお参照下さい。)

 このエピソードは、1945年8月6日に最初の原爆が広島に落とされた時に行われた最も権威ある囲碁タイトル戦に関するものです。この事件は、囲碁を通して世界の人々と手を結び核兵器廃絶と世界平和に役立とうとの強い思いを、このときの対局者に与えました。その意思は日本の囲碁界に広く受け継がれています。以下にその事件の概要をご紹介します。

 「原爆下の囲碁対局」のエピソードと、囲碁を世界平和と文化の使節として普及活動をしている人々がいることを、この機会にオバマ大統領にお伝えしたいと思い立ちこの手紙をしたためました。

原爆下の対局
 1945年には、日本の敗戦が濃厚でもはや囲碁どころではないという状況でした。当時の唯一の囲碁タイトル戦は「本因坊戦」でした。 囲碁界の重鎮、瀬越憲作は「人類の垣根を越えて、心を交流し、平和を築く、それが囲碁の心であり、道である」と常々強調し実践していました。それゆえ、本因坊戦だけは万難を排してやらねばならぬと準備を進めました。しかし、すでに東京を含めて日本の大都市はほとんど破壊されていましたので、局場を広島市に決めました。
 しかし、米軍機による空襲のため、対局者が対局場に会することが困難でした。漸く1945年7月に、タイトル保持者橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫、および瀬越ら関係者が広島に集まることができました。
タイトル戦は全部で7局打たれることになっていました。第一局は、7月23,24,25日の3日間で行われ、岩本の勝ちでした。この間、米軍艦載機が市内を機銃掃射し、対局場の屋根も壊れるほどの危険な状態でしたが、対局者も観戦者も防空壕に避難することなく、この対局を打ち終わったそうです。
 第2局目は8月4,5,6日の3日間でしたが、広島市内は危険なので郊外に対局場を移して行われました。ここも安全とは言えませんでした。ここで原爆にあったのです。
 そのときの記録:対局3日目の6日の朝、8時過ぎ、空襲警報も解除されたので、始めようと前日までの手順に従い石を並べた。その時、空に一機の米軍機。落下傘が高い空からきらきらと光りながら降りてくと、ピカッと閃光が広がった。写真を撮るためのマグネシウムをたいたように対局場が真っ白になった。そのうちに、広島の上空に入道雲のようなものがむくむくと持ち上がり、異様な物音が轟々と迫ってくるようだ。あっという間に爆風が対局の部屋に突っ込んできた。気がついてみると、橋本は庭の芝生に突っ立ていた。瀬越は畳の上に茫然と座り込み、岩本は碁盤の上にうつ伏せになっていた。窓ガラスもなにもかも吹き飛がされていた。しばらくして、部屋を取り片づけ、午後になってから囲碁を再開し、橋本の勝ちとなった。( 第3局目以降は当然中止になりました。)

 大変な爆弾らしいということは想像できたが、広島市内の様子はまだ判っていない。 囲碁が終わった頃、対局場の前を原爆で傷ついた被災者たちがぼろぼろに焼けただれた衣服で通り始めた。その有様は時間とともにひどくなり、地獄絵と化していきました。広島市内の被害は筆舌に尽くしがたい残酷な状況であったことは改めて言うまでもないでしょう。対局場は爆心地から10キロメートルほど離れていたので、対局者や瀬越は奇跡的に命拾いをしました。

囲碁を通して世界に人の和を、そして平和を! 
 これ以降、岩本薫の人生観は変わりました。彼はいっぺん死んだのだ、そのつもりでこれから囲碁界のために尽くそうと決心したそうです。その通り岩本は、私財を投じてまで海外各国に囲碁センターをつぎつぎ建設し、囲碁普及を通して世界平和へ貢献するという瀬越憲作の情熱を受け継いで一生を捧げたのでした。 また、橋本宇太郎も「囲碁は平和のための使節です。世界平和には碁が一番いいと信じます。だから平和の時代に囲碁は最も盛んになるし、その逆でもあります」と常々言っていました。
 「原爆と囲碁」の奇しき因縁は、「囲碁と平和」を一層強く結びつけたように思えます。


