科学・技術と自然環境について、教育を考える。
プロ棋士に勝てる囲碁ソフトがついに出現
プロ棋士に勝てる囲碁ソフトがついに出現

囲碁の世界でもついにコンピューターはプロ棋士に勝った。グーグルの囲碁ソフトAlphaGOが中国出身でヨーロッパのプロ棋士に5戦5勝で完勝したそうである。

 コンピューターの愚直さと容量の限界ゆえに、当分の間は囲碁では人間に勝つことはできないと私は侮っていたが、ところが、ディープラーニング(深層学習)というソフトができて、学習能力のかなり高いソフトができたと3~4年前に聞いて考えが変わった。  深層学習によって、判断能力を養うことができるという。たとえば、人間の世話をするロボットは、人との交流を重ねることでその人の癖や性格を読み取り、状況に応じて行動(反応)するところまで進歩した。それを囲碁ソフトに用いたら、プロ棋士に勝てるソフトがそう遠くないうちに現れるだろうと予想していたが、これほど早く人間が追い越されそうになろうとは思いもよらなかった。私の予想よりも2~3年早かった。近くそのコンピューターAlphaGOと世界のトップ棋士李セドルとが対局するそうだ。多分AlphaGOが勝つだろう。
 
AlphaGOはこれまでのモンテカルロ法のソフトの上に深層学習ソフトを重ねたものだそうである。それはモンテカルロ法を用いて打った着手を分析して、学習ソフトによってその結果から学び、次に活かす。こうして、自らのソフトを改良するという方法であろう。それゆえ、モンテカルロ法がベースである。問題はその学習法の中身である。
 このコンピューターにトップのプロ棋士たちの棋譜から3000万にも及ぶ着手をAlphaGoのニューラルネットワークに与え、その後強化学習の手法を用いて、過去の対局データから、どのような手が最善手となる可能性が高いのかを学ばせる。このアプローチのおかげで、着手について評価すべき探索空間を大幅に削減でき(思考木の枝切りで)、現実的な時間内に次の着手を見つけ出せるようになったそうである。

モンテカルロ法は「カンニング法」
 以前の囲碁ソフトの開発は、布石や定石、攻め合い法などを記憶させた上で、囲碁理論を取り入れた評価関数(一手の価値を決める関数)を求めるという正攻法であった。しかし、うまい評価関数の開発は大変難しく停滞していた。そこで逆手を取ってモンテカルロ法が開発されてから、ゲームソフトは飛躍的に強くなった。囲碁ソフトも当然飛躍した。モンテカルロ法とは、ゲーム終局までの着手をランダムに並べ、すべてのパターンを較べてみて、その中の勝ちパターンを選ぶ。その着手系列を逆に辿ってその局面まで行き、着手を決める方法である。この方法は結果(答え)を見てもとに遡るのであるから、一種のカンニング法であり、ゲーム理論は原理的には一切必要としない。だから、手数が短く最後まで並べ切れるゲームなら、モンテカルロ法は負けなしである。だが、囲碁の場合は、手数が長く着手の変化は莫大であるから、終局まで打つには容量が不足し、最後まで並べ切ることは実際には不可能である。そこで無駄な着手の変化を切り落とす(思考の枝切り)ために「ミニマックス法」(詳細は省略)が開発された。
 ミニマックス法にはある程度の囲碁理論が要るはずであが、それでもカンニング的モンテカルロ法は正攻法でないから、囲碁理論の進歩にはほとんど寄与せず、強さにも限界があると思っていた。

 この深層学習法は、最善と思われるモデル(プロ棋士の棋譜)を多数与えておいて、その中から最善手に至る方法を学習させるというものであるから、これも一種のカンニング法である。すなわち、現在の囲碁界での最善のパターン(答え)に至る道筋に関するモンテカルロ法といえるだろう。それゆえ、この種のソフトは限られた目的にのみ適用可能であり、応用範囲は限られた狭い学習である。答えの分かっていない課題へのアプローチ、適応範囲の広い創造的学習とは異質である。
望ましい学習は、ミニマックス法での余分な枝切り法と着手の段階数を如何に減らすかを、自らの創造で改良する学習である。その方法が格段に進歩すれば、総合的判断力が優れたものになるので、そのプログラミングは着手を決める一種の「評価関数」となり得るだろう。それが「評価関数」となりうるなら、囲碁理論の進化に寄与しうると思う。

このソフトの問題点
囲碁・将棋などのゲームソフトの「学習」は、主として多くの情報を集めて新たな法則を見いだす帰納法による学習である。それは論理的証明に繋がる学習とは異質のものである。囲碁・将棋の学習には帰納法的学習が必要であり、論理的証明(演繹法)の能力は今の段階では要らない。ちなみに、演繹的証明法は帰納法的証明よりも遙かに難しいから、それはコンピューターには当分できそうにないと思う。

 今の深層学習法(ディープラーニング)は結果(学習目的)の分かっている問題について、反復経験により帰納的に学習するものである。つまり、技術学習には適しているが、問題を自ら見出し探究する学習には無力である。それは、いわば技術と科学の違いに対応するだろう。

  ゲームや単一労働などの個別的能力ではコンピューターは人間を超えることは可能だが、すべての点で、あるいは総合的な能力では容易に人間を超えられない。特定分野のことを学習するプログラミングを次々に追加することで何処まで進歩しうるか、予測はまだできない。論証の能力や創造性は、帰納的法則の学習で得られる能力とは次元の異なるものである。人間の意識と思考能力は複雑多岐、かつ高度であり、そのメカニズムは未知な分野が多い。 

(もう少し詳しい考察は、囲碁誌『囲碁梁山泊』の次号に掲載されるので、ここではそのエッセンスだけに止めた。)

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囲碁を学問にするために
続々 囲碁を学問にするために(2)  

 以前、大阪の「囲碁教育研究会」で「囲碁を学問にするために」というテーマの報告をした。それに対するコメントをいただき、それに対する私の考えを述べた。(このブログ「囲碁と教育」の記事参照)
 11月に再び、最初の「報告」を議論するためにその内容の説明を依頼されたので、その要旨と補足「続々」を追加したものを話した。その追加分をここに掲載する。
                          
ゲームとしての囲碁の特性

 囲碁の対局パターンは莫大で人力を遥かに超えるが有限であるから、それを全部並べ尽くすことは原理的にかの うである。それゆえ、必勝法、最善手は存在するはずである。そのことを前提にして論考する。

情報公開(open)ゲーム  
 囲碁や将棋は、互いに情報を公開した状態で交互に打ち進む。相手は最善手を打つことを前提として、着手を決 めることができるから。最善手は原理的ながら論理的に推論しうる。麻雀やブリッジは情報を隠してするゲム。

囲碁の観点の違い:石の生き残りゲームか、地取りゲームかで理論化が少し異なる。
 それゆえ、ゲーム規則にも反映する。   
構築型のゲーム:囲碁はゼロから出発し、互いに自らの構想を実現するように打ち進む。
 着手の自由度が最も多いゲームであるから、研究課題も非常に多い。
 
