科学・技術と自然環境について、教育を考える。
「2020年の教育改革」目標について
「2020年の教育改革」目標について 

 小・中・高校の学校教育が2020年度から大きく変わることになった。それにつれて大学入試も変わるそうだ。「知識を使って考える」方向に舵を切り、言語や情報を活用して、表現力を養うようにすると。この教育目標が本当に実現されるならば結構なことで、日本の教育は格段に改善されるだろう。戦後、何度も教育目的と教育方針が改訂されてきた。近年では「総合教育」、「ゆとり教育」、「基礎学力をつける」など提唱されてきた。だが、実現のための裏付けがなく、現場を無視した机上のプランであったから、みな計画倒れでその目的は達成されたとはいえなかった。今度こそは、その実現のための方法論と制度、そして予算の裏付けをもって実現するようにして欲しい。

 戦後日本の教育は高い効率を追う社会の求めに応じて、効率主義に陥り知識詰め込み型の教育を続けてきたために、日本人には物事をじっくり考える習慣が失われてしまった。物事の現象的理解・表面的な知識を覚えさせるが、その意義や本質を教えなかった。それゆえ、憲法にしても書かれている条文と事項は覚えるが、それが制定された意義や本来の精神は知らない。歴史にしても、歴史的事変や人物の名前と年代を暗記するが、その歴史的意義は無視され、そこから学ぶことをしない。近年では、数学や物理学まで暗記科目になっているそうだ。与えられた問題を解くための技術本意の教育に、大学の入試問題と受験制度がそれを煽った。そして興味本位の歪んだ情報化社会がそれに拍車を駆けてきた
 この教育姿勢と教育制度が、物事の現象ばかり追いかける人を作った。つまり、「いかに」ばかり追いかけて「なぜ」を追求しない人間ばかりになった。 大多数の人は物事の意味や相互連関を考えず、「なぜか」を問いそして考える習慣を失ってしまった。今度の改革案、「知識を覚える」から、「知識を使って考える」への転換は素晴らしい方針である。遅まきながら「やっとそうなったか」といいたい。

教科縦割り教育の弊害
  そもそも学校教育は、独学では知識が偏り易くなるのを避けるために、教科のバランスをとり、さらに各教科で学習した知識を相互に関連づけて体系立て、総合的判断力を養うよう指導することに意義があると思う。しかし、残念ながら、戦後日本の学校教育は、教科を縦割りに分断し、しかもばらばらな個別知識を詰め込む教育であったために、せっかく獲得した知識を統合し積極的に活用する場を授業の中でも、生活の中でもつくらない。私はそれを「教科縦割り個別知識詰込み教育」と呼んで、その是正を主張してきた。  

 これまでの「教科縦割り的個別知識詰込み教育」の授業や、受験対策用の勉強に対する反省として、文部科学省は、総合教育の必要性に気づいてか、かつて「総合学習」という教科科目が設定され、それをどのように行うべきかその方法と内容が種々議論されたことがある。「ゆとり」のある「総合学習」によって、「生きる力」を育成するというわけである。しかし、その「総合学習」のやり方は現場の教師の自主性と独創性に任せるといって、文科省は特別の指針も示さず放任主義の姿勢をとった。現場の教師は困り、苦肉の策として種々の社会見学が採用された。これは本来の総合学習とはいえない。そもそも、極端な縦割り教育の中での総合学習は、木に竹を継ぐように矛盾したものである。これまで指導要領と教科書に縛られ、学生の頃から教科縦割り詰め込み教育で養成された教員に、研修もせずいきなり「総合学習」を教えよといっても無理である。したがって、その教育目的は「絵に描いた餅」になってやがて消えた。
 また読解力と表現力を養うといって、読書時間を特に設けたことがある。読解力と表現力のためには読書も有効であるが、縦割り教育でなければ国語・作文以外にも訓練の場はいろいろある。理科のレポートや試験答案を通しても養成できる。たとえば、物理や数学の問題の解答に、単に数式だけでなく、きちんと論理的筋道を書くように教育すれば、理解力と表現力の練習にもなる。数式だけ書いて、答えが合っていれば満点という教師が多いようだ。大学の入試の、採点をしているとその悪弊が見て取れた。普段のレポートや試験でも、表現力の練習を教育すべきである。それが総合学習というものであろう。それは今度の改訂にも通ずることである。 
 
