科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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すべての生物種の天敵
すべての生物種の天敵     

 生物は種の保存のために、他の生物を捕食する、これが食物連鎖である。それゆえ、ほとんどの生物種には天敵が存在する。これは生物の背負った根源的な「業」である。生物は自然の脅威と天敵から身を守るため、また食物として他種の捕獲を容易にするために進化してきたといえるであろう。

 人類も発生初期には天敵に悩まされた。しかし、人類は科学・技術の開発によって、自然進化を超えて種の保存・発展の機能を獲得してきた。その獲得機能は他の生物を遥かに凌ぎ、天敵がいなくなったので全地球に繁殖した。人類は今や地球の収容能力を超えるところまで増殖した。
 
 人類は食物としてばかりでなく、衣食住のためにすべてにわたって他の生物種を利用するようになった。今や人類は科学・技術の力によって地球を征服したかのように振る舞っている。植物の栽培ばかりでなく動物も飼育し養殖している。その結果、自然環境を破壊し、生物の飼育・養殖などによって生物界を思うままにコントロールしている。その影響は全生物種におよび、被害をもたらしている。それゆえ、人類はすべての生物の天敵になっている。

 生物界においては、天敵となる種は食物にする種類も限られており、しかもその種が絶滅しない程度に捕獲してバランスを保っているが、人類は捕獲・採取する種と数を限りなく拡大し続けている。そして必要以上の捕獲・採取によって過去に多くの種を絶滅させてきた。現代では、自然環境の破壊によって無意識のうちに莫大な種を絶滅させているそうである。すべての生物にとっての天敵となり、多くの種を絶滅させる種、人類のような種はこれまでの地球上には存在しなかった。地球全土に広がってわがもの顔に振る舞い、人間も自然の一部であることを忘れたかのように地球を操っている、その報いは徐々に現れつつある。
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 「宇宙の始まり」の謎 - 現代の宇宙観;多宇宙論-
     「宇宙の始まり」の謎] 
- 現代の宇宙観;多宇宙論-

( これは、6月10日に大阪のあるクラブで講演したもののレジュメである。)

1.人類は古代から自然の謎を追究  
 宇宙観、物質観、生命観などについて

宇宙観の変遷
神の創造した宇宙(神の一撃)-神の操縦する定常的宇宙-進化する宇宙
   近代科学は神を必要としない論理をえた。
 
  古典的宇宙進化論: デカルト、カント、ラプラス、・・-星や銀河の誕生、物質・生物進化
 現代の膨張宇宙:ハッブルの法則-すべての星(銀河)は互いに後退(距離に比例した速度)

2.宇宙の生成
  宇宙の始まり:ガモフのビッグバン宇宙論
  極小領域から火の玉が爆発-膨張しつつ進化してきた
  星・銀河の誕生-物質元素の多様化
  宇宙半径:ほぼ132億光年-光速度で132億年かかる距離 
 では、現在の宇宙から時間を遡っていけば1点になる? 
 
 物質の起源:物質と反物質
 高エネルギーにより真空から粒子と反粒子が対発生
  すべての素粒子には、対となる反粒子が存在(真空は粒子-反粒子の海)
  この対発生が物質の起源

 ビッグバン論の証拠
 ・宇宙の背景輻射(3K放射)が充満
・元素の存在比:水素から重い元素の生成
 
3.プランク時間と長さが現代物理学の適応限界
 現代物理学の3つの基礎理論
 c:光速度-相対性理論の基礎定数
 h:プランク作用量子-量子力学(原子・素粒子の理論)の基礎定数
 G:万有引力定数-一般相対性理論(重力理論)の基礎定数

 c,h,Gを組み合わせてできる時間と長さの次元:Tp,Lp
  プランク時間:Tp=10-44 秒、 プランク長:Lp=10-35メートル
こんな小さなプランク領域から宇宙の種(ビッグバン)が始まった。

4.初期の宇宙の状態

 物質の階層:分子-原子-素粒子-クォーク・レプトン-サブクォーク-・・?
 
宇宙誕生のシナリオ
 宇宙の種(量子揺動)-インフレーション膨張(ビッグバン)-真空の相転移-エネルギーが湧出-宇宙膨張
 
 宇宙の初期状態:クォークスース-粒子・反粒子、ゲージ場の混沌状態
反粒子が消え(粒子に一部転化)- 膨張- 現在の宇宙へ
  未知の問題:暗黒物質・エネルギーの出所と正体は不明-可視物質の9倍もある。
 
5.多宇宙論 
 ビッグバンは無数にあり得る、チューブ(ウオームホール)で繋がった宇宙など
 c,h,Gの値がいろいろな宇宙が可能:様相の異なる宇宙
  例.Gの値が大き過ぎると萎んでしまう。cが大きいと膨張速度が大。

 それら定数の値がうまく組み合わさった宇宙が膨張し成長する。
 
6.ビッグバンの先はどうだった?-必ず出る質問 
 プランク領域の先は現代物理学は成立しない:私たちの物理的時間・空間概念・物質概念はない
 
だが「無から有は生じない」だろう。 (無から宇宙が生じたとの説もあるが。)

超宇宙の背景場を想定:量子揺動(宇宙の種)のある背景場を想定したい。

人類は古代から想像を巡らし、あらゆる可能性を追求してきた。
宇宙誕生のシナリオは自然哲学から実証的自然科学へ進んだ。 多宇宙論もやがて自然哲学から科学になるだろう。

人類の存在する限りこの思考は何処までも先に進む: 
この宇宙の存在意味、運命は? この宇宙(自然界)において人類の占める位置は? 


7.自然科学とは?
 人類は自然の一部:人間の記憶や思考なども自然現象の一種である。
 人間の営為は、自然科学も含めて、全て自然運動の一環。すると

強調文”自然科学とは自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映(自己認識)活動”。

 自然科学は自己言及型の論理:ゲーデルの不完全性定理により「自然科学は不完全」

ゲーデルの不完全性定理によると、矛盾のない理論体系は不完全であり、説明できない現象や真偽が定まらない決定不能命題が存在する。
 自己言及命題:「私は嘘つきである」-自己矛盾に陥り、嘘つきか否か決定不能。

 矛盾命題や決定不能命題を、説明あるいは解明可能にするために、新仮説を加えて新理論を造ることができる、それが科学の進歩・発展である。だが、その新理論も無矛盾な体系である限り、また新たに説明不可あ問題や決定不能命題が現れる。
 この過程は永久に繰り返されるから、自然科学は原理的に不完全であって人間は自然を完全に知り尽くすことはできない。 人間が人間自身を知り尽くすことはできないように!

この科学観に立つと、新たな視点で自然や科学と人間の関係が見えてくる。
・自然との共生のための科学:自然を対象化して、自然の外から自然を認識する(西洋近代科学の立場)のでなく、自然
 の内部から共感的に自然を認識する(東洋的自然観の)科学へ!
・複雑系科学:宇宙進化、物質の自己組織化・異個発展、生命の誕生の論理の解明はこの科学観で。
・認知科学:人間自体を対称とする科学-自己認識の理論には必要な科学観である。


科学と宗教の関係
      科学と宗教の関係

1.はじめに  
 古代では科学と宗教は混合し、相互の区別はあまり明確ではなかった。しかし、自然認識が進むにつれて、次第に両者は分離独立して独自の発展を遂げてきた。その過程で、科学は神秘的要素を振るい落としつつ、実証に基づく合理性を獲得することで旧体質を脱皮し、独自の体系を築いた。
 宗教は、最初期は「死の恐怖」や「自然の脅威」などと関連して、自然に関する無知ゆえに、そして自然に対する畏敬の念から、自然宗教として生まれたと思う。自然を超越した抽象的「神」を創造したり、「死後の世界」を想定したりする「教義宗教」は人類の高度の精神活動の所産である。宗教的感情や宗教心の発生は、古代から人類にはかなり普遍的である。また、大きな集団の宗派を形成するから共通性・公共性を有する。だが、宗教の信仰そのものは個人の主観的行為であり、宗教活動は主として集団の行為である。 いずれにせよ、宗教はこれまで長期に亘り人類の精神活動を陰に陽に規制してきたことは否定できないであろう。
 それに対して、科学は経験的知識と実証性をよりどころとするが、抽象的かつ合理的理論体系を築くという意味ではやはり高度の精神活動である。その知識体系は客観的・普遍的であるゆえに、個人を超えて社会的にも歴史的にも蓄積可能である。この点が主観的信仰に基づく宗教と本質的に異なる特性である。それゆえに、科学は着実に、しかも指数関数的に進歩発展を遂げた。しかし、自然科学の理論体系には、それが築かれた時代と民族(あるいは地域)の自然観が強く反映されている。したがって、当然ながら、古代から人間の思考を規制してきた宗教的自然観の科学への影響も強い。
 宗教や芸術などは個人の主観的要素が多く、科学知識のように社会的・歴史的に蓄積されにくにので、累積的に発展するということがなかった。それゆえ、近代科学の成立以後、自然科学は他の分野と較べて突出して発展し、宗教の支配から脱出した。こうして「信仰の時代」から「理性の時代」へ移行した。その結果、逆に自然科学の方から宗教への圧力が強くなったといえよう。すなわち、実証の裏付けのある客観的科学知識と感性的信仰に基づく古典宗教の教義との矛盾が明らかになり、宗教はその教義を改めざるをえなくなったわけである。
 このように、科学と宗教は相互に深く影響し合い、ときには協調し、ときには対立を重ねて今日に至った。現代においては、科学・技術の非常な発展により、精神文明に較べて物質文明の方が突出したために、人類は傲り「自然支配」の思想とともに、人間精神の荒廃が問題となっている。その結果、科学の目的と存在意義が問い直され、新たな自然観の形成と価値観の転換が求められるようになった。つまり、現代科学の成果に基づいて、自然における人類の占める位置を正しく認識し、それによって人間は「如何に活きるべきか」という倫理的課題が問われているのである。このような問題の解決のために、科学と宗教の関係が再び意識されるようになったのだと思う。