囲碁理論研究の目的 
 囲碁理論(論理)の発展・進歩、 囲碁ソフトの開発、 初心者の上達法の開発
 囲碁教育法の開発-子供、老人の入門用:入門用テキストからソフトの作製を

研究対象
・囲碁用語の定義-整理し、用語の意味の解説
・ゲーム規則の研究:中国、日本、台湾ルールの比較検討-完備な規則を追究
・ゲーム理論の研究:最善手・必勝法はあるか、勝つための理論
 布石、定石、手筋、寄せ、詰め碁などの開発と分類-その理論的体系化。
 戦略・戦術の研究:囲碁は構築型のゲームであるから、序盤・中盤の有利な構想を探究実利か厚みか、地か模様 かなど。
 戦術はすでに囲碁格言に纏められているが、それ以外にもあるだろう。

・分析法の開発:手割り論は優れた分析法である。モンテカルロ法もその一つ。
 他の分析法を開発すること(たとえば、エントロピー、シナジー概念を用いる方法)。
・囲碁ソフトの開発
  正攻法-布石、定石理論を用いて、評価関数を求める方法。
モンテカルロ法-結果から遡上。論理より結果がすべて。

アプローチの方法
 囲碁理論の構築:勝つための理論を目指す。
(1)情報公開ゲームであるから、常に最善手を打つという前提で、論理的に純粋理論を追究する方法が、理論化 の第一段階。
 これは数学や自然科学のように、情報は原理的に公開されている(自然は嘘をつかない)場合に相当する。それ ゆえ、囲碁の理論化には数学や物理学の方法が参考になりうる。
(2)現実の対局では棋力の程度によって最善手は望めない。そこで2人の駆け引き
 や、相手の出方を予想した上で着手を選ぶこともある。理論的最善手だけでなく、次善の策として心理作戦も使 うわけである。
 この方法はゲーム理論を応用した経済学の場合に似ている。情報の一部を隠し相手の出方によって次の手を考え る。これは相互に最善となる結果に落ち着くような駆け引きゲームである(ナッシュ理論)。この理論化は純粋 理論化よりも複雑で難しいから、確かな理論はできない。これは理論化の第二段階である。

純粋理論化の方法
・正攻法:着手の効果を理論的に追究し、評価関数を構成して最善手を求める方法。
 評価関数の表現法とその決め方が難しい。
・モンテカルロ法:結果の状態から遡って着手を決めるが、コンピュータの容量と時間  に制限があるから最後 まで読めない。「何手先までいった状態で情勢判断をするか(序  盤、中盤、終盤で異なるだろう)」を決め る理論、情勢判断の理論が必要である。余分な分岐枝の切り捨て法の理論化など、論理は必要である。  
  モンテカルロ法は、答えを見て回答を決める一種のカンニング法であるから、棋力には限界があるようにう。
・ファジー論理の活用:1手の着手にはいろいろな働き(役割)がある(攻め、守り、消しなど、)ので評価は多 義的である(多次元ベクトルで表現するのがよい)。また、価値判断は棋風にもよる。それゆえ、着手評価や情 勢判断はきちんと定まらず、不定要素がある(幅がある)のでファジー論理を用いた理論化の可能性もある。
 ・その他の可能性:正攻法による囲碁理論の研究により、新たな論理学が生まれる可能性もある。
 
実際の囲碁対局を「複雑系」と見ると 
 人間の思考力には限界があるから、最善手による完全な対局は望めない。そこで、実際の囲碁では勝つためにいろいろな要因が絡む。相手の思考傾向や癖を考慮して駆け引きもなされるだろう。まさに複雑系であり、力学理論よりも経済学の状況に近いかも知れない。
以前、森口先生より次のような指摘があった。囲碁の理論化はむしろ、「複雑系」の理論が必要となる。経済学に例をとると、複数の企業が市場で競争をする『寡占的競争』の例があてはまる。いくつかの有限の手を考慮した上で、利得の最大化、および、損害の最小化をはかっていくと、たぶん『ここらで手を打とう』という妥協点=部分均衡点がみつかる。そこで、無難なワカレに到達して、次のラウンドにすすむというわけである。
しかし上述のように、囲碁の理論化には、自然科学の方法が適用できると思う。自然科学の複雑系は経済学のそれよりも単純化できる。

自然科学における複雑系は、構成要素の数とそれらの間の相互作用の数(連結手、ボンドの数)が臨界点を越えた物質系である。この物質系は非平衡開放系であり、外部環境の影響のもとで、内部物質の相互作用によって発展・進化する法則を探究するのが複雑系科学である。複雑系の種類や外部環境との相互作用の仕方は多様であるから、状況により発展・進化の法則は異なるが、できるだけ広く共通する普遍的理論を構築することを目指している。そのためには、やはり出来るだけ副次的要因を排除し純粋化をする必要がある。この方法は物理学の場合と似ている。経済学的複雑系はもっと多くの難しい要因が絡むので、単純化、普遍化は困難であろう。
 囲碁を複雑系としてみると、盤面上の石の役割は一つでなく、他の石との関連は幾重にもなっていて、複雑に絡み合っている。すなわちそれぞれの石の連結数(ボンドの数)は多い。また、次の一手の働きも単純ではなく、攻め、切断、消し、連絡、逃げ、厚みなどいくつかの役割を兼ねた多様な場合が多い。一手打つごとに盤面は段々複雑になって発展・進化していく(構築型の特徴)。複雑系科学の研究によると、物質系の構成粒子の数とそれら相互の結合手の数(ボンド数)がある閾値(臨界値)をこえると、系は相転移を起こし質的変化が起こる。たとえば、電気回路網のモデルで言えば、電球の数が多く、かつそれら電球を結ぶ電線の本数(ボンド数)を3、4・・と増していくと、その電球回路網の様相(点滅パターン、カオス的不安定性など)が質的に変化する。それゆえ、囲碁の場合も、盤面の石数が増えると石の連繋も多義になるので、石の働きは質的に変化する。それゆえ序盤と中盤とでは、戦略・戦術が変わるはずである。 

 盤面上の配石が物質系に対応し、外部環境は対局相手である。その相手の着手が外部環境からの作用である。これら着手の多様な働きの1つひとつに比重をつけて最大評価値を得るように次の一手を選択せねばならないから、評価関数は多変数関数となる。また、一手の評価は人により異なるし、幅もある。それゆえ、イエス・ノーの二値論理ではなく多値論理を必要とするだろう。

 経済の「寡占的競争」の例は、相手の出方を考慮したうえで、利得の最大化と損害の最小化をはかって行動を選択するというのは、ナッシュ均衡の論理であろう。そうならば、相手の出方を忖度した一種の駆け引きで選択肢を決めることになる。囲碁の場合も、現実の生身の勝負では勝つために相手の心理や性格を考慮して、着手を選ぶこともあろう。すると、対応の仕方はかなり個別的となるから、そのような方法には普遍性がなく理論化は非常に困難であろう。

 一般的に、法則・理論には客観的普遍性が求められる。それゆえ、囲碁理論も、相手は常に最善手を打ってくることを前提にした理論を築くのが、囲碁を学問にするオーソドックスな道であると思う。
続 囲碁を学問にするために
続 囲碁を学問にするために

