科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)報告2014年版」を読んで
「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)報告」
         2014年度版を読んで


 国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の新たな報告が4月に発表された。その報告書によれば、環境の激変を避けるためには、産業革命前の比べて気温上昇を2度以内に抑える必要があるが、その目標が実現されるか否かが今後の人類の課題である。そのためには大気中の温室効果ガス濃度(CO2換算)を480~530ppmに押さえねばならない。その実現には、たとえば電力生産に占める低炭素エネルギー発電(太陽光、風力などの自然エネルギー)の割合を80%以上に引き上げるなど、劇的な変革が求められるという。現在の濃度はすでに430ppmだそうである。 本格的な温室効果ガスの抑制に取り組まずこのままの状態を続けると、地球の平均気温は2050年には最大4.8度上昇すると予測している。

 世界全体の温室効果ガス排出量は、先進国の経済活動の増大と新興国を中心とした人口増や経済成長を背景として、増加の一途をたどり歯止めがかかりそうにない。CO2排出を減らす技術開発や、排出されたCO2を地下に閉じ込める二酸化炭素回収・貯留技術、原子力・自然エネルギー(「再生可能エネルギー」というのは科学的に矛盾した表現なのでやめるべきだ)利用に打開策を求めることを報告書は指摘している。だが、これらの技術利用にも限界があるし問題もある。完全な技術はないし、エントロピー増大則によって代償を伴うから、プラス効果だけでなくマイナス面もある。原子力はウラン濃縮や原子炉設備、および使用済み核燃料処理にも多量の電力が必要であるので、CO2減少の寄与は必ずしも多くない。

 したがって、この課題の本質的解決は、人類が生活スタイルを変革して、(電力)エネルギー消費を削減する意外にないだろう。先進国における生活は余りにも無駄が多い。震災後、日本の原発が停止してから節電努力が盛り上がり、原発無しでも電力は持ちこたえられることが分かった。この節電運動で、これまで如何に電力を無駄遣いしてきたかを多くの人が気づいたので、その後も節電の習慣はかなりの程度定着している。しかし、他方では、公共施設投資の増大、超高層ビルの建築などにより電力需要は増すばかりである。世界一、東洋一を誇る高層ビルや塔の建設競争、超伝導リニア-モーターカーの建設などはやめるべきではないか。

 世界に目を転ずれば、グローバル化による世界経済活動と技術開発競争は留まるところを知らず、特に新興国の急速な経済発展による資源・エネルギーの需要はまさに歯止めがない状態である。さらにもっと悪いのは、領有権や資源が絡む国際紛争や民族間闘争、そして宗教対立による紛争・テロの続発である。これらは軍事的闘争による破壊活動を伴い莫大な資産の破壊とエネルギーの浪費である。また、気候異変による災害と生活難を克服するために、多くの資源・エネルギーが必要になる。その量は環境破壊が進めば進むほど、指数関数的に増大するであろう。

 このような浪費と破壊により、エネルギー需要は増大の一途であり温暖化ガス排出も急増し、地球環境の破壊によって人類は自滅の道を加速度的に突き進んでいる。人類ばかりでなく、多くの生物種の生存も危機に追い込まれているから生態系が破壊され、それがやがて人類に返ってくる。いまや人口は地球の収容量を超えるほど増大し、人類は地球上での絶対的覇権者としてやりたい放題、すべての生物種の天敵になりつつある。地球環境の悪化は最早猶予はできないところまで来ていると思う。人類の人口減少も急務の課題である。地球環境異変がとことんまで突き進んでから、それに気づき慌てて対策をしたのでは遅すぎる。人類は頭をコンクリートにぶつけて痛い思いをしなければ分からないほど愚かではないはずだ。

 環境悪化の危機に気づいた科学者や知識人の声はまだ世界の人々を目覚めさせるほどインパクトは強くない。IPCCの報告は確実性を期するため控えめな表現をしているように思える。マスコミはこの深刻な事態を取り上げ、もっと強力に繰り返し訴えるべきである。そして、世界の指導的政治家がリーダーシップを発揮して、現状を変えるための「世界政策」を打ち出して訴えるべきである。G7やG20サミットで「こんな争いや、開発競争にうつつを抜かしている状態ではない。全人類が協力して地球環境の保全に取り組み、そのための知恵を結集しよう!」と声明をだして訴えるべきである。だが遺憾ながら、そのサミットでは当面の国際紛争や経済問題ばかり取り上げられ、このような環境問題についての真摯な発言がない。人類の生き方と世界の政治・経済の方向転換が必要な時期が迫っていると思うのだが残念である。

