科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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オリンピックの運営について
オリンピックの運営について

 この半月ほど連日、平昌冬期オリンピックのニュースで賑わった。多少辟易したが、日本は過去最高のメダルを獲得したこともあって、国中が湧いた。選手はもちろん関係者の喜びは一入大きいだろう。次は東京オリンピックに向けてと、張り切って動き出そうとしている。
 スポーツを通して世界に平和と活力をもたらそうと呼びかけるオリンピック開催の意義は素晴らしく、そうあって欲しいと思う。しかし、ことはそう単純ではない。オリンピック開催とその運営について昔から問題が多々ある。そのことは以前から指摘されていたが、近年その憂慮が顕在化してきた。オリンピック開催に水を差す積もりはないが、オリンピックの運営について疑問に思うことが多いので、それをここに率直に述べたい。

まず、第一の悪弊は「金まみれ」、「薬(ドーピング)まみれ」の状態である。
近年まで、オリンピック誘致競争には手練手管の根回しと駆け引きが必要で、相当な誘致費用が要るといわれてきた。それでも国威発揚と経済効果を狙ってか、誘致合戦は激しさを増してきた。それゆえの裏金使用、汚職が問題になった。

その誘致競争に勝った開催地では、会場設営と運営に莫大な経費が必要であるから、相当のエネルギー・資源の消費と環境破壊がある。閉会後は、それら会場の維持管理が負の遺産となって、開催地に重くのし掛かった。それゆえ、近年オリンピック開催国の立候補が減り、激しい誘致合戦は影を潜めたそうである。それは結構なことである。

  だが、平昌冬期オリンピックにおいて、経済優先の弊害が顕わになったことは見逃せないだろう。テレビ放映権の莫大な金額のために、そのスポンサーの都合のよいような放映時間に競技時間が設定されたそうである。そのために選手(アスリート)の生理や体調などを無視して、テレビ放映の都合に合わせて競技が行われたといわれている。これも、「金」に支配されて運営されているからで、本末転倒である。
本来オリンピックはアマチュア選手の競技の場のはずであるが、国威発揚の場として国家事業になってしまった。選手の組織的ドーピング使用、そしてアクロバット的な演技のための過酷かつ危険な練習は、アマチュアスポーツの域を超えているように思える。もはや、オリンピック選手は真のアマチュアではなれないだろう。その技量を売り物にしないだけであって、練習に必要な多額経費は国やオリンピック委員会などの競技団体がスポンサーとなって支えているからであろう。選手はセミプロであり、国の代表として重い荷を負わされている。それゆえ、国威発揚とばかりに、メダルを何個、誰が取ったということが喧伝されて、偏狭なナショナリズムをあおる。そのナショナリズムが嵩じて感情的な対立にまで発展しトラブルを起こしたこともある。本来のアマチュアスポーツとしてのオリンピック精神は失われているように思える。オリンピックは政治から独立しているといわれているが、それは立て前であり、このナショナリズムがある限り、現実は政治とは無関係ではない。組織的ドーピング問題も根底にナショナリズムがあるからであろう。 
ドーピング問題は厳しい検査によって減ったようであるが、それでも手を変え品を変えてして続いている。

  もう一つ気に掛かることは急激に悪化する地球環境の問題である。オリンピック会場の設営には土地開発による環境悪化を伴うものが多かった。さらに莫大な運営経費を必要とする資源・エネルギーの浪費である。
環境破壊(森林破壊、埋め立てなど)、環境悪化による気候変動(地球温暖化)、異常気象は、年々加速度的に増加している。このペースで行くと東京オリンピックの2020年には、高温化(猛暑)のためにまともな競技ができなくなるのではないかと危惧される。お祭り気分で喜んでいる状態ではないように思う。 

 毎年の「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」の警告によれば、この異常気象の主な原因は人為的なCO2やメタンガスなどによるものである。異常気象は年々加速度的に進んでいて、近年における地球の平均温度の上昇は直線から急カーブの曲線に変わっている。最近の世界的異常気象には驚くが、来年はさらにひどくなるであろう。臨界状態に達すると、相乗効果でカタストロフィックにガタガタと急変するが、その臨界状態に近づいているそうである。地球環境は多くの要素が複雑に絡み合い微妙なバランスの上に保たれている。環境変化が臨界状態に達すると、わずかの変動が巨大な変化を引き起こす(カオス現象)。そうなっては取り返しがつかない。素人の個人的予想だが、2050年とか21世紀末などと悠長なことでなく、臨界状態になるのはあと10年のオーダーではないかと心配している。東京オリンピックすら、安心できないだろう。

