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科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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世界歴史教科書と科学・技術
世界歴史教科書と科学・技術

 以前から「科学・技術の社会的意義を歴史教育に」を主張してきたので(前のブログ参照)、そのような歴史教科書を歴史家と科学史家との協力で作ろうと思い、研究会の立ち上げを呼び掛けた。

  そのためにまず、高校の世界史の教科書を読んでみた。下記の山川出版社の教科書が受験向けとして比較的多く採用されているそうなので、その一冊を読んでみた。以下にその感想をまとめた。(次には、『新改訂 世界史B』実教出版 を読む予定。)

 
『詳説 世界史』改訂版(山川出版社 2008)を読んで

1.世界をいくつかの地域と時代に区分して記述

人類史は長く、世界は広域であるから、この区分は当然であるが、その区分の基準は史観により多少異なるだろう。この教科書での地域区分と時代区分は、主として政治権力(国家)の樹立と権力闘争(領土の拡大、支配者の交替)を基本にしてなされ、それら区分法に文化の要素が少し加えられている。

 全体の記述は、やはりヨーロッパ中心の「世界史」であるように思われる。
 
2.政治、経済、文化(思想・宗教)、芸術、技術・科学

 政治は権力の移動、支配領土の変遷(戦争)の記述が主体。次いで、政治制度(支配形態、民主制度など)と宗教の関係が目を引く。交易、経済・文化交流の記述はあるが、産業、科学・技術の話は少ない。
 記述法は、ほとんどが事実の羅列で、地域間の関係と時代の流れとの関係記述が弱い。

 社会の上部構造を主体とした歴史記述で、しかも、横(地域)と縦(時代)の相互連関、歴史的因果関係の解説が少ないから、下部構造の経済(産業、商業)、科学・技術の役割が入る余地がほとんどない。
 
3.社会と文化 
 
各文明圏に「社会と文化」の項目はあるが、短くかつ現象的記述が多く羅列的である。科学も文化の一部であり、思想、宗教、芸術、経済・産業への影響は大で無視できないはずだが、これらの相互関係が見られない。

 古代からの科学・技術、近代科学の成立、産業革命などの社会的影響、現代科学・技術の役割をもっと解説する必要がある。

 「近代科学成立」についてはやや長く書かれているが、その意義と影響はほとんど触れてない。

 「産業革命」の社会的影響は少し詳しいが不十分である。特に、技術内容と「なぜいかにして」産業革命が起こったか、その時代背景の説明もない。

「現代文明」はやや詳しい記述あり 
 ・現代科学と生活・環境の変化:物理革命以後、科学・技術の全面開花とその影響。
 ・現代文明による危機:環境破壊、科学・技術の地球市民による監視の必要性。 
・現代文化:近代ヨーロッパへの批判から哲学・思想の転換が起こり、社会学が進展。

 「科学技術の発展と現代文明」(主題2)
 ・人工衛星観測による地球環境破壊:砂漠化、異常気象
・交通手段・情報技術の発達:グローバル化-大量消費社会、情報ネットワーク社会。
「これからの世界と日本」(主題3)
 ・資源・エネルギーの大量消費:環境保全、地域格差解消に日本は先頭に立つべし。

4.まとめ
 
 科学・技術は、社会的・歴史的に蓄積されて進歩・発展するもので、連続性がある。細切れの記述では科学・技術の社会的影響は見えてこない。

 科学は知的欲求のみでなく、社会的要請にも応えつつ進歩し、逆に社会の変化の方向を規制してきた。定着農業、民族移動、産業・経済、戦争なども技術レベルに依存している。近代科学と産業革命にしろ、現代社会における科学・技術とそれによる社会的変化・発展や地球的問題は、突如起こったのではなく徐々に拡大浸透してきたものである。それゆえ、人類史におけるその寄与に関して一貫した視点が必要である。
科学・技術の社会的意義を歴史教育に (II)
(続)科学・技術の社会的意義を歴史教育に 
 

