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科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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人間と人工知能(AI)の共存
人間と人工知能(AI)の共存 (意識とAI)                            
  AIの発達・進化は目覚ましく、人間生活や社会構造を変えるばかりでなく、人間の精神や思考法にまで影響を及ぼすであろう。
 最近放映されたEテレの「超AI入門特別編」は、AIについて哲学、倫理、科学の観点から、多面的に深く考察し、新たな視点を提示してくれた。この内容は、私のこれまでの考えと共通するものがあり、共感するところが多かった。そこで、この放送内容を踏まえて、AIについて改めて考察してみた。

1.AIは、これまでの技術とは異なる。 
 AIは単なる技術開発のシステムではなく、科学や人間思考をも包摂しうるものである。
科学と技術の関係は密接であるから、両者は混同され、あるいは同一視されがちであるが、本来科学と技術とはその目的も論理も別であり、したがって社会的役割も異なる。この種の問題を論ずる場合、まず、科学と技術を区別すべきであることを強調したい。

 これまでの技術は、生産活動において、物質的な面で人間生活を豊かにすることを目的とするものであった。便利さを求めて、物の生産を容易にし、自然の脅威から逃れること、つまり物質文化に寄与するものであった。現在開発されているAIは、このような技術を飛躍的に発展させることに向けられている、しかし、将来のAI(超AI)は、便利さを求めたり、物質的生活を豊にする技術に関わるのみでなく、科学とも関連するものであろう。人間の思考法(論理)や精神をも変える可能性があり、精神文明に強い影響を及ぼすだろう。人間、他の生物、およびAIの共生によって生態系が変わる。これまでの技術は、物質文明の進歩により、社会生活の変化を通して人間の意識を間接的に変えてきた。AIとの共生は直接的に人間を変える可能性を有する。 

2.AIに意識はあるか? 
 深層学習(deep learning)AIは膨大なデータを記録し、そのデータを基にして帰納的に法則性を学習し見いだすというものである。しかし、最早その域を超えて、自らの法則性を見いだしている。囲碁の分野では、自己学習するAIの開発に成功した。 
 Deep Mind 社が新たに開発したAlpha-Go-Zero は囲碁ルールのみを入力してAI同士で自己対局させた。その棋力の成長速度はまさに脅威的である。学習を始めて3日後、400万局の自己対局でトップ棋士の棋力に達し、さらにわずか40日ほどで世界のトップ棋士を超えてしまった。人間の打った棋譜には一切頼らず、ゼロから自習のみで棋力が向上し、人類が何千年も掛けて営々と積み重ねて達成した囲碁の殿堂は、わずか40日ほどで超えられてしまった。恐ろしいといえば、まさに恐ろしいことである。これこそ「本格的AI」の始まりであろう。ただ面白いことに、Alpha-Go-Zeroの棋力向上の過程は、人類が辿った様式と似ているそうである。このことは囲碁に限らず、AIの未来を考えるための示唆を与えるものであろう。

 人間の棋譜を記録し、学習するAIでも、単なる学習を超えて質的進化を遂げているのではないかと想像される。なぜならば、AIは人間の棋譜(1次情報)を基に、深層学習によってある程度高いレベルの法則性を帰納的に自ら編みだし、新データ(2次情報)として蓄積しているはずだ。その新データの蓄積量がある閾値を超えると、それら2次情報を組み合わせた着手を打つようになるはずである。すると前に入力されたデータ(1次情報)から離れだす。すなわち2次情報をもとに自ら深層学習をするようになるからである。
 それでも、現在のAIの能力は、帰納的学習に限られるという点で限界がある。さらに、AIの評価において重要な指摘は、いかにAIの機能が進歩し ゲームで人間に勝てるからといっても、またロボットが人間相手に上手く応対できたとしても、AIには「自分の行動の意味が分かってない(理解していない)」ということである。言い替えれば、自らの行動の理由を説明できない「ブラックボックス」だというわけである。

