科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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科学と技術は区別して論ずべきだ
  科学と技術は区別して論ずべきだ 
 (この記事は「月刊エネルギーレビュー」誌の5月号に「随筆」として掲載されたものである。)

 現代は科学・技術の恩恵は計り知れない。だが科学・技術が他の分野に比し突出して進歩したためにその弊害もでている。原水爆、環境汚染、原発事故などがその典型である。そのために科学・技術に非難の矛先が向けられることが多い。その際、科学と技術を混同し一纏めにして、「科学」のせいにする。科学と技術はその目的も社会的役割も別であるにもかかわらず、「科学=技術」と誤解した議論が多すぎる。この混同から日本では一語で「科学技術」とされる。欧米では通常“science and technology”と区別されている。

 自然科学の本来の目的は自然の仕組み・法則を解明し認識を深めることであるが、自然科学には二つの社会的役割がある。自然の仕組みを知ることにより知的欲求を満たすこと、およびその知識を技術として活用することである。前者は自然観や哲学の形成など精神文明にも寄与するから、真善美の一翼として科学は精神文化の一部である。後者の技術への応用は物質文明への寄与である。ここで留意すべきは、科学の理論は客観的自然法則の発見であり、それ自体には技術としてどのように活用するかは含まれないことである。すなわち科学は技術を通して善用・悪用いずれにも利用されうる両刃の剣であるが、科学自体はどちらに利用され易いかは示さない。技術的利用価値に関しては中立である。善用か悪用かは技術として活用する人間(社会制度)の問題である。

 現代では科学と技術は密接になり、基礎科学から技術利用までの時間・空間的距離は極めて接近しているために、両者を「科学」として論じられる傾向が強い。この区別をしない議論は本質を踏み外して反科学論に至り、人類の未来を見誤ることになりかねない。

附記:科学の価値中立性についてさらに詳しい考察は、拙稿「科学の価値中立性」(『日本の科学者』Vol.50.  No.7.2015年7月; 「科学の「価値中立性」と技術との関係」『唯物論と現代』(第54号、2015年11月を参照されたい。
ご希望の方には、メールでご連絡下さい、原稿を送ります。私のメールアドレス: rsugano@feel.ocn.ne.jp)
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[] 2017/04/11(火) 12:38 [EDIT]
Re: タイトルなし
> お久しぶりです。
>
> 観測者は不完全性原理であっても、裏を返せば表裏、量子もつれがあるもつれあった1世界が真実なんでしょうから、そのどちらが現れるか不確定なだけではないでしょうか?
>
> ひゃまはこれを完全性定理と呼んでます

主張の内容がよく理解できません。
菅野礼司[URL] 2016/09/10(土) 14:08 [EDIT]
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[] 2016/08/12(金) 11:34 [EDIT]
Re: 技術者から一言
> おひさしぶりです、ひゃまです。
>
> ひゃまは技術畑に歩んできたものですが、科学は自然の仕組み・法則を解明し認識を深めることである、技術はその成果を応用がしやすいようにして社会貢献するというのは賛成ですが、
>
> その科学の方が自然の仕組み・法則を解明するというより、適当な解釈を積み重ねるだけで本質を見失ってるような気がします。
>
> 以下は技術者であるひゃまが科学を見直した例です。
>
> 光の等価原理(質量と光速の階層性)による近点移動の説明
> http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n383535
>
> 先生は科学者なので科学を特別視しているだけではないでしょうか?


返事
 科学を特別視しているとは思いません。科学も不完全なものです。科学は自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動というのが私の科学の定義です。だから自然科学は自己言及型の論理でゲーデルの不完全性定理により不完全で、自己完結的な科学理論は存在しない。客観的な自然の真理に近づくが永久に到達できない。だから科学に終わりはない。そのような新たな科学観煮立てば、これまでの科学の在り方も、意義も変わってきます。このことは昔から遍もいろいろなところに書いてきました。

 科学と技術とはいずれが基礎かという違いはあるが、それぞれの立場、役割と存在意義がある。
菅野礼司[URL] 2016/05/23(月) 21:25 [EDIT]
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[] 2016/05/05(木) 11:21 [EDIT]
Re: 物理学と物理計算学
> はじめまして
> 物理をこよなく愛する「日曜物理学者」です。
>
> >自然科学の本来の目的は自然の仕組み・法則を解明し認識を深めることである
>
> 本文と関係ありませんが、「量子力学のコペンハーゲン解釈」を思い出します。
>
> 量子力学の確率解釈をめぐって、激しい論争が行われていたとき、Diracは「とにかく計算できれば良い」」という考えだったと聞いています。ファインマンもそれに近い考えを持ったようです。
>
> 自然科学と科学技術の関係と似たものを感じました。
>
> ところで、この言葉通りに考えれば、場の量子論の発散問題を数学的に大問題であるくり込み計算のままになっている現状に誰かが警鐘を鳴らすべきだと思うのですが…
> これで、「自然の仕組み・法則を解明」になっているのか少し疑問です。
> 確かに実験値を得ていますが、これでは「物理計算技術」ではないでしょうか?
> 先生はいかがお考えでしょうか?
>
> 私は量子力学の確率解釈に対して疑問を持っていますが、場の量子論を教えてもらっている人から「お前は量子力学の確率解釈につかりすぎだ」と皮肉られました。
> 学生時代は核物理学を専門に勉強していたせいでしょう。
>
> 『唯物論と現代』について少し興味があります
>
> メールを送りますので、よろしくお願いします。

返信:
ご意見に同感するところがあります。ディラックは、自然の対称性や理論の美しさを求め、彼の発想には共感しています。反粒子や磁気単極子の発想には彼の自然観がでているでしょう。ファインマンはプラグマティックなところがあるでしょうが、計算できれば良いなどとは思っていないでしょう。並みの学者ではないですから。
 繰り込みは将来止揚(aufheben)されるべきものでしょう。
量力の確率解釈はふしぎなものです。目下のところ、シュレーディンガーの波動力学とボルンの確率解釈は、木に竹を接いだ2本立ての論理構造ですが、2つを論理的に繋ぐような論理が望まれます。 ERP問題とベルの不等式、パウリ原理など、量子力学の不可分離性と絡んでいるように思っております。
 拙著『科学は自然をどう語ってきたか』(ミネルヴァ書房)、『物理学とは何かを理解するために』(吉岡書店)などを読んで見て下さい。
菅野礼司[URL] 2016/05/01(日) 11:09 [EDIT]
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[] 2016/04/27(水) 12:30 [EDIT]

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