歴史は人類の営みの発展推移とその意義を総合的に記述すべきものである。人間の営みは多面的であり、それらは相互に関連しあっている。そのなかで、科学・技術は重要な役割を果たしてきた。
 生産力に見合う生産関係を人間社会の下部構造として重要視するのが唯物史観であるが、その生産力を維持発展させてきたのが科学・技術である。また政治、思想文化など上部構造に科学は大きく寄与している。唯物史観でなくとも、この観点はもっと強調されるべきであると思う。上部構造と下部構造ともに社会の重要な構成要素であり、それらは相互規定的に依存しつつ社会が発展してきたことは否定できないであろう。そのことを思えば、科学・技術を無視してまともな人類の歴史は語れないはずである。それにもかかわらず、これまでに歴史教科書には科学・技術の役割はほとんど無視されてきた。この歴史観の歪みを正す歴史教科書をつくるべきことを以前主張した(11月27日ブログ)。(『日本の科学者』Vol.44,No.2、2009.2)、

 その際は、科学・技術の社会的役割については、ニュートン力学に始まる西欧近代科学を中心に採りあげたので、説明が不十分であった。以下にその補足をしておく。

科学の社会的機能-科学は文化の一部である
1.精神文明への寄与:自然観、哲学、人生観の形成に不可欠。
2.物質文明への寄与:技術を通して生産力となり物質的な豊かさをもたらす、また自然 の脅威から身を守る。
 前者1.は上部構造へ、後者2.は下部構造への寄与である。

科学・技術にはその時代と地域の自然観と風土が反映している。それゆえ、東洋と西洋では科学の論理と方法がかなり異なり、近代科学は西欧で誕生した。したがって、科学・技術の社会的機能は西欧の方が大であるから、以下の考察は主に西欧社会になる。

(1)古代 
 科学・技術は人間の社会的生産活動のなかから、知的欲求に根ざして生まれた。その発展過程で、科学は技術的知識を普遍化し、抽象的理論として体系化され、最初は自然哲学として誕生した。
 古代の科学は宗教行事、生産技術、医薬術、暦術などと渾然一体となっていたが、次第に呪術的要素を排除しつつ、合理的知識の体系を整えていった。
 科学と技術の分離は古代ギリシア時代からであろう。エジプト、メソポタミアで蓄積された技術的知識が昇華されて科学として分離独立した。(東洋ではこの分離は遅れた。)
自然観:観念論と唯物論的自然観があったが、宗教的自然観が長期にわたり優位にあった。科学も宗教的教義と自然観の支配下にあって、コントロールされていた(中国はやや異なる)。

(2)中世 
 技術的進歩はあったが、科学の進歩は停滞した。古代の自然哲学(西欧ではアリストテレス自然学)から脱皮し、近代科学誕生の知的準備期であった。
 科学の中心はイスラム圏に移り、理論偏重のギリシア科学と実学的東洋科学を融合させたアラビア科学がその役割を果たした。技術の進歩はアラビア以外に、中国、ローマ帝国、西欧で顕著であった。
 スコラ哲学(自然学):トマス・アクィナスがアリストテレス体系とキリスト教義を融合し、形而上学的観念論哲学や論理学が栄えた。
 
 二重真理説:神学的真理とは別に自然学的真理は存在しうるという思想が、アラビア科学の中に芽ばえた(アベロイス主義)。キリスト教会からは弾圧されたが、14~17世紀の半ばにかけて支配的になった。

アリストテレス体系(哲学・自然学)の崩壊:目的論的自然観から機械論的自然観へ
 コペルニクス地動説(16世紀)が契機となり、階層的有限宇宙の崩壊から等質な無限宇宙へと、宇宙像が転換した -空間革命。
 天上界と地上界の壁は取り除かれ、一つの同質な宇宙に統一された-近代科学への道。

