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科学・技術と自然環境について、教育を考える。
行き過ぎたLED照明:
行き過ぎたLED照明:  節電どころか浪費になりつつある

 今年も年末が近づき、街にはライトアップやデコレーションが氾濫しだした。
 先日大阪市は昨年に続き、御堂筋をLED照明で飾った。年末まで毎晩続けるそうである。その電球数は23万個という。
 また、11月に入ったら、なんともうクリスマスデコレーションを飾り始めた所があるとテレビで報道された。それもLED電球数は3万個程とのこと。
 神戸のルミナリエは昔から有名であり、例年通り行われるであろうが、LED照明になってから一層巨大化している。

 これらの派手なデコレーションを、美しく素晴らしいと、テレビが放映し宣伝している。その宣伝により、それを真似て同じような飾りとライトアップは至る所に拡がるだろう。
いま地球は環境保全、温暖化防止のため省資源、節電が叫ばれている。その様な状況にあって、国や自治体は率先してそのために努力すべきであるのに、率先して膨大な浪費をして環境汚染に荷担しているように思えて仕方がない。テレビ(特にNHK)も綺麗だと褒めて宣伝するばかりでなく、地球環境保全の立場から取りあげるべきではないか。


 LED照明の発明は画期的な技術開発である。LED照明はその明るさ、電球の寿命、消費電力の削減による節電など多くのメリットをもたらした。LED発明がノーベル物理学賞に与えられたとき、ノーベル賞選考委員会は「白熱電球が20世紀を照らした。21世紀はLEDが照らす」とその功績を讃えた。まさにその通り、LED照明は急速に普及して節電に貢献し、今や世界を照らしている。
しかし、LED電球が安価になり、消費電力も少ないので、LED照明は至る所に氾濫し、節電、省資源どころか、逆に多大な浪費となり、環境汚染に荷担するという状態になりつつある。「LEDは21世紀を照らし過ぎ」にならないように心がけねばならない。

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東京オリンピック・パラリンピックの迷走
東京オリンピック・パラリンピックの迷走

 来年開催まで一年を切ったこの時期に、東京オリンピックのマラソンと競歩の会場が、東京から札幌へと突如変更された。高温気候を理由とするIOCのこの決定に議論が沸騰した。地元の意見を無視したIOCの決定の経緯や仕方、その唐突さに不明瞭な点が多い。
 東京オリンピック・パラリンピックは、最初からご難続きだ。非常識な予算の膨張、メイン会場のデザイン変更、ポスターの変更など、JOCの迷走は目に余るものがある。そもそも無理を重ねた東京誘致だからであろう。
東京オリンピック・パラリンピックが決定された3年前から、年々悪化する気候温暖化、気候異変のため、2020年には、選手ばかりでなく観客を含めて、東京ではまともな競技はできないだろうと予想されていた。東京誘致に批判的であった性もあるが、私はそう言い続けてきた。


 オリンピックの会場決定やアスリートの養成と決定法など見れば、オリンピックは利権絡みの「金まみれ、薬まみれ」である。本来のオリンピック精神は失われてしまった。このようなオリンピックは、膨大な経費を費やし、設備建設など環境破壊にも繋がっている。

 気候温暖化のために、夏の開催は困難だから、開催時期を秋に変更するによう、JOCは提案し請願したが、IOCは聞き入れなかったと聞く。その理由は、秋にはサッカーなどの球技大会があり、その放映権を持っているアメリカの巨大企業がオリンピックよりもそちらを優先し反対しているからだという。要するに、利権と金によって、無理でも夏に開催しなければならないのだと聞く。

 マラソンと競歩の会場変更(東京から札幌へ)について、その一方的なやり方について、批判や反対の意見を述べる関係者やマスコミは、目先の対策に眼を奪われてか、この利権絡みのスポーツ界の体質を改革すべきだという意見を述べない。この歪んだ本質的な体質を改革しなければ、今後も同じようなトラブルが繰り返されるだろう。この機に、本来のオリンピック精神を取り戻す改革運動を巻き起こすべきではないだろうか。
吉野彰氏のノーベル化学賞おめでとう
吉野彰氏のノーベル化学賞おめでとう
 