2.科学と宗教の関係:対立と協調
古代・中世
 自然科学は自然に対する知的好奇心と生産技術を通して得られた経験的知識から、知的欲求によって抽出された論理的知識体系である。しかし、初期には科学は生活技術や芸術と一体であり、さらには宗教的神秘主義や呪術とも結びついていた。まだ自然に関する知識が乏しかったので、自然科学も思弁的要素を含み、自然哲学として形而上学的自然観の色彩があった。東洋・西洋ともに、古典科学の中心的テーマとそれに対応する自然観は、宇宙観、物質観および生命観であった。宇宙観は天文・暦術とともに占星術と結びつき、物質観は元素論・原子論を通して錬金術と密接に関連していたし、生命観は生気論が主流で加持祈祷など呪術的医術や薬物学と隣り合わせであった。さらに、これら三分野は相互に融合して全体で一つの形而上学的自然観を作っていた。そのような状態の中から、自然科学は確実な知識を獲得する手段を工夫開発しつつ科学の方法を築いていった。その過程でこれら呪術的神秘主義を払拭し、実証科学として名実ともに合理的理論体系が最初に築かれたのは、17世紀に成立した西洋近代科学である。
 一般的に、宗教は自然に対する畏敬の念から生まれたといえるであろう。最初は無知ゆえの恐れ・自然崇拝からの神話や物活論など、擬人的自然観の後に、固有の教義に基づく宗教が生まれた。迷信などと結びついた世俗的宗教活動は別として、本来の宗教教義は宗教的自然観といえるであろう。宗教は主として、人間が避けて通れない生死の問題、日常生活における倫理・道徳や善悪・価値観について説き続けてきた。それゆえ、その宗教教義と宗教的自然観は人類の感情、思想、思考形式などの精神活動を、古代から最も長期にわたり支配し規制してきたわけである。特に、西欧ではキリスト教の自然観は、近代科学の成立まで、永い間強力な支配的思想であった。したがって、西欧の自然科学もその影響から逃れることはできなかった。
古代の科学と技術とは、呪術などの神秘的要素と渾然一体となっていて、科学・技術を他の領域から画然と区別出来ないところがあった。技術が宗教活動と深く結びついていたことはよく知られている。採鉱、錬金術や製薬(練丹術)、および醸造術などは神秘的要素を纏って、宗教儀式(特に、密教)に利用された。しかし、世界内容の解釈において、文明の進歩とともにそれら非合理的部分を徐々に払い落とし洗練される過程で、宗教的信仰と理性的知識との間に、しばしば対立矛盾が芽生えるようになった。なかでも、中世のアラビアと西欧におけるアベロエス主義の二重真理説にみられるように、信仰における宗教的真理と理性に基づく科学的真理とは独立であるとの思想が台頭した。二重真理説は危険思想として宗教により圧迫されたが、次第に支持されて密かに広まっていった。しかしこの段階では、スコラ自然学において顕著にみられるように、まだ科学は社会制度の上でも、また精神的な面においても宗教の束縛下にあった。そのような状況の下で、理性による自然の真理を追究しようとするこの動きを止めることはできず、やがて近代の西欧で自然科学として独自の知識体系を形成していったのである。
 
近代科学成立前後
 前述のように、自然科学は技術からの作用ばかりでなく、自然観、なかでも宗教的自然観の影響を強く受けた。西洋近代科学の成立過程では、古代ギリシアの自然観、汎自然主義(伊東俊太郎)とキリスト教自然観の科学への影響は見逃せない。キリスト教自然観では、神は自然と人間を創造したが、人間は特別な存在であり、神に仕える人間のために自然はあるとされ、「神-人間-自然」の図式が造られた。それゆえ、人間が自然を外から客観的に観る姿勢が培われてきたとみられている。万能の唯一絶対神の創造した自然は斉一で整然とした規則に従い、機械的に運行するという機械論的自然観が生まれた。デカルトは肉体と精神を分離して物質と精神の二元論に立ち、物質の運動に関しては徹底的な機械論を唱えた。そのような斉一的規則に従う自然の仕組みは認識可能であり、自然の仕組みや原理・法則を知ることは創造主である神の意志を知ることであると考えられるようになった。西洋近代科学のこのような土壌は、キリスト教の「神-人間-自然」という自然観によって培われたとN.ベルジャエフは指摘している。
 西洋近代科学の自然法則概念は17世紀になって確立されたが、その背景にはキリスト教自然観をベースにする機械論的自然観があったとみられている。唯一絶対神の創造した宇宙は神の意志に従って運行されている。すなわち、立法者としての神が自然に課した法的規則(自然法則)に宇宙は支配されており、人間も自然もその神の意志に従うべきものであるとの自然観がそれである。それによると、神の「法的規制」が人間社会に課せられたものが「法律」であり、自然に課せられたものが「自然法則」であるとされた。(ちなみに、西欧の言語では「法律」と「法則」を表す語は全て同じである。)この神学的自然観と機械論的自然観とが相まって、例外を許さない絶対的自然法則の概念が形成されたといえる。それゆえ、宗教と科学との関係は対立ばかりでなく、協調的な面もあった。
 これに対して、東洋では、多神教(バラモン教、仏教、道教など)のために、単明で斉一的な自然法則の概念は生まれにくい。自然界の分野ごとに役割の異なる別々の神が支配する自然では、機械的自然観のような斉一的絶対法則概念は生まれない。また、老荘思想のように「物我の一体性、万物と自己とが根元的に一つである」という自然観、つまり、自然との一体感を抱き、「自然(じねん)論」のように、森羅万象は「なるべくしてなる」という自然観が支配的であった。この自然観の下では、自然を対象化して客観的に観照し、その原因をどこまでも追究するという姿勢も生まれない。この「自然論」は感性による現象論的自然把握であり、宗教と科学が未分化の状態である。このような自然観の下では、自然学(自然哲学)と宗教とが共存しやすい。たとえば、初期仏教のような「仏知を讃える宗教」と科学とは特別に矛盾は起こらない。それゆえ、東洋では、宗教と科学は互いに巧く融合していて(特に原始仏教)、「科学と宗教の対立矛盾が強く現れず、両者の分離が遅れた」と中村元は述べている。
しかし、いずれの場合も、科学が進歩して宗教の教義に反する科学上の発見がなされると、その承認を拒み、政治権力を有していた宗教はその科学理論とその支持者を弾圧した。キリスト教と自然科学との対立としては、コペルニクスの地動説とその擁護者J.ブルーノやG.ガリレイに対する教会の弾圧、またC.ダーヴィンの進化論に対する教会の非難攻撃は有名である。西欧に限らず、インドでもバラモンの教義に反する説、たとえば唯物論的原子論などは否定され排斥されたようである。とはいえ、ホワイトの『科学と宗教の闘争』にあるように、科学と宗教はことごとく対立し、敵対関係にあったと見るのは誤りであろう。宗教は科学の芽生えとその成長を、期せずして後押しすることもあった。
 宗教との対立に限らず、意見の対立抗争は科学の理論間にもあったし、政治から科学理論への弾圧もしばしばあった。

