科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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科学・技術の進展と未来社会
                科学・技術の進展と未来社会                                     
  (これはある研究会で問題的として報告したもので、未完成である。今後考察を深める予定である。)

II.未来社会はどうなる? 理想的社会の姿は科学・技術に強く規制される 
 科学・技術は人文社会学や哲学・倫理学に比して突出して発達し、人間社会と日常生活の隅々まで浸透している。今や科学・技術は政治・経済まで左右する力を持った。それゆえ科学・技術は社会の上部構造と下部構造の重要な要因である。昔は宗教が心身共に人間生活を規制していたが、近代科学は「神」を必要としない理論を築き、宗教から独立した。その後、科学・技術の社会的存在と役割が宗教に取って替わった。将来さらに、科学理論は宗教を否定するまでになるのか、それとも新たな宗教・倫理が生まれるのか。科学は精神文明と物質文明ともに大きく転換してきたが、21世紀にはさらに第二の変革を起こすだろう。それゆえ、科学・技術の役割を考慮しなければ、将来の社会形態や人類の生き方を考察することはできない。すなわち、理想的な社会体制(新社会主義も含めて)はいかなるものかは科学・技術の今後の発展に大きく左右される。  

科学・技術の新展開:遺伝子操作・人工知能・アンドロイド・宇宙進出で人類社会は変質する
 自然の仕組みを解明し自然認識を深めるための科学、自然の脅威から身を守り生活を豊かにする筈の科学・技術は、その目的を逸脱して自然支配の道具になろうとしている。
人類は科学・技術の力により人工的世界の開拓を猛スピードで推し進めてきた。21世紀にはそれがいっそう加速されるだろう。この先どこまで行くのか興味があると同時に、想像すると恐ろしくもある。
科学・技術の過信:科学・技術は万能ではない。科学は本質的に不完全なものである。(1)その応用である技術も不完全であり必ず欠陥がある。

I I. 生物の背負う根源的「業」(2) 
 生物の発生は物理・化学的には無理な現象である。なぜならば、「エントロピー増大則」という物理学の法則があり、それは多体系(多粒子系)に適応される普遍法則である。このエントロピー増大則によれば孤立した閉鎖系ではエントロピーは増大する一方で、減少することはない。これがエントロピー増大則である。生物の存在はそのエントロピー増大の法則に逆らう非自然的な状態である。
 エントロピーとは無秩序性(秩序性の逆)を表す指標であり、ランダムな雑然とした状態はエントロピーが高いという。生物の個体は機能性を備えた秩序だったシステムであり、環境に比してエントロピーが低い状態(秩序の高い)にある体系である。それゆえ、新陳代謝を断った生物個体は孤立閉鎖系となるから、それを放置しておけばエントロピーは増大し、やがて崩壊(死滅)する。このように、生物の存在はそれ自体がエントロピー的自然法則に対して無理な状態なのである。崩壊(死滅)の危機から脱するために絶えず努力し続けねばならない、この事実が死の恐れとなり、それがやがて本能化されたものが「死の恐怖」であろう。
それゆえ、個体を維持し成長するために環境から食物として低エントロピーの物質を摂取しなければならない。摂取した低エントロピーのエネルギーを体内で利用した後に高エントロピー物質やエネルギーを外部に排泄する(物質代謝)。したがって生物の存在は、程度の差はあれ、必然的に環境を汚染し環境を変化させる。すべての生物は、その存在自体が「エントロピー増大則」という自然法則に逆らった無理な状態を維持し続けているのである。
 生物誕生以来、地球環境は徐々にではあるが非常に大きく変化してきた。生物の誕生によるこの自然環境の変化は、地球の発展進化とみることができるだろうが、反面からすれば地球環境の汚染・破壊でもある。生物にとって避けることのできないこの営みは、生物界の食物連鎖と共に、すべての生物の背負った業(仏教のいう「業」、キリスト教の原罪に当たる)である。
 優位に進化した生物は、新陳代謝を効率よく行うために他の生物を食物にするようになり、さらに種の競争によって進化を重ねた。生物の食物連鎖はこうして起こった。人類は後から出現したにもかかわらず、この食物連鎖の頂点にあり、最も業の深い存在である。
 存在自体が無理を強いられている生物が種を維持発展させるために、生存に有利な機能を徐々に獲得してきた。これが種の進化の根源的原動力である。ところが、人類は種としての生物的自然進化(適応進化)を待てずに、生存に有利な手段を次々に獲得した。それが技術である。したがって、技術は生まれながらにして人類の業を背負いそれを拡大している。
 生物が生きているということは「すごい」ことであると同時に、生命の存在自体が環境汚染と食物連鎖という二重の「業」を背負っているわけである。食物連鎖の中に生き続けねばならないこの「業」こそ、逃れることのできない「生物の根源的業」であると思う。このように、生物は生きるために日々「業」を重ねている。食物連鎖の頂点に位置している人類は最大の「業」を背負っていることになる。環境を変化させることは生物が存在する限り必然であるが、人類による科学・技術力を用いた急激な環境変化は、根源的業にもう一つの業を上乗せしたもので、「持続可能な開発」をはるかに超えて急速に拡大しているわけである。
 この事実をベースにして、人類の未来を考察する。