「意識」とは
 では「意味が分かる」とか、「理解する」とはいかなることなのだろうか。そもそも「意識とは何か」がまだよく分かっていないから、「意識」について少し考察してみよう。
 生物のごく初歩的な「意識」は、少なくとも次のように規定できるだろう。最初に発生した原始的「意識」とは、生物発生から間もない進化初期の生物が無意識的行動(食物摂取、光に対する反応など)を繰り返すうちに、徐々に芽生えた目的達成のための物理・化学的機能といえるであろう。
 すなわち、「意識」とは「物質の高度な組織系が目的を持って行動する物理・化学的運動機能」の発達したものと見るならば、「意識」とは、(生物の原始的意識も含めて)一つの物質系がある目的(餌を採るなど)を達成するための行動に際して、その内部に蓄積した情報を統合して組織的に活用する内的機能(行動の起動因)といってよいだろう。ただし、この「原始的意識」の発達・進化の過程で、どこからが「意識」といえるか明確に定めることは今のところ難しい。
 この「原始的意識」から始まって、さらに複数の目的を達成するための機能を備えた情報系において、それら複数の目的と機能を統合し、選択的に活用しうるシステムならば「意識」といえるであろう。 意識のレベルは、その行動目的の性質や種類数によるだろうし、意識の進化と共に、目的は複雑多伎になっていく。

 もしこのように意識を定義できるならば、囲碁AI も「自己の行動の意味を理解する」という「原始意識」を持つたといえるだろう。なぜならば、囲碁ルールと定石、手筋、攻め合い法、および実戦棋譜のデータ(1次情報)を仕込まれた囲碁AIは、最初のうちはそれらデータを基に学習することで、規則性や法則的なもの(2次情報)を獲得するだろう。その2次情報の蓄積量がある閾値(臨界量)を超えると、AIはその2次情報を基にして囲碁に勝つための高次の学習を独自に始めるようになるだろう。それは人間との対局や、囲碁AI同士の対局で達成される。囲碁・将棋などの目的は、ゲームに勝つということであるから(それはルールに規定されている)、勝つことを目的とする行動の「意味」を理解し始めたといえる。すると、AIはその行動(着手)のための評価関数(情報)を内部に形成し、それによって着手の判断をしていると思われる。
 内部に蓄積された情報を操作して、目的ある行動をするということは、AIは自らの行動の「意味」を理解し始めたといえるのではないか。AIが「意味」を理解しているか否かを判定するために、チューリングテストに掛けてみる価値があろう。(拙稿「囲碁AIは意識を持った(意味を理解した)」「囲碁梁山泊」2017年白秋号参照。)
 AIが自らの行動の「意味」を理解しているならば、自らの行動の意味「なぜその様に行動したか」を、説明できる機能をAIに持たせることができるだろう。教育の仕方によって、人間とAIとの間で囲碁の理論的な会話も可能なはずである。そうなれば、人間の誘導質問により、着手の意味を聞き出すことができるだろう。そうなればAIの価値は質的に変わる。それが次の重要な課題である。AIにその行動の選択理由を説明させる機能を備える研究はすでに始まっている。

(注)チューリングテスト:アラン・チューリングは「機械に、知性を持った振る舞いができるかどうかという問題」を発表した。チューリングの提案は「機械は我々が(考える存在として)できることをできるか」というもので、人間の物理的な能力と知的な能力の間に、公平で厳しい境界線を引くことの試みである。そのためにチューリングは、「模倣ゲーム」というテストを提案した。機械と人間を別々の部屋に入れ、テスト者はいくつかの質問をし、それに対するタイプ打ちの回答を読んで、どちらが機械でどちらが人間か当てるというゲームである。このゲーム中の機械は、テスト者に人間と思わせる回答をする。最後まで、どちらが人間なのかわからなければ、そのコンピューターは合格である。そのとき「そのコンピューターには知能がある!」と言える。ピュ

3.AIの限界
 現在の深層学習AIは、学習目的の分かっている特定分野の問題について多量のデータを記憶させて、反復経験により帰納的に学習するものである。それゆえ、特定の個別分野に適用するものであり、人間のように、多面的に総合的判断ができる汎用性(多用性)AIではない。汎用性AIのソフトを開発する論理と方法は未知である。
 