宗教的自然観から科学的自然観へ 
 17世紀の近代科学成立以後、自然科学は神の役割を排除し、宗教から徐々に独立を勝ち取っていった。それまでは、宗教が精神的にも社会制度上においても優位にあって人間社会を陰に陽にコントロールしてきた(特に西欧においてはキリスト教が)。したがって、当然ながら、科学も宗教の下に置かれていた。近代科学が自然の原理を自然自体の中に求め、超自然的な「神」の役割を必要としない理論体系を築くと、その後の科学は、徐々にではあるが、次第に人間の精神構造を変えてゆき、思想革命と同時に「宗教革命」をもたらした。その結果、科学が宗教の支配を脱し、宗教的自然観に代わり科学的自然観が優位になった。「神は死んだ」とニーチェは叫んだ。
 このように科学的自然観が強くなると、科学的立場から宗教批判がなされるようになった。特に、フォイエルバッハは唯物論的立場から、人間は自然物であり、宗教・神は人間が自己の願望の対象を理想化した幻想であるとした。そして、神は人間の本質が理想化されたものであり、宗教は人間本質の自己疎外であると主張した。これは人間が宗教を必要とする理由を、社会的心理の面から捉えたものである。
 さらに、18世紀以降、科学・技術は産業革命と相まって、資本主義の下で、物質文明の面でも人類の生活様式を変えていった。このように、近代科学成立以後19世紀の末頃までには、あらゆる面で主役が交代し、宗教に代わって、科学が社会を動かす原動力となった。
 この変化は、漸次に、しかも長期にわたって起こったので余り意識されていないが、近代科学成立の社会的影響は絶大であり、人類史上で特筆すべき歴史的事象である。
 19世紀末には、物理学は自然の原理をほぼ完全に掴んだとの自負を科学者(特に物理学者)は抱いていた。そして、それらの原理を用いて自然現象はすべて原理的にではあるが説明可能であると想定した。ところが、20世紀初頭に誕生した相対性理論と量子論によって引き起こされた物理革命は、その予想を完全に覆してしまった。この物理革命は自然科学の理論転換であるばかりでなく、科学的自然認識についての革命でもあった。つまり、自然は人間が考えたよりも遥かに内容豊富であり、人類の獲得した科学理論は近似であって相対的真理であること、したがって、科学理論には適用限界があることを思い知らされたわけである。そして同時に、科学的自然認識の意味を再吟味することを迫られたのである。
 現代では、社会的機能の面で、宗教と科学の地位が完全に逆転し、科学・技術は政治・経済を動かすまでになった。それにつれて、科学・技術は政治と直結し、政治の支配を直接受けるようになった。しかし反面で、人文・社会学や倫理の面がおきざりにされて、科学・技術のみ突出して進歩・発展した。その歪みの結果、便利さや物質的豊かさといった物質文明のみ追う傾向が強くなり、多くの弊害が発生している。また、大量破壊兵器や公害・環境問題などにより、人類自滅の危機さえもたらされ、科学・技術のあり方と存在意義が問い直されるようになった。

3.科学の目的と存在意義
 科学は文化である。科学は文化の一翼として二つのの社会的機能を有する。一つは精神文明への寄与で、自然観、哲学、人生観の形成に不可欠である。それゆえ、自然科学は人文・社会学、芸術、宗教と並んで精神文化の一つである。二つ目は、物質文明への寄与で、技術を通して生産力となり、物質的な豊かさをもたらす。また自然の脅威から身を守る。このように、科学は精神文明として社会の上部構造の形成と発展に寄与し、技術を通して下部構造の形成と発展に寄与してきた。

その変遷
  古代の3大文明発生の時代には、一般的に科学は権力に奉仕させられていた。中国では政治・倫理に役立つ範囲で、インドでは宗教(ヴェーダ)に奉仕する範囲で科学の意義が認められた。エジプト・メソポタミヤも同様であった。しかしながら、ギリシアにおいては、自然の原理アルケーを追求するという自然認識が目的とされるようになった。
 中世に科学の中心がアラビア(イスラム圏)に移ると、そこでは「知は宝なり」といって、真理の探究と、実学が尊重された。その中から生まれたアヴェロイスの二重真理説は、神学的真理と自然の真理は独立であり、宗教的真理は神の啓示として感性により得られるが、自然の真理(科学的真理)は知性により認識可能であると説いた。
 中世から近代の西欧では、キリスト教の教義とギリシアのアリストテレス自然学との矛盾を融和させたトマス・アクィナスによるスコラ哲学に従っていたが、二重真理説とも相まって、漸くそれから脱出していった。そして、自然科学によって神の創造した自然の仕組みを読みとることは、神の意志を知り、神に近づくことであると考えられた。すなわち、自然科学の目的は神への従順であり、「自然」は第二の聖書であったわけである。
 17世紀になると、F.ベーコンは「知は力なり」といって、生活を豊かにし、国威を高めるために、科学・技術を活用すべきであると唱えた。そのために、科学の組織的研究を奨励した。この科学観は20世紀にまで引き継がれてきた。
近代科学は神を必要としない論理を獲得すると、宇宙創生の最初の神の一撃を除いて、神の役割はなくなった。その後も、神の操縦する宇宙という自然観はニュートンなど一部の科学者にも残ったが、やがて、宇宙は力学法則の必然的決定論に従って運行するとする力学的(機械論的)自然観が支配的になった。この力学的自然観の下で、宇宙の運動、ひいては人間の運命も全て宇宙創生の瞬間に決定されているという必然的運命論が生まれた。そして、人間の自由意志とは何かという哲学上、宗教上の深刻な問題を引き起こした。
 近代科学成立以後、産業革命と相まって、科学・技術は急速に発展し、19世紀には全面開花となった。そして、科学・技術を利用して物質的豊かさが進むと、科学・技術の力を過信して、ついに自然支配の思想が台頭した。西欧における自然支配の思想にはF.ベーコンの科学観ばかりでなく、神に仕える人類のために自然は存在するというキリスト教の階層的自然観「神-人間-自然」が反映していると思われる。
 東洋では、輪廻転生の自然観や、自然との一体感の自然観にもみられるように、人類はこの自然界で特別な存在ではなく、自然との共生の思想が一般的であるので、強烈な自然支配の思想は生まれなかった。
 現代では、科学・技術を利用した人類の自然支配が全地球規模に拡がり、自然環境の破壊が急速に進んでいる。先進国では、あらゆる面で物質的生活は豊かになったが、逆に人間が機械に追いまくられる状態が続き、精神的ストレスに悩まされるようになった。今や物質文明に対して、精神文明の立ち後れは決定的である。それゆえ、精神的よりどころを失った人間が増え、教育の荒廃をもたらして、精神的に不安定な社会に向かって突き進んでいる。このような状況において、科学・技術に対する批判が噴出し、科学・技術を全面否定する反科学主義まで現れた。科学・技術批判の中には、科学・技術の本質を誤解し、科学・技術の社会的機能は社会体制に強く依存することを軽視しているものもある。無政府的に飽くなき利潤を追求する市場原理に基づく資本主義社会制度が、両刃の剣である科学・技術の機能を歪めていることを見逃してはならない。しかし、反科学主義ほど極端でなくとも、現代の科学・技術のあり方について反省が求められていることも確かである。
 人間生活を豊かにするはずであった科学・技術は、搾取の手段、公害・環境破壊と大量殺戮兵器を造りだし、生命の安全を脅かすばかりでなく、人類絶滅の危機をもたらすのでは、何のための科学・技術かということになり、科学の目的が失われてしまう。これでは、科学の存在意義が肯定的に受け取られなくなる。したがって、未来に向けて意義のある科学・技術のあり方と、目的を見出さねばならない。それには、まず現代科学の成果を踏まえて科学的自然観を築き、自然における人類の占める位置を正しく認識することである。その上に立って、物質文明優位の価値観に代り、真の豊かさとは何か、人間は如何に活きるべきかについて新たな哲学・倫理を築き、それに相応しい人生観、価値観を見出すべきであろう。

4.自然科学の本質と性格
 人間の精神活動は多面的であり、他方、自然も複雑な様相を呈している。したがって、自然認識には、自然への接近法と立場とに応じていろいろな側面が現れるであろうし、そして、それに応じた性格を有するだろう。五感を通して受容される情報は、その内容によってそれぞれ感性、悟性、理性に訴えるものがあり、それに応じて自然を認識する形式も性格も異なる。芸術や宗教も感性と悟性によって自然を理解する方法であるし、自然科学と人文科学は理性と悟性を通して自然へ接近する方法である。これらに対して、哲学はそれらの方法を吟味し基礎づける総合的・統一的な認識方法だと思う。これら自然認識の方法は、自然にアプローチする方法が異なるので、当然ながらその認識内容と性格が違う。それら認識内容を総合して、人類はより広く深い自然認識に達することができる。
 これまでの自然科学は、人間が自然を対象化し、自然の外から客観的に自然を観察して認識を進めるものとみなされてきた。つまり、自然の輪廻の外に立った姿勢と方法で自然科学を築いてきたと言える。だが、このような科学の方法では自然認識は一面的になり、限界があるとの反省から、自然との一体感や共感をもって自然を内部から認識すべきであるとの主張が台頭してきた。そして、そのような科学認識をするために東洋的自然観に着目すべきであると言われるようになった。
 現代では、人類は自然界において特別な存在ではないということが、科学的に解明された。すなわち、人類は他の動物と懸け離れた種ではないことが、進化論と分子遺伝学によって明らかにされた。霊魂の存在を認めると否とに関わらず、自然界における「物質の輪廻転生」に人間も当然ながら巻き込まれていることは否定できない。また、地球外生命と文明の存在の可能性も否定できない。全宇宙に存在する銀河とその中の恒星の数は莫大なもの(1千億×1千億)であるから、地球外生命が存在しない方がむしろ不自然である。(ただし、UFOに乗って宇宙人が地球にくる可能性は、目下の所全くないといえる。)