  旭化成の吉野彰名誉フェローがノーベル化学賞を受賞した。民間会社の研究者は久し振りの受賞である。今年も日本人科学者が受賞したと、みな喜び祝った。

リチウムイオン電池の開発で、最後の仕上げを完成させ、実用化を可能にした功績が評価されたそうである。 
リチウムイオン電池は、電池の寿命が延びるだけでなく環境にも優しい。現在ガラケーやスマートフォン、ノートパソコンやデジタルカメラなどの電子機器、電気自動車や航空機の動力源としても使われている。さらに、小惑星探査機「はやぶさ2」にも搭載されるなど、地球上だけでなく宇宙空間でも活躍していて、今では人類にとって欠かせないものとなっているそうである。

吉野氏は環境問題に関心が強く、リチウムイオン電池が環境問題の解決につながることに強い意義を感じていて、スウェーデン王立科学アカデミーから「環境問題の解決に役立つ技術」とコメントされたことを喜んだそうである。
これまで日本のノーベル賞受賞者は、自らの研究課題に関することばかりでなく、日本の研究体制や環境問題など人類の抱えている課題に関心を持ち、コメントはいつも立派で敬服する。

リチュウムイオン電池は、それ自体としては、環境汚染を減らし環境問題の解決に役立つというのはその通りである。だが、そうとばかりいえないことにも留意すべきであろう。

吉野氏の素晴らしい業績に水を差す積もりは毛頭無いが、リチュウムイオン電池ばかりでなく、画期的技術の発明はその活用の仕方によっては、逆の効果も起こりうることを考慮すべきである。

以前、赤崎・天野・中村氏らが開発した青色LEDの技術は、高輝度LED照明への道を拓きノーベル物理学賞を受賞した。そのとき、ノーベル賞選考委員会は「白熱電球が20世紀を照らした。21世紀はLEDが照らす」とその功績を讃えた。その通り、LEDの照明具は長持ち、電力の省エネ、自然色に近いという長所を有するゆえ、第四世代の明かりとして世界を照らしている。しかし、21世紀を照らし過ぎないようにしなければ、省エネとは逆になると、LEDの受賞当時に私は書いたことを思い出す。実際に、今ではイルミネーション、デコレーション、ライトアップなどが氾濫し、世界を照らしすぎて省エネどころではない。これに似たことは、真空管に替わるトランジスターなど、他にも多々ある。

製品の小型化による省資源・省エネを目指した技術が、広く普及利用されて大量の生産品が氾濫し、逆に資源・エネルギーの大量消費をもたらした。吉野氏にしろ、中村氏などにしろ、省エネにより環境破壊を止め、人類の生活を豊かにしようとの意志願望とは逆の結果になりかねない。資本主義社会における規制のない市場原理優先の経済の下では、必要以上の製品開発、大量生産により弊害も出るだろう。人類は便利さや、物質生活の豊かさを追求するだけでなく、同時に精神革命によって生活スタイルを変えねば、折角の素晴らしい科学・技術開発はよい結果をもたらすとは限らない。
人類と人工知能(AI)の共存(その2)
人類と人工知能(AI)の共存(その2)  
 