 環境汚染には国境はないから、一国や二国には留まらない広領域の問題である。だからそれに対する対策は全世界が協力しなければ不可能である。この危機的状態の克服には、政治・経済制度の根本的転換が必要であろう。近年、先進国の国家財政は累積赤字に苦しんでおり、改善の見込みはなく財政破綻の危機にある。それは現在の社会制度の構造的な欠陥によるものであろう。だから今の経済制度(歯止めのない市場原理優先主義)が続けば、新興国もやがて同じ道をたどるだろう。また、世界経済も基本的に不安定であり、ちょっとしたことが契機となって世界恐慌がいつ起こるか分からない状態が続いている。このジレンマから脱するには、人類の生き方、生活スタイルの本質的変革が不可欠であろう。

 2020年の東京オリンピックまでには、気候異変は加速度的に進み、大気汚染と気温上昇のために正常な競技ができなくなるのではなかろうか。その可能性を危惧している人はかなり多い。災害復興に名を借りてオリンピックを誘致したが本末転倒の感がある。「オリンピック成功のために全力を尽くす」などと暢気なことをいっている状態ではないだろう
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地球環境の異変について
地球環境の異変について

 地球温暖化の原因について、多量のCO2排泄が指摘されて定説になっている。だが、その説に対するいろいろな反論は後を絶たない。その中でも目を引くのは、昨年発表された赤祖父俊氏の論文である(「『金融財政ビジネス』:「止まった気温上昇CO2犯人説の真偽を考える」2009.11.)。彼は世界的に有名な地球物理学者であるから、その主張は大きな影響力を持つだろう。このまま無視できないと思う。

・赤祖父氏の主張 
 赤祖父氏は「大気中のCO2が急激に増加しているにもかかわらず、地球の平均気温の上昇は2000年頃から止まっている。これは実際に観測された事実である。しかし、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の研究者はその事実を無視し、一時的変動だと主張している。平均気温上昇の停止は、CO2による気温上昇を打ち消す理由があるからにほかならない。それは自然変動、すなわち小氷河期の回復に乗った準周期変動による可能性が大きい」と言って、政治・経済的背景を指摘すると共に、実際の気候観測データに基づき一般的見解を否定している。さらに、COPの会議など無駄だから止めるべきだ、日本のCO2削減目標はナンセンスだという。

 赤祖父氏のうな気球環境の専門家に、その分野の素人の私が反論することは困難であるが、「地球温暖化」だけを採りあげて、CO2増加のせいではないというのは一面的判断であって危険であると思うので、敢えてその理由と私の判断を述べることにする。 

・IPCC批判について
 赤祖父氏は、IPCCの報告は誤りであるといって、背後に政治的意図があるかのごとく批判している。しかし、千人を越すこの科学者集団は良心的科学者の研究組織と思う。IPCCの発足に当たって政治的問題があったとしても、これだけ広範囲の分野にわたり世界中の多数科学者を政治的意図で長年研究させ、都合の良い結論を出させることはできないと思う。

 IPCC報告が地球温暖化の原因をCO2にあると結論づけたことは、それなりの理由があるだろう。以前のこれまでのIPCCの報告は、結論をだすことに慎重で、表現に配慮していたようであるが、最近の報告では、温暖化とその原因についてはっきりと結論した。ただし、100年後の温度上昇予測については、不確定要素があることは赤祖父のいうとおり幅があるだろう。地球は複雑系であり、長期気象予報はまだまだ難しい。
 IPCCが、温暖化の研究に関する「学者としてできることは終わった。後は政策者の仕事である」といったとすれば、とんでもない発言と批判されても仕方がない、と赤祖父氏はいう。 さらに、温暖化防止の国際会議は意味がない、CO2削減は待ったなしの問題ではない、日本の25%削減政策は馬鹿げているというのも、同様に一方的偏見であろう。

