fc2ブログ
科学・技術と自然環境について、教育を考える。
  • 02«
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • »04
科学と宗教の関係
      科学と宗教の関係

1.はじめに  
 古代では科学と宗教は混合し、相互の区別はあまり明確ではなかった。しかし、自然認識が進むにつれて、次第に両者は分離独立して独自の発展を遂げてきた。その過程で、科学は神秘的要素を振るい落としつつ、実証に基づく合理性を獲得することで旧体質を脱皮し、独自の体系を築いた。
 宗教は、最初期は「死の恐怖」や「自然の脅威」などと関連して、自然に関する無知ゆえに、そして自然に対する畏敬の念から、自然宗教として生まれたと思う。自然を超越した抽象的「神」を創造したり、「死後の世界」を想定したりする「教義宗教」は人類の高度の精神活動の所産である。宗教的感情や宗教心の発生は、古代から人類にはかなり普遍的である。また、大きな集団の宗派を形成するから共通性・公共性を有する。だが、宗教の信仰そのものは個人の主観的行為であり、宗教活動は主として集団の行為である。 いずれにせよ、宗教はこれまで長期に亘り人類の精神活動を陰に陽に規制してきたことは否定できないであろう。
 それに対して、科学は経験的知識と実証性をよりどころとするが、抽象的かつ合理的理論体系を築くという意味ではやはり高度の精神活動である。その知識体系は客観的・普遍的であるゆえに、個人を超えて社会的にも歴史的にも蓄積可能である。この点が主観的信仰に基づく宗教と本質的に異なる特性である。それゆえに、科学は着実に、しかも指数関数的に進歩発展を遂げた。しかし、自然科学の理論体系には、それが築かれた時代と民族(あるいは地域)の自然観が強く反映されている。したがって、当然ながら、古代から人間の思考を規制してきた宗教的自然観の科学への影響も強い。
 宗教や芸術などは個人の主観的要素が多く、科学知識のように社会的・歴史的に蓄積されにくにので、累積的に発展するということがなかった。それゆえ、近代科学の成立以後、自然科学は他の分野と較べて突出して発展し、宗教の支配から脱出した。こうして「信仰の時代」から「理性の時代」へ移行した。その結果、逆に自然科学の方から宗教への圧力が強くなったといえよう。すなわち、実証の裏付けのある客観的科学知識と感性的信仰に基づく古典宗教の教義との矛盾が明らかになり、宗教はその教義を改めざるをえなくなったわけである。
 このように、科学と宗教は相互に深く影響し合い、ときには協調し、ときには対立を重ねて今日に至った。現代においては、科学・技術の非常な発展により、精神文明に較べて物質文明の方が突出したために、人類は傲り「自然支配」の思想とともに、人間精神の荒廃が問題となっている。その結果、科学の目的と存在意義が問い直され、新たな自然観の形成と価値観の転換が求められるようになった。つまり、現代科学の成果に基づいて、自然における人類の占める位置を正しく認識し、それによって人間は「如何に活きるべきか」という倫理的課題が問われているのである。このような問題の解決のために、科学と宗教の関係が再び意識されるようになったのだと思う。

2.科学と宗教の関係:対立と協調
古代・中世
 自然科学は自然に対する知的好奇心と生産技術を通して得られた経験的知識から、知的欲求によって抽出された論理的知識体系である。しかし、初期には科学は生活技術や芸術と一体であり、さらには宗教的神秘主義や呪術とも結びついていた。まだ自然に関する知識が乏しかったので、自然科学も思弁的要素を含み、自然哲学として形而上学的自然観の色彩があった。東洋・西洋ともに、古典科学の中心的テーマとそれに対応する自然観は、宇宙観、物質観および生命観であった。宇宙観は天文・暦術とともに占星術と結びつき、物質観は元素論・原子論を通して錬金術と密接に関連していたし、生命観は生気論が主流で加持祈祷など呪術的医術や薬物学と隣り合わせであった。さらに、これら三分野は相互に融合して全体で一つの形而上学的自然観を作っていた。そのような状態の中から、自然科学は確実な知識を獲得する手段を工夫開発しつつ科学の方法を築いていった。その過程でこれら呪術的神秘主義を払拭し、実証科学として名実ともに合理的理論体系が最初に築かれたのは、17世紀に成立した西洋近代科学である。
 一般的に、宗教は自然に対する畏敬の念から生まれたといえるであろう。最初は無知ゆえの恐れ・自然崇拝からの神話や物活論など、擬人的自然観の後に、固有の教義に基づく宗教が生まれた。迷信などと結びついた世俗的宗教活動は別として、本来の宗教教義は宗教的自然観といえるであろう。宗教は主として、人間が避けて通れない生死の問題、日常生活における倫理・道徳や善悪・価値観について説き続けてきた。それゆえ、その宗教教義と宗教的自然観は人類の感情、思想、思考形式などの精神活動を、古代から最も長期にわたり支配し規制してきたわけである。特に、西欧ではキリスト教の自然観は、近代科学の成立まで、永い間強力な支配的思想であった。したがって、西欧の自然科学もその影響から逃れることはできなかった。
古代の科学と技術とは、呪術などの神秘的要素と渾然一体となっていて、科学・技術を他の領域から画然と区別出来ないところがあった。技術が宗教活動と深く結びついていたことはよく知られている。採鉱、錬金術や製薬(練丹術)、および醸造術などは神秘的要素を纏って、宗教儀式(特に、密教)に利用された。しかし、世界内容の解釈において、文明の進歩とともにそれら非合理的部分を徐々に払い落とし洗練される過程で、宗教的信仰と理性的知識との間に、しばしば対立矛盾が芽生えるようになった。なかでも、中世のアラビアと西欧におけるアベロエス主義の二重真理説にみられるように、信仰における宗教的真理と理性に基づく科学的真理とは独立であるとの思想が台頭した。二重真理説は危険思想として宗教により圧迫されたが、次第に支持されて密かに広まっていった。しかしこの段階では、スコラ自然学において顕著にみられるように、まだ科学は社会制度の上でも、また精神的な面においても宗教の束縛下にあった。そのような状況の下で、理性による自然の真理を追究しようとするこの動きを止めることはできず、やがて近代の西欧で自然科学として独自の知識体系を形成していったのである。
 