自然科学とは 
 人間は自然の一部であるから、人類の営みも自然現象の一環とみられる。人間の感情、記憶、思惟、そして自然認識も高度に組織化された物質の存在様式(運動形態)であるから、当然自然現象の一部に含まれる。それゆえ、自然科学という人間の認識活動も自然現象の一部である。すると、自然科学は次のようにみなすことができる。
 “自然科学とは、自然が人類を通して自然自体を自ら解明する自己反映(自己認識)活動である ”
ただし、「自己認識」といっても自然(あるいは宇宙)自体が一つの有機体として「超意識」を有することを必ずしも意味しない。それについては、現在のところ科学の俎上にないので、否定も肯定もできない。人間や動物の意識が物質のいかなる組織的運動形態であるか、科学的にまだ解明されていないからである。
 自然科学がこのように規定されるならば、科学の論理は自然自身にとって、自己反映的性格を有するから、自己言及型の論理となる。「自然科学とは何か」ということを改めて考えてみると本当に不思議である。この自然自体の自己反映という科学的認識とは一体何であろうか。「最も不思議なことは、人間が自然を理解できることだ」といったアインシュタインの言葉の意味の深さを改めて痛感する。
 科学のこの自己反映的性格からすれば、科学の全体系は、自己言及型の論理に関する有名な「ゲーデルの不完全性定理」の枠内にはいるだろう。実証科学である自然科学に形式論理(厳密には一階の述語論理)の結果をそのまま適用することは吟味を要することであろうが、ゲーデルの不完全性定理との類比から推測すると、自然科学は自己完結的ではありえず、したがって科学は自然を完全には解明し尽くすことはできないことになる。おそらく、人間が人間を完全に知り尽くせないであろうように。
 自己言及型の論理に関してよく引用される例は、嘘つきパラドックス「私は嘘つきである」という言明である。この言明を言葉通りに取れば、「私は嘘つき」であるからこの言明自体が嘘になり、「私は嘘つきでない」ということになる。では逆に「私は正直である」とするとこの言明と矛盾する。したがって、「私」は嘘つきだとしても、正直者だとしても矛盾し、どちらとも決められない。このように、自分自身に否定的に言及すると矛盾が起こったり、真偽が決まらない命題が現れる。
 ゲーデルの不完全性定理によれば、無矛盾な論理体系(一階の述語論理)は自らの体系が完全であるか否かを、その体系内では証明できない、また、真偽を証明できない命題が必ず存在する。その問題を解決するために、新たに仮定を加えてその真偽を決定できるような論理体系を作ることはできるが、それが無矛盾の体系である限り、また決定不能な命題が現れる。

科学の不完全性と無限発展の可能性
 自然科学にこのゲーデルの定理を適用すれば、矛盾のない科学理論はそれが完全であることを、その理論体系内で証明できないし、そして証明や解明できない科学上の問題が必ず存在することになる。その問題を証明あるいは説明できるように、仮説を立てるなり、新理論を築いたとしても、それが無矛盾な理論である限り、また新たに証明も説明もできない問題が現れる。こうして、自然科学の進化は永久に続き、自然の仕組みを窮め尽くすことはできない。このことは自然は無限に奥深いということと同時に、自然科学もまた無限に奥深く進歩・発展することを意味する。やはり、自然現象のうちに包摂される自然科学も「お釈迦様の掌(自然)」から出られないということである。
 先に言及したように、19世紀の末に、物理学の各分野は一通り完成し、自然の物理的原理を全部掴んだと科学者は自負した。当時未解明の問題(物理学の世界の地平線に浮かぶ2つの小さな雲)が僅かに残っているが、それらもやがて消えて(解明されて)、物理学の世界は全天晴れ渡るだろうといった(ケルビン卿)。ところが、その二つの雲は消えるどころか次第に大きくなり嵐を呼んだ。これが20世紀初頭の物理革命、すなわち旧理論に代わる新たな相対性理論と量子力学の誕生であった。この物理革命によって、科学的真理と言えども絶対的ではなく相対的真理であること、したがって、科学理論には適用限界があることを、科学者は思い知らされたのである。さらに、原子・素粒子などのミクロ世界を支配する法則に関する理論、つまり量子力学の誕生は、自然認識に関する革命でもあった。その意義は、自然の階層性とそれに対応する理論の階層性を認識させたこと、そして不確定性関係(位置と運動量とは同時に確定しない)に象徴されるように、観測の「相補性」は科学的認識の意味を改めて吟味させたことにある。
 “自然科学とは、自然が人類を通して自然自体を自ら解明する自己反映(自己認識)活動 ”という観点から、新たな科学の方法を見出すことができないかと私は考えている。現代科学は、宇宙全体の進化や人類の進化を問題にし、さらに生命の本質から人間自身の解明に向かっている。このような科学は認識主体の人間も、認識対象である自然の一部である事実を無視できないし、その事実と直面せざるを得ないだろう。
 生命科学は遺伝子を自由に操作し、そしてクローン動物まで作れる技術を開発した。さらに、生命の本質の解明、人工知能、人工生命の時代に向かっている。これらはみな、神の摂理とみなされていたものであるが、それに人類は手を染めた。自然科学はこのように驚異的に発達したが、その発展に比例して大きな危険性を孕んでいる。科学・技術の影響を十分吟味し反省しつつ進まないと、自然から思いがけぬ手痛いしっぺ返しを受けるだろう。
 最近の物理学では、超マクロの宇宙論と極ミクロの素粒子理論とが結ばれ、宇宙の起源に関してもかなり解明が進んだ。素粒子論における相互作用の統一理論はまだ完全には確立していないが、興味ある有力な自然観である。それによれば、現在のところ最も基本的とみなされている相互作用(力)は、強い力、電磁気力、弱い力、および重力の4種類であるが、それらは極度に近距離の領域では、元は唯一つの相互作用であったものが、遠距離領域(それでも素粒子の拡がり程度)ではその統一相互作用の対称性が破れて4種の異なる相互作用に分岐したと想定されている。もし、この相互作用の統一理論が完成すれば、究極原理に到達したことになり物理学は終わる、という科学者もいる。しかし、自然界はそれほど単純ではなく、上述のように科学は不完全であるから、その先に必ず未知の問題が現れるだろう。そのように自然の原理を知り尽くせるとる考えて、「これが究極原理だ!」という自然観は19世紀末の場合といい、この統一理論の場合といい、西欧的発想であると思う。唯一絶対神の創造した世界は斉一単明であると想定して、解明しうるという自然観によるものであろう。東洋における多神教の非斉一的自然観、自然との一体感の自然観の下では、このような強烈な発想は生まれないと思う。
 自然科学は自らが発見し築いた理論体系を、普遍的かつ絶対的のものとすることは、自然をその理論(科学の言葉)に従わせることである。それは、技術による自然支配とは異質の、人間の精神による自然支配である(ラプラスの魔物)。