III.20世紀における人類自滅の危機は一応回避した
 二回の世界大戦による大量の殺戮。経済恐慌を経験した。
核兵器開発競争:核戦争は瞬時で人類を破滅させる。幸いに全面核戦争は回避できたが、核兵器は残った。
 環境破壊:自然制御から自然支配へと転換した(人類の思い上がり)。
急速な複合的汚染で自然破壊→人類はすべての生物の天敵となった→次に自らの天敵になる→
→(将来)自滅の危機?
情報化社会:インターネットによる情報伝達のスピード化、流通革命、グローバル化を推し進めた。
24時間稼働社会の生成→ストレス増大、心身の変調。 
遺伝子操作:生物の自然的進化(適応進化)への暴力的介入→生態系の破壊→環境とのバランス破壊、
動植物育成の工場化:食物の大量増産、食物の種類と質の変化。
医術の進歩:長寿社会、臓器移植はどこまでいく、iHP万能細胞、人工臓器造成、クローン人間の誕生。
宇宙への進出:ロケット技術の進歩、天体の観測技術が飛躍的に進歩―宇宙科学の発展、軍事技術と不可分。

20世紀は「持続可能な社会」を超えて開発が進んだ:環境破壊、人間の心身疲弊。
20世紀は物理学を契機とする第2科学革命以後、科学の新分野、情報理論、分子生物学、宇宙論などを含めて科学の全面開花の時代であった。技術面でも、高速計算器、インターネット、高度技術(ハイテク)産業、原子力利用、医療技術、ロケット開発など素晴らしい発展を見た。しかし、喜んでばかりはいられない。核兵器開発競争という忌まわしいもの、環境汚染・破壊もあった。
新技術の開発は生産能率を格段に増したが、労働時間は短縮よりも残業を増やし、過労死を生んだ。技術開発は資源・エネルギーの節約、環境保全でなく、逆に浪費をもたらした。技術開発による能率増進や省資源となるよりも、逆にそれを超えて社会全体の仕事量や資源消費を増やしたからである。その原因は資本主義の競争社会、規制のない市場原理(新技術はそれに付随した職種や仕事を生み出して、社会全体の仕事量を増す)、富の分配(賃金)制度の不合理による。国際、国内ともに格差の増大をもたらした。(3)、(4)

「持続可能な開発」とは、人間の生理(心身共に)が無理なく適応し環境変化に着いて行ける程度の開発である。
 現代の開発は「持続可能」のレベルを超えている。

科学と技術の結合は密接になった。基礎科学も短期間で技術に応用され、科学実験には高度の技術が必要である。また科学・技術の大規模化は環境破壊の危険性を増大させた。これらは科学・技術の急速・過度の発達、特に技術の無政府的発達による。
 それゆえ科学・技術をコントロール科学が必要である。 

I V. 21世紀の科学・技術:人工的世界-人類の変質 
 地球環境の異変、人類生存の危機が問題になっているのに、世界の各地で権力・覇権闘争、民族・宗教対立による紛争、テロの蔓延、殺戮など拡大するばかりである。戦争・紛争は最大の環境破壊活動である。
人類はそのような愚かなことにエネルギーを注ぐのでなく、この地球をどう救うか、人類はどう平和に生き延びるかを、一致協力して真剣に考えるべきである。人類は目覚めよ!

科学・技術の新展開(科学の第3革命)
 複雑系科学・認知科学:物質の自己発展・進化の科学、人間の精神活動を対象とする科学-これは科学の第3革命である。
自然界の仕組みを認識する自然科学は、20世紀の半ば過ぎまでは「何が如何にあるか」という物質の存在様式と運動法則を主として追求してきた。宇宙はビッグバン以後絶えず膨張を続け、その過程で発展進化してきた。それゆえ、発展・進化の原理と法則を把握しなければ自然科学は半分しか自然の仕組みを解明してないと言える。21世紀の科学は「存在の科学」と「発展・進化の科学」をともに進めるべきである。両者を併せて自然認識は十全となる。(5)
分子生物学、遺伝子解読を利用した遺伝子操作の技術革新も革命的であるが、情報科学、複雑系科学、認知科学を利用した次世代の技術も技術革命と言える。それらの新技術は今後急速に発達するだろう。これらの科学・技術は、コンピューターと併せて高性能ロボット、アンドロイドの製作に不可欠である。

21世紀には人類社会の在り方(形態)が質的に変わる
 今や資本主義社会は非常に不安定で、諸矛盾が極度に蓄積している。経済危機を引き起こす要因は多く、何時・何処で何が起こるか判らないほど世界経済は不安定である。いろいろな面で世界を一つに繋ぐグローバル化により局所的経済問題は、直ちに全地球に波及する(カオス的現象)。国家財政の赤字累積と世界経済の不安定化は構造的なものである。(6)
社会福祉費、医療費、研究教育費、大型プロジェクトなどは増大する一方であり、少子高齢化で、先進国の国家財政の赤字は増大するばかり。社会制度の変革は必然的であるだろうが、資本主義に替わりいかなる社会形態になるか不透明である。予測できる理論はまだない。

 インターネット社会、ロボット社会は政治・経済の仕組みと社会形態の革命的変化を起こすだろう。人間が直接手を下す仕事は減り、通勤せずに家にいてインターネット通信でかなりの仕事がこなせるようになる。労働形態と賃金体系の合理的システムはどうあるべきかが課題となる。
 また、政治制度も変わるだろう。高度の情報化社会では民意の集約と反映の仕方も変化し、選挙制度、議会制民主主義(すでにマンネリ化し矛盾がでている)の形式も変わりうる。