・「温暖化」ではなく「気候異変」「環境異変」というべきだ
 地球温暖化にのみ目を向けて、温度上昇は自然変動のうちだとか、CO2増加と自然変動の両方だとかいって、CO2増加効果を論じていることがむしろ問題である。温暖化は進んでいると思うが、自然変動の要素がどれくらいかは明らかでない。これだけで確定的結論は出せないかも知れない。だから、他の現象にも目を向けて多面的に判断すべきである。
 地球は一つのシステムとして高度の複雑系であるから、多くの要素が複雑に絡み合って変化・発展している。温度上昇だけを問題にするのでなく、気象変動、海洋変動、氷河減退、砂漠化など総合的に研究して判断しなければならない。
 地球の平均気温の変化ではあまりはっきりしなくとも、気象異常は明らかである。激しい気温変化、梅雨期のズレ、集中豪雨、台風の発生状況の変化、他方では砂漠化の進みなどは、コンピュータ計算をしなくとも肌で感じうることである。さらに、エルニーニョの変化、海水の酸性化、海水の表面温度の上昇、海流変化、氷河の減退と深海水流の変化などいろいろな要因が絡み影響し合っている。(ヒマラヤ山脈の氷河は2035年までに消失するという警告は、科学的根拠の薄いインド科学者のコメントを載せたNGOの報告をそのまま引き写したということがわかり、IPCCは撤回し謝罪した。しかし、北極やヒマラヤの氷河がかなり減退していることは観測されている。)

 大気の温度変化についても、一様に上昇しているのではない。1950年以降、北極圏では100年あたり2.29℃も上昇したのに対し、赤道付近では1.25℃との観測データがある。つまり南北間の温度差が相対的に小さくなっている。これが大気の大循環を変化させているそうである。また上下方向では、CO2効果で地表では温暖化しているが成層圏ではむしろ寒冷化が進んでおり、大気全体としては実は温暖化も寒冷化もしていないそうである。そうならば大気が不安定となって対流活動がより活発化することになり、気候異変の原因となる。

 地球環境の異変はいろいろな所にでているから「温暖化」ではなく「気候異変」、「地球環境異変」の問題として多面的に捉えるべきである。

・手遅れになったら取り返しはできない 
 だから、赤祖父氏のように「待ったなしではない問題」といって、CO2削減よりも温暖化についての研究に力を注ぐべきだといって、悠長に構えているのは危険であろう。
 コンピュータを使うまでもなく、経験的に分かる自然現象として明らかに気候異変は見て取れる。異変が決定的になってからでは、対策は間にあわない。相乗効果のために、ある変化が閾値に達するとカタストロフィックな変化が起こり、そのとき複雑系はカオス現象を起こし引き返しが効かない。巨大な玉が坂道を転がり落ちるように加速されていき止まらなくなる。

真の科学的判断は総合的判断による 
 科学史の教えるように、自然科学の説や法則の真偽は、一種類の実験や、一種類のデータだけで決定的なことは言えない。一つの理論をひっくり返すには、あるいは新たな仮説を承認し受け容れるには、多くのデータと多面的な綜合判断に基づいて問題点を絞り込み、最終的結論に到達するのである。
 まして地球のような複雑系の場合はなおさらのことである。地球の温暖化や気候異変はCO2によるものか否かは、平均気温の上昇のみ見て単眼的な判断ではなく、地球のあらゆる異常変化を基に多面的(複眼的)な総合判断が必要である。それが本当の科学的方法である。
科学・技術の革新で地球環境は救えるか

科学・技術の革新で地球環境は救えるか

 地球環境の悪化,特に地球温暖化は急速に進んでいて,もはや猶予できないところにきているように思える.国連機関のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第4次報告(2007年)は,この温暖化は人為によるものであることを指摘した.ドイツで開かれたG8サミットに引き続き洞爺湖サミットでも,地球温暖化防止のためにCO2排出の削減目標が大きな議題になっている.このニュースは地球環境の問題を世界の人々にアピールする効果はあったろう.しかし,その目標を実現する手だての具体的議論には,各国の足並みが揃わず真剣みが感じられない.アメリカや日本政府の提案は悠長過ぎるし,中国,インドは危機意識が薄い.