(3) 近代科学(第一科学革命
 17世紀終わり頃ニュートン力学を皮切りに実証科学として西欧で成立した。
 自然観の転換:目的論的自然観から機械論的、原子論的、数学的自然観へ。これが近代科学の基礎にある自然観である。やがて力学的自然観が定着した。
 科学は神を必要としない論理を築いた:自然の運動原理を自然自体の中に求め、自然の仕組みを探究するのが科学の目的となる。
 宗教からの独立:逆に科学理論は宗教教義へ影響を及ぼすようになった。宗教の社会的権威の低下は宗教革命である(16世紀キリスト教の宗教改革より影響は大きい)。
 信仰の時代から理性の時代へ:思想革命、新しい哲学・倫理の誕生-啓蒙運動の興隆。

科学の社会的機能:科学は一つの制度として社会に定着し、科学者は職業の一つとなる。
科学の目的:自然法則の探究の他に、生活を豊かにし、国力を興隆-F.ベーコン。

第一次産業革命:18世紀~19世紀にかけて工場制機械工業の導入は、産業の変革と社会構造の変革をもたらし、市民革命とともに近代の幕開けとなった。
 この産業革命の特徴:工場制機械化と動力機関の発達、それによるエネルギーの大量利 用。物質文明の急進-地球支配-環境破壊の始まり。
 
(4)現代科学(20世紀の第二科学革命)
 物理革命:相対論、量子論の誕生は科学観と自然認識の意味を転換させた-科学の適用限界の認識。
自然観の転換:進化的自然観、階層的自然観が現代科学の基礎となった-思想革命。
自然科学の全面的革命:化学(構造の化学)、生物学(物理生物学、分子生物学)、
 宇宙物理の質的転換と飛躍的発展へ。
情報科学、コンピュータの誕生:科学・技術の飛躍、情報化社会の誕生。

 第二次産業革命:
 このベースに量子力学とコンピュータの進歩がある。
 この産業革命の特徴:エントロピーがキーワード(第1次産業革命ではエネルギー)、 科学と技術の直結、基礎科学の技術への応用期間の短縮。
 量子力学の利用:ミクロ科学・技術、ハイテク産業、ナノ技術、
 コンピュータの利用:ロボット、巨大技術、ロケット、通信・輸送手段の発達。
 
現代科学革命と第2次産業革命により、情報化社会、グローバル化、宇宙時代の開幕。
 こうして人類史の転換点に入った。
物質文化の急速の進展で生活様式と人生観が大きく変化した:
 自然支配の思想-地球環境の破壊
 原水爆開発競争  人類絶滅の危機

科学・技術は政治・経済を動かす力を得、国家の権威、国力のシンボルとなった。
物質文化の飛躍的発展、精神文明の遅れは、社会の歪み、人心の荒廃をもたらした。
このような状況をもたらした人類の活動に対する反省の時期に入った。

(5)21世紀(第三科学革命)
「存在の科学」から「発展進化の科学」へ:これまでの物質の存在様式とその運動法則の追究から、物質の能動性(自己組織化、進化)の原理法則の追究へ進展。
自然観:階層的自然観、進化的自然観、数学的自然観を引き継いで、宇宙の進化(物質・ 時空間)と生命の発生・進化の機構に迫る。
進化の科学:宇宙進化、物質進化、生命進化-複雑系の科学。
生命科学:生命の本質の探究、遺伝・発生と生命制御の科学が進む。
認知科学:記憶、思考、心理の解明、脳の科学・「脳を知る」、「脳を作る」、「脳を守る」。
宇宙時代:宇宙基地の建設、月・惑星探査と利用の時代に入った。宇宙空間の汚染に配慮 すべきである。そのためには国家間の競争ではなく国際強調・協力が不可欠である。

「人間とは何か」が科学的に解明され、人生観、価値観の転換が起こるだろう。また社会構造、社会制度の変革も必然的に求められるだろう。

 参考文献
1.『東の科学・西の科学』東方出版(1988)、
2.『科学と自然観』東方出版(1995)、
3.「歴史家と科学史家が協力して歴史教科書をつくろう」『日本の科学者』       Vol.44,No.2(2009)。
4.「現代市民社会における科学の役割」日本科学者会議大阪支部2009年度     シンポジウム報告
教員養成制度について
教員養成制度について 