ロボットとの共生
 高性能ロボットは工場や公共施設から富裕家庭へ、やがて一般の家庭に普及して生活スタイルは質的に変化する。日常生活の必需品は、情報機器、エネルギー設備、電化製品、ロボットなどどんどん増える。その生活を維持するためには高収入が必要となる(昔は衣食住の必需品は僅かで生活していた)。それには職業、仕事量、賃金のバランスを保ち、貧富の格差を是正する社会体系が不可欠である。
 遠くない将来に、高性能ロボットと人間との共生法が大きな課題となるだろう。特に人間とアンドロイドとの棲み分け(役割分担、職種分業、仕事配分)は避けられないが、それが上手くいくようにロボット技術の開発が必要であり、それにマッチした社会形態を探らねばならない。どのような棲み分け形態がよいかの研究が必要である。

ロボット・アンドロイド技術の開発規制、そのルール作りが必要だが、その規制を破る者がでる。それにどう対処するか。特にテロに利用される危険性をどう防ぐか、またロボットを使った戦争を防止する方法が重要課題となる。
   
ロボットは人間を超えることは可能か?
 「人間を超える」の意味:個別的能力(ゲーム、単一労働など)では人間を超えることは可能だが、すべての点で、あるいは総合的な能力では容易に超えられないだろう。人間の意識と能力は複雑多岐、かつ高度で、そのメカニズムは未知な分野が多い。最近の脳の研究でその機能の複雑さ奥深さが解明されている。それゆえ、人間とは何かがすべて判るまで、総合的に人間を超えるロボットを人間には作れないだろう。
 だが、思考・意思・感情を備え、学習能力を有するロボット・アンドロイドが氾濫すれば、遠い将来人工の操作を離れて、学習能力を持つロボットが自己進化することによって人類に反逆し、人間社会を征服する可能性は否定できない。(オートマトンが自己学習、自己増殖の可能性は、論理的に証明されている。フォン・ノイマン) 
ロボットが人間と並ぶか超えるなら人類とロボット(新人類)との競争・抗争も起こりうる。

宇宙進出
 21世紀には宇宙基地、月・惑星基地の建設とそこへの移住を目指している。そこに人工世界を建設しようとしている。宇宙開発の技術にロボットは不可欠であろうが、原子力の利用は必要か? 

精神構造の変化:人口衛星の飛行士は、衛星から宇宙や地球をみて人生観、自然観が変わったと異口同音に言っている。人工衛星は地球の表面近く回周しているに過ぎないが、それでもこれだけ大きな精神的影響を与える。まして他の天体ではその影響は想像を超えるだろう。
新人類の可能性:宇宙や他の天体では、環境が急変した空間での生活を強いられるから、そこで生活する人間は精神状態 生理、遺伝子にどう影響するかは未知である。その結果、宇宙生活の人間は将来想定外の進化をするかも知れない。新人類の発生の可能性もある! 古代に生物が海から陸に上陸し生息するようになって、劇的に進化が進んだ。宇宙時代はその次の劇的生物進化の時代である。その新人類と対立しないよう共生しなければならない。 

V.未来社会の在り方
 科学・技術は、人間が余暇を持ち心身ともに豊かな生活ができるように活用すべきある。ところが現代社会においてはその逆である。これは資本主義的競争社会の宿命であるのか。そうならば、この矛盾を解決する(完全な解決法はないだろうから、せめて緩和する)社会制度はいかなる形態かを探究すべきである。
特に、ネット社会、高級ロボットやアンドロイドが活用される未来の長寿社会においては、これらの要素を考慮せずに理想的社会の形態を考える事は無意味である。「社会主義社会」を含めて理想社会の仕組みを模索する上でこれらの要素は大きなウェイトを占めるだろう。

高度に発達した科学・技術社会での理想社会とは
・平和で安心して生活できる平等な福祉社会、文化的で豊かな生活が保障されること。
・思想・信条の自由。移動の自由、職業選択の自由を保障。
・民意が正しく反映される(民主主義的)社会。(議会制民主主義の形骸化が始まっている。)
・地球環境を守りながら人類が生き延びる方法:「持続可能な開発」を維持する科学・技術の開発が可能な政治・経済制度。
・ロボット技術の進歩した社会での労働と余暇と富の合理的配分。希望する者は誰でも働き、生活に必要な十   
分な賃金を貰える制度。
・みなが十分な余暇を持ち、余暇を有効に過ごせる社会。(豊かさとは何か?)
・アンドロイドとの共生(棲み分け)が上手くいく仕組みの社会。
・宇宙空間、月・惑星などで生活する人種と協力し、対立しないようにすること。
・その他?

附記:
意識とは何か、自由意思とは、人間性とは何か
 記憶、思考、意識などは高度に組織化された物質系の運動形態であろう。認知科学が進歩し、記憶、思考、意識などが可成り解明されたなら、完全な唯物論の無宗教時代がくるか。それとも新たな倫理・宗教が必要か? 
 ロボット(アンドロイド)に「意思」が芽生えるなら、「自由意思」とは何かが、別の意味で問題となるであろう。かつて、ニュートン力学が確立して力学的自然観が支配的になった18世紀に、人間一人一人の運命は力学的決定論により生まれながらに必然的に定められているのか、そして人間の自由意思は存在するのか、という疑問が哲学の深刻な問題となった。この問題は未解決のまま現代にも引き継がれている。
 将来、法秩序、道徳・倫理の変化は必然。無宗教社会か、新宗教の誕生か?  