 以上のように、利権絡みの金まみれ、薬まみれ、アマチュア精神逸脱、ナショナリズム、環境破壊など、多くの問題が顕在化しているオリンピックの運営を根本的に変革すべきであろう。
 これらの悪弊をなくす手立ての一つは、オリンピック会場をギリシアのアテネに固定することである。数年前の東京誘致の頃に、筆者は友人との対話のとき、この案で意見一致したことがある。こうすれば、少なくとも誘致合戦と運営経費の浪費、および会場設営の無駄をなくし、環境保全にもプラスになるだろう。この案は真摯な検討に値すると思い、当時ブログにも書いて訴えた。


 ところが、図らずも昨年7月に朝日新聞の「天声人語」に、オリンピック会場をアテネに固定する案が提案された。それを読んで気をよくし、以前書いたブログのことを思い出して、その内容を担当者に送った。それに対する返信葉書に「オリンピックにからんだナショナリズムはやっかいな問題ですね」とあった。会場をアテネに固定することで、ナショナリズムの問題は解決しないかも知れないが、オリンピックの抱えている諸問題の根底にはナショナリズムがあると「天声人語」氏には映ったのかも知れない。それは解決すべき大きな課題であろう。 

 以上が、平昌冬期オリンピックのテレビ放映を時々見ながら強く感じたことである。
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人間としての理解を超える理不尽
人間としての理解を超える理不尽なテロ 

 今回のバングラディッシュのテロは何ともいいようがない。
 そこの住民の暮らしをよくするために真摯に奉仕していた人たちを、容赦なく殺害したテロリストの行為は人間としての理解を超える理不尽、非道である。 
今こそ声をあげねば悔いを千載に残す
今こそ声をあげねば悔いを千載に残す
 報道の危機は民主国家の危機
 
 

安倍政権のメディアへの干渉、報道自由の制限・抑圧は目に余る。特に、テレビへの干渉はひどい。この事態は海外でも注目され、批判の声が上がっている。「国境なき記者団」は日本の報道の自由度は世界72位と発表した。

 安倍政権は「特定秘密保護法」を手始めに、情報公開の制限、報道自由への抑圧など次々と手を伸ばしてきた。NHKの籾井会長の発言は常軌をを逸している。NHKを政府の代弁者にしようとしている。そして、ついに高市総務相はテレビ報道の許認可権に言及して恫喝するまでに至った。安倍首相が「報道は偏向している」といって、マスコミを批判してから、マスコミの自己規制が始まった。何が偏向かを決めるのは政府ではない。国民の良識が基準である。安倍政権の偏向こそが問題であり、偏向した政権から見れば中立は偏向と見えるだろう。それを正し批判するのはむしろマスメディアの義務である。
 
 言うまでもなく、 報道の自由は民主主義の生命線である。このままマスコミの自粛が続けば、日本の民主主義は窒息する。一部のマスコミ関係者が、今の事態に対して報道自由の危機を訴えているが、もっと多くの人たちが立ち上がるべきである。
 
声が出せないような事態になる前に、取り返しがつかなくなる以前、今こそマスコミ界を初め、各界・各層の心ある人がこぞって声を大にし、政府を批判し報道の自由を叫ばねばならない。この機を逃すと悔いを千載に残すことになる。
戦前の日本で原論統制からファシズム国家になった過程を学ぶべきである。

 国家の機構を私物化して破壊している安倍首相の怖さを認識すべきだ。自民党員もすでに自由な発言ができない状態である。やがて自縄自縛に陥るだろう。

 「報道の自由」を取り戻すために、大運動を起こそう。
 インターネットでその声を拡げる連鎖反応を起こそう!
偏向しているのは安倍政権である
偏向しているのは安倍政権である