 そのような汎用性AIを創るには、帰納的アルゴリズムばかりでなく、推論や論証のできる演繹的ソフトの開発が必要であろう。まして新たに物事を創造する能力を有するソフトの開発は難しい。創造性機能を有するためには、まず現在実行していることの意味(何のための計算か、ゲームの楽しさなど)を理解しなければならないが、AIにはその意味をまだ十分理解できない。さらに重要なことは、現実世界を超えて空想する「想像力」、未来を予想する「予想力」の有無である。この想像力は人間特有の能力であり(チンパンジーには少しはあるかも)、今のAIには全くない。したがって、人間の能力に「迫る」あるいは「超える」ようなAIを作ることは、今のところできない。
 ただし、特定分野のAIでも、それら複数個を一段階高い深層学習ソフトで連結すれば、「多用性」のAIができ、きっと新たな発見があるだろう。量の変化による質の転化である。ここまでが帰納法学習のAIの限界であろう。
 本当の汎用性AIを開発するには、演繹的推論の論理が必要である。それは非常に難しい。それゆえ、新たに物事を創造する能力を有するAIの開発は至難である。創造性機能を有するためには、まず現在実行していることの意味を理解しなければならないが、AIにはその意味をまだ十分よく理解できない。さらに重要なことは、現実世界を超えて空想する「想像力」の有無である。この想像力は人間特有の能力であり、AIにはない。したがって、人間の能力に「迫る」あるいは「超える」ようなAIを開発することは、今のところできない。
 とはいえ、いずれは明確な意識や意志を持ったAIが作られることは明らかであり、人間と共生、あるいは競合する時代が来るだろう。

4.人間の盲点を突くAI
 その様な未来のことよりも、現時点でAIを如何に活用しうるかを考えて見よう。いうまでもなく、AIは能率よく仕事をこなし人間の代わりをする。だが、それは一面であり、より重要な働きが他にもある。

 その一つは、人間の思考の盲点となっているところを発見し、その穴を埋めうることである。人間の思考形式(発想)は一つに決まったものではなく、東洋と西洋でも、あるいは民族によっても異なる。また時代とともに変化し、発展進歩してきた。それゆえ、現代人の思考形式は、まだ不十分で盲点がある。 

 現に、将棋や囲碁の対局で、人間には思いつかない着手や、悪手とされていた着手が飛び出して驚かされている。トップ棋士が、AIを使って着手の研究するのは、AIが強いからだけではなく、人間の盲点を指摘されて、新たな発想に至ることがあるからだという。人間は最初からこの手は駄目だと思って読みの対象から外してしまうものがある。しかし、AIは愚直にすべての可能な手を読み尽くすので、人間が見落としていた思わぬ応手によって盲点を突かれることがあるという。

 このことは将棋や囲碁に限らず、一般的にいえることである。人間の思考法はまだ一面的なのである。地球外生命は人間とは異なる発想や思考をしているかも知れない。論理学にしても形式論理や弁証法論理がある。特に形式論学は古代から、名辞論理(三段論法)、命題論理、述語論理など次々に開発されてきた。今後も新しい論理が誕生するだろう。つまり人間の思考や発想には欠けている(盲点がある)ということである。まだまだ未知の論理や発想があるはずだ。AIは人間の盲点を突くことで、人間思考の限界を気づかせてくれるかも知れない。

 単一分野に限ったAIでも、このように人間の盲点の発見に繋がる。それゆえ、複数の分野のAIを繋げ統合すれば、更なる人間思考の盲点や隙間を発見することができるだろう。このようにAIを活用できるなら、人類の思考形式に質的な変化をもたらすだろう。この関係は人間とAIの協力的共生の一つの形態であるから、未来社会における人類とAIの共生法に示唆を与えるだろう。

 だが、AIが突く人間の盲点は、人間の想定しうる範囲(人間の有する概念の範囲)のレベルである。人間が与えたデータを基に帰納的に作動した結果、偶然に発見するものであるから、人間が考え及ばないこと、人間を超えるものではない。
 このことは、論理的思考以外に、感性についてもいえる。たとえば、絵画芸術の分野で、優れた多数の絵画を認識させ、AIに絵画を描かせる場合でも、全く人間が想像しなかった作品を創造することはできないであろう。人間の作品の周辺、つまり人間が想定できる範囲に停まっているのではなかろうか。
 真の創造は、演繹的論理と推論・論証のできる演繹的論理を併用したアルゴリズムが必要であろう。 

5.「人間を超える」シンギュラリティとは。
 技術的メカニズムや、個々の分野ではAIは人間の能力を超えた。いずれ多用性のAIができて、その分野の範囲では人間能力を超えうるだろう。だが、これだけで人間を超えたとは言えない。 