 覚えた個々の知識を実際に日常生活のいろいろな課題に応用し活用することで、ばらばらな知識も相互に関連づけられ、その中で総合的判断力は確かに養われるであろう。だが、本来の総合学習は、日頃の授業の中で教科ごとに学ぶことを互いに関連付けながら学習を進めるというものではないだろうか。たとえば、理科と数学を切り離してしまうので、数学で習った式の意味やその演算法を物理や化学で活用するような発想が育たない。縦割り教育の悪例として、数学で習う微分は、yをxで微分するが、力学では距離xを時間tで微分して速度を定義する。このように文字記号が違うと、別の演算だと思って戸惑い、満足にできない生徒がいたという、笑うに笑えない話を聞いたことがある。また、化学に出てくる原子と物理の原子とが同じものであることを知らなかったという大学生の例もある。

 数学と科学、特に物理学とは切っても切れない関係にあるのに、それを切り離してしまって、微分を物理で使ってはならないから、このような現象が起こるのである。数学は一つの論理的言語体系である。この種の話しは、数学と物理のことに限らず、すべての教科に共通した問題である。また、理科の科目「物、化、生、地」もばらばらにされ、その上に科目選択制であるから櫛の歯が欠けたような知識しか学べない。だから理科も暗記科目になってしまうのだ。自然科学の全ての分野は互いに深く関連していて、一つの理論的体系をなしており、物理がその扇の要になっていることくらいは教えるべきである。

 現行の「教科縦割りの断片的知識詰め込み教育」では、本当の基礎・基本となる活きた知識は身に付かないから、学んだ知識を関連づけて活用することはできない。まずこの「教科縦割りの断片的知識詰め込み教育」の悪弊を改め、そして教育内容について教師の意識改革をしなければ、今度の改訂目標も掛け声に終わってしまうと思う。
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国立大学の文系学部・大学院見直し
国立大学の文系学部・大学院見直し
                       
文部科学省が全国の国立大学に対して、教員養成系と人文社会科学系の学部と大学院について見直しをして、廃止または社会的要請の高い分野への転換に取り組むよう要請したという。今の社会にすぐに役立つ学生を養成せよと言うわけであろう。科学・技術時代に即した教育、すなわち理系学部への転換を示唆していると受け取れる。グローバル化の下で、国際競争に勝ち残るためにはは、即戦力となる教育が必要というのだろう。

 二〇世紀以降、現代社会は科学・技術ばかりが突出して発展して、人文社会系の学問が遅れ、人類の文明がバランスを欠いている。人間は物欲と便利さやスピードを追い求めて、科学・技術を熱心に開発してきた。それゆえ、物質文明は急速に膨張したが、その反面人文社会学の研究は等閑視されて、精神文明の方は取り残された。
 そして、人類は自然をコントロールして、自らが地球の支配者になろうとした。その結果、行きすぎた自然開発は自然環境を破壊し、いまその報いが人類に返ってきつつある。人間も自然の一部であり、自然の掟に従わざるをえないことを忘れた人類のこの思い上がりに対する反省が求められているはずである。

 人類はこの自然界でいかなる存在であるのかを正しく認識し、人間はいかに生きるべきかを真摯に考察し、将来像を画かねばならない時代にある。それができるのは、科学的自然観ばかりでなく、人文社会科学、なかんずく哲学・倫理との協同が不可欠であろう。物質文明が突出し、精神文明を欠く社会では、人の心は荒み、人間の心身は歪んでいく。すでにストレスのために精神障害者が急増している。

 効率ばかりを求めるのでなく、ゆとりが必要である。もっと感性豊かな、ゆとりのある社会が求められている。「無用の用」は直ぐに役立つものではないが、社会の潤滑油として不可欠なものである。バランスのある文明を築くに、人文社会科学がもっと成長・発展するよう助成すべきである。そのための文系の学部・大学院の在り方を見直すのなら賛成である。要は、歪んだ社会を正すために、文系の学問・教育の内容を見直すことである。