近代科学成立前後
 前述のように、自然科学は技術からの作用ばかりでなく、自然観、なかでも宗教的自然観の影響を強く受けた。西洋近代科学の成立過程では、古代ギリシアの自然観、汎自然主義(伊東俊太郎)とキリスト教自然観の科学への影響は見逃せない。キリスト教自然観では、神は自然と人間を創造したが、人間は特別な存在であり、神に仕える人間のために自然はあるとされ、「神-人間-自然」の図式が造られた。それゆえ、人間が自然を外から客観的に観る姿勢が培われてきたとみられている。万能の唯一絶対神の創造した自然は斉一で整然とした規則に従い、機械的に運行するという機械論的自然観が生まれた。デカルトは肉体と精神を分離して物質と精神の二元論に立ち、物質の運動に関しては徹底的な機械論を唱えた。そのような斉一的規則に従う自然の仕組みは認識可能であり、自然の仕組みや原理・法則を知ることは創造主である神の意志を知ることであると考えられるようになった。西洋近代科学のこのような土壌は、キリスト教の「神-人間-自然」という自然観によって培われたとN.ベルジャエフは指摘している。
 西洋近代科学の自然法則概念は17世紀になって確立されたが、その背景にはキリスト教自然観をベースにする機械論的自然観があったとみられている。唯一絶対神の創造した宇宙は神の意志に従って運行されている。すなわち、立法者としての神が自然に課した法的規則(自然法則)に宇宙は支配されており、人間も自然もその神の意志に従うべきものであるとの自然観がそれである。それによると、神の「法的規制」が人間社会に課せられたものが「法律」であり、自然に課せられたものが「自然法則」であるとされた。(ちなみに、西欧の言語では「法律」と「法則」を表す語は全て同じである。)この神学的自然観と機械論的自然観とが相まって、例外を許さない絶対的自然法則の概念が形成されたといえる。それゆえ、宗教と科学との関係は対立ばかりでなく、協調的な面もあった。
 これに対して、東洋では、多神教(バラモン教、仏教、道教など)のために、単明で斉一的な自然法則の概念は生まれにくい。自然界の分野ごとに役割の異なる別々の神が支配する自然では、機械的自然観のような斉一的絶対法則概念は生まれない。また、老荘思想のように「物我の一体性、万物と自己とが根元的に一つである」という自然観、つまり、自然との一体感を抱き、「自然(じねん)論」のように、森羅万象は「なるべくしてなる」という自然観が支配的であった。この自然観の下では、自然を対象化して客観的に観照し、その原因をどこまでも追究するという姿勢も生まれない。この「自然論」は感性による現象論的自然把握であり、宗教と科学が未分化の状態である。このような自然観の下では、自然学(自然哲学)と宗教とが共存しやすい。たとえば、初期仏教のような「仏知を讃える宗教」と科学とは特別に矛盾は起こらない。それゆえ、東洋では、宗教と科学は互いに巧く融合していて(特に原始仏教)、「科学と宗教の対立矛盾が強く現れず、両者の分離が遅れた」と中村元は述べている。
しかし、いずれの場合も、科学が進歩して宗教の教義に反する科学上の発見がなされると、その承認を拒み、政治権力を有していた宗教はその科学理論とその支持者を弾圧した。キリスト教と自然科学との対立としては、コペルニクスの地動説とその擁護者J.ブルーノやG.ガリレイに対する教会の弾圧、またC.ダーヴィンの進化論に対する教会の非難攻撃は有名である。西欧に限らず、インドでもバラモンの教義に反する説、たとえば唯物論的原子論などは否定され排斥されたようである。とはいえ、ホワイトの『科学と宗教の闘争』にあるように、科学と宗教はことごとく対立し、敵対関係にあったと見るのは誤りであろう。宗教は科学の芽生えとその成長を、期せずして後押しすることもあった。
 宗教との対立に限らず、意見の対立抗争は科学の理論間にもあったし、政治から科学理論への弾圧もしばしばあった。

宗教的自然観から科学的自然観へ 
 17世紀の近代科学成立以後、自然科学は神の役割を排除し、宗教から徐々に独立を勝ち取っていった。それまでは、宗教が精神的にも社会制度上においても優位にあって人間社会を陰に陽にコントロールしてきた(特に西欧においてはキリスト教が)。したがって、当然ながら、科学も宗教の下に置かれていた。近代科学が自然の原理を自然自体の中に求め、超自然的な「神」の役割を必要としない理論体系を築くと、その後の科学は、徐々にではあるが、次第に人間の精神構造を変えてゆき、思想革命と同時に「宗教革命」をもたらした。その結果、科学が宗教の支配を脱し、宗教的自然観に代わり科学的自然観が優位になった。「神は死んだ」とニーチェは叫んだ。
 このように科学的自然観が強くなると、科学的立場から宗教批判がなされるようになった。特に、フォイエルバッハは唯物論的立場から、人間は自然物であり、宗教・神は人間が自己の願望の対象を理想化した幻想であるとした。そして、神は人間の本質が理想化されたものであり、宗教は人間本質の自己疎外であると主張した。これは人間が宗教を必要とする理由を、社会的心理の面から捉えたものである。
 さらに、18世紀以降、科学・技術は産業革命と相まって、資本主義の下で、物質文明の面でも人類の生活様式を変えていった。このように、近代科学成立以後19世紀の末頃までには、あらゆる面で主役が交代し、宗教に代わって、科学が社会を動かす原動力となった。
 この変化は、漸次に、しかも長期にわたって起こったので余り意識されていないが、近代科学成立の社会的影響は絶大であり、人類史上で特筆すべき歴史的事象である。
 19世紀末には、物理学は自然の原理をほぼ完全に掴んだとの自負を科学者(特に物理学者)は抱いていた。そして、それらの原理を用いて自然現象はすべて原理的にではあるが説明可能であると想定した。ところが、20世紀初頭に誕生した相対性理論と量子論によって引き起こされた物理革命は、その予想を完全に覆してしまった。この物理革命は自然科学の理論転換であるばかりでなく、科学的自然認識についての革命でもあった。つまり、自然は人間が考えたよりも遥かに内容豊富であり、人類の獲得した科学理論は近似であって相対的真理であること、したがって、科学理論には適用限界があることを思い知らされたわけである。そして同時に、科学的自然認識の意味を再吟味することを迫られたのである。
 現代では、社会的機能の面で、宗教と科学の地位が完全に逆転し、科学・技術は政治・経済を動かすまでになった。それにつれて、科学・技術は政治と直結し、政治の支配を直接受けるようになった。しかし反面で、人文・社会学や倫理の面がおきざりにされて、科学・技術のみ突出して進歩・発展した。その歪みの結果、便利さや物質的豊かさといった物質文明のみ追う傾向が強くなり、多くの弊害が発生している。また、大量破壊兵器や公害・環境問題などにより、人類自滅の危機さえもたらされ、科学・技術のあり方と存在意義が問い直されるようになった。

3.科学の目的と存在意義
 科学は文化である。科学は文化の一翼として二つのの社会的機能を有する。一つは精神文明への寄与で、自然観、哲学、人生観の形成に不可欠である。それゆえ、自然科学は人文・社会学、芸術、宗教と並んで精神文化の一つである。二つ目は、物質文明への寄与で、技術を通して生産力となり、物質的な豊かさをもたらす。また自然の脅威から身を守る。このように、科学は精神文明として社会の上部構造の形成と発展に寄与し、技術を通して下部構造の形成と発展に寄与してきた。

