科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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『物理学とは何かを理解するために』に対する読者の感想
新刊『物理学とは何かを理解するために
  -基礎概念の発展を追って-』
 
        菅野礼司・南原律子著(吉岡書店2012.3)

 先に表記の拙著の出版の予告をこのブログに書いた(3月)。

 本書の目指すもの
 自然科学の理論は自然に関する概念や法則の単なる寄せ集めではない。基礎概念と原理・法則の上に築かれた理論体系である。それゆえ、個別知識や法則を憶えて問題を解く技術を習得するだけでは本当の物理を学んだことにならない。物理学理論の体系をしっかりと理解し、科学的自然観を持つことが大切である。日本の科学教育はこの点を疎かにしている。最近は物理学も暗記科目だと誤解している学生・生徒が多いそうである。
 
 物理学の基礎概念は宇宙を構成する大本、物質と空間(真空)の概念である。自然科学の進歩とともに、それらの物理的内容も変化・発展してきた。物質・空間(真空)概念の変遷は物理学の進歩発展の指標といえるほどのものである。それゆえ、歴史的変遷を通してそれら基礎概念の持つ意義をしっかりと理解することは、物理学の真髄を正しく学ぶことに通ずる。物理学を教える先生も、学ぶ学生・生徒も是非このことを意識して読んで欲しい。

  その本が3月にでた。これまでに寄せられた読者の感想はよかった。
 
内容についての読者の感想:
 基礎概念として物質と真空(空間)をとり、それを軸にして物理学の理論とその発展を捉えたことは、新鮮かつユニークであること、これにより物理学全体に対する深い洞察力を養うことができること、そして物理学とは何かを改めて理解できたし、かつ考えさせられた、などなど。

 本書の目的はかなり理解して貰えたようである。
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人類・科学・宇宙
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 (先日、猪瀬君(私の元研究室の卒業生)が堺市のある教会で、「今、宇宙が面白い」というテーマで市民講座を開いた。私はそこにコメンテーターとして出席を依頼されたので、そこで話すことをまとめた。時間的制約があるので、その中の要点を話したが、以下にそれを載せることにした。講座の後の懇親会でも質問・議論が盛んで面白い会であった。)


1.生物の存在、人類の「業」 

 地球に限らず天体上での生物の発生は物理・化学的には無理なことである。なぜならば、物理学の有名な「エントロピー増大則」という法則があり、それは多体系(多粒子系)に適応される普遍法則である。生物の存在はそのエントロピー増大の法則に逆らう不自然な状態なのである。エントロピーは無秩序性(秩序性の逆)を表す指標であり、ランダムな雑然とした状態はエントロピーが高いという。このエントロピー増大則によれば孤立した閉鎖系ではエントロピーは増大する一方で、減少することはない。 生物の個体は、機能性を備えた秩序だったシステムであり、環境に比してエントロピーが低い状態の体系である。それゆえ、新陳代謝を断った生物個体(孤立閉鎖系)を放置しておけばエントロピーは増大し、やがて崩壊(死滅)する。このように、生物の存在はそれ自体がエントロピー的に無理な状態なのである。生きた個体の状態を維持し、あるいは成長させるには、絶えず新陳代謝によってエントロピーを減少させる(あるいはエントロピーの低い状態を保つ)ような操作を続けなければならない。すなわち、新陳代謝によって低エントロピーのエネルギー(食物)を摂取し、それを利用して生ずる高エントロピーのエネルギーを排泄物と共に環境に放出しているわけである。だから、生物の存在は必然的に環境を変え、そして自然環境を「汚染」する。優位に進化した生物は、新陳代謝を効率よく行うために他の生物を食物にするようになった。生物の食物連鎖はこうして起こった。
 生物誕生以来、地球環境は非常に大きく変化してきた。生物誕生によるこの自然環境の変化は、地球の発展進化とみることができるだろうが、反面からすれば、地球環境の汚染・破壊でもある。生物にとって避けることのできないこの営みは、生物界の食物連鎖と共に、すべての生物の背負った業である。後から出現したにもかかわらず、人類はその頂点にあり、最も業の深い存在である。
 存在自体が無理を強いられている生物が種を維持発展させるために、生存に有利な機能を徐々に獲得してきた。これが種の進化である。ところが、人類は種の生物的進化を待てずに、生存に有利な手段を次々に獲得した。それが科学・技術である。したがって、科学・技術は生まれながらにして人類の業を背負っている。