 近年の脳研究によって、未知の領域が広がり人間の意識の多様さと奥深さ、複雑さが改めて認識されている。それゆえ、人間の能力を知り尽くす事は不可能である。そもそも、人間が人間を解明するということは、自己言及型の科学(論理)であるから、人間の能力を完全に知り尽くす事は原理的に不可能である(ゲーデルの不完全性定理)。それゆえ、AIが人間を完全に超えたか否かを判定することも不可能であろう。 人間の能力は、帰納的学習以外に、推論・演繹による予想、創造力がある。感情や深層意識など、まだ未知の分野がある。これらの能力を超えてこそ、人間を超えたといえる。したがって、なにを以て「シンギュラリティ」といえるのか、その定義を明確にすべきである。 
 AIの未来について考察は尽きない。
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自然・人間・科学:自然との共生のための科学
自然・人間・科学:自然との共生のための科学

  自然を支配し、人類のために自然を利用するという、かつての行き過ぎた思想による科学・技術の反省から、自然との共生を目指す科学・技術が求められている。以下の考察は、科学と技術を区別し、科学について論ずる。
 
 人間は宇宙進化の過程で生まれたものであり、人間も自然の一部であるから、「自然科学は自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動」ということになる。 
 人間の思考も、自然認識の行為も自然現象の一部である。したがって、自然認識という行為(科学)も自然現象の一形態である。それゆえ、科学研究において、自然と人間とは相互依存的存在であり、いずれが上位とか下位ということではない;
                     自然 ~ 人間
  それに対して、キリスト教の「神―人間―自然」という階層的自然観は、神が人間と自然を創生し、神に仕える人間のために自然が在るとみなす。この自然観によれば、人間は自然よりも上位にあることになる。すると、人間は自然の外に立って自然を対象化して自然を認識するという姿勢となる。それが嵩ずると、科学・技術の力で自然をコントロールしようとする意識、すなわち自然支配の思想が生まれる。

  しかし、自然科学は自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動という科学観に立つならば、人間が自然の外に立ち「自然を対象化」して(同列とみなさない)自然を認識するという態度ではなく、自然を内から共感的に認識するという姿勢になるだろう。「内からの共感」とは、科学者の精神的姿勢にかかわるもので、何を探究するかという研究課題の選択に留まらず、科学の方法にも及ぶ。観察・実験にしても、自然を破壊するような方法、手段は取るべきではない。つまり自然に答えを強要するのではなく、穏やかに問い掛けるような方法でなされる。たとえば、原水爆実験、自然環境に影響する様な遺伝子操作などは排除されるということである。この科学観こそが、自然との共生のための科学に導くものであると思う。

  この科学の規定によれば、自然科学は自己言及型の論理であるから、ゲーデルの不完全性定理により、科学は原理的に不完全である。人間はいかに逆立ちしても、自然の外に出ること、つまり自然法則を超えることは不可能である。その意味で、人間は自然界における特別の存在ではない。この人間の限界を自覚するならば、自然の内に在って、自然法則に従い、自然と共生せざるをえない。それに反して、無理に人工的に自然を乗り越え、コントロールしようとすると、痛いしっぺ返しがくる。

存在の理法: 相互規定的自然の仕組み
  この自然界におけるすべての存在(物質、時空、エネルギー、エントロピーなど)は、何らかの形式で相互に関連し合っていて、単独に独立した存在ではない。個々のものは相対的自立性を保つと同時に、相互連関の内に存在していることは明らかである。それらは相互前提的に対立物として存在し、相互依存の関係にあることが、全ての存在の基本的形式である。
さらに、それらの存在様式そのものが、互いに持ちつ持たれつの相互依存によって決まる。つまり、「存在の理法」は相互規定的構造になっている。全ての現象で「作用-反作用の法則」が成立していることからも、物事が相互依存の関係にあることは明らかである。だが、そのことはそこに存在するものが相互作用を通して相互に反映しあっていることを表現しただけであって、存在様式そのものが本質的に相互規定的構造にあるというのではない。ここにいう存在の理法の相互規定性はもっと強く本質的である。その典型は、宇宙の時空構造と物質分布の相互規定性である。
人間が共感によって自然を認識すべきであるというのも、この人間と自然との相互規定的関係に根ざしていると思う。