 前回ではAIに関する基礎的な問題について考察したが、今度は別の角度、社会的な問題を取り上げて論ずる。

・AIが行う「判断」の性質について
 AIは常にその場その場の状態(状況)に応じて判断し,次の行動を決める。それゆえ、思考に流れがなく、先を読まない。判断に時間的(歴史的)継続性がないから、ストーリーがない。一連の行動において、AIの一つ一つの判断(行動)は結果としては繋がっているが、その継続性は対象の変化に引きずられ対応した結果生じたものであって、AI自らの判断で生みだした継続性ではない。これでは、AIは単なる「道具」でしかない。
 それにしても、AIは、当面するその場面の状況から、何段階も先を読んで最良の行動を決める。その先を読む方法がモンテカルロ法によるものであるならば、自らストーリーを作りだせないから「道具」に過ぎない。しかし、深層学習AIならば、帰納的ながら法則性を見いだし、評価法(評価関数)を形成して、それに基づいて行動を決めるようになる。その評価関数は、ある程度は自ら流れを作りうるといえる。そうなれば単なる「道具」を超えた自主的システムとなる。
 学習するAIは、外部から与えられた膨大な情報を、記憶し蓄積するだけでなく、統合整理して法則性を見いだしうる。つまり、情報をある程度操作できる。現段階では、その学習法が帰納的方法であるから、そこには当然限界がある。その操作には生物のような柔軟性がなく、機械的(固定的)である。
AIにとって、真に柔軟性ある学習法は、推論による論証や予測が可能である演繹的方法を習得することにより得られるだろう。その様な演繹法を習得すれば、学習の仕方、つまり何を如何に学ぶかを判断できるようになり、創造性にも繋がる。それゆえに、演繹可能なプログラミングの開発が望まれる。これが実現なければ、「AIが人間を超えるという」シンギュラリティ(技術特異点)は起こらないだろう。

・人間とAIの共存について
 AIの技術は人間社会や個人生活の中に急速に浸透普及してゆき、人類を取り巻く環境は大きく変わるだろう。人間とAIとの共生により、考え方、倫理、世界観も変わるだろう。AIの進歩発展は人類にとって良いことばかりではなく、悪い面がある。AIの活用について危惧される事柄が、すでにいくつか指摘されている。その主たるものは、AIが人間の職業を奪う、AIと人類との対立、AI兵器の開発、ビッグデータを操る巨大技術で世界を支配する、などである。これらの問題は、AIのシンギュラリティ(技術特異点)以後に深刻な問題となろう。
 それゆえ、AIの開発と利用の制御、および人間との共生の仕方が必然的に問題になる。以前、遺伝子操作の技術が開発されたとき、その危険性が指摘されて、遺伝子の人為的操作に関する科学・技術の研究は制限すべきであるとの議論が、倫理的面および環境と人体への影響の面から盛んになされた。AIについても同様な考察と議論が必要であるが、その考察と議論は立ち後れている。

AI技術の孕む負の面について、少し考察してみたい。 

(1)AIは人間の職を奪うか。人間は労働しなくてよくなるか? 
 AI技術の進歩と普及により、人間の職業が奪われ,失業者が増えるといわれている。柔軟性や創造性を必要としない、単純労働はAIが取って代わる。将来、人間は労働せずに、遊んで暮らせるだろうという予測もある。そのためには、生活に必要な最低限の「基本所得」を支給する政策(ベーシック・インカム)が不可欠であるが、この制度は累積赤字が続く現在の国家では不可能である。資本主義社会に代わる新たな社会制度を築かねばならない。

 だが、資本主義社会が続く限り、このような未来予測は的外れであり、人間の労動はなくなるどころか、増加するであろう。AIにより新たな職種(仕事)が派生するからである。第一次産業革命の頃、機会化により失業者が増えると言って、機械打ち壊し運動が起こった。手工業の一部熟練労働者は失業したが、社会の全生産活動は急増し、労働力の増大となった。また、20世紀には、自動機械化の技術開発によって、人間労動は軽減され生産能率は上がったが、社会全体の生産量は急成長し人手はむしろ不足した。ロボット化が進んでも、人間は暇になるどころか、残業が増えて過労死が頻発している。
 画期的新技術が生まれて、便利なものができると、一見人間の労動は軽減されるように思えるが、その新技術によってそれまでになかった仕事(しなくともよかった仕事)が派生し、かえって社会全体の仕事量は増える。
 たとえば、便利なコピー機の出現で、資料配布、資料保存のためのコピー、広告類のチラシ作りなど、新たな仕事が増えた。また、紙の増産、古紙の処理など、コピー機自体の生産以外に、付随した仕事が増えている。
 これは一例に過ぎない。要するに、総じて技術革新により、一部の職種は縮小、消滅することはあっても、社会全体で見れば生産量はかえって増え、労動量は減らない。AIの場合も同様で、AIの普及、AI機器の維持保全などAI関連の仕事以外に、AIによって新たに多くの仕事と職種が生まれ、人間の仕事が無くなるということはないだろう。
 