その変遷
  古代の3大文明発生の時代には、一般的に科学は権力に奉仕させられていた。中国では政治・倫理に役立つ範囲で、インドでは宗教(ヴェーダ)に奉仕する範囲で科学の意義が認められた。エジプト・メソポタミヤも同様であった。しかしながら、ギリシアにおいては、自然の原理アルケーを追求するという自然認識が目的とされるようになった。
 中世に科学の中心がアラビア(イスラム圏)に移ると、そこでは「知は宝なり」といって、真理の探究と、実学が尊重された。その中から生まれたアヴェロイスの二重真理説は、神学的真理と自然の真理は独立であり、宗教的真理は神の啓示として感性により得られるが、自然の真理(科学的真理)は知性により認識可能であると説いた。
 中世から近代の西欧では、キリスト教の教義とギリシアのアリストテレス自然学との矛盾を融和させたトマス・アクィナスによるスコラ哲学に従っていたが、二重真理説とも相まって、漸くそれから脱出していった。そして、自然科学によって神の創造した自然の仕組みを読みとることは、神の意志を知り、神に近づくことであると考えられた。すなわち、自然科学の目的は神への従順であり、「自然」は第二の聖書であったわけである。
 17世紀になると、F.ベーコンは「知は力なり」といって、生活を豊かにし、国威を高めるために、科学・技術を活用すべきであると唱えた。そのために、科学の組織的研究を奨励した。この科学観は20世紀にまで引き継がれてきた。
近代科学は神を必要としない論理を獲得すると、宇宙創生の最初の神の一撃を除いて、神の役割はなくなった。その後も、神の操縦する宇宙という自然観はニュートンなど一部の科学者にも残ったが、やがて、宇宙は力学法則の必然的決定論に従って運行するとする力学的(機械論的)自然観が支配的になった。この力学的自然観の下で、宇宙の運動、ひいては人間の運命も全て宇宙創生の瞬間に決定されているという必然的運命論が生まれた。そして、人間の自由意志とは何かという哲学上、宗教上の深刻な問題を引き起こした。
 近代科学成立以後、産業革命と相まって、科学・技術は急速に発展し、19世紀には全面開花となった。そして、科学・技術を利用して物質的豊かさが進むと、科学・技術の力を過信して、ついに自然支配の思想が台頭した。西欧における自然支配の思想にはF.ベーコンの科学観ばかりでなく、神に仕える人類のために自然は存在するというキリスト教の階層的自然観「神-人間-自然」が反映していると思われる。
 東洋では、輪廻転生の自然観や、自然との一体感の自然観にもみられるように、人類はこの自然界で特別な存在ではなく、自然との共生の思想が一般的であるので、強烈な自然支配の思想は生まれなかった。
 現代では、科学・技術を利用した人類の自然支配が全地球規模に拡がり、自然環境の破壊が急速に進んでいる。先進国では、あらゆる面で物質的生活は豊かになったが、逆に人間が機械に追いまくられる状態が続き、精神的ストレスに悩まされるようになった。今や物質文明に対して、精神文明の立ち後れは決定的である。それゆえ、精神的よりどころを失った人間が増え、教育の荒廃をもたらして、精神的に不安定な社会に向かって突き進んでいる。このような状況において、科学・技術に対する批判が噴出し、科学・技術を全面否定する反科学主義まで現れた。科学・技術批判の中には、科学・技術の本質を誤解し、科学・技術の社会的機能は社会体制に強く依存することを軽視しているものもある。無政府的に飽くなき利潤を追求する市場原理に基づく資本主義社会制度が、両刃の剣である科学・技術の機能を歪めていることを見逃してはならない。しかし、反科学主義ほど極端でなくとも、現代の科学・技術のあり方について反省が求められていることも確かである。
 人間生活を豊かにするはずであった科学・技術は、搾取の手段、公害・環境破壊と大量殺戮兵器を造りだし、生命の安全を脅かすばかりでなく、人類絶滅の危機をもたらすのでは、何のための科学・技術かということになり、科学の目的が失われてしまう。これでは、科学の存在意義が肯定的に受け取られなくなる。したがって、未来に向けて意義のある科学・技術のあり方と、目的を見出さねばならない。それには、まず現代科学の成果を踏まえて科学的自然観を築き、自然における人類の占める位置を正しく認識することである。その上に立って、物質文明優位の価値観に代り、真の豊かさとは何か、人間は如何に活きるべきかについて新たな哲学・倫理を築き、それに相応しい人生観、価値観を見出すべきであろう。

4.自然科学の本質と性格
 人間の精神活動は多面的であり、他方、自然も複雑な様相を呈している。したがって、自然認識には、自然への接近法と立場とに応じていろいろな側面が現れるであろうし、そして、それに応じた性格を有するだろう。五感を通して受容される情報は、その内容によってそれぞれ感性、悟性、理性に訴えるものがあり、それに応じて自然を認識する形式も性格も異なる。芸術や宗教も感性と悟性によって自然を理解する方法であるし、自然科学と人文科学は理性と悟性を通して自然へ接近する方法である。これらに対して、哲学はそれらの方法を吟味し基礎づける総合的・統一的な認識方法だと思う。これら自然認識の方法は、自然にアプローチする方法が異なるので、当然ながらその認識内容と性格が違う。それら認識内容を総合して、人類はより広く深い自然認識に達することができる。
 これまでの自然科学は、人間が自然を対象化し、自然の外から客観的に自然を観察して認識を進めるものとみなされてきた。つまり、自然の輪廻の外に立った姿勢と方法で自然科学を築いてきたと言える。だが、このような科学の方法では自然認識は一面的になり、限界があるとの反省から、自然との一体感や共感をもって自然を内部から認識すべきであるとの主張が台頭してきた。そして、そのような科学認識をするために東洋的自然観に着目すべきであると言われるようになった。
 現代では、人類は自然界において特別な存在ではないということが、科学的に解明された。すなわち、人類は他の動物と懸け離れた種ではないことが、進化論と分子遺伝学によって明らかにされた。霊魂の存在を認めると否とに関わらず、自然界における「物質の輪廻転生」に人間も当然ながら巻き込まれていることは否定できない。また、地球外生命と文明の存在の可能性も否定できない。全宇宙に存在する銀河とその中の恒星の数は莫大なもの(1千億×1千億)であるから、地球外生命が存在しない方がむしろ不自然である。(ただし、UFOに乗って宇宙人が地球にくる可能性は、目下の所全くないといえる。)

自然科学とは 
 人間は自然の一部であるから、人類の営みも自然現象の一環とみられる。人間の感情、記憶、思惟、そして自然認識も高度に組織化された物質の存在様式(運動形態)であるから、当然自然現象の一部に含まれる。それゆえ、自然科学という人間の認識活動も自然現象の一部である。すると、自然科学は次のようにみなすことができる。
 “自然科学とは、自然が人類を通して自然自体を自ら解明する自己反映(自己認識)活動である ”
ただし、「自己認識」といっても自然(あるいは宇宙)自体が一つの有機体として「超意識」を有することを必ずしも意味しない。それについては、現在のところ科学の俎上にないので、否定も肯定もできない。人間や動物の意識が物質のいかなる組織的運動形態であるか、科学的にまだ解明されていないからである。
 自然科学がこのように規定されるならば、科学の論理は自然自身にとって、自己反映的性格を有するから、自己言及型の論理となる。「自然科学とは何か」ということを改めて考えてみると本当に不思議である。この自然自体の自己反映という科学的認識とは一体何であろうか。「最も不思議なことは、人間が自然を理解できることだ」といったアインシュタインの言葉の意味の深さを改めて痛感する。
 科学のこの自己反映的性格からすれば、科学の全体系は、自己言及型の論理に関する有名な「ゲーデルの不完全性定理」の枠内にはいるだろう。実証科学である自然科学に形式論理(厳密には一階の述語論理)の結果をそのまま適用することは吟味を要することであろうが、ゲーデルの不完全性定理との類比から推測すると、自然科学は自己完結的ではありえず、したがって科学は自然を完全には解明し尽くすことはできないことになる。おそらく、人間が人間を完全に知り尽くせないであろうように。
 自己言及型の論理に関してよく引用される例は、嘘つきパラドックス「私は嘘つきである」という言明である。この言明を言葉通りに取れば、「私は嘘つき」であるからこの言明自体が嘘になり、「私は嘘つきでない」ということになる。では逆に「私は正直である」とするとこの言明と矛盾する。したがって、「私」は嘘つきだとしても、正直者だとしても矛盾し、どちらとも決められない。このように、自分自身に否定的に言及すると矛盾が起こったり、真偽が決まらない命題が現れる。
 ゲーデルの不完全性定理によれば、無矛盾な論理体系(一階の述語論理)は自らの体系が完全であるか否かを、その体系内では証明できない、また、真偽を証明できない命題が必ず存在する。その問題を解決するために、新たに仮定を加えてその真偽を決定できるような論理体系を作ることはできるが、それが無矛盾の体系である限り、また決定不能な命題が現れる。