5.今後の科学的自然観と宗教的自然観の役割 
 いずれにせよ、上述のように、自然科学は本質的に「不完全性」を免れず、自然を完全に解明し尽くすことはできないであろうし、したがって、人間自身を解明し尽くすこともできないであろう。しかし、科学は限りなく進歩・発展し続け、自然の仕組みとその原理を次々に明らかにしてていくことも疑いない。神の役割を必要としない論理を築いた自然科学が進歩すればするほど、既存の宗教の教義はさらに改変を余儀なくされるであろうし、その結果、宗教の存在意義がこれまで以上に問われるであろう。現代科学の論理に基づく自然観がしっかりと確立されるならば、果たして宗教は存在しうるであろうか。
 しかし、科学が自然の原理を解明し尽くすことができず、また、人間は如何にして自然を解明理解できるのかという問題が残る限り、自然に対する「畏敬の念」は続くであろう。この畏敬の念がある限り宗教は存在するというのが、宗教家や宗教学者の主張である。宗教の本質が「自然に対する畏敬の念」にあるならば、この主張は肯ける。それにしても、今後そのような宗教は、教義も形式も既存の宗教とは質的に異なるものではないだろうか。つまり、超自然的神に祈ることもなく、また、人間の生死に関する宗教的行事を司ることもないだろう。その場合には、「宗教的真理」とは何かが問われるだろう。
 私は若い頃は、自然科学こそ自然の真理を掴みうる唯一のものと信じ、自然認識に関しては科学以外のものは採るに足らないと思っていた。そして、宗教は自然について無知なるがゆえに生まれたもので、神や仏にすがり理性を麻痺させる「阿片のようなもの」であると思い、宗教を軽蔑した時期もあった。しかし、歳を重ねるとともに、自然の多様性と人間の精神活動の多面性に気づき、かつ科学の限界を感じて、徐々に考えが変わった。現在でも、無神論者であり無宗教であるが、以前のように、単純に宗教を否定することはなくなった。宗教は単に自然に対する人間の無知や恐怖からのみ生まれたものではなく、世俗的な宗教を除けば、宗教の教義や神という超自然的な表象は高度に発達した精神活動の所産であり、宗教教義は一つの自然観であると理解している。
 人類が自然を理解する方法は一通りではなく、科学的認識の方法以外にも、宗教や芸術もそれぞれの方法で自然を理解しうるし、固有の自然観を持っていると思う。自然科学は理性と悟性によって、自然の仕組みを論理的に解明することで自然を理解しようとする。それに対して、宗教・芸術は自然の仕組みを感性と悟性によって悟ろうとしているのだと思う。ただし、科学の進歩によって、宗教・芸術の自然観は影響されて変わっていく。

生物の背負う根源的「業」
 地球に限らず天体上での生物の発生は物理・化学的には無理な現象である。なぜならば、物理学の有名な「エントロピー増大則」という法則があり、それは多体系(多粒子系)に適応される普遍法則である。生物の存在はそのエントロピー増大の法則に逆らう不自然な状態なのである。
 エントロピーとは無秩序性(秩序性の逆)を表す指標であり、ランダムな雑然とした状態はエントロピーが高いという。このエントロピー増大則によれば孤立した閉鎖系ではエントロピーは増大する一方で、減少することはない。これがエントロピー増大則である。
 生物体は環境よりも低エントロピーの状態(秩序の高い)にある。それゆえ、個体を維持し成長しするために食物から低エントロピーの物質を摂取ししなければならない。摂取した低エントロピーのエネルギーを利用した後に高エントロピー物質やエネルギーを外部に排泄する(物質代謝)。したがってすべての生物は、その存在自体が「エントロピー増大則」という自然法則に逆らった無理な状態を維持し続けているのである。
 生物の個体は機能性を備えた秩序だったシステムであり、環境に比してエントロピーが低い状態の体系である。それゆえ、新陳代謝を断った生物個体は孤立閉鎖系となるから、それを放置しておけばエントロピーは増大し、やがて崩壊(死滅)する。このように、生物の存在はそれ自体がエントロピー的自然法則に対して無理な状態なのである。この崩壊(死滅)の危機から脱するために絶えず努力し続けねばならない、この事実が死の恐れとなり、それがやがて本能化されたものが「死の恐怖」であろう。
 生きた個体の状態を維持し、あるいは成長させるには、絶えず新陳代謝(物質代謝)によってエントロピーを減少させる(あるいはエントロピーの低い状態を保つ)ような操作を続けなければならない。すなわち、新陳代謝によって低エントロピーのエネルギー(食物)を摂取し、それを利用して生ずる高エントロピーのエネルギーを排泄物と共に環境に放出しているわけだから、生物の存在は必然的に環境を変え、そして自然環境を「汚染」する。
 生物誕生以来、地球環境は非常に大きく変化してきた。生物の誕生によるこの自然環境の変化は、地球の発展進化とみることができるだろうが、反面からすれば、地球環境の汚染・破壊でもある。生物にとって避けることのできないこの営みは、生物界の食物連鎖と共に、すべての生物の背負った業である。
 優位に進化した生物は、新陳代謝を効率よく行うために他の生物を食物にするようになった。生物の食物連鎖はこうして起こった。人類は後から出現したにもかかわらず、この食物連鎖の頂点にあり、最も業の深い存在である。
 存在自体が無理を強いられている生物が種を維持発展させるために、生存に有利な機能を徐々に獲得してきた。これが種の進化である。ところが、人類は種としての生物的自然進化を待てずに、生存に有利な手段を次々に獲得した。それが科学・技術である。したがって、科学・技術は生まれながらにして人類の業を背負っている。
 生物が生きているということは「すごい」ことであると同時に、その存在自体が環境汚染と食物連鎖という二重の「業」を背負っているわけである。食物連鎖の中に生き続けねばならないこの「業」こそ逃れることのできない「生物の根源的業」であると思う。このように、生物は生きるために日々「業」を重ねている。食物連鎖の頂点に位置している人類は最大の「業」を背負っているわけである。しかも、科学・技術の力でその業を拡大してきた。
 生物、特に人類が背負っている必然的なこの業のことを、自然科学は理性と悟性によって論理的に理解した。それに対して、宗教はそれを感性と悟性によって悟った。仏教の「業」は、この「根源的業」を反映していると思う。

宗教は人類特有か
 宗教は人類に特有の意識で、他の生物には一切無縁のものだろうか。猿やチンパンジーがさらに進化したら「神」という概念を生み宗教心を抱きうるだろうかと考えたりもする。象などある種の動物は、仲間の死を弔うような行動をするそうである。彼らは、いかなる意志でそのような行為をするのか。昔から、人間特有のものと思われていた言語や思考など多くの精神活動も、他の動物にもあり一線を画するその境界は無いことが、最近の研究で次々に明らかになった。宗教心についても同様なことがいえるのでは無かろうか。宗教は古代の人類に普遍的に発生し、これほど永く人間精神を支配してきたということは、それだけの必然性があったはずである。人類の誕生もその行動もすべて自然現象の営為の中に含まれるから、宗教も科学と同様に、自然現象の一部である。生物の意識は、個体と種族維持の行動を代々繰り返すうちに自然発生的に生まれたように、宗教も人類特有のものとは言い切れないだろう。高度に発達した文明を有する地球外生命は、文明進化の過程でやはり宗教を生むであろうか。
 この宇宙に生物が発生し、それが進化して人類が誕生したことは自然科学によって明らかにされた。だが他方では、生物の機構が解明されればされるほど、脅威的ともいえるその機構の巧みさに感嘆させられる。細胞レベルでさえ、その構造と機構は正に神業と言いたくなるほどである。これほど精巧で巧みなものが、よくも自然発生的に誕生したものだと感嘆せざるをえない。まして、人間の複雑高度な精神活動のことを考えると、人間とは実に不思議な存在である。それは「超自然的神の手」によって造られたのではなく、自然界の物質自体に備わった自己組織化能力、進化の能力により自然が自ら実現したものである。自然の威力に改めて畏敬の念を抱かざるをえない。
 現代宇宙論によれば、宇宙はビッグバン以後、物質と時間・空間のつくる一つの能動的体系(システム)として、それ自体に具わった内部相互作用によって自己運動を行い、今日の状態にまで進化してきた。宇宙のこの発展・進化は、宇宙自体の創発(emergence)現象であり、いわば自然にとっての「自己実現」の過程とみなせる。生物の発生や人類の出現も全てその結果であるから、人類の知的活動である科学・技術も、自然の自己実現の過程の一つとみなされる。だからといって、この自然観は目的論に直結するものではない。それについては、改めて吟味が必要である。(注 参照) 
 現代科学のベースにある自然観は、宇宙も含めてすべての物は進化発展するという進化的自然観と、自然界の存在様式は階層的であるという階層的自然観である。それは近代科学のベースとなった機械論的自然観と原子論的自然観に替わるものである。いづれにせよ、宇宙自体の進化や、物質の自己組織化とその進化を対象とする科学は、内部からの自然認識、つまり「自然の自己反映(認識)」という観点が必要であろう。
 先にも述べたように、自然の一部である人類が自然の仕組みを認識し理解できるということは何とも不思議である。科学的に「理解する」とか、さらに「論証する」ということは一体何だろうと考え出すと切りがない。これらの疑問は、宗教における「生死とは何か」また「信仰する」とは何かといったことに対応するだろう。
 