(2)AIが「人間を超える」シンギュラリティ(特異点)について 
 技術的メカニズムに関しては、かなり広範囲の分野で、個別的ではあるがAIは人間の能力を超えた。いずれは多用性のAIができて、それがカバーする分野の範囲では人間能力を超えうるだろう。だが、それだけで人間を超えたとは言えない。
 そもそも、シンギュラリティの定義が曖昧で、いくつか異なるものがある:
(i)技術面で人間を超える(技術的特異点)、(ii)人間の能力を超える、など。   
技術的特異点なら分かり易いが、「人間の能力」の範囲が漠然としているからである。近年の脳研究によって、未知の領域が広がり人間の意識の多様さと奥深さ、複雑さが改めて認識されている。それゆえ、人間の能力を知り尽くす事は不可能である。そもそも、人間が人間を解明するということは、自己言及型の科学(論理)であるから、人間の能力を完全に知り尽くす事は原理的に不可能である(ゲーデルの不完全性定理)。それゆえ、AIが人間を完全に超えたか否かを判定することは困難であろう。
 人間の能力は、帰納的学習以外に、推論・演繹による予想、創造力がある。感情や深層意識など、未知の分野がある。これらの能力を超えてこそ、人間を超えたといえる。したがって、なにを以て「シンギュラリティ」といえるのか、その定義を明確にすべきである。
 いずれにせよ、人間の能力を超えるAIを創ることは、原理的に可能であるから「シンギュラリティ」の時期は何時かはくるだろう。その時、人類と巧く共生ができるようなAIを開発しなければならない。そうでないと、人間がAIをコントロールできるか、AIが人間を支配するかが問題になる。

(3)AI兵器の開発競争一番危惧されることはAI兵器の開発である。核兵器よりも危ないものとなる可能性がある。AI兵器の開発は先進国で熱心に進められているそうだ。AI兵器の開発と使用法を早急に規制せねばならない
 AI兵器により戦争の意味が変化する。AI同士の破壊戦、AIによる人間の殺戮。AIによる軍事施設、情報施設、原子炉破壊など、恐ろしいことばかり。人類破滅に至るという点では、原水爆と同様、あるいはそれ以上であろう。
戦争の相手と攻撃目標を、AI兵器が自ら判断して、破壊と殺戮を行うようになると、それから人間の制御を超えるようなAIロボットが生まれる可能性がある。人類に対立する、あるいは人類を支配するAIロボットは、このような兵器の分野から生まれる確率が一番高いように思う。
人間と人工知能(AI)の共存
人間と人工知能(AI)の共存 (意識とAI)                            
  AIの発達・進化は目覚ましく、人間生活や社会構造を変えるばかりでなく、人間の精神や思考法にまで影響を及ぼすであろう。
 最近放映されたEテレの「超AI入門特別編」は、AIについて哲学、倫理、科学の観点から、多面的に深く考察し、新たな視点を提示してくれた。この内容は、私のこれまでの考えと共通するものがあり、共感するところが多かった。そこで、この放送内容を踏まえて、AIについて改めて考察してみた。

1.AIは、これまでの技術とは異なる。 
 AIは単なる技術開発のシステムではなく、科学や人間思考をも包摂しうるものである。
科学と技術の関係は密接であるから、両者は混同され、あるいは同一視されがちであるが、本来科学と技術とはその目的も論理も別であり、したがって社会的役割も異なる。この種の問題を論ずる場合、まず、科学と技術を区別すべきであることを強調したい。

 これまでの技術は、生産活動において、物質的な面で人間生活を豊かにすることを目的とするものであった。便利さを求めて、物の生産を容易にし、自然の脅威から逃れること、つまり物質文化に寄与するものであった。現在開発されているAIは、このような技術を飛躍的に発展させることに向けられている、しかし、将来のAI(超AI)は、便利さを求めたり、物質的生活を豊にする技術に関わるのみでなく、科学とも関連するものであろう。人間の思考法(論理)や精神をも変える可能性があり、精神文明に強い影響を及ぼすだろう。人間、他の生物、およびAIの共生によって生態系が変わる。これまでの技術は、物質文明の進歩により、社会生活の変化を通して人間の意識を間接的に変えてきた。AIとの共生は直接的に人間を変える可能性を有する。 