科学の不完全性と無限発展の可能性
 自然科学にこのゲーデルの定理を適用すれば、矛盾のない科学理論はそれが完全であることを、その理論体系内で証明できないし、そして証明や解明できない科学上の問題が必ず存在することになる。その問題を証明あるいは説明できるように、仮説を立てるなり、新理論を築いたとしても、それが無矛盾な理論である限り、また新たに証明も説明もできない問題が現れる。こうして、自然科学の進化は永久に続き、自然の仕組みを窮め尽くすことはできない。このことは自然は無限に奥深いということと同時に、自然科学もまた無限に奥深く進歩・発展することを意味する。やはり、自然現象のうちに包摂される自然科学も「お釈迦様の掌(自然)」から出られないということである。
 先に言及したように、19世紀の末に、物理学の各分野は一通り完成し、自然の物理的原理を全部掴んだと科学者は自負した。当時未解明の問題(物理学の世界の地平線に浮かぶ2つの小さな雲)が僅かに残っているが、それらもやがて消えて(解明されて)、物理学の世界は全天晴れ渡るだろうといった(ケルビン卿)。ところが、その二つの雲は消えるどころか次第に大きくなり嵐を呼んだ。これが20世紀初頭の物理革命、すなわち旧理論に代わる新たな相対性理論と量子力学の誕生であった。この物理革命によって、科学的真理と言えども絶対的ではなく相対的真理であること、したがって、科学理論には適用限界があることを、科学者は思い知らされたのである。さらに、原子・素粒子などのミクロ世界を支配する法則に関する理論、つまり量子力学の誕生は、自然認識に関する革命でもあった。その意義は、自然の階層性とそれに対応する理論の階層性を認識させたこと、そして不確定性関係(位置と運動量とは同時に確定しない)に象徴されるように、観測の「相補性」は科学的認識の意味を改めて吟味させたことにある。
 “自然科学とは、自然が人類を通して自然自体を自ら解明する自己反映(自己認識)活動 ”という観点から、新たな科学の方法を見出すことができないかと私は考えている。現代科学は、宇宙全体の進化や人類の進化を問題にし、さらに生命の本質から人間自身の解明に向かっている。このような科学は認識主体の人間も、認識対象である自然の一部である事実を無視できないし、その事実と直面せざるを得ないだろう。
 生命科学は遺伝子を自由に操作し、そしてクローン動物まで作れる技術を開発した。さらに、生命の本質の解明、人工知能、人工生命の時代に向かっている。これらはみな、神の摂理とみなされていたものであるが、それに人類は手を染めた。自然科学はこのように驚異的に発達したが、その発展に比例して大きな危険性を孕んでいる。科学・技術の影響を十分吟味し反省しつつ進まないと、自然から思いがけぬ手痛いしっぺ返しを受けるだろう。
 最近の物理学では、超マクロの宇宙論と極ミクロの素粒子理論とが結ばれ、宇宙の起源に関してもかなり解明が進んだ。素粒子論における相互作用の統一理論はまだ完全には確立していないが、興味ある有力な自然観である。それによれば、現在のところ最も基本的とみなされている相互作用(力)は、強い力、電磁気力、弱い力、および重力の4種類であるが、それらは極度に近距離の領域では、元は唯一つの相互作用であったものが、遠距離領域(それでも素粒子の拡がり程度)ではその統一相互作用の対称性が破れて4種の異なる相互作用に分岐したと想定されている。もし、この相互作用の統一理論が完成すれば、究極原理に到達したことになり物理学は終わる、という科学者もいる。しかし、自然界はそれほど単純ではなく、上述のように科学は不完全であるから、その先に必ず未知の問題が現れるだろう。そのように自然の原理を知り尽くせるとる考えて、「これが究極原理だ!」という自然観は19世紀末の場合といい、この統一理論の場合といい、西欧的発想であると思う。唯一絶対神の創造した世界は斉一単明であると想定して、解明しうるという自然観によるものであろう。東洋における多神教の非斉一的自然観、自然との一体感の自然観の下では、このような強烈な発想は生まれないと思う。
 自然科学は自らが発見し築いた理論体系を、普遍的かつ絶対的のものとすることは、自然をその理論(科学の言葉)に従わせることである。それは、技術による自然支配とは異質の、人間の精神による自然支配である(ラプラスの魔物)。

5.今後の科学的自然観と宗教的自然観の役割 
 いずれにせよ、上述のように、自然科学は本質的に「不完全性」を免れず、自然を完全に解明し尽くすことはできないであろうし、したがって、人間自身を解明し尽くすこともできないであろう。しかし、科学は限りなく進歩・発展し続け、自然の仕組みとその原理を次々に明らかにしてていくことも疑いない。神の役割を必要としない論理を築いた自然科学が進歩すればするほど、既存の宗教の教義はさらに改変を余儀なくされるであろうし、その結果、宗教の存在意義がこれまで以上に問われるであろう。現代科学の論理に基づく自然観がしっかりと確立されるならば、果たして宗教は存在しうるであろうか。
 しかし、科学が自然の原理を解明し尽くすことができず、また、人間は如何にして自然を解明理解できるのかという問題が残る限り、自然に対する「畏敬の念」は続くであろう。この畏敬の念がある限り宗教は存在するというのが、宗教家や宗教学者の主張である。宗教の本質が「自然に対する畏敬の念」にあるならば、この主張は肯ける。それにしても、今後そのような宗教は、教義も形式も既存の宗教とは質的に異なるものではないだろうか。つまり、超自然的神に祈ることもなく、また、人間の生死に関する宗教的行事を司ることもないだろう。その場合には、「宗教的真理」とは何かが問われるだろう。
 私は若い頃は、自然科学こそ自然の真理を掴みうる唯一のものと信じ、自然認識に関しては科学以外のものは採るに足らないと思っていた。そして、宗教は自然について無知なるがゆえに生まれたもので、神や仏にすがり理性を麻痺させる「阿片のようなもの」であると思い、宗教を軽蔑した時期もあった。しかし、歳を重ねるとともに、自然の多様性と人間の精神活動の多面性に気づき、かつ科学の限界を感じて、徐々に考えが変わった。現在でも、無神論者であり無宗教であるが、以前のように、単純に宗教を否定することはなくなった。宗教は単に自然に対する人間の無知や恐怖からのみ生まれたものではなく、世俗的な宗教を除けば、宗教の教義や神という超自然的な表象は高度に発達した精神活動の所産であり、宗教教義は一つの自然観であると理解している。
 人類が自然を理解する方法は一通りではなく、科学的認識の方法以外にも、宗教や芸術もそれぞれの方法で自然を理解しうるし、固有の自然観を持っていると思う。自然科学は理性と悟性によって、自然の仕組みを論理的に解明することで自然を理解しようとする。それに対して、宗教・芸術は自然の仕組みを感性と悟性によって悟ろうとしているのだと思う。ただし、科学の進歩によって、宗教・芸術の自然観は影響されて変わっていく。