 前掲の拙稿「囲碁を学問にするために」次のようなご意見を頂いた。囲碁に対する見方は、それぞれ人によって当然異なるであろう。そのこと自体は囲碁の深さを示していると思う。これを機に考察を深めるために議論を続けたい。(囲碁教育研究会でも取りあげて議論していただくことになった。)

批判意見:「碁は調和であるとは日本の大家の方が多くいわれることですが、この頃の韓国、中国との対戦を見るとむしろ碁は破壊であるというほうが強いのではないかと思います.
 もし攻め合いを一つの完全なコンピユーターで計算すれば結果が出るでしょうが、二つのコンピユーターが分かれて計算すれば結果も分かれるのではないかと思います.
 だいたい碁とはなんぞやというのはあまり堅い学問にはならないのではないかと思っています.」

コメントに対する私の考え:
 まず、「完全なコンピュータ」をどのように作るか、その処方には囲碁の理論化が必要である。また、そのコンピュータが完全であるということの判定はどのようにするのであろうか。その基準を決めるにも囲碁理論が必要だと思う。
 次に、韓国・中国の対戦(戦略・戦術)は調和ではなく、「むしろ破壊であるという方が強いのではないか」ということについて。彼らは、調和や形の美などを無視し、囲碁ゲームを勝つための戦術として、実戦的な新手を編み出すことに力を注いでいるのであろう。その戦術・戦略を破壊と見るか、最善手追究の応酬と見るかは今後の検討課題であろう。彼らの対戦法についての評価は短期間には結論はだせないが、囲碁の理論化との関連で考察してみたい。というのは「囲碁はあまり堅い学問にはならないのではないか」との判断とも関係していると思うからである。

東洋的思考の傾向
 古代から中国では、具体的な個別知識の収集や実用的な技術の開発は優れていた。数学でも『九章算術』に代表されるように、具体的問題の解法はかなり高度に発達していた。だが、それらを一般化して抽象化・普遍化する発想はなかった。それゆえ、代数学は芽生えなかった。また、円周率や√2などの計算法も編み出していたが、それらが有理数(分数で表される)であるか、無理数(無限小数)であるかという問題意識は持たなかった。直角三角形に関する「三平方の定理」の具体的実例は沢山発見していたが、それが一般的に成り立つという証明はしなかった。すなわち、その方法は実学的(実戦的)であって、個々の具体的問題は解くが、それらを抽象化・普遍化して、「証明」するという発想は生まれなかった。このように、「計算術」は得意であったが「数学」にはならなかったわけである。
 このことは、程度の差はあれインド数学についてもいえる。総じて、東洋的思惟形式は具象的・個別的であり、抽象化・普遍化し理論化する思考法は弱かった。つまり、物事の思考は「術」の段階で止まり「理論」に至らなかった。日本人は中国ほど実学的ではないが、理論よりも技術的に傾いていた。
東洋人のこの思惟傾向は、西洋的論理学や近代科学が東洋で生まれなかったこととも関係している。古代ギリシア以来の三段論法の発達もなく(わずかにインドの因明論を除き)、中世のスコラ論理学のように徹底した形式論理の論争は東洋にはなかった。「神の存在証明」などのような空理空論といわれる「スコラ論理」ではあったが、その中で形式論理学(命題論理や述語論理学)の基礎が築かれた。

 再び算術・数学に戻ろう。インドにおける「ゼロの発見」は有名であり、中国では位取りや負の数を算木を用いた実際の計算では使用していたそうである。しかし、「ゼロや負の数は数の概念に入るか」ということをあまり気にしなかった。だが、西洋ではそのことに悩みその意味を真剣に議論した。また、微分の極限としての0/0は果たして意味があるかとうことでも、長い論争があった。その結果、「0」にも程度の違いがあり、一次、二次(高次)のゼロがあることに気づいた。一見何の役にも立たない無駄な空論を弄んでいるように見える議論が、その後の数学理論の発展に寄与したのである。
 東洋では、そのような抽象的議論は、「役に立たない」といって切り捨てる傾向があった。自然科学においても、経験的知識や技術を普遍化し理論化して科学にすることは得意ではなかった。中世までは東洋(特に中国)では技術の面ではかなり進んでいたが、途中で停滞して近代科学は生まれなかった。このことから学ぶことは、実際に役立つか否かを直ぐに判定できるような現象的レベルに止まることなく、さらに一歩踏み込んで抽象的・普遍的な論理に進むことの大切さである。

理論化とコンピュータソフトの開発
 囲碁の理論化の意義についてはすでに「囲碁を学問にするために」で簡単に述べたが、それに少し付け加えておきたい。
 学問には遊びの心がいる。ゲームや遊び心の中から生まれた学問は多い。囲碁は新たな論理や学問を生む可能性に富んだゲームと思われる。
 囲碁の理論化は難しく、完全なものは不可能であるが、それに近い理論を築くための努力は有意義であろう。その体系的理論化の過程で新たな論理学や問題意識が生まれるだろうから。

 特に、コンピュータの囲碁ソフトの開発には、囲碁理論の構築は不可欠であろう。布石や定石はかなり普遍的理論化がなされているが、新たな布石感覚や新定石が提唱されているし、手筋や詰め碁は、ある程度分類されているが、体系的にきちんと分類された理論はまだない。まして序盤から中盤における一手の評価を与える「評価関数」に関するよい理論はない。この評価関数の善し悪しが囲碁理論の決め手といっても言い過ぎではかろう。だが、それを決める理論はまだ暗中模索の域をでない。
 囲碁の一手の働きは多面的であるから、評価関数は多変数関数であり、しかもその評価値は一流棋士の間でも意見が分かれる。だから多値論理やファジー理論が必要であろう。つまり、「イエス・ノー」の2値論理ではすまないだろうから、弁証法も含め新しい論理が必要のように思える。

 囲碁ソフトの開発は、いまや世界的になされつつある。まだ体系的な基礎的理論がないので、試行錯誤の段階である。布石や定石を記憶させて活用したり、攻め合や詰め碁の手を読むことはできても、自力で判断することはできない。それぞれのソフトには特徴があり、癖や弱点を持っている。だから、その弱点を衝くと案外脆いと言われている。
 評価関数を作る試みはいろいろなされているが、まだ非常にレベルが低い。でも、欧米でのこの方面での研究は、侮れないように思う。その方法はできるだけ広い場面に適用できるような評価関数を模索しているからである。つまり一般化・普遍化ができるような方法で理論の開発が進められているように思う。このような探究法は、遠回りのようであるが、やがて強力な理論を生み出す可能性がある。

 フォン・ノイマンがゲームの理論を最初に作ったが、それがやがてオペレーションレサーチに適用させられた。そのゲームの理論はさらに、複雑な形式のナッシュ理論にまで発展進化した。そのような発想は東洋にはなかった。一度彼らが真剣に囲碁理論の研究に取り組んだら、いつか壁を突破して急速に進歩する可能性がある。
いずれにせよ、囲碁には東洋的思考法と西洋的思考法のいずれが適しているかを見るのも興味ある課題であろう。