このところ報道や出版における表現は偏っているとの批判や圧力が目立つようになった。政府やある新聞は、テレビや新聞の政治報道の一部が偏向しているとクレームをつけるようになった。安倍政権は、「安保法制」の報道に神経をとがらして、マスコミをしばしば批判した。報道の表現に公平性・中立性が保たれていないといたいようだ。NHKの籾井会長の選任を初めとして、安倍首相のマスメディアに対する圧力、牽制には目に余るものがある。政治的偏向はむしろ安倍政権の方である。言論の自由を制限する危険性のある「特定秘密保護法」、憲法違反の批判が高かった集団的自衛権行使の「安保法制」、軍事飛行場の辺野古移転に反対する沖縄県民の意思の無視,、臨時国会召集の野党の要求無視(憲法違反)、など、憲法無視と民主主義否定が続いている。これほど偏向した政権は戦後にはなかった。政治的に偏向しているのは現政権である。だから正当な意見が偏向して見えるのである。その偏向を正すべく、政府を批判する国民やマスコミの意見はむしろ「中立」と言えるであろう。

 中立・偏向の基準とその根拠を示さずに、自らの決めた尺度で批判意見を押さえるのは言論の自由・民主主義への抑圧であり、非常に危険である。特に留意すべきは、何が偏向かの基準は政府が決めるべきものではないということである。
 マスコミの本来の役割は、権力の監視役・ご意見番であると同時に、真実を報道して世論を喚起することである。マスメディアは権力の代弁者ではない。権力に屈せず、時の政府の行き過ぎや偏向を正すべく、正当な論陣を張って欲しい。私たち国民も正当な声を上げ、そのようなマスメディアを支援せねばならない。

 このままでは日本国民の言論の自由が失われてしまう。そうなったら政府の思い通りに何でもやれる時代がくる。
「テロの世紀」とならないように
「テロの世紀」にならないように 
 
 11月のパリにおける同時多発テロは再び世界を震撼させ、改めてテロの恐ろしさを痛感させた。フランス大統領オランドは戦争状態だといって非常事態宣言をした。2001年9・11のアメリカ同時多発テロ事件の時もブッシュ大統領はテロとの戦争を宣言して、ついに無謀にもイランに侵攻した。だがフセイン政権を倒した後、イラン各地でテロが多発して、やがて世界中にテロが拡がっていった。それが中近東を紛争の坩堝に巻き込む引き金となった。ブッシュはテロを世界に撒き散らした。武力によってテロは根絶できないことを思い知らされたわけである。 

 今度はフランス、アメリカ、ロシアなど多数の国がISの拠点を激しく空爆しているが、ISを撲滅することはできそうにない。誤爆による市民の犠牲も多発して、批判の声も大きくなっている。そればかりでなく、かえってテロ計画は密かにヨーロッパ、アフリカに浸透しているようだ。いずれ日本も標的にされるだろう。

 関係のない市民や観光旅行者を巻き込む無差別テロの非道は許せないことはいうまでもない。戦争で殺すか殺されるかの異常事態ではないのに、一方的に手当たり次第に無差別に人を殺せるのは、通常の神経や精神状態ではできないと思う。彼らをここまで追い込んだ原因も究明されるべきである。ISを中心とするイスラム過激派は、無差別テロで世界を混乱と恐怖に追い込むのが目的なのであろう。武力で一時的にテロを抑えることはできるかも知れないが、根絶はできない、反動でかえって拡がるというのがこれまでの結果である。
 
 単に宗教的理由でイスラム過激派組織ができたのではない。戦後だけ見ても、植民地解放運動、ソ連のアフガン支配、アメリカの中近東政策の失敗などが、テロの温床を作り育てたといえるであろう。政治ばかりでなく、経済的にも格差の増大と貧困層を放置してきたことも大きな原因といわれている。近年は人心の荒廃によr精神世界の無政府状態は、程度の差はあれ世界的な現象である。複雑化された現代の社会状態では、テロ蔓延の原因は単純ではないが、総合的な判断に基づくテロ対策を立てねば根絶できないだけでなく長期化するであろう。 

 20世紀には、原水爆戦争をかろうじて回避したし、世界大戦もなかった。また、環境破壊の防止にも取り組むようになった。人類はそれだけの理性をもっている。21世紀は初頭から、テロで始まり、国家間紛争、民族紛争、宗教対立紛争など絶え間がなく,拡がるばかりである。戦争や紛争は最大の環境破壊の要因でもある。

 このままではテロは世界中に蔓延し、安心して暮らせない恐怖時代が来る。21世紀は「テロの世紀」という不名誉な名を残すであろう。人類は知恵と理性をもって、総力でこの問題解決に取り組まなければならない


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