 囲碁は単なるゲームではない、「一種の文化である」といわれています。「文化としての囲碁」には、礼儀を重んじ、人々の和を作り、創造的智を磨くことで立派な人格を育成するという意味が込められています。囲碁が神秘的なゲームであることだけでなく、なにか奥深い哲理を含み、しかも人間同士の心が言葉なくても交流しあうという不思議な親和力をもっているからでもあります。
 今では囲碁が国際的に普及し「世界的ゲーム」になったので、囲碁を通して人の和を造り世界平和の基礎を築くことに貢献することができるでしょう。瀬越憲作の意思を受け継いで、囲碁を世界平和に活かそうという気持ちは、日本の囲碁界に今も強く引き継がれています。

 核兵器廃絶と世界平和を強く希求する日本の囲碁愛好家の強い思いをお汲み取り頂くようお願い致します。
 
                                     敬具
 2009年10月16日

  
                                    菅野禮司
                                      理論物理学専攻
                                    大阪市立大学名誉教授
                                           

                                    宮本直毅  
                                    関西棋院理事 棋士9段
         

「注:囲碁とは」
 囲碁は19×19路の盤面に黒石と白石を1個ずつ交互に置いてゆき、囲んだ地の大きさを競うゲームです。
 囲碁は別の名を「手談」ともいいます。「手談」とは、言葉は通じなくとも、対局者が碁盤の上に黒石と白石を交互に一手ずつ打つことにより、自らの意思と相手の意図を互いに読み取ることで心が通じ合う、というところから生まれた素晴らしい呼び名です。
 また、他のゲームにはない囲碁の特徴は、盤面には何もない無の状態から始めて、2人が交互に石を置きながら一つの宇宙(新世界)を作り上げていく構築型のゲームということです。
 囲碁は本来「地を分かち合う」ゲームであるとみることができます。地は全部で361路と決まっています。その地を奪い合うのでなく分かち合うゲームならば、調和(バランス)が自然の姿となります。だから囲碁の本質は平和主義なのです。
新政権に期待したい
新政権に期待したい

民主党中心の3党連立の新政権が誕生して、大げさに言えば日本の空気が一変したような気がする。
 新政権は、内政で次々に新機軸を打ち出して、日本の悪い政治体制を打ち破ろうとの気概が見える。この政権交代は日本の「政治構造革命」ともいえるだろう。

 新たな試みには多少の行き過ぎや失敗はつきものであるが、経験を生かしつつ常に軌道修正してよりよい道を切り開いて行くことを期待したい。それには、情報公開と民意に真摯に耳を傾けることが不可欠である。新政府の意気込みを潰さないように私たちは支持して行くべきだ。国民も心機一転して新たな日本を築く時がきたように思う。

 外交面でも、国連やG20などでの鳩山首相の演説は、やっと日本の存在感を世界にアピールできた素晴らしいものといえるだろう。首相は自らの信念に基づく考えを自らの言葉で訴えていることが伝わってきた。これまでの日本の首相・閣僚の演説にはなかった哲学や理念が鳩山演説にはあった。戦後、日本の政治・経済には哲学がないとよく言われてきたが、それを一転したように思う。

 首相は環境問題ではCO2の25%削減目標を約束し、核兵器廃絶運動ではオバマ大統領と共に先頭に立つと宣言した。唯一の原爆の被爆国日本と核兵器を実戦で使用したアメリカの両首脳が核廃絶に向けて共に世界に呼び掛けた意義は非常に大きい。

 戦後の日本の政治には外交はなかったといわれてきた。ただアメリカの言うなりに、アメリカの代弁者として行動しするだけであった。「アメリカと対等の立場」で話をしたいという鳩山首相(当時党総裁)の意思は、むしろ当然の発言のはずである。それに対してアメリカの一部から、反米的だと驚きの声がでた。自民党政権がこれまであまりにも従属的過ぎたので、日本とはそういう国だと錯覚していたためであろう。ところが日本のマスコミはその鳩山批判を取りあげて、鳩山発言は行き過ぎであるかのように避難の口調で騒いだ。「対等に話し合う」と言うのは当然のことなのに、これまでの日本の姿勢がひどすぎたために反米と誤解したアメリカ人から反論された。それなのに、その批判に慌てたのか、鳩山発言に矛先を向けたマスコミと一部識者の発言を苦々しく感じた。そこまで植民地根性が日本人に染みついたのかと嘆かわしかった