科学と共存する宗教  
「自然の原理」そのものに、ある崇高なものを感じて生まれる宗教、あるいは宇宙を一つの「生命力」とみなす宗教があるならば、そこに見出される宗教的表象は、もはや超自然的な神とは異なるものであろう。超自然的な神なしでも、自然に対する畏敬の念さえあれば宗教は存立しうるものならば、そのような宗教は哲学・倫理と区別が無くなるのではなかろうか。もしそうなら、これからの宗教は科学と矛盾対立することはないであろうし、むしろ自然認識において、自然科学と協調して相補的な役割を果たすであろう。そして、両者の協力で、新たな自然観・人生観を築くとともに、現代社会の歪みを克服する道を見出すことができるかも知れない。
 宗教学者岸本英夫の宇宙観、宗教観が印象的である。彼は「宗教を科学する」という立場で宗教を研究したが、癌に侵されていることを宣告されてから亡くなるまで、死の恐怖との葛藤と死後の問題で精神的に苦闘されたそうである。その結果、「死は生命との別れである」との考えに達した。彼は科学者として、霊魂の存在には納得し得ず、宇宙に編満する大生命の存在を信じて、「私の個人の生命力というものは、私の死後は大きな宇宙の生命力の中に溶け込んでしまっていくと考えるくらいが、精一杯であります」と書き残したそうである。これが岸本の宗教であったのであろう。

内からの自然認識:共生のための科学
 20世紀までの自然科学は、認識主体である人間が自然の外に立ち、自然を対象化して認識してきた。しかし、これからの自然科学は人類を含めた宇宙全体の進化、さらに生命の本質から人間自身の解明へと切り込んでいくのであるから、自然を対象化するのでなく、人間と自然とが一体となった状態で、内からそして自然の中で理解するという方法が必要であろう。すると、この認識方法は、自然界の輪廻から「解脱」することを望むという姿勢ではなく、むしろ逆に、輪廻の中に心身ともに自らを置くことが求められるであろう。
 自然科学は「自然自体の自己反映(認識)」といっても、「自然の超意識」の存在を必ずしも意味するものではないが、もし、自然(あるいは、宇宙)に「超意識」のようなものがあるならば、その自己実現にはある種の「目的」(「方向性」と言うべきかも知れない)が存在する可能性も否定できない。だが、たとえそうであっても、その「目的」は自然自体、あるいは宇宙というシステムの創発性の結果であって、超自然的なもの(神)によって与えられたのではない。それゆえ、それは宇宙の発生期に初期条件として物質・時空と自然法則の中に組み込まれていて、「目的」の方向はそれによって規定されているだろうが、自己発展の過程で生み出される創発により、決定論的な予想はできないだろう。たとえそのような「目的」が存在したとしても、自然の一部である人類はそれを完全に認識し得ないだろう。なぜならば、これも自己言及型の論理なので、ゲーデルの不完全性定理が適応されるからである。
 人間と自然とが一体となった状態で自然の内からの自己認識という科学観から、いわゆる「自然との共生」のための科学のあり方が見えてくる。人類と自然との共生は如何にあるべきかは、自然界におけるヒトの地位を自覚し、新たな価値観の上に見出さなければならない。自然を支配し人類のためにそれを利用するという人間中心の自然観ではなく、自然との共生を目指す科学であるならば、科学・技術の開発の方向やアセスメントの評価基準もその新たな価値観によって変わってくる。たとえば、地球や宇宙環境の保全にしろ、生物種の保存にしろ、それが人類のためになるからとか、その結果がいつかは自らに跳ね返ってくるからといった観点ではなく、自然自体のより良い「自己実現」のためにそうするのだということになろう。そのような自然観は、まさに自然との一体感をもって内部から自然を認識するという東洋思想にも通ずるものである。この「内部からの自己認識」という観点は、同時にまた、人間の意識を含めて人間自身を認識対象とする科学にも欠かせないものであろう。
 以上のように、これからの科学は現代科学を超えて、この新自然観の上に築かれねばならないと思う。ただし、科学である限り、主観的な知識ではなく、実証性を基礎にした普遍性と客観性のある知識体系であるという点では、従来の自然科学と同様である。
 われわれの有する自然像は実在の自然そのものではなく、科学の成果によって描いた自然像である。その科学的自然像は不完全ではあるが、科学の進歩発展につれて変容しながら実在の自然に近づいてきた。また逆に、その自然像は科学研究に反映され、科学の発展方向を規定してきた。それゆえ、上で述べた新たな科学観に立つならば、科学的自然像も転換されるので、これまでとは質の異なる自然科学のテーマが見出される可能性もあろう。
 さらに付言するならば、自然の広さと深さに対して、人間の知恵はまだまだ浅いし、現代の自然科学のレベルでは説明できないことも、未知のこともまだ無数にある。だからといって、直ぐに超自然的なものを持ち込んだり、オカルトを認めたりすることにはならない。科学によって「まだ解明されてないこと」と、科学の対象外の「解明できないこと」の区別が肝要である。

6.おわりに 
 自然を認識する方法は唯一通りではなく、アベロエスの二重真理説とは必ずしも同じではないが、知性による科学的認識も、感性による宗教的認識も、それぞれ独立のアプローチの方法である。両者の認識内容は相補的であり、協調してより良い自然認識と自然観に達しうると思う。自然界における人類の占める地位を現代科学の成果に基づいて確認し、その上に立って新たな価値観を築くために、そのような科学と宗教のあり方を求めるべきであろう。
 物質文明に比して精神文明が遅れている。精神文明を豊かにするには、科学、芸術、宗教、倫理などの総合的寄与が必要である。科学は技術に応用されるだけでなく、自然観・哲学の形成を通して精神文明にも科学は不可欠である。心身ともに豊かな生活を送るためには、精神・物質両文明のバランスが必要である。そのためには全ての分野がバランスある発展を遂げなければならないと思う。

 (注)動物の意識は、最初は進化初期の生物の無意識的行動(食物摂取、光に対する反応など)の繰り返しの中で徐々に芽生え、生物進化とともに形成された物質組織の最高機能といえるであろう。ただし、意識の発生過程で、どこからが「意識」といえるか明確に定義することは難しい。いずれにせよ、意識を「物質組織の物理・化学的運動による機能」の一種と見るならば、全宇宙は一つの有機体として「超意識」を有する可能性も否定はできないだろう。もしそうなら、宇宙の個々の銀河は、生物でいえば一つの細胞のようなものかも知れない。その時間・空間スケールが、地上の生物と比較して極度に大きいだけである。銀河は今でも物質・エネルギーの新陳代謝を行い、融合・分裂を行っているし、銀河同士が相互作用をしながら超銀河団を形成し発展している。さらに、全宇宙は一つのシステムとして「有機体」のように自己発展している可能性がある。しかし、全宇宙の中の物質元素の存在比(水素が圧倒的に多い)からみて、宇宙の年令は若いから、「超意識」はまだ芽生えてないかも知れない。そうであっても、いずれ「超意識」が創発する可能性を完全に否定し去ることはできないだろう。
 この場合の「意識」(生物初期の意識、自然の超意識など)とは、一つの物質系がある目的を達成するための行動に際して、その内部に蓄積した情報を活用する行動の原因(原動力)となりうる内的機能が高度に発達したものといってよいだろう。
 自然の自己実現の観点から、自然の一要素としてのヒトの発生とその活動をどう考えたらよいか興味ある課題である。人類の活動は、自然の自己実現の速度を速める良き触媒のような存在なのか、それともコントロールできない暴走の原因となるのだろうか。人類は暴走して地球を使い捨て、次々に他の天体を浸食する癌細胞のような存在にならないようにすべきである。いずれの場合も、自然の自己実現の結果(自然のなせる業)ではあるが、人間は理性をもっていることも自然のなせる業である。それゆえ、理性を働かせて、暴走ではなく自然との共生を図る道を見出すよう努力すべきである。
 
本稿は15年ほど以前に大綱を書き上げ、その後何度か加筆してまとめたものである。『唯物論と現代』No.49号(2012年11月)掲載。
ヒグス場の発見:標準理論の仕上げ
ヒグス場の発見:標準理論の仕上げ    
 それは新たな発展の始まり

(先月このテーマについて、感想と私見を述べたが、説明不十分で一般の読者には分かりにくいとの意見があった。そこで、少し説明を加えて書き直した。それを再掲する。)


その存在の検証が長年待ち望まれてきたヒグス場(スピン0のスカラー粒子)と認定できる新粒子がついに発見されたと、ジュネーブにあるCERN(欧州合同原子核研究所)が7月4日に発表した。 

 ヒグス粒子の存在については、長い間理論的な議論が続き、加速器による検証が試みられてきた。基礎的4つの相互作用(強、電磁、弱、重力)は根本的には唯一つの統一相互作用であったが、宇宙創生期にその対称性が破れて分岐し、異質の4種相互作用になったというのが「相互作用の統一理論」である。その統一相互作用の分岐は何段階ももの分岐を経て、最後は4種相互作用になったとみなされている。この分岐の機構には、ヒグス場が決定的に重要な役割を演じている。 