生物の背負う根源的「業」
 地球に限らず天体上での生物の発生は物理・化学的には無理な現象である。なぜならば、物理学の有名な「エントロピー増大則」という法則があり、それは多体系(多粒子系)に適応される普遍法則である。生物の存在はそのエントロピー増大の法則に逆らう不自然な状態なのである。
 エントロピーとは無秩序性(秩序性の逆)を表す指標であり、ランダムな雑然とした状態はエントロピーが高いという。このエントロピー増大則によれば孤立した閉鎖系ではエントロピーは増大する一方で、減少することはない。これがエントロピー増大則である。
 生物体は環境よりも低エントロピーの状態(秩序の高い)にある。それゆえ、個体を維持し成長しするために食物から低エントロピーの物質を摂取ししなければならない。摂取した低エントロピーのエネルギーを利用した後に高エントロピー物質やエネルギーを外部に排泄する(物質代謝)。したがってすべての生物は、その存在自体が「エントロピー増大則」という自然法則に逆らった無理な状態を維持し続けているのである。
 生物の個体は機能性を備えた秩序だったシステムであり、環境に比してエントロピーが低い状態の体系である。それゆえ、新陳代謝を断った生物個体は孤立閉鎖系となるから、それを放置しておけばエントロピーは増大し、やがて崩壊(死滅)する。このように、生物の存在はそれ自体がエントロピー的自然法則に対して無理な状態なのである。この崩壊(死滅)の危機から脱するために絶えず努力し続けねばならない、この事実が死の恐れとなり、それがやがて本能化されたものが「死の恐怖」であろう。
 生きた個体の状態を維持し、あるいは成長させるには、絶えず新陳代謝(物質代謝)によってエントロピーを減少させる(あるいはエントロピーの低い状態を保つ)ような操作を続けなければならない。すなわち、新陳代謝によって低エントロピーのエネルギー(食物)を摂取し、それを利用して生ずる高エントロピーのエネルギーを排泄物と共に環境に放出しているわけだから、生物の存在は必然的に環境を変え、そして自然環境を「汚染」する。
 生物誕生以来、地球環境は非常に大きく変化してきた。生物の誕生によるこの自然環境の変化は、地球の発展進化とみることができるだろうが、反面からすれば、地球環境の汚染・破壊でもある。生物にとって避けることのできないこの営みは、生物界の食物連鎖と共に、すべての生物の背負った業である。
 優位に進化した生物は、新陳代謝を効率よく行うために他の生物を食物にするようになった。生物の食物連鎖はこうして起こった。人類は後から出現したにもかかわらず、この食物連鎖の頂点にあり、最も業の深い存在である。
 存在自体が無理を強いられている生物が種を維持発展させるために、生存に有利な機能を徐々に獲得してきた。これが種の進化である。ところが、人類は種としての生物的自然進化を待てずに、生存に有利な手段を次々に獲得した。それが科学・技術である。したがって、科学・技術は生まれながらにして人類の業を背負っている。
 生物が生きているということは「すごい」ことであると同時に、その存在自体が環境汚染と食物連鎖という二重の「業」を背負っているわけである。食物連鎖の中に生き続けねばならないこの「業」こそ逃れることのできない「生物の根源的業」であると思う。このように、生物は生きるために日々「業」を重ねている。食物連鎖の頂点に位置している人類は最大の「業」を背負っているわけである。しかも、科学・技術の力でその業を拡大してきた。
 生物、特に人類が背負っている必然的なこの業のことを、自然科学は理性と悟性によって論理的に理解した。それに対して、宗教はそれを感性と悟性によって悟った。仏教の「業」は、この「根源的業」を反映していると思う。

宗教は人類特有か
 宗教は人類に特有の意識で、他の生物には一切無縁のものだろうか。猿やチンパンジーがさらに進化したら「神」という概念を生み宗教心を抱きうるだろうかと考えたりもする。象などある種の動物は、仲間の死を弔うような行動をするそうである。彼らは、いかなる意志でそのような行為をするのか。昔から、人間特有のものと思われていた言語や思考など多くの精神活動も、他の動物にもあり一線を画するその境界は無いことが、最近の研究で次々に明らかになった。宗教心についても同様なことがいえるのでは無かろうか。宗教は古代の人類に普遍的に発生し、これほど永く人間精神を支配してきたということは、それだけの必然性があったはずである。人類の誕生もその行動もすべて自然現象の営為の中に含まれるから、宗教も科学と同様に、自然現象の一部である。生物の意識は、個体と種族維持の行動を代々繰り返すうちに自然発生的に生まれたように、宗教も人類特有のものとは言い切れないだろう。高度に発達した文明を有する地球外生命は、文明進化の過程でやはり宗教を生むであろうか。
 この宇宙に生物が発生し、それが進化して人類が誕生したことは自然科学によって明らかにされた。だが他方では、生物の機構が解明されればされるほど、脅威的ともいえるその機構の巧みさに感嘆させられる。細胞レベルでさえ、その構造と機構は正に神業と言いたくなるほどである。これほど精巧で巧みなものが、よくも自然発生的に誕生したものだと感嘆せざるをえない。まして、人間の複雑高度な精神活動のことを考えると、人間とは実に不思議な存在である。それは「超自然的神の手」によって造られたのではなく、自然界の物質自体に備わった自己組織化能力、進化の能力により自然が自ら実現したものである。自然の威力に改めて畏敬の念を抱かざるをえない。
 現代宇宙論によれば、宇宙はビッグバン以後、物質と時間・空間のつくる一つの能動的体系(システム)として、それ自体に具わった内部相互作用によって自己運動を行い、今日の状態にまで進化してきた。宇宙のこの発展・進化は、宇宙自体の創発(emergence)現象であり、いわば自然にとっての「自己実現」の過程とみなせる。生物の発生や人類の出現も全てその結果であるから、人類の知的活動である科学・技術も、自然の自己実現の過程の一つとみなされる。だからといって、この自然観は目的論に直結するものではない。それについては、改めて吟味が必要である。(注 参照) 
 現代科学のベースにある自然観は、宇宙も含めてすべての物は進化発展するという進化的自然観と、自然界の存在様式は階層的であるという階層的自然観である。それは近代科学のベースとなった機械論的自然観と原子論的自然観に替わるものである。いづれにせよ、宇宙自体の進化や、物質の自己組織化とその進化を対象とする科学は、内部からの自然認識、つまり「自然の自己反映(認識)」という観点が必要であろう。
 先にも述べたように、自然の一部である人類が自然の仕組みを認識し理解できるということは何とも不思議である。科学的に「理解する」とか、さらに「論証する」ということは一体何だろうと考え出すと切りがない。これらの疑問は、宗教における「生死とは何か」また「信仰する」とは何かといったことに対応するだろう。
 