  東洋の自然観の「自然論」は、自然の運動・変化は「自ずから然る」「なるべくして成る」というものである。この思想は、「自然はなるようにしかならぬという達観した態度」であり、悪く言えば、それ以上自然の仕組みや法則を深く追求することを止める、思考停止の姿勢である。この自然観からは近代科学的な法則概念は生まれないだろう。しかし、見方を変えて、現代的な自然科学の法則観に立てば、自然には自己組織化、自己発展の能力が備わっていて「自ずから然る」という観点、すなわち複雑系科学の自然観になる。
  自然自体、および自然の部分系としての物質系(物質と時空からなるシステム)には自己運動、自己発展する能力が内包されている。ある一定の条件(構成要素の数、相互作用の種類、境界条件など)を満たす物質系には自らの内的相互作用によって起こる運動変化により、新たな質や機能が発現する。この己組織化、自己発展を創発(emergence)という。これが自然の進化力であり、その原理・法則を追求するのが複雑系科学である。
自然界の創発はいかにして起こり、いかなる方向に進むのかそれはまだほとんど分かっていない。生物の進化は、突然変異と自然淘汰によるのではなく、内的条件と境界条件(環境)に規定され、自然環境に適合した創発(適応的自己組織化)によるものと思われるが、自然進化の方向もそれと同じメカニズムによるものであろう。
創発の機構を科学的に解明しようとしても、科学の不完全性により、完全な解明は不可能である。だが、完全な解明は不可能でも、できる限りその真相に近づくことは可能である。

自然(宇宙)の自己実現
  自然(宇宙)はその内的能力により、開闢以来次々に新たな組織や機能を自ら生みだしつつ進化してきた。それは、「自然自体の自己実現」の過程といえるであろう。だが、その創発の方向は、何かある目的が定まっているわけではない。
 では「自然の自己実現」とは何か。自然(宇宙)の生成時に、自然に備わっていた内的条件(時空的、物質的条件)と境界条件により、その創発能力は定まる。その創発能力が発揮されて、いかなる方向に宇宙は発展進化するかは、外的条件(境界条件、環境)にも規定される。そして、創発の発現形態(様相)はその時々の内的・外的条件により定まるから、前もって予定されたものではない(初期条件で決まる必然的決定論ではない)。

  自然(宇宙)に具わった創発能力を十全に発揮して、自己発展(進化)しうる限界状態(最適応状態)を実現することが、自然の「自己実現」だといってよいだろう。このような創発による自己実現は目的論のように前もってその目標が定まっていないゆえ、発展過程の途中の状態でも、その時々で自己実現の過程にあるわけである。(人間が先祖から受け継いだ自らに備わった能力をもって、環境に適応して自己実現するのと同じ。)

  自然の一部である人類の営為も、この自然の自己実現の一環である。科学は自然の自己発展の原理と仕組みを解明し認識するものであるが、「科学は自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動」であるから、その科学活動は自然の自己実現の様相と仕組みにマッチしたもののはずである。したがって、「自然科学」は、自然を対象化し切り離して、人間の欲望に従って、自然に関する知識を切り取り利用するのではなく、自然の自己実現の過程に繰り込まれていることを意識しつつなされるべきである。これが「自然との共生」のための科学の姿であろう。
総合イノベーション戦略 「技術革新のための産学協同フォーラム」に望むこと
総合イノベーション戦略

 「技術革新のための産学協同フォーラム」に望むこと

  政府主導の革新的な技術開発(イノベーション)に繋げるためのフォーラムが5月に発足した。このフォーラムは内閣が主催し、主要大学の学長と経済団体のトップにより構成される組織となるそうである。その狙いは、大学と企業間の共同研究や人材交流を促し、企業から大学に資金が入りやすくしたり、大学改革の政策を国に提言したりすることにあるとのこと(朝日新聞)。 
 このような企画は結構であるが、科学と技術を区別し、それぞれの役割をしっかりと検討したうえでの方策論議でないと、掛け声だけの実のないフォーラムになりかねない。6月に報告された「2019年度科学技術白書」でも、日本の科学・技術の基礎力が低下していることを指摘し、基礎研究の重要性を説いている。だが、それをどう解決したらよか実効性のある具体的方策は示されていない。基礎研究の意義を真に理解してないので、形式的な項目羅列に終わっている感がある。


科学と技術は別
 自然科学の本来の目的は自然の仕組み(原理・法則)を解明し認識を深めることであるが、自然科学には二つの社会的役割がある。まず知的欲求に基づいて自然の仕組みを知ること、およびその知識を技術として活用することである。前者は自然観や哲学の形成など精神文明にも寄与するから、科学は精神文化の一翼である。後者の技術への応用は物質文化への寄与である。それゆえ、科学は社会の上部構造と下部構造の基礎であるから、文化国家として不可欠なものである。