 その統一相互作用の一部である「弱電統一相互作用」が分岐して、電磁気力と弱い力になったのだというワインバーグ-サラム-グラショウ理論(1967)の正しさが、実験的に検証された。それ以来、ヒグス場の存在の可能性は非常に高くなり、その発見が待たれていた。なぜならば、元は一つの同質力とみなされる「弱電統一力(相互作用)」の対称性が破れて、異質の電磁気力と弱い力に分岐するときも、このヒグス場の働きが不可欠だからである。弱電統一相互作用の対称性が破れ、相互作用を媒介するゲージ場の一部が質量をえて弱ボゾンになり、質量ゼロのまま残った電磁場と分離したというのである。その対称性の破れと分岐の機構をスカラー粒子の存在を仮定して理論的に示したのがイギリスのP.ヒグスである(1964)。
 
 1960年代に「相互作用の統一理論」が提唱されてから、素粒子の世界を理解する観点が大きく変わった。4つの基礎的相互作用(強、弱、電、重力)はすべてゲージ場の媒介によることを前提として、4種相互作用の大本は唯一つであった。それが宇宙創生期に宇宙膨張とともに温度が降下すると、自発的対称性の破れによって分岐して現在のような4種の異なる相互作用として発現していると想定されている。その統一相互作用の分岐の過程でヒグス場(ヒグス粒子)が重要な役割を演じ、一部のゲージ場と物質粒子に質量を与えるのである。 この観点は宇宙創生と宇宙進化の本質に関わることであり、自然観の転換であった。
 その統一理論のうち、電磁気力と弱い力の統一については、上記のように、その機構が解明され実証されたが、強い力を含めた「大統一理論」に関してはまだ実証されてないし、重力の統一に関してはその理論さえできてない。しかし、この統一理論は大変魅力的であり、ほとんどの素粒子物理学者はその正しさを信じているであろう。
 統一相互作用が分岐する機構の決め手となるヒグス粒子の発見は、画期的なものである。それゆえ、莫大な研究費を投じ、数千人の科学者を動員して何年も掛けて追究してきたわけである。それだけにこの研究に携わってきた研究者の喜びは一入であろう。

 この新粒子がヒグス粒子であることが確定すれば、これで標準理論の基礎はすべて揃ったことになり、ここを出発点として新たな分野への第一歩が踏み出されるだろう。

 だが、ヒグス粒子は一種類だけではない。4種相互作用は少なくとも3段階の分岐で起こると考えられているから(元の統一相互作用の対称性により異なるが)、ヒグス場は3種以上存在するはずである。ただし、重力を除く大統一理論、つまり標準理論の範囲では2種以上のヒグス場があるはず。このたび発見されたヒグス粒子は、陽子同士の正面衝突により発生したものであるから、それは強い相互作用の分岐に関わるヒグス場であろうと思った(ヒグス粒子の崩壊モードに依存して決まる)。だが、実験データーによると、検出器で捉まえたものは弱ボゾンのZ-Z対を経由して4個の軽粒子や2γ(光子)であるとのことだ。それゆえ、弱電相互作用の分岐に関わるヒグス粒子らしい。もしそうなら、強い相互作用の分岐に関わるヒグス場が、それとは別にあるはず。
いずれにせよ、電子-陽電子衝突による検証実験の方が綺麗にできるはずである。
 ちなみに、標準理論を構成する粒子は17種類であると報道されているが、ゲージ場の光子(電磁力)、弱ボゾン(W、Z)、グル-オン(強い力)をそれぞれ区別するこの数え方からすれば18種類以上ということになる。 

今後の問題

1)標準理論には、少なくとも、もう一つのヒグスがあるはず:次は電子・陽電子衝突によるレプトン関連のヒグス場の発見が必要である。 

2)物質(フェルミ粒子)の質量について:真空に縮退した中性ヒグス場が物質粒子(クォーク、軽粒子など)と相互作用をして運動を妨げる。これが物質粒子の慣性質量の素である。それゆえ、慣性質量はヒグス場の粘性抵抗のようなものである。物質粒子の質量はヒグス場との相互作用の大小で決まり、その相互作用が強さに比例して質量も大きくなる。この質量の起源論はそれ以前とは全く異なる説である。

3)等価原理の不思議:ここで問題になるのは、物質の質量に関する等価原理である。物質の質量には2種類あって、粘性抵抗によって生ずる質量は「慣性質量」である。それに対して重力を生む「重力質量」がある。「慣性質量」と「重力質量」とが等価(大きさが同じ)であるというのが「等価原理」であり、それは一般相対性理論の基礎原理である。
 この異質の2種の質量が同等であるという等価原理は、いかにして成り立つのか?この根拠を解明することが大きな問題である。重力場を含めた統一理論が完成すれば、この問題は解決するか、少なくとも解明の手掛かりはえられるだろう。

4)自然界における対立と拮抗:相互作用の対称性、あるいは物質場の対称性が破れるとスカラー場(スピン0のスカラー粒子)が現れる。これを南部-ゴールドストン粒子という。ヒグス場はその一種とみなされる。この南部-ゴールドストン粒子の発生は、対称性が自発的に破れることに対する抵抗とみなせる。なぜならば、このスカラー粒子の発生はエネルギーの高い状態(励起モード)への飛躍だからである。
 一般的に自然界の基礎的現象には、対立と拮抗という2つの傾向が見られる。すなわち、定常状態を維持しようとする傾向(慣性)とその定常性を破ろうとする傾向(作用)があり、両者の拮抗で現実の運動が決まるような機構である。その例は、力学運動における慣性と力、電磁誘導のレンツの法則(電流や磁場の強さを変化させようとすると、その作用を妨げる効果の発生)、熱力学における平衡移動の法則(状態変化を起こす作用を妨げようとする効果の発生:ルシャトリエ-ブラウンの法則)などである。
 相互作用の対称性の破れにより現れるヒグス粒子(南部-ゴールドストン粒子)の発生は、平衡移動の法則の素粒子版である。統一相互作用の対称性が破れることに対する抵抗としてスカラー粒子(ヒグス場)が現れるは、上記のように、励起モードへの飛躍であるから、元の対称性(低エネルギー状態)維持しようとする傾向の一種と見られる。
 ちなみに、基礎的相互作用は弱いほど対称性が破れている。弱い相互作用は既知のすべての対称性が破れている。

5)対称性はなぜ破れるのか:宇宙の創生期の自然界では、すべての存在は対称的であり、粒子の質量もゼロであるとみなされている。それが宇宙初期のビッグバン以後、温度降下とともに対称性が破れて、いろいろな性質が現れたと想定されている。その対称性の破れにより自然の多様性が生じる。自然界の複雑な仕組み(物質の多様性、階層性など)は対称性の破れの結果である。元の対称性を保ったままならば、何の変哲もない一様な宇宙である。
 では、なぜその対称性が破れたのであろうか。その理由はまだ分からない。現在の宇宙における基本的法則として「エントロピー増大の法則」がある。この法則の本質的なところは、状態変化は確率的に起こりやすい方向に起こる傾向があるというものである。単純なものは取り得る状態の数が少ないが、複雑なものはバライアティーが多く取りうる状態数が多いので、物事の変化は複雑な状態の方へ移行する可能性(確率)が高い。対称性の破れはこれと似たところがある。

科学的に気になる表現・用語
科学的に気になる表現


 はじめに 

 日常何気なく使っている科学用語のなかで、一寸考えるとおかしい表現、つまり科学的に厳密な解釈に従うと、その表現が明らかに誤りであるものがある。たとえば、「エネルギーを消費する」とか、エネルギーを節約する意味で「省エネ」というのがそれである。エネルギーの全量は一定で保存することは、理科(自然科学)の「いろは」で誰でも知っているはずであるが、この表現を変だと思わずみなが毎日平気で使用している。先日も新聞の解説記事に太陽光や風力・地熱などを「再生可能なエネルギー」と説明していた。新聞記事に限らず、これに類するものを時々見かける。

 それを今さら言挙げして言う必要はないと思うかも知れない。事実そうかも知れないが、ここには理科教育や科学的思考に関する盲点が潜んでいるようにも思えるので、敢えて採りあげることにした。折角、学校で理科や科学を学んでも、その知識を自然現象や日常生活において科学的に理解したり、応用したりする訓練がなされないために、理科は「机上の科学」となって、自然と乖離した知識として覚える暗記科目となっている。このような現象は科学教育のあり方にも原因があるように思える。それゆえ、日常無造作に使われている言語表現、特に科学用語で上記のような「誤り」を採り上げて、その正しい表現を考えさせることは、筆者の経験からして、理科教育として有意義であるし、よい教材にもなりうる。