自然科学について

1.科学とは何か
・自然の謎解き:推理小説が好きな人は多い。自然科学も推理により自然の仕組みを解 きほぐす。
・演繹的理論体系:科学は個別知識や法則を寄せ集めた知識の単なる集合ではない。  基礎概念、原理、法則が有機的な関連を持った演繹的理論体系である。
 すでに知られている自然現象を説明するだけでなく、未知のことを予言する能力を有す。
・科学は文化:自然科学と技術は別:科学は自然の仕組みを認識する活動。
科学は社会的生産活動のなかで、知的欲求により根ざして、経験的知識を理論化し体系化したもの。
 自然に関する科学的知識に基づき自然観を築き、ひいては哲学、人生観の形成に寄与する。科学は最初「自然哲学」であった。
・科学は二つの社会的機能: 科学は自然観や哲学の形勢を通して精神文明に寄与、また技術を通して物質文明に寄与する。
・科学の不完全性:「自然科学とは、自然が人類を通して自然自体を解明する自己反映活動」である。それゆえ、自己言及型の論理であるから、ゲーデルの不完全性定理により、自然科学は不完全である。無矛盾な論理体系は真偽を決定できない命題や矛盾命題(決定不能命題)を持つ。(矛盾命題の例として簡単なものは「私は嘘つきである」、私は正直者としても、嘘つきとしても矛盾に陥る。)すなわち不完全な理論体系である。
 科学は内部矛盾のない理論体系であるから、科学はいくら進歩しても永遠に不完全である。なぜならば、説明できないことをできるように新たな原理(仮定)を設けて新理論をつくっても、それが無矛盾な理論体系である限り、新たな決定不能命題が現れるから。科学は永遠に不完全であるから永遠に無限に発展・進歩する。だが、人類は自然を完全に解明しつくすことはできない。完全な理論に無限に接近するがそこに到達はできない。
それと同様に、人間は人間自体を完全に知り尽くすことはできない。自分のことは自分には分からない(見えない)ところがある。他人の方がよくわかることがある。それゆえ、人間の脳の研究にも限界がある。

2.科学教育について
・日本の科学教育:科学を「役に立つ知識」として教えている(江戸末期、明治以来)。
文化としての科学、科学的自然観の形成が疎かにされている。
自然科学の基礎に自然観があり、それが科学の論理と方法に反映している。近代科学の論理と方法は西欧の自然観に基づいている。 
自然観の変遷:
 古代・中世-目的論(西欧)、輪廻・転生(インド)、道・天命(中国)、自然論(東洋) 近代科学-機械論的、原子論的、数学的自然観、
 現代科学-進化的、階層的、数学的自然観。 
・「科学=技術」と誤解:科学と技術を区別すきである。技術は科学の二つの社会的機能 のうちの一側面である。日本では両者を一つにした「科学技術」という言葉が主流だが「科学・技術」(Science and Technology)とすべきだ。
・何のために科学を学ぶか:科学の知識・法則を憶えて生活に役立てるだけでなく、科学 的論理思考力を養う。「科学とは何か」を学び、科学的自然観を持つことも大切なこと。
 科学的概念は科学の進歩とともに発展進化してきたことを学べば、固定観念の打破に役 立つ。
・科学リテラシー: 現代社会では「科学」は「読み・書き・計算」と並ぶ基礎知識とし て、市民の素養の一つである。

物理学の基礎概念:物質と真空・空間と時間 

1.人類は好奇心の強い生物:人類は古代から自然の成り立ちと仕組みについて、いろいろ思いを巡らせてきた。その主たるものは宇宙観、物質観、生命観である。文明初期の乏しい知識のなかでさえ、想像力を働かせてすでに素晴らしい自然像を描いていた。「天地はどのようにつくられたのか」とか、「万物は何からできているのか」という問題を、古代の人々は深く考えた。人類は何時から、なぜこのような想像と推理の能力を得たのであろうか。その想像力には驚嘆するばかりだ。
人間ほど好奇心が強く、想像力豊かなものはない。目の前の物や現象から、その裏には何があり、またその先はどうなっているのかと、先々と思いを馳せる性質がある。子供の頃から次々に疑問が浮かび、質問して親や先生を困らせた記憶が誰にでもあるだろう。答えが見つかるまで、何年も何十年もかかることもある。けれども“わかりたい”という気持ちは頭のどこかに残っていて、徐々に答えに近づいてゆく。そして、ついに答えが見つかったときの喜びは、何ものにも替えられないものがある。
 ある科学者曰く「偉大なる科学者であるためには、大いなる空想家でなければならない」(逆は真ならず。)