 でも、マスコミの心配は杞憂であったようである。幸いに、首相とオバマ大統領との会談では信頼関係が築かれたそうである。信頼に基づく対等で友好的日米関係が築かれることを期待したい。

 これから日本は、外交面でも世界的に活躍するだろう。この姿勢を続けて世界をリードするようになってもらいたい。経済的発展だけでなく政治的なリーダーシップを発揮すれば、日本人はもっと誇りをもって世界で活躍できるだろう。
政権交代で閉塞感から脱し明るさが見えてきた
政権交代で閉塞感から脱し明るさが見えてきた

 やっと民主党鳩山内閣が発足した。長かった自民・公明政権は国民の上にのしかかり、閉塞感が続いていたが、これで重い天井がはずれて少し明るくなったような気がする。

 鳩山政権にそれほど多くの期待は掛けないが、閉塞感から脱して先の見通しが少しは効くようになった。夜が明けたとはいえないが、大分明るくなった。

 今まで、国民は「見させず、言わせず、聞かせず」のつんぼ桟敷におかれていたが、これからはかなりの情報が公開されてくるだろう。そうすれば私たちも自分で考える気も起こる。
 鳩山首相と閣僚は、国民に向かってものを言い、アメリカや世界に向かって日本の考えを主張する姿勢が見える。環境問題、世界経済、国連などで、日本の存在を認めさせようとの気概が感じられる。

 国内には、取りあえず解決して欲しい諸問題が山積しているし、予算の裏付けにもいろいろ困難はあるであろうが、是非この姿勢を続けて頑張って欲しい。 長い自民・公明政権の枠組を改革し、歪みを正すには時間がかかるが、急がず着実に進めて欲しい。

 密約外交、政府・官僚の秘密情報を洗いざらい明るみにだしてもらいたい。そうすれば、これまでの政治がいかにひどかったかを知り、長期政権の弊害が判るであろう。それは日本の国民にとって政治に関する最大の勉強になるだろう。
 
 政治の信頼は、まず国民に向けての情報公開である。一度隠し事や嘘をつくと次々にその上塗りをするようになる。開かれた政府なら必ず国民と共に考え行動せざるをえないから、長く支持される

 民主党は、官僚支配の政治から、政府主導の政治に転換することを最大の目標に掲げてきた。官僚の横暴を抑え、特に天下りの弊害を正して欲しい。それには国民の強い支持が必要であろう。

 官僚支配を脱するためには是非とも必要なことの中に、政府や官庁の各種審議会、委員会、公聴会などの委員の人選を官僚に任せずに、公開して国民に推薦させることであると思う。役人のお膳立てプランを承認するための形式的審議会や委員会でなく、国民の意思を正しく反映できるものにするには、人選が一番大事である。国民と共に政治をするとはこういうことであろう。


やっと政権は交代したが・・
  やっと政権は交代したが・・


 今度の総選挙でやっと政権交代が実現した。長かった自公政権、特に自民党への国民の怒りが爆発した。これで、無策、腐敗、政官財の癒着、隠蔽体質の自民党政権が崩壊して、少しは風通しのよい政治が始まるだろう。民主党政権は、長年溜まった澱、腐敗の膿を全て白日のもとに曝して欲しい。そして、国民に軸足を置いた政治を希望する。

 それにしても、民主党の308議席は、先の小泉郵政選挙の振り子が逆に触れたようなもので、国民の憤懣が爆発したとはいえ、ムードに流される危険性を感ずる人は多いであろう。