 文部科学省(文部省時代から)は教育改革と称して、戦後次々に教育制度を改変してきた。大学については、大学入試制度の改変、教養部廃止、大学院の定員倍増などなど。これらの変革は、プラスではなく、むしろマイナス面が多かった。教養部廃止は単細胞的人間を育成した。また、大学院の定員の一律倍増は、学生の質を把握せず、社会の需要も考慮せずに、アメリカの真似をして、大学に押しつけた。質の悪い博士を量産し、博士浪人が増えて困った末に、今になって定員の見直しをせざるを得ないようになった。文科省の思いつき改革で、教育現場は迷惑を蒙ってきた。今また同じような過ちを繰りかえすのではないかと危惧する。その前に、大学と関係者有識者の広い議論を重ねるべきであろう。
大阪市大学長選挙を認めないという橋本市長の暴言
大阪市大学長選挙を認めないという橋本市長の暴言

8月9日の朝日新聞と毎日新聞によれば、またしても橋本市長の暴言があった。
 大阪市立大学の学長選挙を廃止して、橋本市長が任命する、あるいは学長の選考会議に橋本の意見を反映させる、それが民主主義だと言った。そしてさらに「何の責任もない教職員にトップを選ぶ権限を与えたらどうなるのか、研究内容に政治がああだこうだと言うのは大学の自治の問題になるが、人事をやるのは当たり前の話だ」と。

 この暴言は、戦前の大学で、思想・信条と研究・教育の自由が奪われた苦い経験の反省から、大学の自治を最大限に認めるようになった経緯を無視するものである。市長の歴史認識の欠如がまた飛び出した。民主主義とはいかなるものか、市長の考えを聞きたいものだ。選挙で選出されれば、全権委任されて個人的な考えでも押し付けてもよいと、誤解しているのだろうか。もしそうなら、大阪市民はとんだ市長を戴き大変不幸である。

 人事は組織の運営で非常に大事なものである。組織の長によって、運営方針(大学では研究・教育方針)が左右されうる。それゆえ、戦後、大学の教員は組織の民主的運営に尽力し、教員採用人事にも関与してきた。学長、学部長の選出、および教員の採用こそが大学自治の基礎である。それなのに「何の責任もない教職員にトップを選ぶ権限を与えるのはけしからん」というのは、大学の自治と、研究・教育の本質をわきまえない思い上がりの暴言である。突然このようなことを言い出したのは理解に苦しむ。現在、大阪市立大学と府立大学との統合が橋本市長の主導で進められているが、その内容は一切漏れてこない。この統合方針と今度の学長選に関する暴言は関係があるのだろうか。

 すでに私学や国公立の一部で、学長や理事長の意向で研究の自由が制限されたり歪められたりしていることを耳にする。教員と大学理事者との紛争・訴訟が起こっているところがある。
 市長の決めた学長や理事長の意向で研究・教育方針が歪められたりすることは、直ちに起こらないかも知れない。だが、長期的には必ず運営に歪みを生じ、弊害が現れるだろう。

 市長は選挙で選ばれたとはいえ、全権を委任されたわけではない。今度の発言は大阪市大と府大の合併と絡んだものであるならば、新大学の性格や研究・教育方針が危惧される。この問題については、広く関係者や世論に問うべきである。

 いずれにせよ、この発言内容は一大学に留まらない重大な問題であるから見過ごせない。全国の大学にも影響するものであるから、広く世論を喚起し、批判すべきである。

資料:「橋下大阪市長:市立大の学長選、廃止の意向表明」
朝日新聞デジタル 8月9日(金)
 大阪市長から任命される同市立大学長が従来、大学の教職員による選挙結果に基づき選ばれていることについて、橋下徹大阪市長は9日、「ふざけたこと。そんなのは許さん。学長を選ぶのは市長であり、選考会議だ」と述べ、今秋にも想定される選挙を認めない考えを示した。市役所で記者団に語った。

毎日新聞 2013年08月09日
 橋下徹大阪市長は9日、大阪市立大の学長を教職員らの投票などで選ぶ制度を廃止する意向を表明した。今後は橋下市長の意向を反映させた選考会議で選定する方針。市役所で記者団に明らかにした。橋下市長は「僕の意見を反映させる。何の責任もないメンバーが1票を投じるなんてまかりならない。選挙で選ばれた市長が任命するのが民主主義だ」と話した。
おかしな呼び名[デジタル教科書]
おかしな呼び名「デジタル教科書」