民主党が教員の資質を上げるための方策として「教員養成課程6年制」を打ち出した。教員免許の更新制を廃止する代わりに、教員養成期間を2年延長する案である。この制度案に対して異論が出されている。私もこの制度に疑問を持っている。

批判的意見としてもっともと思われるものに、河合塾理事丹羽健夫氏の意見が12月26日付朝日新聞に紹介されていた。その主な理由は次の2点であった。

 一つは、現在の教員研修内容が現場のニーズに合ってなく無駄であると指摘する。この6年制はフィンランドの教員資格(修士課程修了)を真似たもので、教育システム全体を見ずに「修士」という部分だけを安易に取り入れては大変なことになる。なぜならば、日本では教員という職業の人気が低いのに、「6年制」を実施すれば教員養成系大学の志願者が減り、かえって教員の質は低下するという。

 次に、日本で教員の人気が低いのは、教員は雑務に追われ、その上、「いじめや」父兄からの苦情など様々な問題に対応しなければならず過酷な労働を強いられているからであるという。それゆえ、養成期間を延ばすよりも、まず本来の教育に力を注げるように、教員数を増やして教員の雑務を減らし、そして少人数学級にして教育環境を良くすることが先決である。また、教員の正規採用が少なく「臨時的任用」が増えている現状を改めるべきである。このような現状のまま、「教員養成課程」を6年にしたら志願者が激減して逆効果であると主張している。

 この批判意見に近い考えを私も抱いていたから、強い共感を覚えた。私は教員養成や研修制度の実状を見聞したことがあるが、根本的なところに問題があるから、あまり効果はないと思っている。
 丹羽氏の指摘されたこれらの点の他に、現在の教育内容と教員養成制度についてもう一つ付け加えたいことがある。それは教科目選択制の弊害である。

 戦後日本の教育は、小学校からすべての教科内容はばらばらに縦割りにされ、しかも同一教科の中でも個別知識を覚えさせるだけで、それら知識を関連づけて体系だった知識として教えることが少ない。この悪弊は入試問題に象徴的にみられるが、その歪んだ教育法にさらに拍車を駆け、ずたずたにしたのが教科目の自由選択制であり、さらに入学試験における少数科目選択制度である。教科目の大幅な選択制により、体系的知識を分断して「摘み食い」的に断片的知識を憶えさせるという悪弊が助長された。教科縦割り教育の上に、科目選択制が加わり一層ひどくなったわけである。基礎をはずした知識は浮き草のように浮ついたものであり、現象的な断片知識に終わるので身に着かない。
 学生集めと受験生数を増やすために、大学入試科目数は減少し続け、その辺害があちらこちらにでている。大学入学生の学力不足のために、入学後に大学で補修をしなければならないところが続出している。

とくに理数科は知識の蓄積が必要なので、小学校の時からしっかりと教えておかねばならない。それを実行するには、教員の指導力が十分でなければ不可能である。しかし、今の教員養成制度は、中・高校・大学で教科目選択制が行われているために、基礎学力、特に理数科の力が不完全・不十分な教員が多い。「教科縦割り個別知識詰め込み教育」と「教科目選択制」のゆえに、摘み食いの断片的知識を覚え、体系的知識を身につけていない。そのために、総合的判断力に欠けており、表層的現象で物事を判断する傾向がある。
 そのように教育された教師は、同じ教育スタイルで次代の生徒に教えるという悪循環を繰り返している。理数科は断片的知識の寄せ集めではなく、有機的に関連づけられた知識の体系である。櫛の歯が欠けたようなぼろぼろな知識の持ち主では理数科はまともに教えられないだろう。このことは理数科のみでなく全教科についても言えることであろう。したがって、小学校教員は国語や社会だけでなく、しっかりした理数科の基礎を、また、中学校の理科教員は理科の全科目と数学の力を十分に身につけるような教員養成制度にすべきである。そのためには、義務教育の教員養成過程では科目選択制を廃止すべきである。少なくとも、教科目選択制の弊害を減らすように選択科目を減らした教員養成制度に変える必要があると思う。