 だが、日本では科学と技術を同一視し、あるいは混同して一語で「科学技術」とされることが多い。かつての「科学技術立国」政策の提言はその例である。明治維新以後、西欧近代科学を役に立つ知識、つまり技術として導入し、富国強兵政策に活用してきた。この「科学=技術」の精神構造は現代まで引き継がれている。それゆえ、「科学振興」といえば「技術振興」となり、「基礎科学」は「基礎技術」を意味することになりかねない。
 科学と技術は相互に連繋して発展するものであるが、両者は、それぞれその目的も社会的役割も別であるにもかかわらず、「科学=技術」と誤解した議論が多すぎる。科学と技術を区別しない議論は本質を踏み外して、公害問題に見られるように、誤った「科学批判」を招き、人類の未来を見誤ることになりかねない。


長期的展望を持った適切な方針を提示するには
 科学と技術を区別し、それぞれの存在意義と役割を正しく認識することが不可欠である。今度の「技術革新のための産学協同フォーラム」においても、研究資金源である企業(産業界)の優位は明らかだから、大学側が余程頑張らねば、科学より技術が、基礎より応用が優先されるだろう。それでは元のままである。
 科学・技術の「基礎力」をつけるには、いうまでもなく、現代の先端技術には高度の科学理論が不可欠である。それゆえ、基礎科学は技術イノベーションのインフラでもある。基礎科学が弱ければ、先見性や発想の転換も弱く、独創的思考は生まれない。それでは技術イノベーションも起こりにくい。一時的に新技術の開発に成功しても長続きはせず。外国の後追いばかりになる。

科学・技術の「基礎力」をつける要点は次の二つにある。
1.目先の成果に捕らわれず、長期的展望を持った計画を立てること役に立つことが直ぐに分からないテーマでも、また、すぐ成果を期待できない長期研究も助成し育成すること。この点が日本の弱点であった。外国ですでに成果の現れた課題に慌てて取りつくから後塵を拝することが多かった。
 基礎研究は目的・目標のはっきりしないものが多く、また成果を得られる保証も無いから、リスクは高い。基礎科学の研究は何の役に立つか直ぐには分からず、長年の研究を要する。その様な研究の成果こそ、将来多大の貢献をするものであるから、上に立つ者はその研究の意義を見抜く力量と忍耐力が必要である。日本ではこれが欠けていた。基礎技術に関しても同様である。基礎 科学を尊重する精神風土でこそ独創的創造性は豊になる。日本で生まれたアイデアや成果を協力して育て活かすことをせずに、欧米のものを有り難がり、追従する傾向が強い。良いものを見抜く力量が弱いからである。良いものを見抜く眼識は基礎科学・技術を重視する伝統のなかで培われる。

 日本における基礎科学と基礎技術の協力による成功例は、小柴昌俊東京大学名誉教授主導のカミオカンデにおけるニュートリノ観測に対するノーベル物理学賞の受賞である。超新星から来たこのニュートリノ観測は、浜松ホトニクス社の光電子増倍管製造の基礎技術との協力の成果である。このノーベル賞受賞に際し、例によって「この研究は何の役に立つのですか」との質問に対して、小柴氏は「何の役にも立ちません」と即答した。しかし、この研究はニュートリノ宇宙物理学への道を開いた。さらにその後、ニュートリノ研究を発展させ、「ニュートリノ振動」に関する業績によって梶田隆章教授のノーベル賞に繋がった。
 また、江崎玲於奈氏のダイオードの発見にしろ、中村 修二氏ら3名の青色LEDの発明などは、量子物理学に基づく半導体技術の研究基盤が、当時の日本にあったからであろう。
  京都大学の山中伸弥教授のノーベル医学・生理学賞受賞とiiPS細胞研究の発展も、基礎科学重視の成功例であろう。

 基礎研究は、当初の研究目標が達成できなくとも、その過程で蓄積された知識は、次の研究ステップに寄与し、基礎固めとなる。一点突破では駄目である。日本の科学・技術政策は、目標が明確で、かつ短期間で達成可能なテーマを選ぶ傾向が強い。それゆえ、ユニークな発想は生まれにくく、外国で生まれた物を慌てて追いかけるのが常であった。技術開発にしても、漸く外国に追いついた時には、すでに新たなイノベーションの基礎的開発とインフラ整備が始まっている。
 近年では情報技術(IT)や人工知能(AI)の分野の立ち後れがその典型的例であろう。ある大手の情報通信会社の研究員が、囲碁のソフト開発研究は遊びと見られ肩身が狭い思いしているとの嘆きを聞いたことがある。囲碁ソフトの開発はAIの基礎分野であり、ゲームの理論に留まらず広く多くの分野と関連している。戦後間もないフォン・ノイマンのゲームの理論が技術面で画期的イノベーションをもたらした例があるにもかかわらず、それを見抜けないために、AI開発の重要性に気づかず、非常に後れてしまった。