2.物質と真空、空間と時間:自然の成り立ちや仕組みに関する知識の一番基礎になるものは、物理学である。その物理学の基礎となるもの(概念)は、物質と真空、および空間と時間である。すなわち、自然界を造っている物質とはいかなるものか、またその物質が存在する宇宙は有限か無限か。そして空間は、物質とは独立に存在するのか(空の空間、真空はあるのか)というようなことである。
 これらの疑問を人類は二千数百年以前の古代から問い続けてきた。そして、自然の仕組みに関する知識が進むにつれて、自然科学の進歩とともに物質観と真空観は変化してきた。
 「真空」というとまず何を思い浮かべるだろうか。密閉したガラスチューブなど、密閉した容器、その中の空気を抜いて後に残る空の空間を想像するだろう。最初に真空の存在が確認されたのはこのような状態であった。今では宇宙空間を真空と思う人もいるだろう。 しかし、密閉容器から完全に空気を抜き取ることはできない。ごくわずかではあるが、空気の分子が残っている。星のない宇宙空間にも稀薄ではあるが分子がある。では完全な真空はないのか?いや稀薄な原子・分子の間の空間は真空といえる。
 このように、真空とは物質のない空の空間と考えるのは間違いとはいえないが、それは最も素朴な真空観であって、真空とはそれほど単純なものではないことが科学の進歩とともに分かってきたのである。
 物質概念と真空(空間)概念とは密接に関連していて、物理学の基礎をなすものなのである。そして物質と真空(空間)の物理的概念の歴史的変遷(進化)の過程は、「物理学の進歩・発展の指標」ともいえるほど重要なものである。何事もしっかりとした基礎が必要である。基礎を確立して、次のステップに進んでいただきたい。
 そこで、物質概念(物質とは何か)と真空・空間概念が物理学の進歩とともにどのように変わってきたか、そして、現代物理学における物質観と真空・空間観を探ってみれば、そこに展開される物質像と真空像は、いかに複雑で内容豊かなものであるかに驚くにちがいない。このような話は教科書には書かれてないが、物理学とは何かを理解し、物理学の面白さを知るであろう。それによって、さらにその先の自然科学の世界を
空想し、ロマンをかき立てるであろう。

発展・進化の科学 :複雑系の科学

1.「存在の科学」から「発展・進化の科学」へ:プリゴジン
 これまでの科学は、「何がいかに在るか」とその「運動法則」を追究してきた-「存在 の科学」。
 宇宙はビッグバン以後、膨張とともに発展・進化してきた。その中で生物も誕生した。 物質には自己組織化と進化の能力が備わっている。発展・進化の機構と法則を解明しな ければ、自然の仕組みを半分しか認識してない。
 その「発展・進化の科学」が複雑系の科学である。
2.複雑系の科学:非平衡開放系、散逸構造-新たな科学の論理と方法が必要。
3.発展進化の科学は第三科学革命である。第一科学革命は17世紀近代科学の誕生、第二科学革命は20世紀初頭の物理革命。

宇宙の進化について

1.宇宙はミクロのビッグバンから進化してきた。現代科学の自然観は進化的自然観、階 層的自然観。
2.宇宙はまだ若い:元素の存在比(重量比);水素74.6%、ヘリウム23.8%、その他1.6 %。星の中での核融合で重い元素がつくられるが、まだほとんど水素とヘリウムのみ。
 ではなぜ惑星には水素・ヘリウムが少ないか? 
 答えは、太陽系誕生の初期から、水素、ヘリウムなどの軽元素は太陽光線の圧力で外側 に飛ばされたからである。太陽に近い惑星ほど軽元素の比率は小さい。
3.「存在の科学」から「発展・進化の科学」へ。
 物質自体に自己組織化、進化の能力がある。
 複雑系の科学:宇宙、物質(生物も含む)の発展・進化の機構を解明。そのためには新 たな科学の論理と方法が必要である。
4.宇宙は有限か?初めと終わりはあるか。宇宙の果てとは「事象の地平」?、「相対性 論的宇宙」により決まる宇宙の限界と事象の地平は別物。
5.宇宙は一つか? 現代では多宇宙論が有力である。 
 人間原理は疑問。だが、カーターの考察「物理定数の異なる多様な宇宙の形態がある」 との分析は面白い。
 宇宙は無限に奥深く内容豊かである。

