科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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華やかな表舞台と裏方
華やかな表舞台と裏方
 
歌謡曲が好きなので、テレビやラジオのナツメロ番組をよく視聴する。昔好きでよく唱った歌のメロディーと歌詞を聴くと大変懐かしく嬉しくなる。

 歌い手の個性溢れる歌唱力を楽しむばかりでなく、司会者とのやりとり、また舞台に立って歌う前後の身振りや態度なども興味をもって見ている。歌ばかりでなく、それらのことがみな綜合されて、人間的に魅力のある歌手のファンになる。

 だが、テレビで歌謡曲を楽しみながらも、いつも心に引っ掛かることがある。それは、表舞台での歌い手の華やかさと対照的に、歌の作詞者と作曲者が軽視されていることである。テレビ画面には、歌の題名と歌い手の名前は大きくしかも永く(唱っている間終始)映し出されているが、作詞・作曲者の名前は小さく数秒間で消えてしまう。意識的に注意しないと気づかないくらいだ。 

自作自演の歌なら別だが、歌い手がその歌で人気を博すことができるのは、その歌の作者がいるからである。ヒットした歌の人気は、その歌い手の魅力に大いに依ることは確かである。また、歌い手にぴったり合った歌があり、その歌い手の持ち歌があることも否定しない。それにしても、歌詞には詩としても素晴らしいものもあり、メロディーにはつい口をついて出てくるような楽しいものもある。作詞家の詩的センスに魅せられ、また作曲者の音楽的才能を羨ましく思うほどのものもある。だから、別の歌い手のカバーした歌にも別の魅力を持った素晴らしいものがある。そのことは、歌の魅力は歌い手だけで決まるのではなく、その作詞・作曲の質にもよることを示している。だから、作詞・作曲者をもっと表にだすべきだと常々思ってきた。だが現状では、好きな歌でも作詞・作曲者を知らないものがあるし、大部後になってその名を知ることもしばしばである。

 表舞台に立つ歌い手の顔や姿・身振りは歌っている間中見えて注目されるから、名前を字幕で出すまでもなかろう。それよりも、その間は作詞・作曲者の名を残しておくべきだと思う。

 デビュー何10周年記念とか、亡くなられたときとか特別の場合には、作詞者や作曲者を中心に番組が組まれることはある。そのときには本人も出演したり、写真が飾られたりして、「先生」と持ち上げられるが、普段はほとんど無視に近い扱いである。

 また、終始裏方として曲を演奏しているオーケストラとその指揮者に対しても、一言感謝の意を表すべきだと思う。歌い終わって歌い手が引き下がるとき、観客ばかりでなくそちらにもちょっと会釈くらいしたらどうか。オーケストラの演奏があるからこそ舞台の雰囲気もでる、お互い持ちつ持たれつの仲だろう。極めて稀だが、指揮者とオーケストラを紹介する司会者もいる、だがそれは得てして特別の事情のあるときだ。毎回オーケストラと指揮者を一言紹介するくらいの心使いが司会者には欲しい。

 歌謡曲に限らないが、この種の舞台は歌い手ばかりでなく、これらすべての人達の協力で成り立ち、盛り上がっているはずだ。それなのに、裏で支えているその人達への感謝の様子が見られず、表の華やかさを引き立たせることにばかり神経を使っているように思えてならない。

 放送局により差があるが、歌い手以外の者は軽視されているとしか思えない演出は、演出家や司会者の配慮が足りないからであろうこの風習は「表と裏」の格差を拡げるばかりである。表に立つ者はますます注目され人気を博するようになるが、裏方はいつまでも縁の下の力持ちで終わることになる。芸能舞台ばかりではない、何事もバックアップがあってこそ成功するのに、この傾向は世の中のすべての面で格差を拡げ、それをなんとも思わない風潮を生みだしていくように思える。 

 こんなことを思うのは私だけだろうか。余分なお節介といわれるかも知れないが、近年の社会の動きを見ると、バランスを欠いた不公平な世の中に文句も言いたくなる。最後の立派な成果のみに囚われるのでなく、それが世に出るまでの過程も尊重する社会でありたい。
 折角の歌謡番組だから、気持ちよく楽しく聞きたいものだ。司会者や歌い手の一寸した心遣いで雰囲気は変わるだろう。

金子みすずの詩
星とたんぽぽ
 青いお空の底ふかく、海の小石のそのように、夜がくるまで沈んでる、
 畫のお星は目にみえぬ。
 見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。
(二番たんぽぽは省略)


私と小鳥と鈴と   
 私が両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが、
 飛べる小鳥は私のように、 地面(じべた)を速くは走れない。
 私がからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、
 あの鳴る鈴は私のように、 たくさんな唄は知らないよ。
 
 鈴と、小鳥と、それから私,  みんなちがって、みんないい。
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東大寺二月堂のお水取り(修二会)で思うこと
東大寺二月堂のお水取り(修二会)で思うこと