科学と共存する宗教  
「自然の原理」そのものに、ある崇高なものを感じて生まれる宗教、あるいは宇宙を一つの「生命力」とみなす宗教があるならば、そこに見出される宗教的表象は、もはや超自然的な神とは異なるものであろう。超自然的な神なしでも、自然に対する畏敬の念さえあれば宗教は存立しうるものならば、そのような宗教は哲学・倫理と区別が無くなるのではなかろうか。もしそうなら、これからの宗教は科学と矛盾対立することはないであろうし、むしろ自然認識において、自然科学と協調して相補的な役割を果たすであろう。そして、両者の協力で、新たな自然観・人生観を築くとともに、現代社会の歪みを克服する道を見出すことができるかも知れない。
 宗教学者岸本英夫の宇宙観、宗教観が印象的である。彼は「宗教を科学する」という立場で宗教を研究したが、癌に侵されていることを宣告されてから亡くなるまで、死の恐怖との葛藤と死後の問題で精神的に苦闘されたそうである。その結果、「死は生命との別れである」との考えに達した。彼は科学者として、霊魂の存在には納得し得ず、宇宙に編満する大生命の存在を信じて、「私の個人の生命力というものは、私の死後は大きな宇宙の生命力の中に溶け込んでしまっていくと考えるくらいが、精一杯であります」と書き残したそうである。これが岸本の宗教であったのであろう。

内からの自然認識:共生のための科学
 20世紀までの自然科学は、認識主体である人間が自然の外に立ち、自然を対象化して認識してきた。しかし、これからの自然科学は人類を含めた宇宙全体の進化、さらに生命の本質から人間自身の解明へと切り込んでいくのであるから、自然を対象化するのでなく、人間と自然とが一体となった状態で、内からそして自然の中で理解するという方法が必要であろう。すると、この認識方法は、自然界の輪廻から「解脱」することを望むという姿勢ではなく、むしろ逆に、輪廻の中に心身ともに自らを置くことが求められるであろう。
 自然科学は「自然自体の自己反映(認識)」といっても、「自然の超意識」の存在を必ずしも意味するものではないが、もし、自然(あるいは、宇宙)に「超意識」のようなものがあるならば、その自己実現にはある種の「目的」(「方向性」と言うべきかも知れない)が存在する可能性も否定できない。だが、たとえそうであっても、その「目的」は自然自体、あるいは宇宙というシステムの創発性の結果であって、超自然的なもの(神)によって与えられたのではない。それゆえ、それは宇宙の発生期に初期条件として物質・時空と自然法則の中に組み込まれていて、「目的」の方向はそれによって規定されているだろうが、自己発展の過程で生み出される創発により、決定論的な予想はできないだろう。たとえそのような「目的」が存在したとしても、自然の一部である人類はそれを完全に認識し得ないだろう。なぜならば、これも自己言及型の論理なので、ゲーデルの不完全性定理が適応されるからである。
 人間と自然とが一体となった状態で自然の内からの自己認識という科学観から、いわゆる「自然との共生」のための科学のあり方が見えてくる。人類と自然との共生は如何にあるべきかは、自然界におけるヒトの地位を自覚し、新たな価値観の上に見出さなければならない。自然を支配し人類のためにそれを利用するという人間中心の自然観ではなく、自然との共生を目指す科学であるならば、科学・技術の開発の方向やアセスメントの評価基準もその新たな価値観によって変わってくる。たとえば、地球や宇宙環境の保全にしろ、生物種の保存にしろ、それが人類のためになるからとか、その結果がいつかは自らに跳ね返ってくるからといった観点ではなく、自然自体のより良い「自己実現」のためにそうするのだということになろう。そのような自然観は、まさに自然との一体感をもって内部から自然を認識するという東洋思想にも通ずるものである。この「内部からの自己認識」という観点は、同時にまた、人間の意識を含めて人間自身を認識対象とする科学にも欠かせないものであろう。
 以上のように、これからの科学は現代科学を超えて、この新自然観の上に築かれねばならないと思う。ただし、科学である限り、主観的な知識ではなく、実証性を基礎にした普遍性と客観性のある知識体系であるという点では、従来の自然科学と同様である。
 われわれの有する自然像は実在の自然そのものではなく、科学の成果によって描いた自然像である。その科学的自然像は不完全ではあるが、科学の進歩発展につれて変容しながら実在の自然に近づいてきた。また逆に、その自然像は科学研究に反映され、科学の発展方向を規定してきた。それゆえ、上で述べた新たな科学観に立つならば、科学的自然像も転換されるので、これまでとは質の異なる自然科学のテーマが見出される可能性もあろう。
 さらに付言するならば、自然の広さと深さに対して、人間の知恵はまだまだ浅いし、現代の自然科学のレベルでは説明できないことも、未知のこともまだ無数にある。だからといって、直ぐに超自然的なものを持ち込んだり、オカルトを認めたりすることにはならない。科学によって「まだ解明されてないこと」と、科学の対象外の「解明できないこと」の区別が肝要である。

6.おわりに 
 自然を認識する方法は唯一通りではなく、アベロエスの二重真理説とは必ずしも同じではないが、知性による科学的認識も、感性による宗教的認識も、それぞれ独立のアプローチの方法である。両者の認識内容は相補的であり、協調してより良い自然認識と自然観に達しうると思う。自然界における人類の占める地位を現代科学の成果に基づいて確認し、その上に立って新たな価値観を築くために、そのような科学と宗教のあり方を求めるべきであろう。
 物質文明に比して精神文明が遅れている。精神文明を豊かにするには、科学、芸術、宗教、倫理などの総合的寄与が必要である。科学は技術に応用されるだけでなく、自然観・哲学の形成を通して精神文明にも科学は不可欠である。心身ともに豊かな生活を送るためには、精神・物質両文明のバランスが必要である。そのためには全ての分野がバランスある発展を遂げなければならないと思う。

 (注)動物の意識は、最初は進化初期の生物の無意識的行動(食物摂取、光に対する反応など)の繰り返しの中で徐々に芽生え、生物進化とともに形成された物質組織の最高機能といえるであろう。ただし、意識の発生過程で、どこからが「意識」といえるか明確に定義することは難しい。いずれにせよ、意識を「物質組織の物理・化学的運動による機能」の一種と見るならば、全宇宙は一つの有機体として「超意識」を有する可能性も否定はできないだろう。もしそうなら、宇宙の個々の銀河は、生物でいえば一つの細胞のようなものかも知れない。その時間・空間スケールが、地上の生物と比較して極度に大きいだけである。銀河は今でも物質・エネルギーの新陳代謝を行い、融合・分裂を行っているし、銀河同士が相互作用をしながら超銀河団を形成し発展している。さらに、全宇宙は一つのシステムとして「有機体」のように自己発展している可能性がある。しかし、全宇宙の中の物質元素の存在比(水素が圧倒的に多い)からみて、宇宙の年令は若いから、「超意識」はまだ芽生えてないかも知れない。そうであっても、いずれ「超意識」が創発する可能性を完全に否定し去ることはできないだろう。
 この場合の「意識」(生物初期の意識、自然の超意識など)とは、一つの物質系がある目的を達成するための行動に際して、その内部に蓄積した情報を活用する行動の原因(原動力)となりうる内的機能が高度に発達したものといってよいだろう。
 自然の自己実現の観点から、自然の一要素としてのヒトの発生とその活動をどう考えたらよいか興味ある課題である。人類の活動は、自然の自己実現の速度を速める良き触媒のような存在なのか、それともコントロールできない暴走の原因となるのだろうか。人類は暴走して地球を使い捨て、次々に他の天体を浸食する癌細胞のような存在にならないようにすべきである。いずれの場合も、自然の自己実現の結果(自然のなせる業)ではあるが、人間は理性をもっていることも自然のなせる業である。それゆえ、理性を働かせて、暴走ではなく自然との共生を図る道を見出すよう努力すべきである。
 