「意識」とは
 意識も生物の無意識的(反射的)運動の繰り返しによって、経験を通して自然発生的に生まれたもので、高度に組織化された物質の運動の一形態(機能)である。
 動物の意識は、生命発生初期の生物の無意識的反射行動(食物摂取、敵からの逃避、光に対する反応など)の繰り返しの中で徐々に芽生え(条件反射)、生物進化とともに形成された物質組織の最高機能といえるであろう。ただし、意識の発生過程で、どこからが「意識」といえるか明確に定義することは難しい。この初期的機能の繰り返し使用の中で、学習能力が発生し、目的意識が成長したと思われる。

「超意識」:いずれにせよ、意識を「物質組織の物理・化学的運動による機能」の一種と見るならば、全宇宙は一つの有機体として「超意識」を有する可能性も否定はできないだろう。もしそうなら、宇宙の個々の銀河は、生物でいえば一つの細胞のようなものであり、銀河団は組織に対応するかも知れない。その時間・空間スケールが、地上の生物と比較して極度に大きいだけである。銀河は今でも物質・エネルギーの新陳代謝を行い、融合・分裂を行っているし(生物細胞のように)、銀河同士が相互作用をしながら超銀河団を形成し発展している。さらに、全宇宙は一つのシステムとして「有機体」のように自己発展している可能性がある。しかし、全宇宙の中の物質元素の存在比(水素・ヘリウムがまだ90数%と圧倒的に多い)からみて、宇宙の年令は若いから、「超意識」はまだ芽生えてないかも知れない。そうであっても、いずれ「超意識」が創発する可能性を完全に否定し去ることはできないだろう。
 この場合の「意識」(生物初期の意識、自然の超意識など)とは、一つの物質系(生物個体、物質系システム)がある目的を達成するための行動に際して、その系の内部に蓄積された諸情報を関連づけ統合的に活用する内的機能のことである。すなわち、目的的行動の原因(原動力)となりうる情報の統合機能が高度に発達したものといってよいだろう。 

ロボットの意識:生物が自然進化の過程で意識を獲得し、今日のように発達するまでには、何千万年、何億年の時間が必要であった。ロボットが上記のような自然発生的自己組織化で意識を得るには非常に長い時間を要するが、人間が操作して与えるのであるから短時間で進歩しうる。ロボットの「意識」は最初のうちはかなり低い生物種レベルであろうが、次第に犬や猫の意識水準に達し、そして、ついには人間に近いレベルの「意識」を持つものができるであろう。すると案外早く高度の意識を持つようになるかも知れない。そうなると、自己学習により自己進化する可能性もある。
自然の自己実現 
 人類は自然の営みに介入し、時間的にも、空間的にも劇的に変化させている。だが人類も自然の一部である。するとこのような人為的変化も自然自体の営みの一環となる。科学・技術もその一種である。

 「自然科学とは、自然が人類を通して自らを解明する自己反映活動」である。(1)、(2)

 すると自然科学は自己言及型の論理であるから、無矛盾な体系である限り、ゲーデルの不完全性定理により不完全である。人類は科学により、「自然の仕組み」を完全に極めることはできない。
 科学は経験的知識と実証性をよりどころとするが、抽象的かつ合理的理論体系を築くという意味ではやはり高度の精神活動である。その知識体系は客観的・普遍的であるゆえに、個人を超えて社会的にも歴史的にも蓄積可能である。この点が主観的信仰に基づく宗教と本質的に異なる特性である。それゆえに、科学は着実に、しかも指数関数的に進歩発展を遂げた。

 人類の生存意義は何か? 
 種保存能力を超えて、人類は科学・技術により物質的に豊かになった。人類の活動能力は、他の生物種をはるかに超えて突出している。人類の生存意義と生存目的は何か。
この宇宙に人類のような生物が発生・進化し、猛威を振るって自然すら変えようとしている。しかし、それも自然自体の自己運動の一環、いわば自然の「自己実現」の過程であろう。人類のような存在が、どこまで発展しうるのか、それは自然自体にとっては、自然界における一つの大きな実験である。他の天体にも人類以外の高度文明が生まれているだろう。その可能性も含めて、自然とは、人間とは何かを考察したい。新たな人生観、倫理、宗教が必要となろう。

         参考文献
1.『科学はこうして発展した』せせらぎ書房 2002
  『複雑系科学の哲学概論』本の泉社 2013
2.「科学と宗教」『唯物論と現代』49号(2012.11)
3.「人工的世界と人類の未来」『唯物論と現代』20号(1998)
4. 「科学・技術で地球環境は救えるか」『日本の科学者』Vol.44,No.6(2009)
5. 『複雑系科学の哲学概論』本の泉社 2013
6. 「国家財政の破綻と世界経済の危機」『唯物論と現代』48号(2012.6)
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侮れぬ囲碁のコンピューターソフト
侮れぬ囲碁のコンピューターソフト

ついにコンピューターが将棋プロに勝った。現役のプロ将棋棋士とコンピューターソフトとの公式対局「電王戦」の第2局目でコンピューターが1勝をあげた。このような事態は、将棋ではいずれ近いうちに来るだろうことは予測されていた。だが囲碁ではそう簡単にはいかない、当分大丈夫と予測されている。しかし、それも怪しくなってきた。 