宇宙時代の人類
1.地球以外に高度の文明を有する生物(エイリアン)はいるか?
 宇宙に存在する銀河・恒星・惑星の莫大な数(10の22乗個以上)からして、可能
 性はある。
2.だが、人類の歴史は僅か数万年。地球外文明が生まれたとしても、時期的に同時であ る確率は低い。それでも、地球外文明との交信の可能性はある。
3.人類は将来宇宙基地、他の惑星・衛星に住むようになるだろう-宇宙時代。
 宇宙基地で生まれた人間はいかなる進化を遂げるか。やがて地球人類と対立することは ないか?
5.地球環境を破壊し、資源を使い尽くし、地球を使い捨てて宇宙にでるならば、人類は その星をまた使い捨てることを繰し、宇宙のガン細胞のような存在となるだろう。
科学の不完全性について
科学の不完全性について

以前書いたブログ「市民社会における科学の役割」(11月)の中の「科学の不完全性」に対して、疑念があるとのコメントを頂きました。貴重なご意見を頂き有り難いと思っています。
 これまで、「科学の不完全性」について、いろいろなところで発表してきたので、このブログでは極簡単にしか説明していません。したがって、このコメントと同じような疑念を持っておられる方は他にもおられるかも知れないので、そのコメントに対する筆者の考えをここに述べることにします。また有益なコメントを期待しています。 

 まず、そのコメントに関する私のブログの部分は以下のものです。

「5.科学・技術の可能性と限界
科学の不完全性: 人間も自然の一部である。記憶、思考、認識活動もみな高度に組織化された物質系の活動様式、自然現象の一形態である。それゆえ、「自然科学とは自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動」である。したがって、人類の営みである科学活動は自然の自己発展の一部である。
 この科学観に立てば、自然を対象化して外から認識するというこれまでの立場から、自然と共に在って内から自然を認識する立場へ転換する。
 すると「科学は自己言及型の論理」となるからゲーデルの不完全性定理が適応され、自然科学の理論体系は不完全で永久に完結しない。
 ゲーデルの定理によれば、無矛盾な述語論理の体系は真偽を決定できない命題(自然科学の場合は説明できない現象・問題)や自己矛盾的命題を含む。また、その論理体系の中で、自らの論理体系が無矛盾であることや自己完結であることを証明できない。
 完全な自然科学は永久に不可能であり、新理論もそれが無矛盾である限り、次にまた新たな決定不能な問題が発生して科学理論は永久に完成しない。それゆえ何処までも発展し続ける。自然自体は自己完結的存在であったとしても、自己完結的科学理論は不可能である。科学は無限に進歩発展するが、実在の自然の論理に無限に近づきうるのみ。」

これに対するコメント:
不完全性定理の他部門への応用について
「5.自然科学・技術の可能性と限界」におけるゲーデルの不完全性定理の引用に疑念がありましたので投稿させていただきます。というのは、自然科学は初めから矛盾があるかもしれないことを前提としている仮説を総合したものであり、無矛盾を前提としている数学や論理学とは同一には語れないのではないでしょうか。自然科学では観察の結果により、つじつまの合う仮説を後付けで構成するわけで、数学や論理学でいう意味の真理はそこにはあり得ません。
 いまだ我々の物理学のレベルは「自然の一部である人間が自然のごく一部を観察している」レベルであって、先生の仰られる「自然と共に在って内から自然を認識する立場へ転換する」レベルには永久に到達できないのではないかと思います。もし、大統一理論が完成し、宇宙のすべての要素の状態を我々が把握できて、宇宙のすべての運動を予測できるような状況になったとしたら、その時こそ「自己言及性」が問題になってくると考えます。