 毎年恒例の奈良の東大寺二月堂の「お水取り」が3月14日に終わった。お水取りが済めば寒さも終わると言われているが、今年の気候はそのようには進んでくれないようだ。これも気候異変のせいだろうか。
 定年後、気持ちの余裕ができたせいか、日本の伝統行事に少しずつ関心を持つようになった。10年程前に奈良の同僚にお願いして、二月堂の中に入る許可を得てもらい、一晩徹夜で「お水取り(修二会)」の行事を身近に拝観することができた。その時に強く感じたことを綴ってみる気になった。

 この「お水取り」は若狭湾の小浜を水源地とする地下水を奈良で汲み取り(「香水(こうずい)」という)、それを本尊に備える行事であるといわれている。そのもとは中国の風水思想にあるらしい。小浜の水は朝鮮半島に通じているともいわれる。

 お水取りは、籠もりの修行僧(練行衆)6人が1週間不眠不休で行をする。その日は、まず大きな松明を担いで二月堂の回廊を駆け抜ける所から始まった。堂の中に案内され、板の間に座って一晩その行を見ることができた。その場所よりさらにその奥に、本尊・十一面観音が祭られ修行僧の籠もる部屋がある。その中からホラ貝や雅楽の音とともに、絶えることのない読経の声が聞こえてきた。しばらくしてふと気づくと、私たちのいる仕切りの外に、格子戸で仕切られた廊下のようなものがあり、女性がその格子から中を覗いていた。今でも女人禁制で、女性はその格子戸の中には入れて貰えないのだそうだ。

 次々に行われる行事を見て強く感じたことは、このお水取りの行事は仏教だけでなく、大陸の西方から伝わってきた多くの宗教文化の凝縮図だということであった。
 鈴・ホラ貝の音とともに、大きな下駄を履いた大きな下駄を履いた修行僧が下駄の高い音を立てながら時々現れて、五体投地を行うがそのとき身を投げる木の板が激しく高い音をだす。この高い音は不眠の眠気を覚ますためらしい。五体投地にイスラム教やチベット仏教の流れを見た。
 松明は夜半に堂の内部でも炊かれ火の粉が飛び散ったので、よく火事にならないものと驚いた。何度もなされる松明の行事は、ゾロアスター教(拝火教)からきたのであろう。

 このように、「お水取り」にはインド仏教ばかりでなく、チベット仏教、ゾロアスター教、イスラム教、風水思想などが取り込まれている。
 雅楽は上代から伝わる日本古来の音楽や舞とアジア大陸の諸国からもたらされた音楽や舞が融合し日本化したもので、宮中や寺社などにわる芸術である。また、二月堂の隣に神社があることからも推測されるように神道も無視できない。
 こうしてみると、「お水取り」は西アジアの諸々の宗教文明と日本の神道とが統合され、千数百年の間に磨き上げられた日本特有の伝統行事であると思われる。
 

 これらのことは、日本文化は西アジアから中国までの文化の吹き溜まりという感がある。そのことは正倉院御物などを見ても感じられる。「吹き溜まり」というのは悪い意味ではなく、日本の東は太平洋であるために、西から伝来したものがここで行き止まりになったということである。「吹き溜まり」といっても、日本人はここでいろいろな文化を統合して、特異な感性と創造性により世界に類のない独特の文化を築いたわけである。
もし、日本の東に陸が続いていたら(あるいは直ぐ近くに外国があったなら)、吹き溜まりではなく、東西の文明の流れの節として、異なった存在意義をもったであろうし、日本文化もおそらく違っていたろうと想像したりする。

 近代までの日本人の自然観は「花鳥風月」を通して自然の移ろいを観るというものが主で、そこには繊細な感受性が見られるが、自然の理(原理・法則)に対しては関心が薄かった。そのせいかお水取りには天文や自然学に関する要素は見られない。天文歴術 自然学や思想については、中国・インドから学び、日本独自のものはほとんどなかった。それは、主として中国の自然観(気-陰陽-五行)に基づき、天文学は「天人相関」に基づく極星中心の占星歴術が主流であった。高松塚古墳に星座が見られる程度である。

 二月堂に籠もりて
  水とりや氷の僧の沓(くつ)の音   芭蕉
  (二月堂籠もりの僧の下駄の音) 

「豊かさ」とは
   「豊かさ」とは何か

 
最近、科学・技術の発展により物質的な面で生活は随分豊かになったが、しかし環境破壊や精神的ストレスが増して、人間として本当に豊かな生活と言えるか、との反省がなされるようになってから久しい。


 だが「豊かさ」とは何かと、問われると漠然としていて明確には答えられない面がある。「豊かさ」の感じ方には主観が入り、同じ状況に居ても豊かと感ずる者もいるし、感じない者もいる。確かに「豊かさ」というものは人により違い明確に定義しにくい。しかし、現代社会の生き方に不満や危惧を抱く人が増え、本当の「豊かさ」とは何かを問い、それを求めるようになったているからには、やはり「豊かさ」にも共通の認識があり、客観的要素と尺度が有るはずである。心理現象ですら心理学として科学の対象になるのであるから、社会的現象である「豊かさ」の概念も不十分ながらも定義できるはずである。人間として本当に豊かな生活が送れる社会を作るためにも、「豊かさ」の概念を一度はっきりさせ、共通認識をもてるようにする必要があるだろう。