囲碁の上達には、囲碁理論の基礎知識(定石、戦術、手筋など)はある程度必要だが、通常の人の場合は実践を通して、読む力、感性を学習し身につける必要がある。人間の有する学習能力こそは最も素晴らしいもので、機械には真似できないものであった。ところが、この点で囲碁ソフトの開発に質的変化が起こりそうである。そうなると、近い将来に人間より強い囲碁ソフトができるだろう。

コンピューターの強さと弱点
 碁盤上に石を置く着手の数は余りにも莫大すぎるから、経験によって養われた感性により着手の候補をまず決め、後から読みの力でその手の適否を確かめる。石の方向や大場・急場の判断には、この感性が大いにものをいう。それゆえ、囲碁の理論や定石・手筋を憶え、読みの力をつけても強くなるとは限らない。囲碁理論の基礎知識以外に、読みの力と感性の育成、それに学習能力の3要素が欠かせない。これ以外にも、対局相手の性格や癖を読み取り、着手に変化をつけることができれば、一段と強くなる(勝率が上がる)。
 コンピューターソフトは、一瞬にして何万通りの手を読めるから、読む力は人間を遙かに上回る。また、感性を必要とする石の方向や大場などの判断は、実践例を沢山記憶させておけばかなり補える。だが、自ら判断することと、学習することはできなかった。
 いくらコンピューターでも、メモリー能力には限界がある。スーパーコンピューター(スパコン)ができてメモリー容量は格段に増大したが、それでも、囲碁の場合は終局までの全着手数には遠く及ばない。この膨大な手をすべて読み切れないから、人間は感性によって直感的に着手の範囲を制限している。その判断力は学習によって高められる。感性による判断力とその学習がコンピューターにはできなかった。それゆえ、チェスや将棋ではコンピューターがトッププロに勝てるようになっても、囲碁ではコンピューターはそう簡単に人間に追いつけないと私も思っていた。
 以前の囲碁ソフトの開発は、布石や定石、攻め合い法などを記憶させた上で、囲碁理論を取り入れた評価関数(一手の価値を決める関数)を求めるという正攻法であった。しかし、うまい評価関数の開発は大変難しく停滞していた。
 そこで、発想の転換がなされた。コンピューターのこれら欠陥を埋めるために、逆手を取ったモンテカルロ法が開発されてから、ゲームソフトは飛躍的に強くなった。囲碁ソフトも当然飛躍した。モンテカルロ法とは、ゲーム終局までの着手をランダムに並べ、すべてのパターンを較べてみて、その中の勝ちパターンを選ぶ。その着手を逆に辿ってその局面ま行き、着手を決める方法である。この方法は結果(答え)を見て遡るのであるから、一種のカンニング法であり、ゲーム理論は原理的には一切必要としない。当然囲碁も同じである。ひたすら勝ちパターンを見つけて遡る努力だけが必要である。だから、手数が短く最後まで並べきれるゲームなら、モンテカルロ法は負けなしである。だが、囲碁の場合は、手数が長く着手の変化もものすごく多いので、終局まで打つと着手の変化数は10の400乗ほどになる。それゆえ、スパコンのメモリー容量を遙かに超えて、最後まで並べきることは実際には不可能である。そこで、数十手先まで読んでその場面で最善手(勝ちに導く)と思われる手を決めるわけだが、それでも着手数は多すぎる。だから、無駄な着手の枝を切り捨てるために「ミニマックス法」という手段が開発された。

「ミニマックス法」とは 
たとえば、次の着手に10通の可能性があり、そのまた次の着手も10通りというように続くとしよう。すると、着手の分岐枝が一つの枝から10本づつでることになる。このような図を「思考木」または「探索木」という。次の可能な着手が常に10通りでは10手先で10の10乗になり、すぐにメモリーが不足するから、あまり先まで読めない。そこで、余分な着手と思われる思考木の枝を切り捨てる「枝切り」をする。それによって半分の枝を切り捨てることができるなら、着手の選択枝は5だから、10手先でも5の10乗となり、格段に少数になる。それゆえ、余分な選択枝を少しでも多く切り捨てることが望まれる。そのときどれが「余分な枝」かを判定する方法が問題である。いまのところ、もっとも優れた方法は、この「ミニマックス法」と呼ばれるものだそうである。そのエッセンスは次の通り。
一段落した末端局面で(できれば最終局面で)、すべての端末枝の着手の評価(その方法が問題であるが省略)をして、そこから前の着手へと枝を遡って一段ごとに余分な枝を切り捨てていく。そのさいの選択基準は、自分の着手については評価値が最大になるものを選び、相手の手番ではこちらの手の評価値が最小になる着手を選ぶのである。そのような思考木を選び、それ以外の枝は切り捨てるというのである。この評価法で次々に上に遡っていて着手を決めるわけである。「ミニマックス」という名はここからきている。

 このミニマックス戦略をモンテカルロ法に適用して着手を決めるなら、囲碁理論は原則として不要である。しかし、終局まで行って、そこから思考木を遡ることは不可能であるから、何手先まで読めば一段落した末端局面とみなせるか、それを判断しなければならないし、またその端末局面で着手の評価をせねばならないから、モンテカルロ法にもある程度の囲碁理論が要るはずである。それでも、このカンニング的モンテカルロ法は正攻法でないから、囲碁理論の進歩にはあまり寄与せず、強さにも限界があると思っていた。