 自民党政権に飽きた国民は、前々回の選挙のとき、小泉氏の「自民党をぶっ壊す」という言葉に引かれて、世論は絶対的高支持率を示した。このあとの小泉批判を許さない熱狂的ファンとムードを、小泉政権の体質を見抜いた人たちは苦々しく思っていた。

 次の「小泉郵政選挙」のときは郵政民営化のマイナス面に気づかず、歯止めなき無差別の民営化政策の危険性を見ずに、自公に2/3絶対多数を与えた。このときも、小泉首相のキャッチフレーズに騙され、刺客候補などという目くらまし戦術に引っ掛かった。これにはマスコミの責任と罪は非常に
大きい。
 せめてこの時の選挙で、小泉構造改革の危険性に国民が気づいていたら、これ程格差のひどい社会にならず、地獄を見る人たちがこれ程増大しなかったろう。そして、2/3絶対多数の自公政権でなければ、議会解散をだらだら引き延ばすこともなく、政権交代は早く起こっていたろう。

 今度の選挙では、反自公の反動で民主党の圧勝であったが、これも行き過ぎと思う。もっと少数健全野党も延ばすべきであった。2大政党では少数弱者の声を聞き逃し、汲み上げられない。今の日本の2大政党性は欺瞞的であるように思う。適時の政権交代はよいが、民主主義が正しく機能するためにはご意見番的な中間政党がやはり必要である。

 現代は価値観の多様化社会といわれるが、小選挙区制はこれに逆行する制度であろう。小選挙区制は2大政党制に都合がよいが、真っ当な少数批判者の声は切り捨てられがちでる。
 まして、比例区定数を大幅削減するという民主党の主張は絶対認めるべきではない。小選挙区制は「無か全かアールオアナッシング」2者択一の○x式である。クイズの2択問題ではない、大事な選挙では多様な考えが反映される中選挙区制度にもどすべきである。

 ○x式教育の弊害はもう試験済みであるのに、国の根幹を決める総選挙制度が2者択一式では困る。 ○x式教育によって現象的・即物的判断に慣らされ、さらに興味本位の断片的・表面的情報に満ちた今の情報化社会の流れを助長するものであろう。
[原爆下の本因坊戦」 囲碁を文化と世界平和の使節に!
「原爆下の本因坊戦」
囲碁を文化と世界平和の使節に!




はじめに 
 囲碁は単なるゲームではない、「一種の文化である」という言葉はしばしば耳にするでしょう。昔から文化人の嗜みとして「琴棋書画」があげられてきました。「棋」はいうまでもなく「囲碁」です。「文化としての囲碁」には、礼儀を重んじ、人々の和を作り、智を磨くことで立派な人格を育成するという意味が込められたいるでしょう。また、ゲームとしても人類が生み出した最高の知的ゲームだとの評価があります。
 囲碁は文化というだけでなく、囲碁は人類にとってもう一つ重要な役割を担いうるものと思います。その役割というのは、囲碁が近年つとに国際的に普及し「世界的ゲーム」になったので、囲碁を通して人の和を造り世界平和の基礎を築こうというものです。

 昭和の囲碁界における重鎮の一人、瀬越憲作八段は「人類の垣根を越えて、心を交流し、平和を築く、それが碁の心であり、道である」と常々強調し、実践されました。その意思を受け継いで、囲碁を世界平和に活かそうとの気持ちは、日本の囲碁界に今も強く引き継がれています。
 「碁と文化」、「囲碁と平和」を象徴する最も強烈な事件は、第2次世界大戦の終戦間際に打たれた本因坊戦「原爆下の対局」です。「本因坊」は当時最も権威ある唯一の囲碁タイトルでした。

 最近、アメリカ大統領オバマがプラハで歴史的な講演をしました。
 「米国は、核兵器国として、そして核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある。(中略)今日、私は核兵器のない世界の平和と安全保障を追求するという米国の約束を、明確に、かつ確信をもって表明する 。」
 この宣言により、核兵器廃絶の機運が世界的に盛り上がってきました。この機会に、あの「原爆下の対局」をもう一度思い起こして、「核廃絶と世界平和」を直接オバマ大統領に、また世界にアピールしたいという思いが、囲碁雑誌『囲碁梁山泊』の仲間につのってきました。
 そこで、「原爆下の対局」とその後における対局者たちの活動を紹介し、この人たちの平和を願う強い意思を世界に広めたいと思います。
 