本稿は15年ほど以前に大綱を書き上げ、その後何度か加筆してまとめたものである。『唯物論と現代』No.49号(2012年11月)掲載。
スポンサーサイト



この記事へのコメント
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
[] 2022/08/22(月) 13:12 [EDIT]
Re: 人間が一番なのでしょうか
>  自然科学的にも、宗教的にも、人間第一なのでしょうか。最近の宇宙物理学でも、観測ができな光より早く広がる宇宙で電磁波では観測できない広がりをみせています。人知の届かない部分がどんどんふえてきています。ミクロの世界の11次元の観測は・・・。
>  だから神が、ということではないのですが、生物として偶然に地球で理性的、知的に発展してきた人間ですが、(偶然に出現して人類)と言い方に意義をとなえる人が多くいます。大自然の中で、大脳の発達した人類が理性的な認知力で、全ての自然科学が理解できるとしたある種の傲慢さに違和感を感じます。自然科学的に認識している部分は僅かな領域でしかないと認識すべきではないでしょうか。理性的な知の欲望が、人間第一主義に陥っているのではないか、そんな気が強く感じますが・・・。
>  済みません、知力の弱い男がこのブログで素朴に感じただけです。ご迷惑でしたら消してください。



コメントに対する私の考え(これは最近あるところに書いた物

自然科学の本性
 自然科学は人類が自然を認識する営為の一つである。自然の一部である人間の営為は、自然の認識活動も含めて、全て自然の自己発展の一環である。自然科学も当然その一つである。すると、”自然科学とは自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映(自己認識)活動”ということになる。
 それゆえ、自然科学を単に人間の側からの自然認識としてのみ捉えるのでなく、自然の側から視た「自然自体の自己反映(認識)」という観点からも捉え直すべきであるというのが、筆者のかねてからの主張である(詳しくは『科学はこうして発展した』2002年せせらぎ出版を参照されたい)。

「自然科学は自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動」
 このように科学を規定すると、これまでの科学観では気付かなかった新たな科学の側面が見えてくる。この科学観に立つならば、自然科学は人間が自然の外に立ち、自然を対象化して観照的に認識するという西洋的科学観ではなく、人間が自然の内部に在って共感的に自然を認識するということになる。人類と自然との共生を目指すべき今後の科学はこの立場からなさるべきであろう。
(1)自己言及型の論理:科学の不完全性
 自然科学の理論は自然が自らについて記述する「自己言及型の論理」である。すると、ゲーデルの不完全性定理(1930)の制約を受けざるを得ない。K.ゲーデルの不完全性定理によると、矛盾のない理論体系(厳密には自然数論を含む一階の述語論理)は不完全であり、説明できない現象や真偽が定まらない決定不能命題が存在する。それゆえ、無矛盾な科学理論は不完全である。それらの問題を説明、あるいは解明するために、仮説を加えて新理論を造ることができる、それが科学の進歩・発展である。だが、その新理論も無矛盾な体系である限り、また新たに説明不可能な現象や決定不能命題が現れる。この過程は永久に繰り返されるから、自然科学は原理的に不完全であって、人間は自然を完全に知り尽くすことはできないことになる。ちょうど人間が人間自らを完全に解明できないだろうように。このことは同時に、科学には終わりはなく、無限に発展しうることも意味する。たとえば、科学理論の基礎原理は説明も直接実証もできない仮定であるが、その原理をさらに高度の論理で説明するためには、新たに高次の原理を必要とするように、この連鎖は尽きることはない。
基礎概念や法則の相互規定的循環論的構造
 科学理論が自己完結的でなく不完全性を示すことの例は、理論の基礎概念や法則の定義が相互規定的な循環論的論理構造とならざるをえないことである。ニュートン力学の場合では、「時間、長さ、速度」の定義における循環論的関係、および運動法則における「加速度、質量、力」の相互規定的関係である。科学理論の骨格をなす基礎概念と基本原理・法則は、その全理論体系の中で互いにそれぞれの意味を与え合うという、相互規定的に定義される構造になっている。すべての理論言語を経験に基づく観察言語に還元できないことは、論理実証主義も認めざるをえなかった。
 科学の基礎概念の定義や基本的自然法則に限らず、自然界の物事はみな相互依存、相互規定的な関係にあるというのが私の考えである。

(2)実証のための観測・実験の必然性
ゲーデルの不完全性定理の帰結として、無矛盾な論理体系は自らの完全性をその内部で証明できないというものがある。すると、科学理論は自らの理論の真偽を自らの理論によって検証することはできない。自然自体は自己完結的な存在であろうが、そうであっても自然科学は自己完結的な理論ではありえない。それゆえ、自然科学理論の検証には自然に問いかける実験・観察が不可欠なのである。これは自然と人為的理論との相互規定的関係を示すものである。
「データの理論負荷性」と「理論のデータ依存性」
 その観察・実験すらも理論との相互規定的関係にある。なぜならば、観察・実験も自然の一部である人間が自然に問いかける現象であるから、これも自然の中で閉じた行為である。したがって、観察・実験も自己反映的現象であるゆえに、理論との相互規定的循環論となるのである。
 観測・実験において、実証すべき課題の選択とそれを実証する実験手談とが理論に依存する。それゆえ、その実証の結果は当の検証すべき課題の検証であると同時に、基になった理論の検証にもなっているからである。デュエムとハンソンは、この「データの理論負荷性」を指摘した。
 しかし、逆の「理論のデータ依存性」を無視すべきではない。もし「データの理論負荷性」のみ強調するとデータの客観性、ひいては科学の客観性が否定される。もしそうならば、理論の範囲内で思考実験のみしていればよく、実際の実験をする必要は無い。それでは理論に矛盾する現象は得られず、科学の進歩はない。このように「データの理論負荷性」と「理論のデータ依存性」とは相互規定的な関係にある。

科学と宗教の違い
 ちなみに、この紙上で取り上げられた、ニーチェの「科学は一種の信仰」ということについて言及したい。ニーチェは「客観的真理の存在」を否定し、その存在を前提とする(信ずる)科学を一種の信仰といったようである。科学理論の基礎原理は仮定であり、直接実証も証明もできない。その上に築かれた理論とその結果を絶対的真理と信ずるならば、「信仰」と言えるかも知れない。
 
 相対性理論と量子論による20世紀の科学革命によって、科学理論の適用限界が認識された。科学史を繙けば、地動説、熱素やエーテルの存在などを前提とする理論を信じていた時期があった。しかし、それらの矛盾(誤り)は、理論の演繹的予言能力、それに基づく実験・観察と理論の整合性によって気づかれ、修正され克服されてきた。少数の現象を説明するだけなら幾つもの理論が可能であるが、全ての現象と既存理論とに整合的な理論は一つに絞られていくゆえ、長い目で見れば、理論の誤りはいずれ克服され、客観的真理に近づいていく。K.ポパーは科学の条件として「反証可能性」をあげた。これは実証科学の必要条件として重要な要素である。
 科学は「実証的知の体系」であり、理論化によって社会的・歴史的に蓄積されうる知識体系である。上記のように、科学は原理的に不完全であり、自然を極め尽くすことはできないこと、そして、実験による実証の限界も認識するならば、「信仰」ではないと思う。これが科学と宗教の違いである。