 最近、インターネットとパソコンを用いた教育法が進められている。この教育技術について、批判的意見や留意点を指摘する学会や教育研究者はいる。その長所短所についてはこれからの研究と成果を待たねば、安易に結論できないだろうから、ここでは論じない。それについて一つだけ言えることは、現代社会では、自らの体や手を触れ直接体験して憶える場が少なくなっているのい、それがますます助長されるということである。自然に触れたり、体や手を動かすことで学ぶことの大切さが忘れ去られていくのが気になる。 

 それはさておき、ここで言いたいことは「デジタル教科書」、「デジタル機器」など、その教材の呼び名についてである。そもそも、「デジタル」とは言うまでもなく、情報通信や記録の方法、つまりIT技術に関する用語である。通信や記録の方法には「アナログ(連続的)法」と「デジタル(不連続的)法」があるが、デジタル法は情報を不連続化して数値(0,1)で表すものである。それなのに、「デジタル教科書」とはなにを意味するのかと訝からざるをえない。この名からイメージするのは、書かれた内容がデジタルな教科書である。皮肉な見方をすれば、「断片的な知識をばらばらに詰め込んだ教科書」なのかと言いたくなる。

 そうではなく、デジタル通信やワープロの技術を利用した教科書という意味ならば、「デジタル通信技術を用いた教科書」というべきであろう。そのような持って回った呼び名よりも、紙に印刷した本の代わりに電気通信技術を利用した教科書という意味で「電紙版教科書」と名付けた方がよいであろう。

 正しくない命名は、物事の考え方や理解の仕方に、知らず知らずのうちに影響するもので疎かにできない。まして教材の呼び名はもっと慎重に考えるべきである。文部科学省がこの表現を用いているようであるが、改めることを提案したい。 

 私はこれと似た表現「再生可能エネルギー」について指摘した。エネルギーには有効なものと有効でないものとがある。エネルギーの総量は保存し不変である(エネルギー保存則)が、一度利用したエネルギーは有効性が減る。それに手を加えずに自然状態で有効エネルギーに再生されることはありえない(エントロピー増大則)。有効なエネルギーに再生するには、それ以上の有効エネルギー使用が必要である。だから、「再生可能エネルギー」というのは非科学的である。むしろ「持続的自然エネルギー」、長過ぎるならせめて「自然エネルギー」と言うべきであると提案した。「自然エネルギー」とは、それを利用するまでに、そのエネルギー自体に人工的操作がなされてないという意味である。この主張は、私が呼び掛けた範囲の人たちには受け容れてもらえた。

 これに類似する非科学的呼び名は他にもあるので、それらをまとめて指摘したことがある。(「科学的に気になる表現」『日本の科学者』Vol.38,No5(2003))
大阪府の教育改革?-「教育基本条例(案)」
大阪府の教育改革?-「教育基本条例(案)」                  

 大阪府の橋本知事が「教育基本条例」(案)を府議会に提案され、その内容は「教育の政治的中立」を侵す可能性があると、目下大きな問題となっている。

 橋本知事が代表をつとめる「大阪維新の会」が府議会で多数を得ているので、「維新の会」を動かして、その「教育基本条例」を可決しようとしている。大阪市議会にも同じ条例を提案したが、「維新の会」が少数のために先月否決された。

その「教育基本条例」(案)の主な問題点は下記の通りである。
・教育目標:実現すべき教育目標を知事が設定する。 
・校長・副校長:任期付き公募制とする。
・職務命令:職務命令に5回、同じ職務命令に3回違反した教職員は免職。
・人事評価:教職員を相対評価で評価し、最低評価(全体の5%)が2回連続すれば免職 を含む処分対象にする。