 要するに、囲碁は一般的理論化ができない、体系的学問にすることはできないと諦めるのではなく、執拗に追究する価値のある対象であると思う。


思考形式、自然観、科学・技術に関する東西比較については次の拙稿を参考されたい。
1.『東の科学・西の科学』(東方出版1988年)(共著)
2.「近代科学はなぜ東洋でなく西洋で誕生したか」『比較文明』No.15(1999年11月)
「囲碁を学問にするために」への批判と回答
「囲碁を学問にするために」への批判と回答 

前掲「囲碁を学問にするために」に対して批判が寄せられた。有益な意見であり、このような議論をすることにより考察を深めることができるので、大いに歓迎する。

 指摘された問題点について、私の言い訳と反論を以下に述べる。

問題点1.囲碁は、二人のプレーヤーが相手の動きを予想しながら対決するゲームであるというゲーム論的視点が欠けているのが問題だとおもう。 

 この指摘はその通りだと思う。だが、私はまず、現実のゲーム進行とは異なる理想化された囲碁の理論化の方法とスタイルを述べた。
 理論化の方法には二つの段階があると思う。まず第一段階は、できるだけ問題を単純化・理想化した状況を理論化する。これは科学で言えば、副次的な要素を除いて単純化し、純粋な法則をもとに理論化する段階であり、力学の基礎理論がそれである。
 次の第二段階は、その理想化された理論に現実的な要素を取り入れると、どのように修正されるかを分析する。その上で、できるだけ現実的な要素を考慮した総合的判断によって次の段階の理論化を行う。
第一段階は、碁盤上の配石、つまり囲碁の進行しつつある局面のみを問題にして、次の最善着手を決定する理論を求めることである。相手も常に最善手を打ってくることを前提にして、目の前に与えられた盤面の状況に対して、最善手はどれかを決定できる理論の構築である。この場合は、相手の意識状態や駆け引きは無視した純粋理論化である。
ユークリッド幾何学とニュートン力学を例に説明したのはそのためである。

問題点2. 囲碁の理論化を物理学とのアナロジーで展開しようとするのは無理だと感じる。むしろ、「複雑系」の理論が必要となる。

 現実の囲碁対局は相手の反応を無視した単純理論では扱えないから、物理学とのアナロジーは無理だというのはそうであろう。しかし、上述のように、第一段階の理論化には物理学のアナロジーは通用すると思う。
 ニュートン力学では複雑な現実の運動を分解して単純化し、二体問題に帰着する。つまり、素過程は二粒子間相互作用であるとして、複雑な現象も二体問題の組み合わせとする。さらに、二体間の相互作用(力)を切り離して、相手の作用を外力とすると一体問題にできる。すなわち、外力のもとでその一粒子の運動を扱うことができる。それが運動方程式の ma=fである。
 この理想化された運動法則をもとに、空気の抵抗を考慮したり、拡がりのある物体の回転を取り入れたりして現実の運動を説明するのである。

 この方法は、囲碁では対局の相手を一応外して、盤面の配石のみを考察の対象とすることに対応する(第一段階)。(複雑系科学の理論化は第二段階になるだろう。)

 囲碁は初手から終局まで、手順と配石のパターン数は超天文学的数であり、人間の扱える限界を遙かに超えるが有限である。したがって、原理的には全てのパターンを並べ尽くすことは可能である(人間には不可能だが)。ならば、必勝法は存在するはずである。
 したがって、与えられた盤面の状況に対して、最善手は存在するはずである。次に相手が最善手を打ってきても、また最善手で応える手はあるはずだ。(先手必勝なら、この方法で最善手を打っていけば、先手が勝つ方法はあるはずである。)
そのような最善手を見出すことは人間には不可能だが、できる限りそれに近い着手を決定できる理論は存在するはずである。それは相手との駆け引きなど考慮しなくてよい純粋理論化であり、囲碁理論として当然目指すべき方法の一つであろう。いや、一つの方法と言うより、囲碁の基礎理論として不可欠なものであると思う。
 フォン・ノイマンのゲームの理論はこのレベル段階だろう。
 囲碁ソフトの開発では、この第一段階の理論がベースになるだろう。特に、評価関数を作る論理にはこの種の基礎理論が必要である。コンピュータは対局相手の癖や性格によって着手を変えることはできないから、誰にでも通用するソフトを開発するのが基本である。

問題点3. 囲碁の理論化はむしろ、「複雑系」の理論が必要となる。経済学に例をとると、複数の企業が市場で競争をする『寡占的競争』の例があてはまる。いくつかの有限の手を考慮した上で、利得の最大化、および、損害の最小化をはかっていくと、たぶん『ここらで手を打とう』という妥協点=部分均衡点がみつかる。そこで、無難なワカレに到達して、次のラウンドにすすむというわけだ。

実際の囲碁では勝つためにいろいろな要因が絡む。相手の思考傾向や癖を考慮して駆け引きもなされるだろう。まさに複雑系であり、力学理論よりも経済学の状況に近いことは認める。しかし、自然科学の複雑系は経済学のそれよりも単純化できる。
自然科学における複雑系は、構成要素の数とそれらの間の相互作用の数(連結手、ボンドの数)が臨界点を越えるた物質系である。この物質系は非平衡開放系であり、外部環境のもとで発展・進化する法則を探究するのが複雑系科学である。複雑系の種類や外部環境との相互作用の仕方は多様であるから、状況により発展・進化の法則は異なるが、できるだけ広く共通する普遍的理論を構築することを目指している。そのためには、やはり出来るだけ副次的要因を排除し純粋化をする必要がある。この方法は物理学の場合と似ている。経済学的複雑系はもっと多くの難しい要因が絡みむので、単純化は困難であろうが。
 囲碁を複雑系としてみると、盤面上の石の役割は一つでなく、他の石との関連は幾重にもなっていて、複雑に絡み合っている。すなわちそれぞれの石の連結数、ボンドの数は多い。また、次の一手の働きも単純ではなく、攻め、切断、消し、連絡、逃げ、厚みなどいくつかの役割を兼ねた多様な場合が多い。一手打つごとに盤面は段々複雑になって発展・進化していく。
 盤面上の配石が物質系に対応し、外部環境は対局相手である。その相手の着手が外部環境からの作用である。これら着手の多様な働きの1つひとつに比重をつけて最大評価値を得るように次の一手を選択せねばならないから、評価関数は多変数関数となる。また、一手の評価は人により異なるし、幅もある。それゆえ、イエス・ノーの二値論理ではなく多値論理を必要とするだろう。
 経済の「寡占的競争」の例は、相手の出方を考慮したうえで、利得の最大化と損害の最小化をはかって行動を選択するというのは、ナッシュ均衡の論理であろう。そうならば、相手の出方を忖度した一種の駆け引きで選択肢を決めることになる。囲碁の場合も、現実の生身の勝負では勝つために相手の心理や性格を考慮して、着手を選ぶこともあろう。すると、対応の仕方はかなり個別的となるから、そのような方法にはこ普遍性がなく理論化は非常に困難であろう。
 一般的に、法則・理論には客観的普遍性が求められる。それゆえ、囲碁理論も、相手は常に最善手を打ってくることを前提にした理論を築くのが、囲碁を学問にするオーソドックスな道であると思う。
 