2.AIに意識はあるか? 
 深層学習(deep learning)AIは膨大なデータを記録し、そのデータを基にして帰納的に法則性を学習し見いだすというものである。しかし、最早その域を超えて、自らの法則性を見いだしている。囲碁の分野では、自己学習するAIの開発に成功した。 
 Deep Mind 社が新たに開発したAlpha-Go-Zero は囲碁ルールのみを入力してAI同士で自己対局させた。その棋力の成長速度はまさに脅威的である。学習を始めて3日後、400万局の自己対局でトップ棋士の棋力に達し、さらにわずか40日ほどで世界のトップ棋士を超えてしまった。人間の打った棋譜には一切頼らず、ゼロから自習のみで棋力が向上し、人類が何千年も掛けて営々と積み重ねて達成した囲碁の殿堂は、わずか40日ほどで超えられてしまった。恐ろしいといえば、まさに恐ろしいことである。これこそ「本格的AI」の始まりであろう。ただ面白いことに、Alpha-Go-Zeroの棋力向上の過程は、人類が辿った様式と似ているそうである。このことは囲碁に限らず、AIの未来を考えるための示唆を与えるものであろう。

 人間の棋譜を記録し、学習するAIでも、単なる学習を超えて質的進化を遂げているのではないかと想像される。なぜならば、AIは人間の棋譜(1次情報)を基に、深層学習によってある程度高いレベルの法則性を帰納的に自ら編みだし、新データ(2次情報)として蓄積しているはずだ。その新データの蓄積量がある閾値を超えると、それら2次情報を組み合わせた着手を打つようになるはずである。すると前に入力されたデータ(1次情報)から離れだす。すなわち2次情報をもとに自ら深層学習をするようになるからである。
 それでも、現在のAIの能力は、帰納的学習に限られるという点で限界がある。さらに、AIの評価において重要な指摘は、いかにAIの機能が進歩し ゲームで人間に勝てるからといっても、またロボットが人間相手に上手く応対できたとしても、AIには「自分の行動の意味が分かってない(理解していない)」ということである。言い替えれば、自らの行動の理由を説明できない「ブラックボックス」だというわけである。

「意識」とは
 では「意味が分かる」とか、「理解する」とはいかなることなのだろうか。そもそも「意識とは何か」がまだよく分かっていないから、「意識」について少し考察してみよう。
 生物のごく初歩的な「意識」は、少なくとも次のように規定できるだろう。最初に発生した原始的「意識」とは、生物発生から間もない進化初期の生物が無意識的行動(食物摂取、光に対する反応など)を繰り返すうちに、徐々に芽生えた目的達成のための物理・化学的機能といえるであろう。
 すなわち、「意識」とは「物質の高度な組織系が目的を持って行動する物理・化学的運動機能」の発達したものと見るならば、「意識」とは、(生物の原始的意識も含めて)一つの物質系がある目的(餌を採るなど)を達成するための行動に際して、その内部に蓄積した情報を統合して組織的に活用する内的機能(行動の起動因)といってよいだろう。ただし、この「原始的意識」の発達・進化の過程で、どこからが「意識」といえるか明確に定めることは今のところ難しい。
 この「原始的意識」から始まって、さらに複数の目的を達成するための機能を備えた情報系において、それら複数の目的と機能を統合し、選択的に活用しうるシステムならば「意識」といえるであろう。 意識のレベルは、その行動目的の性質や種類数によるだろうし、意識の進化と共に、目的は複雑多伎になっていく。