2.研究組織は、研究費と並ぶ重要な柱である。
 研究組織の基礎強化には若手研究者の育成が不可欠である。折角要請した博士浪人が溢れている。有能だが、定職に着けない若手研究者は落ちついて研究できずにいる。若手のためのポストを大幅に増やし、落ちついて研究できる環境を整えねばならない。研究組織のインフラ強化は若手研究者の育成である。今はこのことが緊急の課題であろう。

 国公立大学の独立法人化以来、研究費の減少と研究組織の弱体化が急速に進んでいることを仕切りに聞く。外部からの研究費が取りやすいのは、目的と成果の見えている短期研究である。毎年の国費削減で、大学は研究費に飢えており、基礎研究は衰退し続けている。そこに「産学協同フォーラム」によって企業から大学に資金が入り易くするというが、このままでは相変わらず、資金の行き先は基礎科学よりも技術重視となるであろう。 研究費不足にあえぐ大学・研究所に誘いを掛けているのが、防衛省の「軍学協同研究」である。
 技術重視の「科学技術政策」を改めねば真のイノベーションはない。 

 今年度の「科学技術白書」で指摘されていることは、「国際的に注目度の高い研究領域が増えているが、我が国はそれらの新たな研究領域への挑戦的参画が不足している」である。それは、上記の二点が欠けていては当然の結果である。

 基礎研究の充実と若手研究者の育成の必要性について、ノーベル賞受賞者は、その都度口を揃えて強調し、学術会議も訴えてきた。その声が漸く為政者の耳に届くようになったらしいが、科学・技術の本質を見誤っていては有効な手立ては期待できない。
 この「産学協同フォーラム」は、経済政策の柱として、イノベーションのために大学の基礎研究を活用することを目的としているようである。「産学協同」は、技術の担い手の産業と科学研究の担い手の大学とが協力して技術革新をしようというものであるからその意図は良い。だが、日本の企業界の体質では「基礎研究」とは、「基礎技術」に重点が置かれたものとなる。それでは「科学・技術」の総合的発展ではなく、「技術革新」であるところに問題がある。


 日本における政・財界は、目先の技術革新にのみに関心があり、土台となる科学と技術の基礎研究の意義とその重要さを理解してない。これでは、例え良くなっても、それは一過性のことであって持続性はない。
宇宙の自転について
宇宙の自転について 

  2019年度の京都賞(稲盛財団)の基礎科学部門に、「宇宙の3次元地図を作る国際プリジェクト」のリーダ-(プリンストン大学名誉教授ジェームズ・ガン氏)が選ばれた。

宇宙の3次元地図の作製は、目立たない地道な研究であるが、宇宙の構造ばかりでなく、宇宙進化の解明にも欠かせない重要な基礎資料であろう。この研究と関連して、私に興味のあることは「宇宙の自転」である。以前から、宇宙の自転の問題に関心があった。昔は、宇宙は全自然そのものであるから、宇宙の自転など問題にならなかった。しかし、多宇宙論まで考えられる現代の宇宙論では、宇宙の自転に意味があるだろう。

宇宙の誕生と発展進化論のシナリオが分かってくると同時に、宇宙は一つではないという多宇宙の可能性が論じられるようになった。それらの宇宙は孤立しているのか、連結しているのか確かなことはまだ言えないが、何らかの相互関連があるであろう。いずれにせよ、自然界の構成が、宇宙は一つでなく他の宇宙が存在するのであるならば、この宇宙の自転の可能性を考察することは意味を持つだろう。全ての系は静止状態にはなく運動・変化をしているから、この宇宙も絶対静止ではなく何らかの回転運動をしているだろう。

 宇宙に自転があれば、その自転の様相(自転軸とその方向、自転の向きなど)を決定することは、宇宙論の基礎的研究に大いに貢献すると思う。
 
  宇宙には右手系と左手系について、非対称な現象やものがある。たとえば、素粒子の基本的相互作用の一つ、弱い相互作用では空間反転に対するパリティ保存則が破れている。化学物質にも生物を構成しているアミノ酸は左旋光のみである。これら非対称性と宇宙の自転とが関連していないだろうか(マッハ原理)?そこで、宇宙の自転に関心を持ったのである。