原爆下の対局 (以後敬称略)
 現在では囲碁のタイトル戦は沢山ありますが、第2次大戦中は「本因坊戦」が唯一のタイトル戦でした。その時のタイトル保持者は橋本宇太郎本因坊でした。昭和20年(1945年)は、そのタイトルを争う第3期本因坊戦が行われる年であり、その挑戦者は岩本薫7段に決まりました。本因坊戦は日本棋院の主催という形になっていましたが、スポンサーの毎日新聞が実質的主催者でした。しかし、敗戦濃厚な時勢に、もはや囲碁どころではなく、新聞の囲碁欄さえあるかないかという状況でした。

 それにもかかわらず、瀬越憲作は「本因坊の灯を消してはならない」本因坊戦だけはなんとしてもやらねばならぬと考えて準備を進めました。しかし、日本棋院はその年の5月にすでに空襲で消失していましたから、対局場が問題でした。瀬越は広島に疎開していたので、日本棋院広島支部長の藤井順一(藤井商事社長)に協力を依頼しました。藤井の快諾を得て広島市内の彼の別邸で6月から6番勝負を行うことになりました。敗戦濃厚で物資が乏しいなか、藤井はあらゆる手を尽くしてこの対局の関係者を心から歓待する準備を整えました。ところが、当時の広島県警の第一部長青木重臣は、危険だから広島での対局はまかり成らぬと猛反対をしたそうです。このことが結果的に幸いしたのです。

 両対局者も承知したので、いよいよ対局の運びとなったのですが、空襲のために汽車は途中で止まり、東京からの岩本は広島到着が非常に困難でした。そのため対局は延期されて、3回目にやっと2人が広島に揃うことができました。第一局は藤井邸で、7月23,24,25日の3日間行われ、岩本の白番5目勝ちでした。この間、米軍艦載機が市内を機銃掃射し、対局場の屋根も壊れるほどの危険な状態でしたが、対局者も観戦者も防空壕に避難することなく、この対局を打ち終わったそうです。両対局者は当時を振り返って次のように述懐しています。

 「2人ともまだ40才前後であるから、藤井さんのいうようにこのまま死んでも本望というわけにはいかない。さりとて、羽織袴の対局者が真っ先に飛び出すわけにもいかず、とうとう3日間やせ我慢をして打ち終わりました」と、正に命懸けの碁だったわけです。
 第一局目の時は、猛反対の青木部長が東京に出張したので、その留守に藤井邸で打たれたのですが、青木が帰ってきてそれを知るとかんかんになって怒り、対局場を郊外に移動することを厳命しました。
 懸命に対局場を用意してくれた藤井に詫びて、五日市吉見園の島脇勘市(中国石炭社長)の事務所で打つことになりました。対局は8月4,5,6日の3日間。6日の朝、8時過ぎ、空襲警報も解除されたので、始めようと前日までの手順に従い石を並べました。
 「その時、空に一機の米軍機。あれは偵察機らしいから大丈夫だろうと話し合っていると、落下傘が高い空からきらきらと光りながら降りてくる。(中略)

 そのうちに飛行機の姿が見えなくなり、同時にピカッと閃光が広がった。写真を撮るためのマグネシウムをたいたみたいに、対局場が真っ白になった。
 なんだろうと見ているうちに、広島の上空に入道雲のようなものがむくむくと持ち上がる。気がつくと、異様な物音が轟々と迫ってくるようだ。あれっと思う間もあらばこそ、わたしたちの部屋に突っ込んできた。
 我に返ったとき、私(橋本)は庭の芝生に突っ立ていた。急いで部屋に引き返すと、瀬越先生は畳の上に茫然と座り込み、岩本さんは碁盤の上にうつ伏せになっている。なにもかも吹っ飛んでいた。窓ガラスは全部こわれている。
 大変な爆弾らしいということは想像できたが、広島市内の様子はまだ判っていない。部屋をあらかた取り片づけ、午後になって再び盤に向かった。対局3日目で、局面はすでに寄せに入っていたから、そう長い時間はかからなかった。私の白番5目勝ちになった」(『囲碁専業五十年』より)。