 もしこのように意識を定義できるならば、囲碁AI も「自己の行動の意味を理解する」という「原始意識」を持つたといえるだろう。なぜならば、囲碁ルールと定石、手筋、攻め合い法、および実戦棋譜のデータ(1次情報)を仕込まれた囲碁AIは、最初のうちはそれらデータを基に学習することで、規則性や法則的なもの(2次情報)を獲得するだろう。その2次情報の蓄積量がある閾値(臨界量)を超えると、AIはその2次情報を基にして囲碁に勝つための高次の学習を独自に始めるようになるだろう。それは人間との対局や、囲碁AI同士の対局で達成される。囲碁・将棋などの目的は、ゲームに勝つということであるから(それはルールに規定されている)、勝つことを目的とする行動の「意味」を理解し始めたといえる。すると、AIはその行動(着手)のための評価関数(情報)を内部に形成し、それによって着手の判断をしていると思われる。
 内部に蓄積された情報を操作して、目的ある行動をするということは、AIは自らの行動の「意味」を理解し始めたといえるのではないか。AIが「意味」を理解しているか否かを判定するために、チューリングテストに掛けてみる価値があろう。(拙稿「囲碁AIは意識を持った(意味を理解した)」「囲碁梁山泊」2017年白秋号参照。)
 AIが自らの行動の「意味」を理解しているならば、自らの行動の意味「なぜその様に行動したか」を、説明できる機能をAIに持たせることができるだろう。教育の仕方によって、人間とAIとの間で囲碁の理論的な会話も可能なはずである。そうなれば、人間の誘導質問により、着手の意味を聞き出すことができるだろう。そうなればAIの価値は質的に変わる。それが次の重要な課題である。AIにその行動の選択理由を説明させる機能を備える研究はすでに始まっている。

(注)チューリングテスト:アラン・チューリングは「機械に、知性を持った振る舞いができるかどうかという問題」を発表した。チューリングの提案は「機械は我々が(考える存在として)できることをできるか」というもので、人間の物理的な能力と知的な能力の間に、公平で厳しい境界線を引くことの試みである。そのためにチューリングは、「模倣ゲーム」というテストを提案した。機械と人間を別々の部屋に入れ、テスト者はいくつかの質問をし、それに対するタイプ打ちの回答を読んで、どちらが機械でどちらが人間か当てるというゲームである。このゲーム中の機械は、テスト者に人間と思わせる回答をする。最後まで、どちらが人間なのかわからなければ、そのコンピューターは合格である。そのとき「そのコンピューターには知能がある!」と言える。ピュ

3.AIの限界
 現在の深層学習AIは、学習目的の分かっている特定分野の問題について多量のデータを記憶させて、反復経験により帰納的に学習するものである。それゆえ、特定の個別分野に適用するものであり、人間のように、多面的に総合的判断ができる汎用性(多用性)AIではない。汎用性AIのソフトを開発する論理と方法は未知である。
 
 そのような汎用性AIを創るには、帰納的アルゴリズムばかりでなく、推論や論証のできる演繹的ソフトの開発が必要であろう。まして新たに物事を創造する能力を有するソフトの開発は難しい。創造性機能を有するためには、まず現在実行していることの意味(何のための計算か、ゲームの楽しさなど)を理解しなければならないが、AIにはその意味をまだ十分理解できない。さらに重要なことは、現実世界を超えて空想する「想像力」、未来を予想する「予想力」の有無である。この想像力は人間特有の能力であり(チンパンジーには少しはあるかも)、今のAIには全くない。したがって、人間の能力に「迫る」あるいは「超える」ようなAIを作ることは、今のところできない。
 ただし、特定分野のAIでも、それら複数個を一段階高い深層学習ソフトで連結すれば、「多用性」のAIができ、きっと新たな発見があるだろう。量の変化による質の転化である。ここまでが帰納法学習のAIの限界であろう。
 本当の汎用性AIを開発するには、演繹的推論の論理が必要である。それは非常に難しい。それゆえ、新たに物事を創造する能力を有するAIの開発は至難である。創造性機能を有するためには、まず現在実行していることの意味を理解しなければならないが、AIにはその意味をまだ十分よく理解できない。さらに重要なことは、現実世界を超えて空想する「想像力」の有無である。この想像力は人間特有の能力であり、AIにはない。したがって、人間の能力に「迫る」あるいは「超える」ようなAIを開発することは、今のところできない。
 とはいえ、いずれは明確な意識や意志を持ったAIが作られることは明らかであり、人間と共生、あるいは競合する時代が来るだろう。