 今の教育界や教育委員会には改善すべき問題が多くあると思う。教育委員会が十分機能しておらず、その存在意義が問われたこともあった。しかし、橋本知事が教育委員会に不信を持ったきっかけは、全国学力調査の大阪府の成績が全国平均を大きく下回ったので、市町村別成績結果を公表するよう圧力をかけたが、ほとんどの教委は「過度の競争を煽る」、「現場が混乱する」といって従わなかった。知事は業を煮やして教育委員会を罵倒し、「成績公表・非公表をするか否かは予算をつける指標となる」と脅迫めいたことまでいった。 知事と維新の会の教育目標は「国際競争に通用する人材を育てる」ことであり、そのためには教育の複線化による格差教育も辞さないという。人間にはそれぞれ個性があり、学問、芸術、スポーツなど得意とするものが異なるから、教育を受ける権利の機会均等が保証されれば、平等画一教育が必ずしもよいとは思わない。だが、教育の成果は直ぐ目に見えるものでなく、その評価の仕方も画一的には決められない。教育に関する理念・哲学もなく、「成果主義」を目指して押しつけ的な教育行政には危険を感ずる。

 知事が教育目標を設定することになると、知事が変わるごとに教育目標が変わる可能性が高い。教育の理念・目標は長期的にしっかりしたものを定めるべきで、行政の長の考え方に左右されて変えるべきものではない。
 「教育基本条例」(案)の孕む危険性は、多くの関係者の指摘通り、戦前の反省に立った「教育の政治的中立」を否定するものである。知事が教育目標を設定すること、および職務命令に従わない者は免職処分にできるというのは、教育の政治的中立性を侵す危険性が強い。校長をはじめ教員の人事権に政治が介入しやすくなることである。教育界には現在でも上位下達の体質があり、下の者は上役の顔色をこれまで以上に窺うようになり、教育委員会を通して教育行政を一層管理しやすくなる。この条例は一つ間違うと、長年のうちに教育に大きな弊害をもたらす危険性がある。

 戦後の日本が守ってきた「政治的中立性」を大阪府の一知事の独断で破ることは許されないだろう。全国的な議論で決めるべきことである。大阪のこの教育基本条例は全国に影響を及ぼす可能性がある。

 この「条例案」の審議で、「大阪維新の会」の議員が質問した:「(教育には)府民の意思を反映した仕組みの機構が不可欠である。だが政治が教育に介入してはならないという主張の下で、(教育現場が)聖域化され過度に民意が遠ざけられてきたのではないか。」これは知事の持論「民意=政治家」選挙で選ばれた政治家は民意を体現している、を受けた発言であろう。だが、橋本知事は当選した前回の選挙で、このような教育問題を公約に掲げてない。選挙民は候補者個人の人格や考え方すべてを知った上で投票したわけではないから、全権を託していない。当選した者は「民意を体現」しているというのは思い上がりである。

 橋本知事は、当選以来、積極的改革路線で府の財政危機や腐敗行政を改善したと、高い支持率を保っている。しかし、知事の行政はかなり強引であり反発もある。特に、教育・文化に関しては、彼の見識と行政方針に強い批判的意見が多い。現に、府教育委員会委員(その中には知事自らの要請で就任した人もいる)は全員猛反対し、府庁出身の教育長を除く6人中5人は、この条例が可決されれば辞任するとまで言っている。教育は国家の根幹である。それゆえ、この重大な問題を橋本知事の一存で「私が民意」と言って進められては困る。現行教育には民意が反映されてないというのであれば、その問題点を明らかにし、それを如何に改善するかを、教育関係者、知識人を中心に府民を含めて広く議論をした上で決めるべきである。

 橋本知事は教育分野以外のところでも、これまで強引な上意下達的行政を行ってきた。彼の手法は府民の支持を得て世論調査で高支持率を保っているが、その体質はファッショ的なところが見られ批判も強い。かって小泉首相が巧みな言動で民意を引きつけ、高支持率を盾にファッショ的な強引さで「構造改革」を行った。その結果、経済的歪みと格差拡大で、国民はいまだに痛い思いをしている。橋本知事はその二の舞を大阪版で演じようとしているように思える。マスコミを巧く利用して支持を得る手法も両者に共通している。
 先日、橋本知事と教育委員とがこの「条例案」について討論会を開き、意見交換を行った。そこで知事は条例案の内容を緩める余地を認めたようである。ならば、提案を取り下げて、じっくり時間をかけて広く意見を聴取すべきである。
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