問題点4.碁とは『調和のゲームである』と呉清源はいう。この場合、プレーヤーはともに部分的均衡を求め、カタストロフを避けるということになるのだろう。碁は最終的に細かくなって、どちらかが、半目勝ちになって終わるだろう。それを理想としてよいのかもしれないが、 実際には、勝負師を自認するようなプレーヤーは、相手の不完全性を信じて、勝負を挑むだろう。その時は、どちらかがカタストロフにいたるわけだ。
私は囲碁の戦いの流れをそのようなものだと理解するのが、囲碁の本質を衝いていると思っている。しかし、そのようなアプローチで、囲碁を理論化してみろといわれると、怖気づいてしまう。これは、壮大な複雑系モデルの作成を意味するからである
 

 呉清源の「囲碁の真髄は調和にあり」と言う言葉は有名である。「碁とは調和のゲームである」というのは、駆け引きなしに両者が常に最善手を打つということを前提にしたものだろう。すなわち、理想化された囲碁論であろう。上述のように、囲碁を学問にするには、まずそのような理想化された状況を理論化すべきだと思う(第一段階)。その次に、第二段階として、現実的要素を取り入れた理論を築かざるをえないだろう。物理学の例でいえば、ニュートン力学(第一段階)を経ないで、いきなり相対性理論や量子力学(第二段階)を築くことは、不完全な人間の認識能力では不可能である。囲碁もおなじであろう。
 「実際には、勝負師を自認するようなプレーヤーは、相手の不完全性を信じて、勝負を挑むだろう」というのも、現実はその通りと思う。しかし、その方法は個別的であって、それを体系的に理論化することは、いかに複雑系理論を用いても無理ではないだろうか。状況が自分に不利であるとき、このまま行っては挽回できないときに勝負手を挑むことを戦術としていうことはできても、いかなる状況のときいかなる勝負手を打つかを示す一般的理論を作ることが果たしてできでうだろうか。

問題点5.最近急速な進歩を見せている対戦ソフトは、モンテカルロ法を応用しているとのことだ。上記の私の議論にそっていえば、複数個の手のそれぞれに確率を付与して利得関数を最大化するのではなく、有限個の手の流れを打ってみて、それぞれの流れの行き着く先を『形勢判断』し、これによって当面の手を選択するというものである。形勢判断をどういう評価関数でやるのか、というのが次の問題であるが。 

 モンテカルロ法は、いわば「試行錯誤法」であって、ソフトの開発法としては本筋ではないと思う。この方法である程度までは強くなるが限界があるだろう。特に、形勢判断の評価関数をいかに作るか、その論理を築くのが囲碁理論の本筋と思う。そのためには、第一段階の理想化された場合の理論化が不可欠であろう。


 私のこの意見について、後日さらに議論を続けることになっている。
囲碁を学にするには
囲碁を学問にするために         
 (囲碁教育研究会で依頼された報告)    

[1]囲碁の理論化について

 囲碁の経験的法則を理論化し、科学的な学問体系にできれば素晴らしいことである。
碁盤目は19x19=361あるので、初手から終局まで、可能な着手の組み合わせは莫大なものになる。したがって、その全ての変化を尽くすことは遠く人力の及ぶところではない(注参照)。しかし、いかに大きくとも、その着手の組み合わせ数は有限である。 それゆえ、それらを全て尽くすことは原理的には可能であるから、必勝法は存在するはずである。ということは、最善手を見出す必然的法則を導く囲碁理論は存在するはずである(それと同時にコミの数も決まるはず)。それを「究極囲碁理論」と呼ぶことにしよう。
 その究極理論のための論理を発見し、囲碁理論を一つの演繹的体系に組み上げることは、人間には不可能であろうが、経験的に積み上げられてきた囲碁の法則性を理論化し、それを究極理論に向けて進化させることは可能である。そのような理論化の努力は、囲碁ソフトの開発には絶対に必要であり、また、その論理は他分野へ応用できると思われる。
そこで、囲碁教育研究会では、「囲碁を学問にしよう」との願望を抱き、その試みがなされつつある。それにはまず、囲碁を学問にするための予備考察「学問であるための条件」を明らかにしておく必要がある。
 
(注)囲碁の着手可能数:原理的には361!(階乗)ある(実際には、最初の数手は第1線、2線には打たないし、長くとも300手位で終わるので、盤面を最後まで埋め尽くすことはないから、実質的にはこれよりかなり少ないが、取り跡に打つこともあるので、ほぼ300!程度であろう)。 361!は 10700 以上になる(300!でもほぼ  10600)。これがいかに莫大な数であるかは、この宇宙に存在する素粒子の数がほぼ 1080 であることと比較すればわかるであろう。 全く比較にならないすうであり、まさに超天文学的数などという生やさしいものではない。 したがって、囲碁の着手変化を尽くすコンピュータ・メモリーも、必勝の囲碁ソフトも作りえない。

[2] 学問であるための必須3要素  
 全ての学問には、それぞれ固有の研究対象、固有の研究方法、および固有の理論体系とがある。これが学問であるための3要素である。それを数学と力学を例に考察する。

ユークリッド幾何学の場合 (公理的理論体系として最初に完成された論証数学)
 古代エジプト、バビロニア文明は、日常的経験(生産活動)や測量・天体観測技術を通して得られた数論と幾何学に関する知識を蓄積し、ある程度理論化した。 その幾何学的知識を、ギリシア文明が受け継ぎ、幾何学の理論体系に集大成したものが『ユークリッド原論』である。

研究対象:図形の性質と図形間の関係を追求することである。
研究方法:公理に基づく推論によって、図形に関す問題(定性的、あるいは定量的問題)を立  て、それを証明す  る、いわゆる「前提(仮定)-証明-吟味」することである。
 『ユークリッド原論』は、それまでの直感的証明法に代わり、論理的演繹によって証明する論証数学を築いた。
 論証法として、演繹法(直接証明法)、背理法(間接証明法)、数学的帰納法、などが用いられる。      その際、分析・総合などの思考法も用いられる。