 そこで、科学用語を含み、誤った表現のまま使用されている事例をいくつか採り上げて、どう表現すべきかを提案し、議論の素材としたい。

(1)「エネルギーを消費する」、「省エネルギー」について 
 「消費」には消えてなくなるという意味がある。普遍法則である「エネルギー保存則」からみて、この表現は明らかに誤りである。エネルギーはその形態(種類)は変わっても全量は一定であるから、それを利用することで「消費」したり、「節約」したりできるものではない。
 エネルギーには種々の形態(種類)があり、それぞれみな質が異なる。その質の違いは有効性の差である。すなわち、利用するのに有効なエネルギーと有効でないものとがある。熱力学ではその差を「エントロピー」で表すし、エントロピーの低いエネルギーは有効性(利用度)が高く、逆にエントロピーの高いエネルギーは有効性が低い。たとえば、力学的エネルギーはエントロピーが低く、温度の低い熱エネルギーはエントロピーが高く利用度が少ない。
 人間が「エネルギーを使う」というのは、有効性の高いエネルギーを有効性の低いエネルギーに変えることで、「質の差を利用する」のである。言い換えれば、エントロピーの低いエネルギーをエントロピーの高い状態に変えることにより、そのエントロピーの差を利用するというわけである。その変化でエネルギーの量は増えも減りもしない。ただし、エネルギーを利用するとき、その目的のためには使われず、一部は外部に逃げてしまう。有効性の高いエネルギーというのは、それを利用するときに外部に逃げて無駄になる量が少ないエネルギーのことである。つまり、利用の際に損失が少ないく、利用度の高い(効率のよい)エネルギーをこのように呼ぶのである。
 有効性の高い電気エネルギーを利用してヒータで部屋を暖めるのは、有効性の低い熱エネルギーに変えているのである。その際、発生した熱はすべて部屋を暖めるためにのみ利用されるのでなく、送電におけるロスやヒータの運転にも一部使われる。
 それゆえ、「エネルギーを消費する」はせめて「有効エネルギーを利用する」とすべきだろう。

(2)「再生可能なエネルギー」について 
 環境保全のために、2酸化炭素や窒素酸化物を出す石油・石炭の使用や放射性物質を造り出す原子力発電を減らそうと、いわゆる太陽光・風力・地熱など「自然エネルギー」の利用を提唱している。この運動には賛成である。しかし、エコロジー運動で、太陽光や風力・水力エネルギーなどを「再生可能なエネルギー」と呼んでいるのをときどき見かけるが、どうもこの表現に引っかかる。
 この「再生可能」という言葉には、一度使ったものを、もう一度修復して再利用するという意味が含まれているだろう。だが、(1)で述べたように、エネルギーの量は減らないから、その量を復活させるという意味ではない。エネルギーの質も自然に再生されることはない。有名な熱力学第2法則の「エントロピー増大則」によれば、「閉じた系のエントロピーは増大する一方で減少することはない」。つまり、エントロピーの高い(有効性の低い)エネルギーは、それに手を加えることなく自然のままエントロピーの低いエネルギーに変わる(再生される)ことはありえない。一旦利用して高エントロピー状態になったエネルギーを、低エントロピーのエネルギーに変えて利用しようとすれば、そのために必ず別のエネルギーを使わねばならず、その結果、全体としてエントロピーはかえって増大し、環境に悪影響をもたらす。エントロピー増大を伴ってよいなら、すべてのエネルギーは低エントロピー状態に「再生可能」である。それゆえ、上記の「自然エネルギー」を「再生可能エネルギー」というべきではない。

 太陽光や風力・水力のエネルギー(これも元をただせば太陽光エネルギー)などは環境に悪影響を与えずに、太陽から「自然に補給される」エネルギーである。以上の理由により、「再生可能」に代わり「自然に供給可能なエネルギー」とか「持続的供給可能エネルギー」というべきであろう。

(3)「自然界に存在しない人工物質」について
 「自然界に存在しない物質」を本当に造ることができるのだろうか。自然界に存在する原料を用い、自然法則(化学法則)に則って合成した物であれば、自然界には必ず微量には存在していると思う。自然界は複雑多様で、その内容の豊富さには驚嘆させられる。科学の進歩とともに自然の探査が進むと、こんな物まで存在したのかと驚くような発見があった。また、理論的には可能だが、それが果たして実在し得るだろうかと思われていたものが、結局は発見され、自然の奥深さに改めて感嘆したことが多々ある。たとえば、ブラックホールもそうだし、「天然の原子炉」ともいうべきものも発見されたように、この自然界には自然法則に従って可能な物事は、人間の手に依らなくとも何処かに存在するというのが、最近の筆者の信念である。
 炭素原子60個からなるフラーレンにしても、また猛毒のダイオキシンや合成高分子なども、自然物質を用い自然法則に従って合成できるものである限り、人間が合成に成功する前から、自然界には極く微量ながら天然に存在していたのでる。それゆえ、「自然界に存在しない物質を生み出す」とか、「自然界に存在しない人工物質」を合成したという表現は正しくないと思う。極く微量にしか自然界に存在しなかったために、あるいは稀にしか存在しなかったために、それまで人類には未知であった物質を合成したのである。それゆえ、「それまでに未知の物質を人工合成した」というべきであろう。
その物質の存在の可能性を理論的に予測し、その合成法を考案して人工的に造り出したことは素晴らしいことである。そして、そのことは人間能力の発展の可能性には限りがないことを示すものである。しかし、その成功を余り誇張して、「自然界に存在しない物質まで造り出した」というと、人間の驕り「自然支配の思想」に繋がりかねない。ヒトも自然の一部であり、自然は人間よりも遙かに偉大であることを忘れないようにすべきである。

(4)「電子」の乱用 
 上記3つの例に類する気になる表現はまだ他にもある。たとえば、電気機器に「電子」という言葉がやたらに乱用されている。「電子レンジ」、「電子メール」、「電子投票」など、何でも「電子」を付けることにも違和感がある。電流は電子の流れであるから、電気機器には電子が関与しているが、電子の作用を直接利用しているわけではない。「電子レンジ」は電磁波を利用しているのだから「電波レンジ」というべきであろう。また、「電子メール」は「電紙メール」としてはどうだろう。 

 ここで指摘したことは、最初に触れたように科学教育では無視しえないものを含んでいると思う。特に(3)のテーマは、科学とは何かという科学観、そして自然はいかに奥深く内容が豊かであるかという自然観について深い意味を含んでいると思う。これまでに、レーザーやナイロンなどの合成高分子は天然には存在しないという反論もあった。しかし、これらも自然界に確かに存在する。したがって、この問題に関する正しい見解を持つことは、科学者としてのみでなく教育者としても大切なことであろう。それゆえ、細かいこととして片付けるのでなく、読者のご意見と議論をお願いしたい。

補足:
 この主張は、雑誌『日本の科学者』(2003.5)に発表した一文に加筆しったものである。
 それに対して、コメントを頂いたので、それに着いて私見を追加しておく。

1.「未知の物質」を合成することは無理、「発見」にしか過ぎないというコメントについて:
 科学は、人類にとってそれまでに未知のことを予言、予知できるところが素晴らしいのである。経験的に知られた現象や物質を説明したり作ったりするだけではなく、未知の現象や物質の存在の可能性を理論的に推測する。物質の場合はその製造法まで考案するから、「発見」ではなく、「未知の物質の合成」だと思う。その物質の存在の可能性から製法まで理論的に予言しているからである。ただし、それは「人間にとっては未知であった」が自然界には存在していた。

2.『自然界に存在しないしない人工物質』はないという論理は間違いである。「自然界には必ず微量には存在している」というのは、著者の思いこみであろう。レーザーやポリエチレンは自然界には存在しなかった、とのコメントについて:
 反例として挙げられている、レーザー光は、自然界に存在する。宇宙空間にある分子(OH、H2O、SiOなど)がメーザー作用をしていて、それぞれの波長のマイクロ波を放出している。人工メーザー、レーザーほど強度は強くなく、コヒーレンス度も高くないが、これもレーザーの一種である。無数にある星間物質や天体のなかには、人類のまだ知らないさらに強いレーザー作用が存在するであろう。地球にもあるだろうと私は予想している。  ポリエチレン、ポリプロピレンなど合成高分子(プラスチック)も、高分子である樹脂、琥珀などが、いろいろな化学変化を起こす中に、上記の物質が微量に出来ている可能性がある。知人の化学者に尋ねたところ、答えはイエスであった。
 人工物質といっても、その原料は自然界に存在している物質であり、合成する化学法則も自然法則であるから、自然界のどこかには必ず存在するのであろうというのが私の信念である。自然はそれほど内容豊かであるといいたいのです。
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