 科学教育は知識の習得とそれを用いた演習を基礎から積み重ねることによってなされるものですから、一旦落ちこぼれると上級に行くほどその程度はひどくなます。その結果、理科嫌いになります。基礎からの積み重ねを必要とする科目は、後で勉強し直すのが難しく、取り返しがつかなくなることが多い。それゆえ、初等教育からしっかりとした知識を教育しておくべきである。義務教育の先生の役割は大変重要です。

 選択制を制限してなるべく多くの科目取る様にし、そして入試科目をもっと大幅に増やさなければ、教育の危機はさらに深刻になるであろう。この危機的状態を脱するには、大学の自主性や良識に待っていたのでは不可能で、国公立も私学も一斉にやらなければ実現不可能である。教員養成学部に限らず、一般的に大学での専門に応じて、文科省が最低入試科目数を指定すべきである。

 教員養成制度を、このような選択科目廃止、または制限すると、教員志願者が激減すると言われるかも知れない。今の教育界の状況ではそうだろう。だから、教育職に魅力を感じ、人気がでるような環境を作らねばならない。取りあえず、煩瑣な雑用を減らし、少人数学級にし、そして待遇改善をすべきであろう。そうすれば、先生が教育に専念し教員としての誇りを持てるようになるだろう。現状の教育危機を救うにはこれしかないと思う。
「みんなちがって みんないい」
「みんなちがって みんないい」

 自然現象は多様かつ豊であり、自然の仕組みは実に奥深い。自然科学が進歩すればするほどそのことを思い知らされる。
 
 年を取って経験を重ねてくると、自然の深淵を覗く度に驚嘆が増すばかりである。自然は無限に豊富である。そして、全てのものが違っていて同じものがない。それでいてみなそれぞれ存在意義を持っている。
 
 無限にある電子や陽子なども、人間にはまだ感知できないだけで、厳密には一つひとつみな少しずつ違うのではないだろうか。たとえば電子が自ら作りだして身にまとっている電磁場の衣(自己場)の様子がである。現代物理学では全ての電子はまったく同じものとして扱われているが、この頃そんな気がしている。

 人間はもっともっと複雑で、一人ひとりみな異なる。それぞれの体と心の個人差は無限に多様である。したがって、みながそれぞれ豊かな個性を具えている。
 
 そのような個人差のある人間を、一人ひとり正しく教育することは至難の業であろう。成人となって社会に出たとき必要な知識を身につけさせ、各人の個性を摘み取らないように育て伸ばすことが教育であるならば、これほど難しいものはない。


 しかし、いまの教育はその個人差を無視して、かなり画一的になされている。先生が一人ひとりの生徒に着いて一対一で教育するのではないから仕方がないが、集団教育の範囲でも少人数学級なら、改善できる余地はいろいろあると思う。
 
 たとえば、学校の成績が機械的な採点で決まる試験問題ではなく、よく考えて結論に達するまでの途中過程を重視するようにすべきである。今のような入試対策の勉強では、暗記力の強い者、要領よく即答できる者がよくできる傾向がある。これでは個々人の個性は育たないだろう。暗記の必要なものもあるが、じっくり考える思考力の必要な教科もあれば感性の必要な教科もある。

 「頭がよい」という場合、その種類には記憶力、想像力、理解力、論理的思考力、創造力などいろいろなタイプがある。これら全部を具えている者は滅多にない。ほとんどの人はこのうちの一つか二つの点で優れているというところだろう。この能力の違いを考慮した教育が望ましい。
 また、学業ばかりでなく、体育・スポーツの面で優れた者、感性豊かで芸能方面の才能豊かな者もいる。みなそれぞれ優れた才能を備えているのだから、自信を持って勉強できる教育環境を造ることが望まれる。