理論体系:基礎概念、公理系、諸法則(定理)からなる体系

基礎概念:まず公理や法則を組み立てるための基礎概念(点、線、面、角度、平行線、等しい、など)を定義する。
 公理系:その概念を基に公理系を設ける。(任意の点から任意の点に直線を引くこと、直線の延長、1点を中心に円を引くこと、全ての直角は等しい、平行線の公理など、5つ)(『ユークリッド原論』ではアイテーマ・公準となっている。これ以外に、算術と幾何学における推論規則となるアキシオマータ・公理もある。)
 公理とは基礎概念から組み立てられる命題であって、(経験的判断に基づいて)普遍的に妥当と思われる最も基礎的な仮定である(証明できない命題)。
 公理系とは、推論規則によって、それから図形(幾何学)の性質に関する新たな命題(定理、法則)を次々に導くことができて、一つの理論体系を築くに必要な公理の集合系である。これを演繹的公理系と呼ぶ。
 公理系の充たすべき条件は、公理は互いに無矛盾であること、演繹的体系として必要十分なものを具えている(余分なものを含まない)ことである。 この条件を充たすものを完備な公理系という。
公理系の変化は学問の進化をもたらす。ユークリッドの平行線公理に代わり、別の平行線公理を仮定すると非ユークリッド幾何学になる。これは幾何学の進歩発展である。
定理(法則):基礎概念の定義と公理系とから、新たな基本定理(法則)が導かれ、同時に二次的概念が派生する。ユークリッド幾何学の場合、基本定理は対頂角は等しい、平行線の同位角同士・錯角同士は等しい、三角形の内角の和は2直角などである。三角形の合同条件や相似条件も基本定理に入る。2次的概念は、垂直、対頂角、補角、三角形、二等分線、円弧、半径、接線などである。
  
  公理系とこれら基本定理とから、2次的な定理が導かれ、同時に新たな2次的概念(3次的概念)が派生する。直角三角形に関するピタゴラスの定理、三角形の3本の2等分線は1点に交わる(重心に関する定理)、円に内接する三角形の性質に関する諸定理などが重要な2次的定理である。さらに、系(特殊な定理)が次々に導かれる。
 理論体系:数学(自然科学も)の理論体系は、個々の知識や個別法則の単なる寄せ集めではない。 これら基礎概念、公理系、定理・法則が有機的に関連し合った一つの演繹的体系が理論体系である。 その理論体系は、研究対象の事柄(幾何学では図形の性質や関係など)を、できるだけ広範囲に解明、あるいは説明できるものが望ましい。対象となる全ての事柄を解明できる理論体系は「完備な理論体系」である。

[3] 囲碁を一つの学問にするには(やはりこの3要素が必要である)

(1)研究対象
 ゲームとしての囲碁理論、および囲碁の発展史の2つがある。
ゲームとしての研究対象は、囲碁ルールの改良と完全化を追求すること、そして、決められたルールに従って囲碁ゲームを勝利に導く戦略と戦術を見出し、それを理論化することである。
 また、囲碁発展史の対象としては、囲碁を単にゲームとしてその発展史を見るばかりでなく、文化の一形式としてその発展の歴史を探究し、囲碁の社会的存在意義も探る。

(2)研究方法(手段)
 ゲームとしては、勝利への戦略や戦術を探究するための論理を求める手段である。すなわち、囲碁ルールに従った推論規則、それによる読み(予測)である。
 戦略・戦術を築くための方法には、分析・総合と帰納・演繹の論理的方法がある。分析法の例は着手の部分的評価をする手割り論などであり、総合法は部分を関連づけて全体の情勢を判断するものである(定石の選択など)。帰納法は経験的に最善手を発見し、布石や定石の改良に寄与する。演繹法は囲碁ルールに従って囲碁理論(法則)からさらに新たな法則を導いたり、最善手(できれば必然手)を見出すために用いられる。その際、定石や手筋、および死活などに関する技術を活用する。
 また研究方法として、当然ながら、実戦的経験が不可欠である。実戦は囲碁理論の開発に必要であるばかりでなく、理論の検証にも役立つ(数学の場合は具体的問題への応用、自然科学の場合は実験・観測に相当)。
 囲碁発展史の研究には、通常の歴史研究と同じ方法が用いられる。昔からの文献や囲碁の道具を発見し、検証する。

(3)理論体系 
 囲碁の基礎概念:白黒の石、盤目(交点)とその数、星、天元;繋ぐ、切る、囲む、取る、地などである。死活、コウもルールを決めるために必要な基礎概念である。
 公理系に当たるもの:囲碁ルールである。ゲームが支障なく進行できて、終局し勝敗が決定できるような完全なルールは、完備な公理系といえる。これに関しては、日本ルールは完備とはいえないだろう。
 囲碁のルールは時代とともに変化改良されてきた。事前置き石制(予め星に白黒同数の石を置いた状態から開始)から自由布石制への進化がった。また、中国ルールから日本ルールへの変化もある。ルールの改良はゲームとしての囲碁の進化である。
 ルールの変化は、二次的概念や理論内容に影響する。
 囲碁理論:囲碁理論の目標は、囲碁のルール(公理系)に従って、戦略・戦術を立て、最善手を決定できて、ゲームを勝利に導ける理論体系を築くことである。必勝法である「究極理論」は完備な理論体系である。それは不可能であろうが、それにできるだけ近い理論を求めているわけである。
 囲碁の基礎概念の定義と囲碁ルールとから派生する二次的概念には、碁盤に関するものとして隅、辺、中央、3-三などがあり、石の形の関する呼び名(掛かり、1間飛び、桂馬、コスミなど)と石群の性質を表す概念(模様、厚み、壁など)がある。死活に関しては、セキ、隅の曲がり4目などであろう。法則に関するものは、布石、定石、手筋、ヨセなど。
 これら基礎概念、二次的概念、および囲碁ルールから、囲碁の論理や法則が導かれ、体系的理論を築くことが可能なはずである。

 囲碁理論には、序盤、中盤、終盤に特有なものがあり、それぞれ異なる。それら3つの段階には、個別法則として経験的に得られた帰納法則と、論理的に導かれた理論的法則とがある。それら法則は、囲碁の格言になっているものが多い。(ただし、経験的帰納法則が多い。)たとえば、「厚みに近寄るな」、「厚みを囲うな」は半経験・半理論的法則である。攻め合いの手数に関する法則(目あり目無し、内駄目と外駄目の数、大中・小中など)は理論的法則といえる。
 序盤には、戦略的構想を立てる総合的理論が求められる。その構想の実現に向けて布石を行う。それゆえ、序盤の理論は布石理論が中心である。定石の選択、大場・急場、先手・後手などが、布石理論における重要な2次的概念である。布石理論は、ある程度理論的裏付けはされるが、まだ経験に基づく帰納的法則の域を脱していない。
 定石選択や布石理論などは、戦略にかかわる重要なものであり、序盤における高度の抽象的理論であるが、まだ経験的に蓄積された知識を基に見出された個別法則である。それら法則の評価に個人差(好み)があることからも分かるように、確かな論理によって導かれた普遍法則(何時何処でも適用できる法則)ではない。
 定石は部分的(局所的)領域に関する半帰納的法則・半理論的法則である。定石の評価に個人差があることや、定石の進化があることからわかるように、まだ経験的法則である。
 定石や布石の適否の吟味法に手割り論がある。手割り論は結果の適否を論理的に論証するための分析的手段である。
 中盤の理論は、戦略的構想を完成させるための戦術理論であろう。石数が多くなるので、考慮すべき要因が複雑に絡む。攻防、打ち込み、死活に関する手筋(技術)に関する理論が中心となる。石の死活に関する理論は、かなり分類され体系化されているが、まだ経験法則から抜けられない。新詰碁問題がまだ次々に創作されていることはその証拠である。  
手筋は主に中盤・終盤(序盤でも使われるが)における戦術にかかわる技術である。
終盤は、主としてヨセの理論である。ヨセの理論も終盤における戦術的技術であり、死活を考慮した手筋と先手後手がものを言う。ヨセの方法はかなり定量的理論に体系化されている。
囲碁理論の体系化を: 法則には適用範囲の広いものと、特殊的なものがある。できるだけ適用範囲の広い普遍的法則が望ましい。最終目標は、必然的着手(最善手)を論理的に演繹できる普遍法則である。
 経験的帰納法則であれ、論理的普遍法則であれ、それら個別法則を関連づけて囲碁理論を一つの演繹的理論体系(次の着手が決定できるための理論)にまとめるべきである。
 「玄玄碁経」「官子譜」や「孫子の兵法」などの教訓は囲碁理論を組み立てる際に参考になろう。それら教訓を随時その中に織り込んで、考察するのがよいだろう。