自然科学の「自己言及性」についての補足。
 第二不完全性定理を自然(Universe)に当てはめて考えると、「自然は統一理論(あると仮定します。)に従ってすべてが運動していることを自然自身が認識することができない。」と言うことになろうかと思います。 自然が自分自身を把握しようとしてコンピューターにデータを入れようとすれば、そのコンピューターも自然の一部ですからその「コンピューターとデータ」についてもデータとして入力しなくてはならなくなります。つまり無限の入れ子ができてしまうことになるわけです。
 物理理論はすべて暫定命題でありますから、矛盾が生じればその都度修正していくべきものであります。無矛盾性の証明を物理学の中で行うということに意味はないと考えます。 不完全性定理はあくまで、当該公理系の中でその無矛盾製を証明できない、と言う意味ですので、最終的な真理を問題とする哲学や論理学以外では適用できない、と言うのが私の考えです。

このコメントに対する私の意見:
 自然科学は自然からえた情報をもとに組み立てた理論体系で、一応相対的に完備な体系(関連する現象を説明でき、かつ予言可能性を有する体系)です。自然科学の理論体系は、基礎概念と原理とから組み立てた公理系で、その理論体系の内部に論理矛盾があってはなりません。「自然科学は初めから矛盾があるかもしれないことを前提としている仮説を総合したも」というのは科学理論に対する誤解と思います。自然科学が不完全で矛盾があるのは理論と実在の自然の間であって、内部矛盾はないのが前提です。仮説自体は間違いでも、それらを用いて組み立てた公理系の内部には論理矛盾はないことが科学理論の前提です。
 もし、内部矛盾があれば、修正されるべきで、事実そのように科学は進歩してきました。たとえば、ニュートン力学とマクスウェル電磁気学は相互に矛盾したものを含んでいました。アインシュタインの相対性理論がその矛盾を解決して両者を統一しました。

 でも、現段階での科学理論は不完全で、説明できない現象があります。これが自然との不整合・矛盾です。だから実験で自然に問いかけ、その矛盾を解決すべき方法を求めるわけです。
 科学理論はω無矛盾な述語論理の体系ですから、ゲーデルの不完全性定理が適応されるはずです。「不完全性定理はあくまで、当該公理系の中でその無矛盾製を証明できない、と言う意味ですので、最終的な真理を問題とする哲学や論理学以外では適用できない」というのはゲーデルの定理の誤解と思います。この不完全性定理の証明を読めばこのような適用の限定はありません。
 科学理論への適用の問題に関する詳しい考察は拙著『科学はこうして発展した-科学革命の論理』(せせらぎ出版2002年)を参照してください。

 自然科学の理論は不完全だから、説明できない問題(真偽決定不能命題)があり、それを解決すべく進歩するわけです。しかし、自然自体が自己完結的に完全(統一的真理がある)としても、自然科学は永久に自然の真理には到達できない。それが不完全性定理からの帰結でしょう。説明できない現象(真偽の決定不能命題)や理論的問題があれば、それを解決する仮説を設けて新たな理論を創る。それでもその理論が内部矛盾を含まなければ、その先にまた説明できない現象が発見されます。こうして無限に続くわけです。

 「自然の内部から共感する」というのは、自然科学が完全であるか否かには関係ありません。内部から共感するといっても、完全な観察・実験が出来るとは思っていません。実験はその方法もデータの解釈も理論に依存しています(データの理論負荷性)から、理論と実験とは相互依存的な循環論的性格を帯びています。したがって、ここにも科学の不完全さがあります。
 ここでいいたいことは、自然を対象化して客観視して自然科学の理論を創るか、内部から共感する立場で観察するかの違いで、科学の方法に関するものと考えています。これにより自然観や科学理論の解釈が変わると思います。自然支配の思想で科学を研究し、利用するか否かに関わることです。自然を対象化した外からの認識とは異なる立場での認識法をいっているので、立場の転換以上のことはいっていません。

 「大統一理論が完成し、宇宙のすべての要素の状態を我々が把握できて、宇宙のすべての運動を予測できるような状況になったとしたら、その時こそ「自己言及性」が問題になってくる」というのも同意できません。
 大統一理論が出来たとしても、それが最終理論であるはずがないです(欧米の一部の物理屋や最終理論といいましたが)。その先に必ず新たな問題が生じます。大統一理論には仮定や暗黙の前提が含まれていることを忘れてはなりません。これは大統一理論に限らず全ての科学理論の宿命です。
 ちなみに、「自然法則には 数学や論理学でいう意味の真理はないから、同一には論じられない」というのも納得できません。数学も経験的知識から得られた知識や論理をもとに構成された理論体系ですし、数学にも矛盾があり不完全であることが明らかにされました。