 そこで「豊かさ」の定義を試みてみた。生活の満足度、豊かさの感じ方は個人により異なるし、社会的、自然的条件により相対的と成らざるをえない部分があるが、それらの条件になるべく依存しないように、できるだけ客観的定義を試みた。

 まず、心身ともに豊かであるための前提は、社会の平和と健康である。
その上で、「豊かさ」とは、個人的かつ社会的生活において精神的・物質的自由度の度合い(程度)と、生活に必要不可欠な拘束度の度合いとの比率が大きいことである。この比率が大きいほど、一般的に「豊かさ」は増す。 要するに人間生活を送るに最低必要な拘束(制約)が少なく、精神的にも物質的にも自由度が大きい程豊かさが増すと言うわけである。この「自由度」は「可能性の程度」でもある。

 具体的な例で言えば、一日のうちの自由時間(余暇)と拘束時間(労働、睡眠、食事など)との比率が大きい方が豊かである。また経済面では最低生活費(衣食住費)が拘束であり、エンゲル係数が小さい程経済的自由度は大きく豊かである。他方、精神的豊かさは思想の自由、教育及び文化的娯楽の享受の自由度、物質的には要求に応じて入手できる自由度、つまり欲望充足度が大きいことである。
 
 しかし、個人の欲求の充足度は社会的に制約される。お互いに迷惑を掛けない範囲で個人の自由度を最大にできる条件の備わった社会は豊かな社会といえる。その条件は社会の技術水準や生産力、あるいは自然環境にも依存する。労働と文化・娯楽の選択の自由度にしても、遊んでばかりいると精神的に充たされず、仕事をしたくなるから暇が有ればよいとばかりはいえない。昔は「晴耕雨読」が精神的・物質的に満足な生活の例とされた。現代社会では精神文明・物質文明が進み複雑であるから、「晴耕雨読」だけでは計れないが、やはりこれは豊かさの基本であろう。 

 人間も自然の一部であるから、人間の思うままに自然を変えることはできない。自然との共生、環境破壊のない範囲に人間の活動は制約される。しかし、生物は生きている限り自然に作用し(利用し)、その結果自然を変えざるをえない。
 だが、人類は自然を自然に働きかけうる自由度(余地)には限度がある。その自由度(余地)が大きいほど、また、あるがままの自然を享受できるほど、自然の豊かさに恵まれているといえる。人口の稠密度、環境破壊度が増せばその自由度と自然の恩恵は減る。

 この様に拘束度と自由度の判断は個人の主観や判断に依存するばかりでなく、個人的条件(健康度、能力など)、経済的・技術的条件、あるいは社会的・自然的条件などにも依存する。しかし、それらの条件を考慮して適用すれば、この「豊かさ」の定義は客観的基準となり、有効であろう。

 昔(19世紀頃まで)は地球は無限としてよかったが、現代では有限であることを強く認識させられる。物質的に豊かになろうとして無闇に生産力を高めると自然破壊に繋がるから、それ以上の物質的欲求は制限される。他方、技術開発によって自動化、高能率化が進めば一日の労働時間がそれに反比例して減るわけではない。逆に機械化、自動化が進んで便利になればなるほど、社会全体の仕事量は増える。その機械が発明される以前には無かった仕事が生じ、関連する仕事の量がそれ以上に増す場合が多いからである。

 たとえば、新幹線ができてから、人々はいかに忙しくせき立てられるようになったか。携帯電話によって会社人間は24時間拘束されるている。能率は上がったが多くの人たちは余暇が増えてない。コピー機ができてから以前は無しですました資料のコピーを必要以上にして配布したり、ファイル保存をするようになった。コピーの手間、紙の製造からごみの処理まで含めてどれほど社会の仕事が増えたことか。この状況は社会的な拘束度が増したことを意味する。昔子供の頃、「君らが大人になる頃にはロボット時代になり、半日以下の労働で済むようになるだろう」、その結果、「人間はその余暇をどう過ごすかが問題となるだろう」と聞かされたものだ。だが現在の日本ではむしろ「過労死」が社会問題になっている。

 格差の酷い今の社会にこの「豊かさ」の基準を当てはめえてみると、いかに社会が歪んでいるかがわかる。このままでは精神的豊かさどころではない人がどんどん増えていくであろう。

 近代以後、現代社会の人類は自らを追い立ててストレスの多い不自然な状態に遮二無二突っ走る狂気の集団となり、加速度を付けて自滅の道をひた走っているように思える。各国は常にある程度の経済成長を維持しなければ不況になり経済的危機となるという。経済成長は永遠に続けられるはずはないから、このような経済の仕組みは変えなければならないだろう。

 もうこの辺で軌道修正し、この様な状態から脱して自由度を残したゆとりのある「豊かな」生活を求めるべきである。能率や便利さを追い続けることや、飽くなき物質的欲望を求めることを止めて、人生の価値観を転換すべきである。 それには「知足」が必要である。

 (この定義は10年程前に書いたものであるが、今また思い出して加筆したものである。)
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