 ところで,地球環境保全のために,CO2排出の削減や省エネルギー技術の開発の必要性がしばしば唱えられている.国連を初め日本政府もその方針を打ち出している.環境破壊を防止して地球を救うのも,科学・技術での力が大変有効かつ不可欠であることは間違いないから,その方針に反対するつもりはない.しかしその方法には限界があるし,そればかりでなく,その新技術も使用法によっては逆にエネルギー消費を増やしたり,新たな環境破壊の要因を生み出したりする可能性があることを認識すべきであろう.営利追求の資本主義社会における市場原理優先の政治・経済制度を改め,同時に人類(特に先進国の人たち)の意識改革なしには,科学・技術革新のみでは地球環境を救うことは不可能であると思う.

技術革新のもつ矛盾  
 環境保全対策のための科学・技術の開発には,主に(1)省エネルギー・省資源のための機器・装置の小型化,(2)環境汚染物質の排出量を減少する技術や,それに替わる代替物質の発明である
 (1)の小型化では,大型機器を小型することにより,製造のための資源が節約されるし,そして運転のためのエネルギー消費量が大幅に減る.それゆえ,環境破壊を阻止するのに大変有効であるように思える.たとえば,コンピュータの場合,半導体のICチップス技術が進んだために,大容量メモリーのコンピュータの小型化で資源と電力の節約は計り知れないであろう.また,超微細物質を操作し細工するナノテクノロジーの進歩は,多方面で機器の小型化を可能にしつつある.
 これらの技術開発により,非常に多種機器の小型化が進み,莫大な資源とエネルギーの節約が可能になった.だが喜んでばかりはいられない.コンピュータの小型化により,パソコンが一般家庭にまで大量に進出した.今では携帯電話機がそれに替わろうとしている.その結果,社会全体で見れば,パソコン・携帯電話の全台数は指数関数的に膨れ上がり,その製作に必要な資源量と電力消費量は大型コンピュータ時代に較べて却って増えた.技術革新によるIT機種の改良で次々に新機種が売り出され,売れ残り物の廃棄と使い捨ての無駄は目に余るものがある.他方,IT技術の発達に伴い情報化社会は急速に進み,巨大コンピュータの大量稼働による大量の消費電力のために、その発熱による「IT温暖化」とその冷却法が問題になっている.
 この状況は一例に過ぎず,身の回りを見れば家庭電化機器をはじめ,事務機,医療機器などいくらでもある.この種のものは,その機器が便利であればあるほど,また情報化社会が進めば進むほど,需要が増大し普及する.それにつれて人間の欲望も増大する.一つの優れた技術が開発されると,その技術は多方面に応用されて,逆に資源・エネルギーの大量消費をもたらす結果となる.小型化はその需要に応えやすいから,歯止めのない市場原理優先の経済社会ではその動きを止めようがない.

 次に(2)の代替物発明の技術はどうであろうか.結論を先に言うと,新たな環境破壊をもたらし,下手をすると環境破壊の拡大再生産の可能性がある. 
 その典型的な例は原子力発電であろう.化石燃料の枯渇対策として,またCO2の排出を抑制できるといって,かつて大宣伝された.日本でもかつての科学技術庁が原子力発電に熱心に肩入れした.その推進理由には一理あったが,その政策は杜撰であり,安全性対策は疎かにされた.使用済みウランの処理(原子炉の灰),老朽原子炉廃棄処理の対策に関する見通しが甘く不十分であったために,今になってそれらの処理に困っている.しかも,これには莫大な経費がかかることに蓋をし,原子力発電コストを不当に安く評価している.処理できない使用済み放射性廃棄物は蓄積する一方で,下手をすると将来地球の広範囲が放射能で汚染されかねない.それゆえ,原子力発電は新たな地球環境汚染の要因となりかねない.

 代替物のもう一つは,冷媒ガス用のフロンガス(クロロフルオロカーボン)の利用である.それ以前に使用されていたアンモニアなど有害な冷媒ガスに替わってフロンガスが発明された.フロンは無色無臭,不燃性で化学的に安定しているなどの特性があり,人体に無害であるうえに大気汚染の問題もないともて囃され,エアコンや冷蔵庫の冷媒,電子部品の洗浄,発泡スチロールの発泡材,スプレーなど,広範囲に大量に使われた.しかし,大気中に放出されたフロンが,有害紫外線を吸収するオゾン層を破壊することがわかり,たちまち使用禁止になった.しかし,すでに大量のフロンが上層大気中にあり,オゾンホールは拡がった.またすでに使用された機器中のフロンの回収は容易でなく,今も少量ながら放出されている.フロンガスは,代替物が新たな環境破壊の要因となった典型的例である.これ以外にも洗浄剤などには「環境ホルモン」とされる成分を含んだものがある.