 囲碁が終わった頃、対局場の前を原爆で傷ついた被災者たちがぼろぼろに焼けただれた衣服で通り始めたそうです。その有様は時間とともにひどくなり、地獄絵と化していきました。広島市内の被害は筆舌に尽くしがたい残酷無比な状況であったことは、周知のことなので改めてここに記すまでもないでしょう。

 瀬越憲作は三男と甥を失い、爆心地近くの藤井一家はもちろん、広島支部役員たちも全部亡くなりました。これはただ事ではないことがわかり、第三局は中止になりました(この後は戦後打ち継がれた)。

 第二局目の対局場は爆心地から10キロメートルほど離れていたので、瀬越や対局者は奇跡的に命拾いをしました。対局を郊外に移動させた青木重臣は期せずして命の恩人となったわけです。
 軍部はこのときの爆弾を「新型爆弾」とだけ発表したので、原子爆弾であることの真相は終戦後に知らされました。

 「火の玉宇太郎」といわれた橋本の述懐。「どうしてわたしたちが、そういう危険きわまりない情勢下で碁を打ったか。新聞社から対局料が出るわけではない。すべて手弁当か愛好者の好意によっていた。だから生活のためではないことははっきりしている。『われわれは棋士である』という意識。棋士である以上は、自分の都合だけから、あるいは環境や状況が悪いからというような理由で対局を避けるわけには参らぬ。いわんや、本因坊戦の挑戦手合いという重要な碁です。少々の無理や困難があっても、それをやるのがわたしたちの責任でもあり義務でもある・・。こういう考えが、意識するしないにかかわらず働いたのでしょう」(『囲碁専業五十年』より)。まさに「棋士の一分」です。
 この壮絶な本因坊戦は、囲碁史の一ページとして永久に残るでしょう。いや残し、語り継がねばなりません。

囲碁を通して世界平和を! 
 危うく命拾いをしたこの人たちは、瀬越憲作の意思を継ぎ、平和を願って囲碁を世界に普及することに熱心に取り組んだのです。とくに岩本は、それ以後の生涯をそのことに捧げました。
 岩本薫の述懐、「これ以降、私の人生観は変わったと思う。いっぺん死んだのだ。どうせ死んだものなら、これからひとつ碁会のために尽くそうではないか。そんな気持ちを抱くようになった。」(『本因坊薫和選集』)
 その言葉通り岩本は、囲碁普及を通して世界平和へ貢献するという瀬越の情熱を受け継いで一生を捧げたのでした。「橋本君を見て思い出すことは、瀬越師の囲碁の普及への強烈な信念である。八十路を越えて、私は瀬越師のことがなおさら思い出されるのである。人類の垣根を越えて、心を交流し、平和をきずく、それが碁の心であり、道である、というのが瀬越師の信念であった。そうした瀬越師の心を思いつつ、私は海外各国に囲碁センターをつぎつぎ建設し、それを拠点に国際普及をはかることがわれわれ碁にたずさわるものの使命であると思う」(岩本薫「風雪七十年」より)。

 囲碁の品格は、心、技、体の見事な調和のなかで鍛錬し磨き抜かれた芸をぶっつけ合うことによって生まれる高い緊張感に満ちたリズム、この格調は歴史の中で棋士たちによって築かれ、それが伝統として受け継がれてきたものだと、岩本は述べています。 橋本も師である瀬越憲作の意思を継いで活動しました。囲碁に関しては「天才宇太郎」、「火の玉宇太郎」といわれた棋士ですが、人柄は温厚で囲碁の普及と平和を願う気持ちは人一倍強かったそうです。橋本の弟子、関西棋院の宮本直樹九段も師の心を体して、常々言っています「囲碁は平和のための使節です。世界平和には碁が一番いいと信じます。だから平和の時代に囲碁は最も盛んになるのです。」