学習するコンピューター
モンテカルロ法は莫大な記憶容量を持つコンピューターのみ可能であり、人間には真似できないことである。これがコンピューターの強みである。それに加えて、 囲碁上達に必要な基礎知識の上に、前記の3要素、読みの力、感性の養成、学習能力を具えたソフトができれば、たちまち人間の棋力を凌駕するであろう。コンピューターは布石、定石、手筋などの記憶、および読みの力(攻め合いなど)は人間を超えるから、判断力と学習能力が備われば千人力である。そうなるとプロ棋士も太刀打ちできなくなるだろう。
 その判断力や学習能力のソフトが、ロボットの技術開発によって最近急速に進歩しているそうである。人間の世話をするロボットは、人との交流によってその人の癖や性格を読み取り、状況に応じて行動(反応)する、つまり学習できるところまで発達していると、NHKスペシアルで放映された(2月)。学習(まなぶ)とは、単に情報を記憶しそれを蓄積して、必要に応じてその情報をそのまま引き出す、つまり「まねる」というのではない。蓄積された情報を組み合わせて、内部で新たな情報を創発することである。このような学習ができれば、やがて総合的判断力が生まれる。さらには、相手の性格に応じた駆け引き、つまり心理作戦までできるようになるかも知れない。この種の学習能力に欠けていることが、人間と比較してコンピューターの弱点であった。
 「単純な学習」(蓄積した情報を組み合わせる)ができるソフトは以前からあったが、学習によって新たな情報を創発するソフトの開発は生やさしいものではないので遅れていた。だが、一たんその壁が突破されると、最初はちゃちなものでも、急速に進歩するものである(この現象はソフト開発に限らず多方面に見られる)。ただし、囲碁・将棋などのゲームソフトの「学習」は、主として多くの情報を集めて新たな法則を見いだす帰納法に関する学習である。それは論理的証明に繋がるものとは異質の学習である。囲碁・将棋には帰納法的学習が必要であり、論理的証明の能力はあまり要らないだろう。ちなみに、演繹的証明法は帰納法的証明の学習よりも遙かに難しいから、それはコンピューターには当分できそうにない。

人間を追い越す囲碁ソフトの出現は案外近い? 
コンピューターが人間よりも劣るものは感性・判断力そして学習である。そのうちの学習ができるようになれば判断力もつき、鬼に金棒である。莫大な記憶容量の上に、その学習能力に基づいた判断力を獲得すれば、人間にはできないモンテカルロ法と併せて、その能力が人間の棋力を超えるのは最早時間の問題であろう。学習によって何手先まで読めばよいか、どの枝を切り捨てるべきかの判断力がつくようになる。そうなると、ランダムに打つモンテカルロ法を抜け出すことになるだろう。
つい最近まで、コンピューターの愚直さと容量の限界ゆえに、当分の間囲碁では人間に勝つことはできないと私は侮っていたが、これほど早く人間が追い越されそうになろうとは思いもよらなかった。これも「想定外」と負け惜しみを言うより、不覚を恥じる。

それはさておき、何年先に人間を超すコンピューターは現れるか。コンピューターソフトの仕組みについて素人の私にはまともな予想はできないが、敢えて懸けてみることにする。
人の世話をするロボット、また原発事故以後、危険地域で人間の代わりをするロボットが注目されだし、その社会的需要は大きい。この種のロボットは学習による判断力の育成が望まれる。それゆえ、学習し判断力を養うロボットの開発と進歩は急速であろう。この分野で開発されたソフト技術を囲碁ソフトに取り入れ、それに実戦を重ねて学習させるならば、あれよあれよという間に人間の棋力を超えると思う。

現在のところ、囲碁ソフトは一流プロ棋士と4子で競り合っている。だが、プロに追いつく囲碁ソフトの出現は案外早く、あと5~6年で実現するのではなかろうか。
「紙」の運命
 「紙」の運命 

「電子メール」、「電子書籍」でなく, 「電紙メール」、「電紙書籍」としよう                    

 現代の人類文明は紙なくしてはありえない。二千年以上前に文字を書くために紙が発明された。木簡や粘土板に代わり、紙は人類の貴重な歴史記録を残してくれた。その後印刷術の発明と改良により文字による文化は急速に進歩したが、紙の製造が追いつかず紙は非常に不足していた。「必要は発明の母」である。十九世紀に木材を原料とする紙が多量に製造されるようになったが、それまでは紙は貴重品であった。

ところが現代では、紙は印刷以外にも多方面に使用されて私たちの生活の隅々まで浸透している。社会活動のみならず日常生活でも紙のない生活は考えられないであろう。だが、安価な紙が手軽に手に入る今日では複写紙やティッシュペーパなど湯水のように無駄遣いし使い捨てている。戦後の物資不足時代に育った者から見ると、紙に限らず無駄遣いは目に余るものがある。物が溢れていると、空気や水のようにその有り難みが分からない。 
今や紙のゴミは莫大な量となり、その処理には大変なエネルギーと労力を要する。木材資源保護と環境保全のため古紙が再利用されるようになったが、再生回数にも限界がある。