[4] 囲碁論理の複雑さ 
 囲碁の演繹的理論体系を築くには、「ゲームの理論」の援用が不可欠である。 しかしながら、囲碁論理の特徴は、石の働きの2面性からくるものであろう。 厚くし過ぎると全体に遅れるし、先に走りすぎると薄くなる。 地に辛ければ勢力を張られるし、隅や辺によりすぎると閉じ込められる。 これら2面性は相補的な関係にあって、一方を立てようと思うと他方が立たず、バランスよく両立させるのは難しい。 さらに、囲碁理論には背反的性格がある。 「右を打とうと思えば左を打て」、「厚みを囲うな」などがそれである。 このように常識的判断に反する思考が求められる。 囲碁に限らず、物事には全て2面性があり、条件次第でよくも悪くもなる。 格言はある一面を強調するものが多く、大抵の場合それと反対の意味のことをいう格言がある。 その中でも囲碁の格言には2面性が強いように思う。
 囲碁の有するこの二つの特性:相補性と背反性という2面性は、型通りの形式論理には収まりきれない弁証法的論理といえるであろう。 また、一つの着手決定に考慮すべき条件が多義にわたる(攻め、守り、厚み、石の強弱、死活、地など)からである。 それらの条件の重要度は、状況により変わるし、判断には幅がある(個人差)から、まだ決定論的法則(一義的に答えが出せる法則)を求めるのは無理である。 それゆえ、ファジー論理(前提条件や答えに幅を持たせる論理、曖昧論理)を用いねばならないだろう。 これらのことから分かるように、囲碁の推論規則と証明法は、複雑であり、弁証法的論理や多値論理を必要とするだろう。
 いずれにせよ、次の最善手を導くための理論を築くには、着手の評価関数を構成することが不可欠である。 何が最善手かを明確に決めるには定量的理論を必要とするからである。 定量化には評価関数を作るのに採り入れるべき「基準要素」とそれら要素の「優先順位」を見出すことが先決である。 それには、エントロピーやシナジー(共同性)などの考え方が役立つかもしれない。 着手評価を定量化する基準を見出すことが、評価関数を作る鍵である。
 囲碁理論、特に序盤・中盤の理論の体系化には評価関数が不可欠で、それが理論体系の要になるだろう。

(注)「ゲームの理論」:
 ゲームの理論は、フォン・ノイマンによって創始された。 最初の理論は、最も単純化された「2人和ゼロゲーム」である。 2人の対戦者が得点を争い、2人の得点数の和は常にゼロとなるゲームである。 これが定量的ゲーム理論の始まりであり、この論理の定式化の意義は大きい。その後、ゼロ和でないものや、1対複数、複数対複数のゲーム理論が開発されている。特に、ナッシュによって、ゲーム理論は質的に飛躍を遂げ、経済理論にも活用されている。
 囲碁は2人ゲームであるが、「和ゼロゲーム」ではない。また、現在までに開発されているゲーム理論よりも、複雑な論理を必要とするように思える。 それでも、現存のゲーム理論を下敷きにして考察すべきであろう。

[5] 「理論の体系化」の意義 
 囲碁の理論化(学問化)の意義に触れておきたい。 囲碁は理論化が難しく、それを体系化することはさらに困難であるが、しかし不可能ではないと思う(完備な究極理論は無理であるが)。
 体系化された理論は演繹的推論によって証明や予測を容易にする。 したがって、見通しがよくなり理論の発展を促すので、理論を体系化することは大変重要である。
 フォン・ノイマンは戦略論から「ゲームの理論」を開拓し、定量的ゲーム理論を作った。 その理論はゲームの領域を超えて、社会学や経済学などと結びついたオペレーション・リサーチの飛躍的発展をもたらした。 囲碁を単なるゲームの域をこえて、学問的な理論体系に仕立てることができるならば、上記の意味で、これまでの論理学とは異なる新たな論理学と人間行動学などへの道を開く可能性すらあるだろう。
 囲碁には多分にファジー(曖昧)なところがあり、一手の価値を定量化しにくいので定量的理論化は困難ではあるが、それだけに定量化の成果も大きい。 このような研究は囲碁ソフトの開発にも欠かせないものであろう。 囲碁の理論化(定量化、法則化など)はすでに部分的に出来ているものもあるが、不完全であり、かつ不明確なところが多いし、まだ気付いていない問題もあるだろう。 最善手を論理的演繹によって決定できる理論がまだないから、経験(練習)によって養われた感性によるところが大である。 現段階では、先ず直感により好手と思う着手をいくつか考え、読みの力でそれら着手を吟味し、最善手と信じる手を選んでいる。つまり、感性と読みの協同である。

 囲碁理論を築くには、不十分ながらも蓄積されてきたそれら概念、手法、法則などを、さらに徹底的に分析して明確に定式化した上で、理論を組み上げねばならない。 その際、最も重要なことは、それらを普遍化し、一つに纏めて理論的に体系化することである。 科学理論の本質は、基礎概念や基本法則をきちんと論理的に定義し定式化することにあるが、大事なことは、それら基礎概念や法則をばらばらに寄せ集めただけのものではなく、有機的に関連づけて演繹的な体系に組み上げているところにある。 この演繹的に体系化された理論ゆえに、先の見通しがよくなると同時に、未知領域への発展的推論と予言能力を有するのである。 それゆえに自然科学は飛躍的に発展し得たことを認識すべきである。
 一般に、理論の普遍化と定式化は、理論の客観性を増すばかりでなく、その内容を正確に他人に伝達することを容易にする。 それゆえ、理論的知識の伝承において経験的熟練と単なる感に頼る部分が大幅に減少する。 それが理論の急速な進歩発展を可能にする所以である。
 囲碁理論を、学問として体系化できれば、その理論は普遍性と客観性を増すので、理論的知識の発展と蓄積も飛躍的に増大する。 そうなれば、直感に頼るところも減るので、他人に伝え広めることも容易になり、囲碁の上達も早くなる。