 「原爆と囲碁」の奇しき因縁は、「囲碁と平和」を一層強く結びつけたように思えます。
 このエピソードに登場する人たちばかりでなく、戦後日本の多くの棋士が、またそれを支えてアマチュアが、アジアをはじめ世界各国で普及活動を続けてきました。その努力が実っていまでは囲碁は世界ゲームとなり、文化・平和の使節の役割を立派に果たしていると言えるでしょう。

文化としての囲碁 
 戦後間もなく、9月に「週間朝日」が囲碁を取りあげました。食べる物にこと欠きやっとその日を暮らしていたときに、人々は健全娯楽として、かつ文化としての囲碁を求めたのでしょう。延期になっていた「本因坊戦」の再開を機に、新聞の囲碁欄もその年のうちに復活しました。対戦の結果は2勝2敗で日本棋院のあずかりとなりました。

 囲碁は別の名を「手談」といいます。「手談」とは、言葉は通じなくとも、対局者が碁盤の上に黒石と白石を交互に一手ずつ打つことにより、自らの意思と相手の意図を互いに読み取ることで心が通じ合う、というところから生まれた呼び名です。

 「昔とちがって海外での普及活動もずいぶん楽になった。第一の理由は、わが国が経済大国にのし上がり国際的地位が向上したことがもちろん大きいが、囲碁そのものが一つの文化、芸術として見られている点である。この「囲碁は芸術である」という響きはどれほど私の胸に一種の感動となってしみ通ることか。これは囲碁が神秘的なゲームであることだけでなく、なにか奥深い哲理を含み、しかも人間同士の心が言葉なくても交流しあうという不思議な親和力をもっているからではないか」(岩本「風雪七十年」より)。 

 昔から囲碁の効能に「囲碁五得」というのがあります。いわく、「得好友、得人和、得教訓、得心悟、得天寿」。これこそ囲碁が文化と友好平和の使節として相応しいものであることを示すものでしょう。

 「文化としての囲碁の品格」、「平和の使節としての囲碁」を是非もう一度見直して欲しと願い、この一文をものしました。
 
 最後に、筆者の思いに共感して、関係資料や思い出話を快く提供してくださった宮本直樹九段に感謝します。
 
            参考文献
・志智 嘉編『風雪の記録:橋本宇太郎勝負碁二十番』囲碁新潮(昭和43年9月)   「私の履歴書」
・橋本宇太郎著『囲碁専業五十年』至誠堂(昭和47年2月)「いわもと」
・関西棋院監修『橋本宇太郎の世界』山陽新聞社 (昭和59年)
橋本宇太郎「原爆の下で」、岩本薫「風雪七十年」
・橋本宇太郎対話講座『囲碁一期一会』難波塾叢書48、(平成4年)「原爆下での対局」
・岩本薫著『囲碁を世界に(本因坊薫和回顧録)』講談社 1979年
・岩本 薫著『本因坊薫和選集』岩本薫先生棋譜編纂会(平成7年9月)「囲碁人生九十 年薫和随想」

付記:
岩本薫 国際囲碁普及に貢献
 1945年の東京大空襲による日本棋院焼失時には、自宅を仮事務所にするなどして、瀬越憲作らと日本棋院復興に尽力した。1958年に訪米、続いて1961年からアメリカに1年半滞在してから海外普及に情熱を注ぎ、アメリカ・ヨーロッパ各国・南米等を訪問して囲碁の指導と普及を行った。
 1975年にロンドンに囲碁会館を建設。1986年、囲碁「薫和サロン」ビルを日本棋院に寄付し、それを売却した5億3千万円を資金として岩本囲碁振興基金を設立。1989年にはサンパウロに南米囲碁会館を建設、1992年にアムステルダムにヨーロッパ囲碁文化センター、1995年にシアトルとニューヨークに囲碁会館を建設するなど、世界各地での普及に尽くした。ヨーロッパ囲碁文化センターの日本間は「薫和」と名付けられている。
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