 私は次の金子みすずの詩が好きである。

私と小鳥と鈴と   金子みすず

 私が両手をひろげても、
 お空はちっとも飛べないが、
 飛べる小鳥は私のように、
 地面(じべた)を速くは走れない。

   私がからだをゆすっても、
   きれいな音は出ないけど、
   あの鳴る鈴は私のように、
   たくさんな唄は知らないよ。

   鈴と、小鳥と、それから私、
   みんなちがって、みんないい。

 
 最近は少子化のため、以前のように受験競争が激しくないから、このような異なる才能を育てうる教育環境が作りやすくなったのではないだろうか。
教科目選択制の弊害
 教科目選択制の弊害 
-とくに義務教育教員の養成について 
          

 これまでに、教科・科目間の連携を断った縦割り教育のスタイルを「教科縦割り個別知識詰め込み教育」と呼んで、その弊害をいろいろなところでしばしば述べてきました。

 現状は理科に限らず、すべての教科内容はばらばらに縦割りにされ、しかも同一教科の中でも個別知識を覚えさせるだけで、それら知識を関連づけて体系だった知識として教えることをほとんどしません。この悪弊は入試問題に象徴的にみられます。その歪んだ教育法にさらに拍車を駆け、ずたずたにしたのが教科目の自由選択制であり、入試における少数科目選択制度です。
 
 教科目の大幅な選択制により、体系的知識を分断して「摘み食い」的に断片的知識を憶えさせるという悪弊が助長されました。教科縦割り教育の上に、科目選択制が加わり一層ひどくなったわけです。基礎をはずした知識は浮き草のように浮ついたものであり、現象的な断片知識に終わるので身に着きません。 とくに理数科は知識の蓄積が必要なので、小学校の時からしっかりと教えておかねばなりません。
 
 それを実行するには、教員の指導力が十分でなければ不可能です。しかし、今の教員養成制度は、高校・大学で教科目選択制が行われているために、理数科の力が不完全・不十分な教員が多いです。「教科縦割り個別知識詰め込み教育」と「教科目選択制」のゆえに、摘み食いの断片的知識を覚え、体系的知識を身につけていません。そのように教育された教師は、同じ教育スタイルで次代の生徒に教えるという悪循環を繰り返しています。

 理数科は断片的知識の寄せ集めではなく、有機的に関連づけられた知識の体系です。櫛の歯が欠けたようなぼろぼろな知識の持ち主では理数科はまともに教えられないでしょう。したがって、小学校教員はしっかりした理数科の基礎を、また、中学校の理科教員は理科の全科目と数学の力を十分に身につけるような教員養成制度にすべきです。そのためには、義務教育の教員養成過程では科目選択制を廃止することです。それには教員を目指す人は、高校からの教科目選択制をやめるか、選択の自由度を最小限に制限すべきだと思います。少なくとも、教科目選択制の弊害を減らすために、教員の養成制度を変える必要があるでしょう。

 科学教育は知識の習得とそれを用いた演習を基礎から積み重ねることによってなされるものですから、一旦落ちこぼれると上級に行くほどその程度はひどくなます。その結果、理科嫌いになります。基礎からの積み重ねを必要とする科目は、後で勉強し直すのが難しく、取り返しがつかなくなることが多いです。それゆえ、初等教育からしっかりとした知識を教育しておくべきです。
 義務教育の先生の役割は大変重要です。

 高校での選択制を廃止、あるいは必須科目を増やしても大学入学試験の科目を少なくしたのでは、入試に関係ない科目は教える方も手を抜くので、効果はあまり期待できません。学生集めと受験生数を増やすために、大学入試科目数は減少し続け、その辺害があちらこちらにでています。大学入学生の学力不足のために、入学後に大学で補修をしなければならないところが続出しています。
 選択制を制限し、そして入試科目をもっと大幅に増やさなければ、教育の危機はさらに深刻になるでしょう。この危機的状態を脱するには、専門に応じて文科省が最低入試科目数を指定すべきです。大学の自主性や良識に待っていたのでは不可能です。国公立も私学も一斉にやらなければ、実現不可能です。このようなところに文科省は指導性は発揮すべきです。
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