 もし、この宇宙が自転しているならば、その検証は渦巻銀河の向きの分布状態から分かるはずである。地球上で台風の回転方向はコリオリー力により、北半球で反時計回り、南半球では時計回りであるように、銀河や銀河団の回転の方向の分布を調べれば、宇宙の自転軸とその方向が分かるはずである。

  宇宙創生期のビッグバン後、原子核や原子から成る一様なガス体が膨張を続けながら、ガス体が千切れて銀河・恒星が形成された。その千切れたガス体は重力により収縮を始めて銀河が形成された。もし宇宙が自転していれば、コリオリー力によってそのガスの収縮過程で銀河の渦巻きの向きが自転軸に対して決まるはずである。宇宙を球形とみなすと、自転軸に対して上半分(北半球)では左巻、下半分(南半球)は右巻となるだろうから、渦状銀河の回転状態の分布は一様でなく非対称になる。ただし、宇宙は生成以来膨張してきたから、コリオリー力にその膨張速度を考慮しなければならないので銀河(団)の回転面がずれる。それゆえ、膨張速度の影響が大きい宇宙生成の初期に生まれた遠方の銀河(団)でなく、なるべく遅く生まれた近くの銀河(団)の回転分布を調べるのがよい。それには、宇宙の3次元的地図が是非とも必要である。


 渦状銀河の回転方向の分布を観測すれば、宇宙の回転軸が判定できて、自転が検証されるはずである。回転軸から遠く、また回転軸に対して中央(赤道面)から離れた上下の領域で非対称性は顕著になるだろう。したがって、銀河の渦状態の分布について、方向のみでなく立体的な観測データが必要なのである。 宇宙創生以来、銀河が形成された後、移動しており、衝突もしているから、渦巻きの分布状態は初期のままでなく変化しているだろう。だから、シャープな分布データは得られないかも知れないが、非対称性は残っているだろう。 

 銀河のみでなく、さらにマクロな構造をもった銀河団にも回転の非対称性があるかも知れない。銀河の移動・衝突を考えれば、むしろ銀河団の回転の非対称性を見る方がよいかも知れない。

 私は30年以上前に、この問題に気づき、ずっと関心を持ち続けている。その当時、国立天文台のI氏にお願いして、銀河の渦巻き分布のデータを送って頂いた。しかし、その頃は、データの数も少なく、銀河の方向だけで、距離を含めた立体的分布は全く判断できなかった。
  その後も、その様なデータは増えていないようである。この「宇宙の3次元地図を作る国際プリジェクト」の中に、銀河(団)の渦巻き分布測定を入れてほしい。その結果に期待している。
平成から令和への転換に思うこと
平成から令和への転換に思うこと

 平成天皇の生前退位とその時期が決まってから元号の発表まで、マスコミの報道はしつこくなぜここまで騒ぐのかと、食傷気味であった。そして4月30日の退位、5月1日の即位の前後は、報道の熱気は異常に感じられた。政府はこの生前退位の熱を政治的に利用しようとの意図が見え見えであった。マスコミの宣伝はその雰囲気を盛り上げ、安倍政権にうまく利用されたように思える。

 先ず疑問に思うことは、元号の決定とその発表を、なぜ秘密にしなければならないのかということである。また、その公表方法はなんともったいぶったことか。これで菅官房長官の人気が出たそうだ。人気取りのための自己顕示欲の強い安倍首相は最大限に、この皇位継承を利用した。

 平成天皇は昭和天皇が果たさなかった戦争の償いを、国民と世界に向けて誠心誠意をもって償おうとする強い気持ちが深く感じられた。「国民により添う」と言う言葉は、戦争被害者や災害被害者の見舞いの様子によく現れていた。嘘偽りのないその言動は人々の心を打った。天皇を中心とする皇室の人気は今や最高潮に達した感がある。これは結構なことであるが、この人気を利用して昔の天皇制を復活させようとする危険な動きに留意すべきである。
 
 「令和」の新時代には、世の中が良くなるだろうとの期待を込めた声が報じられているが、先行きの見透しはよくない。世の中を良くするには、先ず、政府が率先して、嘘偽りのない政治や関心を引く口先だけの約束を改めることである。安倍首相の「誠意を持って」とか「真摯に」という言葉は聞き飽きた。嘘偽りのない開かれた世の中を築くために、「誠心誠意」をもって令和の時代を開いて欲しい。
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