(3)自然との共生を目指す科学
 自然(世界)の自覚としての科学 :西田哲学で強調される「世界の世界による自覚」、「個の個による自覚」に基づく科学とは、以上のような科学観によるものではないだろうか。自然を支配し、人類のために自然を利用するという、行き過ぎた科学・技術の反省から、自然との共生を目指す科学・技術が求められている。人間は自然の一部であるゆえ、「自然科学は自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動」という科学観こそが、その様な共生のための科学に導くものであると思う。
 以上がこの科学観からの主な帰結である。

存在の理法: 相互規定的自然の仕組み
 この自然界におけるすべての存在(物質、時空、エネルギー、情報など)は、何らかの形式で相互に関連し合っていて、単独に独立した存在ではない。個々のものは相対的自立性を保つと同時に、相互連関の内に存在していることは明らかである。それらは相互前提的に対立物として存在し、それらは相互依存の関係にあることが、全ての存在の基本的形式である。
 さらに、それらの存在様式そのものが、互いに持ちつ持たれつの相互依存によって決まる。つまり、「存在の理法」は相互規定的構造になっている。全ての現象で「作用-反作用の法則」が成立していることからも、物事が相互依存の関係にあることは明らかである。だが、そのことはそこに存在するものが相互作用を通して相互依存の関係にあることをいっただけであって、存在様式そのものが本質的に相互規定的構造にあるというのではない。ここにいう存在の理法の相互規定性はもっと強く本質的である。
 この相互規定的存在の理法を最初に科学理論として、厳密に定式化したのはアインシュタインの一般相対性理論である。彼は宇宙の存在様式について、中味の物質の分布が容れ物の時空の構造を規定し、逆に容れ物の時空構造が中味の物質の運動と分布を規定するという、互いに持ちつ持たれつの完全な相互規定の関係にあり、それによって宇宙は一つのシステムとして自己発展していることを示した。このことは、作用があれば反作用があるとか、原因・結果の連鎖といった能動と受動の系列として運動・変化を見るのではなく、物質と時空は互いに同時的に存在と運動の原因であり結果であるという観点、つまり相互規定的構造をもった一つの統合的システムとして、その存在様式と自己運動を観るものである。
 物質を構成する基本粒子とそれらの相互作用の構造も、物質場とゲージ場との相互規定の関係にある。物質場(電子やクォークなどのフェルミ粒子)と相互作用を担うゲージ場(光子やグルーオンなどのボーズ粒子)とは、それぞれの基本的性質(対称性など)が両者の相互規定によって定まる仕組みになっている。物質の性質は相互作用がなければ存在意味もないし、認識もできない。物質場の性質はゲージ場の相互作用により定まり、逆にゲージ場の質(対称性)は物質場の性質(対称性)により定まる。このように物質の存在様式の基本は、物質場とゲージ場の二元論である。
 人間と自然との関係も同様である。このように、自然界の存在の理法の基本は、対立物の相互規定的二元論と考える。それゆえ、根源的一者の存在(一元論)を私は認めない。
 
「絶対的概念」から「相対概念」への転換
 近代科学の理論的枠組みの骨格をなす基礎概念や原理・法則の性格を特徴づけるものは「絶対性」の概念と「絶対化」の論理である。その「絶対性」とは、時間・空間に関しては絶対時間・空間、および絶対的空虚かつ不動の真空であり、物質に関しては不生不滅の不変な究極実体である原子、そして法則に関しては例外を許さない絶対的自然法則、および因果律に基づく必然的決定論などを指す。近代科学はその成立期から成熟期まで、これら絶対性概念を拠り所にした「絶対化」の論理が働いているといえる。そして、これら絶対性の概念は、近代科学の基礎にある機械論的自然観、原子論的自然観、及び数学的自然観を底辺から支えている。したがって、近代科学の理論体系は、これらの絶対概念を骨格として築かれているわけである。(詳細は『科学は「自然」をどう語ってきたか』ミネルヴァ書房1999年を参照されたい。)
 この自然観は「絶対神の創造した自然」という思想の反映であろうが、また同時に人間の論理的思考は漠然とした概念を用いてなされるのではなく、できるだけ明確な何らかの基準を拠り所にして組み立てる傾向にあることの反映であろう。
 近代から現代科学への移行により、自然観も転換すると同時に、「絶対性の概念」は否定されて「相対的概念」で置き換えられた。機械論的自然観は進化的自然観(すべてのものは発展・進化すると見る)へ、また原子論的自然観は階層的自然観(素粒子・原子、マクロ物質から上は宇宙まで階層をなす)へと転換した。数学的自然観は近代科学から現代科学を貫いているが、同じ数学的自然観でも近代科学と現代科学とでは内容において違いがあり、他の二つの自然観の転換と連動している。
 「絶対性」から次の「相対性」への転換は、人間の自然認識の発展過程をよく示している。近代科学のように理論的枠組みのしっかりした科学を築くには、最初から掴みどころの明確でない「相対性」概念に拠るのではなく、まず不変実体とか、絶対的基準といった確かなものを拠り所にせざるを得なかった。その次ぎに、一旦確立した「絶対性」を否定して「相対性」の概念を枠組みとした科学理論へと進んだのである。この「相対化」の論理は、近代科学において個別的に分離し把握されていた諸々の絶対概念(時間、空間、物質、法則)を、変化(進化的自然観)と相互連関(階層的自然観)のうちに捉え直す、いわば弁証法的認識法であり、物事を無差別に相対化する「相対主義」ではない。現代科学のこの「相対化」の過程は自然認識の進化の手順を示すものである。
 いずれにせよ、このような現代科学の自然観からは絶対的概念や絶対的存在(一元論)というものは容認し難いというのが私の考えである。
 
いずれにせよ、人間は自然の一部であり、自然の「自己実現」の中の一つの存在である。

 

菅野礼司[URL] 2018/07/24(火) 17:40 [EDIT]
人間が一番なのでしょうか
 自然科学的にも、宗教的にも、人間第一なのでしょうか。最近の宇宙物理学でも、観測ができな光より早く広がる宇宙で電磁波では観測できない広がりをみせています。人知の届かない部分がどんどんふえてきています。ミクロの世界の11次元の観測は・・・。
 だから神が、ということではないのですが、生物として偶然に地球で理性的、知的に発展してきた人間ですが、(偶然に出現して人類)と言い方に意義をとなえる人が多くいます。大自然の中で、大脳の発達した人類が理性的な認知力で、全ての自然科学が理解できるとしたある種の傲慢さに違和感を感じます。自然科学的に認識している部分は僅かな領域でしかないと認識すべきではないでしょうか。理性的な知の欲望が、人間第一主義に陥っているのではないか、そんな気が強く感じますが・・・。
 済みません、知力の弱い男がこのブログで素朴に感じただけです。ご迷惑でしたら消してください。
小林 征勝[URL] 2018/02/08(木) 22:07 [EDIT]
Re: タイトルなし
> 宗教と科学のことを調べていてこのブログがとても参考になりました。
 お役に立って嬉しいです。
菅野礼司[URL] 2015/04/21(火) 13:07 [EDIT]
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
[] 2015/02/08(日) 23:54 [EDIT]

管理者にだけ表示を許可する
 
Copyright © 2005 自然と科学. all rights reserved.