「自然科学の「自己言及性」について補足」について。
 第二不完全性定理を自然(Universe)に当てはめて考えると、「自然は統一理論(あると仮定します。)に従ってすべてが運動していることを自然自身が認識することができない」
ということはその通りでしょう。これも不完全性定理から言える一つの結論でしょうが、科学理論に当てはめられないということにはならないでしょう。自然科学は自然運動の中に含まれるが、自然の部分系として相対的ながら閉じた一つの理論体系です。
 「コンピュータにデータを入力する」のは「入れ子」になるというのは、その通りでしょう。やや問題が違うかも知れませんが、「データ解析の理論依存性」と同じような循環論的性格の一つかと思います。

 「無矛盾性の証明を物理学の中で行うということに意味はない」、「不完全性定理はあくまで、当該公理系の中でその無矛盾製を証明できない、と言う意味ですので、最終的な真理を問題とする哲学や論理学以外では適用できない」ということについて。
 無矛盾性を物理学の中で証明することを誰か問題にしたでしょうか。昔、哲学者がその証明を試みたかも知れません(神の存在証明のように)。その証明が自分のなかで出来ないから、物理学は実験をするのです。
 上記のように、自然科学の理論体系は相対的に閉じた「内部矛盾のない体系」です。不完全性定理は「無矛盾な理論体系は決定不能命題を含む」というのが本です。また、数学や論理学は経験とは関係ない特別な知的体系ではないです。「最終的な真理を問題とする哲学や論理学」という、「最終的真理」とは何を意味するか私には分かりません。
 自然自体は自己完結的に存在しているでしょう。科学理論は科学理論によって無矛盾性や完全性を証明できないから、自然に問いかけながら(実験)進むわけです。 
科学は自然の謎解き

自然科学は自然の謎解き

自然科学は技術と結びついて、役に立つ知識と思っている人が多い。日本では特にその傾向が強く、「科学=技術」と誤解されていて、両者を一つにした「科学技術」と言う言葉が生まれました。確かに、現代の科学・技術時代では、科学と技術の結合は強く、両者の関係は密接ですから、そう見えるかも知れません。しかし、科学と技術は、本来の目的が違うから、生まれも育ちも別物です。古代には科学と技術は混然一体となっていた時期がありましたが、次第に別の目的と方法をもって、別々の道を歩んで分離発展してきました。

 自然科学は、人間が自然の仕組みを解明し、その論理を認識することを目的として生まれました。つまり、自然科学は、自然の仕組みについて、一種の「謎解き」でもあります。 自然現象は色々なものが絡んでいて一見複雑に見えますが、その複雑雑多な現象の裏に単純な規則(法則)が隠れています。その規則性(法則)を見付けだす面白さ、いわば「隠し絵」の中に潜む謎を浮かび上がらせるような面白さが自然科学にはあります。

 科学の法則はその隠し玉に当たりますが、その発見には、日常的感覚や常識を裏切る意外性があります。だから、その発見に感激します。日常経験に基づく理解とは逆の解釈を示す自然の仕組みや法則の説明を聞いて、驚いたり、あるいは感動したりしたことがあるでしょう。たとえば、日常感覚では、天空の太陽や星が動き、地球が静止しているように見えますが、実は逆で、太陽の周りを地球が回っていると、子供の頃聞かされて、驚くと同時に不安を感じたでしょう。また、物の重さや材料・形が異なっても、真空中ではすべての物が(鉄球も羽毛も)同じ加速度で落下するという「ガリレオの落下法則」も、最初は信じられなかったでしょう。


 人間ほど好奇心や知識欲の強い動物はいません。古代から、人類は自然の仕組みを次々にこのように解き明かしてきました。人は誰でも、程度の違いはあっても好奇心を持っています。だから、論理的推論が嫌いな人は、実は案外少ないと思います。その証拠に、科学は好きでない人でも、推理小説やSF小説の好きな人、ゲームやパズル解きの好きな人は多いでしょう。自然科学は自然の仕組みについての「謎解き」であり、「隠し絵探し」に似たところがあるから、推理小説の犯人探しの面白さがあり、発見の喜びも味わえます。 そこで、科学に興味を持って貰うために、科学的発見の道筋を、推理小説やパズル解きのように組み立てて説明したらどうだろう、と考えています。そうすれば、自然科学に興味と関心を持つ人が増えるでしょうし、ひいては科学教育に役立つと思います。
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