紙製品の代替物もかなりいろいろな物が出回ってきた。紙袋はビニール袋に、手紙は電子メールに、などなど。今後、紙の代替が急速に拡がり大きな問題となるのは新聞と書籍である。20世紀には書籍の発行部数は指数関数的に増えて、図書館ばかりでなく個人の書斎にも溢れて置き場に困るようになり、邪魔者扱いされるようになった。そこで登場したのがインターネットである。

インターネット画面が印刷紙の代わりをすることは環境保全のためには望ましいし、情報化時代の必然的変化であろうが、紙本来の役目が消えていくのは残念で寂しい。
そこで、呼び名について提案したい。「電子メール」や「電子書籍」と呼ぶのは科学的にもおかしい呼び名であるから止めたい。直接電子を見たり、使ったりしているわけではないのに「電子・・」というのが多すぎる。たとえば「電子レンジ」は電磁波レンジである。

これまでの文字と紙の関係の歴史を残し、昔の「紙手紙」の温もりや、「紙製本」を手にして読んだ名残をとどめるために「電紙メール」とか「電紙書籍」と呼びたい。
 ちなみに「電子投票」は「電紙投票」とすべきだろう。



本格的宇宙時代の始まり
本格的宇宙時代の幕開け


  いよいよ本格的な宇宙時代が始まった。 宇宙空間に人工基地を建設して長期間人が住める国際宇宙ステーションを造る計画が動き出した。その手始めとして「エンデバー」に日本の宇宙実験室「きぼう」を取り付けるために土井隆雄さんが行き、16日間の飛行でその任務を果たして3月27日にケネディ宇宙センターに無事帰還した。この成功は日本にとって、また人類にとって記念すべき第一歩である。今後宇宙ステイションの建設は急速に進み、多くの人々が長期間そこに滞在するようになるであろう。すなわち、宇宙コロニーの世界が築かれるのもそう遠くないだろう。それにしても、宇宙開発技術が人類の平和と幸福のために使われなければ、とんでもない禍をもたらす危険性があるから、喜んでばかりいられない。

 宇宙空間への進出は、人類が15、6世紀の頃に大洋に乗り出した「大航海時代」に次ぐ第二の航海時代の始まりだといわれている。新世界、未知の世界への進出は人類の開拓精神は好奇心と共に人類の本能として否定できないから、宇宙空間への航海は進化の必然的過程である。
 近代科学の誕生と産業革命以後、科学・技術の進歩によって人類は地上に大小様々な人工的空間を次々に作りつつある。現代では巨大ビル、地下街など人工都市を作り、また、各種乗り物も人工空間の一種である。それに伴って、地表はセメントとコンクリートによって塗り固められ、自然の姿はどんどん消えている。先進国の都会の人間はこのような人工空間での生活に慣らされて、都会人種は大地から乖離し非自然化されつつある。居住空間に限らず食べ物も季節を無視した人工栽培のものに慣らされてしまった。地球の自然環境破壊はすさまじい勢いで進み、人類生存を脅かすまでになった。

 宇宙ステーションは人工空間の最たるものである。したがって、宇宙空間に住むにはこのような人工的空間や食物の生活に長年かけて慣れていなければ、いきなり宇宙基地での生活には肉体的にも精神的にも耐えられないであろう。人類はこれまで徐々に人工空間の生活に慣れてきたが、それは期せずして宇宙時代の準備をしていたことになる。

 無重力宇宙空間での現象には何が起こるか分からない、予期せぬものがまだあるだろう。 宇宙ステーションでの生活は地上での常識を一つ一つ吟味し、反省することが迫られるだろう。それゆえ、これまでの人類の価値観や生き方を見直すための機会と情報・知識を与えてくれるかもしれない。同時に科学・技術の知識も再吟味せざるを得ない状況が起こるかもしれない。人知はまだまだ不完全・不十分であり、この複雑な自然界には人類の予測不可能なものがまだ無数にある。それゆえ、技術には必ず抜け穴があり、科学・技術の過信は危険であることを人類はこれまでに何度も経験している。

 宇宙空間での科学・技術の研究の意義についての議論のなかに、無重力状態は地上でも実現できるから、わざわざ巨費をかけて宇宙ステーションをつくって実験をする必要はないという意見もある。その指摘には一理あることは認められるが、一面的のように思える。短時間の無重力状態でできる実験はそれでもよいが、長時間の無重力状態では何が起こるかまだ予想できないことが沢山あるだろう。特に生命現象がそうである。予期せぬことが起こる可能性について思い出すのは、極低温での超伝導、超流動の発見である。極低温では分子・原子の運動が止まっていくから、当時の常識では温度を下げていっても何も新たな現象は起こらないだろうと思われていた。カマリン-オンネスが極低温での物質の性質を研究していたとき、そんなことを研究しても無駄だと批判されたそうでる。しかし、追求をやめなかった彼は、ついに超伝導、超流動という驚くべき現象を発見した。現代科学の力によって多くの予測が可能なことは素晴らしいことであるが、自然は無限に奥深く、人知はまだ浅い。 
 
 生物の発生、成長には重力がかなりの役割を担っている。細胞分裂によって同じ細胞ができるにもかかわらず、役割分化が起こり種々の組織に分化していくのは、発生途中の固体ないでの細胞の位置(内側と表面など)と重力の効果によるといわれている。それゆえ、生物固体の発生過程での重力の役割と影響を研究することは生命現象の解明に大いに寄与すると思う。