[6] 自然科学、数学、囲碁の理論体系の比較
 囲碁理論を数学理論と対比させるばかりでなく、囲碁と経営の理論を比較して相互の類似性を解明することは、両者の発展のために有益であろう。 その理論を公理的に体系化する場合、数学や科学の理論体系が参考になる。 だが、経営理論との対比は、数学よりも自然科学(特に物理学がよい。 生物学はまだ公理的体系化がなされていない)の方が適切であろう。 自然科学は自然から情報を採り入れつつ前進発展するという点で、一種のサイバネティクス系である。 それゆえ、学問体系の論理構造として、数学(ユークリッド幾何学)、物理学(ニュ-トン力学)と囲碁を対比させてみるならば、得るところは大であろう。

囲碁
 対象:囲碁規則とその完全化、勝利の戦略と戦術

方法: 囲碁ルールに従った推論、読み、手割り、
    戦略・戦術を築く方法、布石、定石、手筋の開発、
    分析総合、帰納繹演、実戦による検証

 理論体系:
基礎概念:白黒の石、盤目の数、繋ぐ、切る、囲む、取る、 
      地、駄目、死活、コウ
 公理系:囲碁ルール (矛盾のない 完備なルール)
理論:基礎概念とルールから戦略・戦術を立て、
    最善手を決定できる理論体系を目指す(必勝法は究極理論)、
    部分法則・技術として布石、定石、手筋とその発展改良法、
    評価関数による定量化、
    序盤、中盤、終盤の定量的理論化、詰碁理論も独自の体系

ニュートン力学
対象:物体の運動規則、運動の原因

 方法:現象→実体→本質(注1)、仮説→演繹→実証、
    分析総合、帰納演繹、観察・実験による実証、
    定量化(数学の援用)、演繹理論の体系化

 理論体系:
基礎概念:時間、空間、速度、加速度
     質点、質量, 慣性、力(作用)、 反作用、
 公理系:慣性の法則、運動法則、作用・反作用の法則、
(基本法則)
 理論: 基礎概念と基本法則から力学の1次法則を導き
     力学の演繹的体系を築く、
    全ての力学現象を理論的に解明(説明)
 未知の現象を予測可能性、予言-演繹-検証は理論体系の検証
    (1次法則は運動量保存則、エネルギー保存則、弾性法則など)
    力学に関して相対的に完備な体系(注2)

ユークリッド幾何学 
対象:図形の性質と図形間の関係

 方法:公理に基づく推論、 図形問題の証明、
   前提-証明-吟味、公理、証明の吟味、
   分析総合、帰納演繹、演繹理論の体系化、
 
理論体系:
 基礎概念: 点、線、面、角度、平行線、等しい、など
  補助線
公理系:平行線の公理など5つ、
     直線や円を書くこと、全ての直角は等しい、
 理論:基礎概念と公理系から幾何学の定理を導き演繹的理論体系を構成、
   幾何学図形の性質を解明、
   公理系-1次定理-2次定理-系、公理系が無矛盾で必要十分なことの吟味
   予測可能性-新たな問題、相対的に完備な理論体系


(注1)「現象-実体-本質」(科学的認識の3段階論)について
 科学的認識の重要なことは、現象を分析して、現象の背後にある本質(法則)を掴むところにあると、一般にいわれている。 その本質を把握するまでの過程は、現象からいきなり本質を掴むのではなく、その前に、それら現象を担っている実体の認識が重要な鍵となることを指摘したのが、武谷三男である。 これがいわゆる「認識の3段階論」である。
 本質が具体的姿で現象するには、その現象の舞台となる担い手がある。(何もないところに現象は起こらない。) その担い手の普遍的なものを実体と呼んだ。自然科学の場合、その実体は物質的なものばかりでなく、形相的なものもある。
 ニュートン力学においては、その形成過程で、惑星の運行に関するケプラーの法則が重要な役割を果した。 ケプラーの法則のなかの惑星の「楕円軌道」が実体の一つであると武谷は主張した。ギリシア以来の「円」の完全性というドグマから脱却し、円軌道(神の意志)に代わり楕円軌道を導入したことが、天体運動を力学の対象にした。 そして、運動法則と万有引力を確立することに決定的役割を果したというのである。
 自然科学では、普遍的実体の探求と発見は本質論へ進むために、理論の進歩・発展の鍵であると認められるようになった。 しかし、武谷による実体の定義が明瞭でなかったので、一部混乱があり、自然科学以外の分野では余り評価されなかった。
 私は、武谷の「認識の3段階論」を高く評価するが、実体の意味とその役割について不十分なところがあると考えている。 そこで、認識過程の中間段階で、「実体」のみでなく、「実体の構造(現象舞台の構造)」も重要であると思う。
ニュートン力学では、質点、質量の他に、太陽系の構造(ケプラーの3法則)、宇宙空間の構造(ユークリッド性;無限で等方・等質)、時間の一様性などは力学現象の舞台として、ニュートン力学形成に欠かせない重要な「実体・構造」概念である。 (詳細は拙著『科学はこうして発展した』せせらぎ出版、参照) これら実体・構造を正しく解明し把握したから、本質としての「ニュートン力学」に到達し得た。
 ユークリッド幾何学の場合、現象に当たるものは、点、直線、曲線(円、双曲線、放物線など)、面(平面、球面など)の組み合わせでできる色々な図形の存在(作図)であろう。 実体・構造に当たるものは、ほとんどの平面図形の基礎的要素である3角形と円、およびその幾何学的な特性である。これらの幾何学的特性を正しく認識したから、単純な公理系の上に体系的理論を築くことに成功したわけであろう。
これとの類比でいくと、囲碁の場合は、現象に当たるものは、ゲームの進行そのもので、石の配置とその進展の様相であり、最後は勝敗であろう。 実体・構造に当たるものは、布石や定石の形、さらに一連の石群の構造特性(模様、厚み、勢力など)であろう。 序盤・中盤で重要な役割を演ずる評価関数も機能的実体といえるだろう。 それら実体・構造の役割と効果を正しく把握した上で、囲碁の体系的理論ができる。 囲碁理論における「本質」に当たるものは、評価関数を軸にした基本法則によって最善手を決定できる理論体系である。
経営戦略の場合、現象-実体・構造-本質に当たるものは何か、そして、物理学や囲碁理論との対応は?この対比をおこなうことと、囲碁理論をさらに具体的に3段階に組み上げていくことが今後の課題である。

(注2)「相対的完備」についてニュートン力学は、日常的に経験する力学現象を一通り解明し説明できるので、力学の理論体系として一応完備な理論である。しかし、実在の自然は非常に内容豊かで無限に豊富である。日常経験を超える高速度の現象(光速度に近い運動)や、原子・素粒子などミクロの現象には、ニュートン力学は適用できない。その意味で、ニュートン力学は完全な意味で完備な理論体系ではなく、限定された力学現象の範囲で成り立つので、「相対的完備系」である。実在の全自然に対して適応できる科学理論は「絶対的完備系」であり、それは究極的な理論である。自然科学はそのような究極理論には永遠に到達できないであろう。(詳細は、拙著『科学はこうして発展した』を参照されたい。)
 ユークリッド幾何学についても同様なことがいえるので、それも相対的完備系である。
 囲碁の場合の完備な理論体系は、必勝法の理論である。それは不可能である。最善手をできるだけ多く示せる囲碁理論は相対的に完備である。

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