4.人間の盲点を突くAI
 その様な未来のことよりも、現時点でAIを如何に活用しうるかを考えて見よう。いうまでもなく、AIは能率よく仕事をこなし人間の代わりをする。だが、それは一面であり、より重要な働きが他にもある。

 その一つは、人間の思考の盲点となっているところを発見し、その穴を埋めうることである。人間の思考形式(発想)は一つに決まったものではなく、東洋と西洋でも、あるいは民族によっても異なる。また時代とともに変化し、発展進歩してきた。それゆえ、現代人の思考形式は、まだ不十分で盲点がある。 

 現に、将棋や囲碁の対局で、人間には思いつかない着手や、悪手とされていた着手が飛び出して驚かされている。トップ棋士が、AIを使って着手の研究するのは、AIが強いからだけではなく、人間の盲点を指摘されて、新たな発想に至ることがあるからだという。人間は最初からこの手は駄目だと思って読みの対象から外してしまうものがある。しかし、AIは愚直にすべての可能な手を読み尽くすので、人間が見落としていた思わぬ応手によって盲点を突かれることがあるという。

 このことは将棋や囲碁に限らず、一般的にいえることである。人間の思考法はまだ一面的なのである。地球外生命は人間とは異なる発想や思考をしているかも知れない。論理学にしても形式論理や弁証法論理がある。特に形式論学は古代から、名辞論理(三段論法)、命題論理、述語論理など次々に開発されてきた。今後も新しい論理が誕生するだろう。つまり人間の思考や発想には欠けている(盲点がある)ということである。まだまだ未知の論理や発想があるはずだ。AIは人間の盲点を突くことで、人間思考の限界を気づかせてくれるかも知れない。

 単一分野に限ったAIでも、このように人間の盲点の発見に繋がる。それゆえ、複数の分野のAIを繋げ統合すれば、更なる人間思考の盲点や隙間を発見することができるだろう。このようにAIを活用できるなら、人類の思考形式に質的な変化をもたらすだろう。この関係は人間とAIの協力的共生の一つの形態であるから、未来社会における人類とAIの共生法に示唆を与えるだろう。

 だが、AIが突く人間の盲点は、人間の想定しうる範囲(人間の有する概念の範囲)のレベルである。人間が与えたデータを基に帰納的に作動した結果、偶然に発見するものであるから、人間が考え及ばないこと、人間を超えるものではない。
 このことは、論理的思考以外に、感性についてもいえる。たとえば、絵画芸術の分野で、優れた多数の絵画を認識させ、AIに絵画を描かせる場合でも、全く人間が想像しなかった作品を創造することはできないであろう。人間の作品の周辺、つまり人間が想定できる範囲に停まっているのではなかろうか。
 真の創造は、演繹的論理と推論・論証のできる演繹的論理を併用したアルゴリズムが必要であろう。 

5.「人間を超える」シンギュラリティとは。
 技術的メカニズムや、個々の分野ではAIは人間の能力を超えた。いずれ多用性のAIができて、その分野の範囲では人間能力を超えうるだろう。だが、これだけで人間を超えたとは言えない。 

 近年の脳研究によって、未知の領域が広がり人間の意識の多様さと奥深さ、複雑さが改めて認識されている。それゆえ、人間の能力を知り尽くす事は不可能である。そもそも、人間が人間を解明するということは、自己言及型の科学(論理)であるから、人間の能力を完全に知り尽くす事は原理的に不可能である(ゲーデルの不完全性定理)。それゆえ、AIが人間を完全に超えたか否かを判定することも不可能であろう。 人間の能力は、帰納的学習以外に、推論・演繹による予想、創造力がある。感情や深層意識など、まだ未知の分野がある。これらの能力を超えてこそ、人間を超えたといえる。したがって、なにを以て「シンギュラリティ」といえるのか、その定義を明確にすべきである。 
 AIの未来について考察は尽きない。
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