 宇宙ステーションでの面白い実験やアイデアを募集して、実行する計画がこれまでにいくつか実行され、今後も続けられるようである。その試みは科学研究としても価値あるものがでるだろうが、多くの人々に科学に興味を持たせることや、想像力ひいては創造力を育成するにも大変有効である。そこに夢をかけることは大変楽しいだろう。このような企画にもっと多くの青少年が参加することが望ましい。
 
 無重力あるいは弱重力下で生物の発育が可能ならば、将来宇宙ステーションで成長した人間の思考形式や感情・意志などが、地上の人間と異なるような事態が起こるかも知れない。もしそうならば、脳の機構の解明のヒントになるであろう。さらに、遠い将来には、それら新人類と地球上の人種との関係が問題となるであろう。
 いずれにせよ、無重力状態での生命の誕生は急速な進化(あるいは退化)が起こるであろう。古代に海から陸に生物が上陸したことで急激な生物進化が起こったように、環境の急激な変化は新種生物の発生に強い進化圧となる。

 人類の本能として無限の可能性を求めて宇宙空間へ進出することは必然的であるし、素晴らしいことである。人類がこの宇宙でどこまで進展できるか、そのこと自体がこの宇宙の進化にとって一大実験でもある。しかし、地球環境を破壊して住みにくくなったから地球外に脱出するというのであれば、「地球の使い捨て」である。そのような考えで宇宙へ進出してはならない。人類の母体は地球の大地であることを忘れてはならない。人類は将来、「地球の使い捨て」の思想で宇宙に出るのであれば、他の天体に次々にコロニーを造り、それらの天体を荒らしてまた使い捨てることになる。それでは人類は宇宙のガン細胞的存在となる。宇宙を汚さぬように細心の注意が必要である。
技術革新の行方
 日本の経済界をリードする経団連の新会長になった御手洗冨士夫氏は、キャッチフレーズとして「イノベーション(技術革新)日本」を掲げました。科学・技術が政治・経済まで動かす時代にあって、「科学技術立国」を国策とする日本に相応しい目標だと、多くの人は肯定するでしょう。だが、今の技術革新の急速なテンポに対して、かねてから疑問を抱く私は、果たしてこれでよいのだろうかと思います。

 現代では、情報、交通、物流の手段が高度に発達し、地球上を縦横に結んでいるので、政治、経済、文化の面でも、地球を一つに括るグローバリゼイションは必然のなり行きで、避けることはできないでしょう。それゆえ、問題はグローバリゼイションのあり方であって、どのようなシステムにするかだと思います。
 
ところが、今はアメリカを中心にして、経済のグローバリゼイションは、自由経済の下での「市場原理」で進められつつあります。規制のない資本主義における市場原理は、弱肉強食の競争であって、強い者は勝ち組としてますます強くなり、弱者を駆逐していきます。この競争レースに巻き込まれて走り出したら、負ければ落伍者となり終わりです。これが市場経済原理で推し進められるグローバリゼイションの現状だと思います。

 日本はそのレースに参加し、先進国に伍して負けないように一生懸命に走っています。グローバリゼイションの下では、発展途上国もこのレースに参加して来るので、何時追い越されるか分かりません。前も後ろも油断できません。日本のように国土が小さく、資源のない国は、そのレースで落後しないためには、常に技術革新を行い、経済発展を続けなければならないというわけです

 しかし、このような激しい競争はいつまで続けられるでしょうか。規制なしの研究開発をすれば、科学・技術は指数関数的に発展します。それに連れて、経済活動も同じように活発化するでしょう。今の開発ペースでは、人間生理の適応能力が環境変化についていけません。これでは人類の自滅です。

 いまさら言うまでもなく、地球は有限であり、資源、環境保全も限界があります。だいぶ以前から、これについて警告が発せられています。このまま開発が進めば、後100年などといわず、10年、20年で地球環境にはカタストロフィックな急変が起こりそうな予感がします。近年の地球環境の異変はその予兆ではないかと思えます。そうなってからでは急ブレーキは効かないし、方向転換は不可能でしょう。

 技術革新によって、消費エネルギーを節約し、機械の小型化で資源を節約できますが、その節約量を上回って物が造られ消費されるでしょう。冷蔵庫やパソコンがその典型です。次々に新機能を備えた新型が売り出され、使い捨てられています。
 便利な生活に慣れた人間は、それが当たり前と思って、さらに便利さを求めます。

 技術開発による新技術の発明は仕事の能率を大いに上げますが、多くの場合は、逆に新たな仕事を作りだし社会全体の仕事量を増やします。便利さを求める新技術は社会の活動力を高める潜在能力をもちます。それゆえ、便利な新機械はなくともすむ余分な仕事を作り、関連産業を生みます。複写機の発明はその例で、それまでなくとも済ませたものをコピーし、ファイルが急増しました。その結果、事務量の増加、、紙の大量消費、紙屑処理といった負の効果を生みました。
 便利な物ができても、人間の一日の労働時間は減りませんでした。日本ではむしろ労働時間は延長しています。


 世界中が、開発競争をしている中で、日本だけそのレースから抜けることはできないでしょう。でも、このままでは人類は早晩破滅します。イノベーションを日本の目標にするよりも、開発競争をひた走る世界の現状を変えてることを目標にすべきでしょう。

 無理のない「持続可能な発展」を指導原理とする政治・経済の理論が求められます。 
 
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