2次,3次効果の予測が必要 
 現代では,科学・技術の規模は巨大化され,一挙に大量の物が製造されるようになった.地球環境保全はスケールが大きいので,そのための技術は必然的に大規模となる.従って,新技術が開発されて一気に使用されると,たちまち全地球にその影響は及ぶ.それゆえ,十分なテストで安全性を確認せずに使用すると,後から気づいたときには遅く,取り返しがつかないことになる.

 CO2を凝縮して地中に埋める方法や,海水に吸収させる方法などいろいろ研究されているが,その2次的,3次的効果を十分検証しないと思いも寄らぬところに影響がでるかも知れない.また,遺伝子組み換え技術も,病害虫に強く生産量を上げるための植物を作り出すが,人体や生態系への直接影響のみでなく,耐性菌の出現など2次効果も検証しなければならない.DNAのうちの大部分はまだその役割がわかっていないから,組み換えの際にその未知の部分が換わっても,その影響はすぐ表に出ない可能性があるからである.このような事例はいくらでもあろう.環境保全の問題は温暖化だけではない.

 地球は一つのシステムとして多くの要素が複雑かつ微妙に絡まり合って動いているから,小さな作用でも相乗効果で拡大され,2次,3次効果の方が大きくなる可能性もある.人間の知恵はまだ不完全であり,技術には予知できない抜け穴がある.技術への過信は禁物である.

資本主義の市場原理に歯止めを
 環境破壊を救うのも科学・技術の力ではあるが,現代ではそのための新技術は環境保全以外に多方面で利用され,むしろ金儲けのための技術開発の方が優先される傾向が強い.便利な生活環境で育ちそれに慣れた人間は,その生活が当たり前と思ってさらに便利さを求める.だから,生活に便利な機器はどんどん売れるので,資源・エネルギー消費の増大に繋がる.何か重大な問題が起こらなければ,この連鎖は止まるところなく続くだろう.

 技術開発による新技術の発明は仕事の能率を大いに上げるが,多くの場合は逆に新たな多量の仕事を作りだし,むしろ社会全体の仕事量を増やしてきた.便利さを求める新技術は社会の活動力を高める潜在能力を持つ.それゆえ,便利な新機械ができると,それが無ければなしですむ余分な仕事を作り,関連産業を生みだすからである.たとえば,複写機の発明はその例である.大量のコピー機の普及は資源と電力の大量消費をもたらしたばかりでなく,それに付随する多くの仕事を増やした.それまでは,無くとも済ませたものをコピーし,無駄なファイルが急増した.その結果,コピー作業,事務量の増加,紙の大量消費,紙屑処理,電力消費といった,環境にとって負の効果を大量に生みだした.コピー機は携帯電話などと併せて情報公害をもたらしたと私は思っている.

 これまでの経験で,新技術により便利なものができても,社会全体で見ると仕事量が大量に増えて,人間の一日の労働時間はあまり減らなかった.ロボットの進歩は人間の労働を軽減し,労働時間を短縮するのではなく,生産量を上げるためにだけ利用され,人間の余暇をあまり増やしてくれなかった.日本では機械化が進んだ結果,むしろ労働時間は延長され過労死がでたが,それは依然あとを断たない.新技術の開発で仕事の能率が何倍上がったか,そしてその技術に付随して(その応用も含めて)増えた社会全体の仕事量の両方を評価すること,またその技術と関連した新機器を含めて資源・エネルギー使用の増減を評価することが必要であろう. 

 環境問題を解決するための科学・技術開発は新たに別の環境問題を生み,最悪の場合は矛盾の拡大再生産になりかねない.この悪循環を断ち切るには,野放しの市場原理優先を止め,同時に私たちの意識を変えることで価値観を転換し,生活習慣を変えなければならないと思う.
環境異変を実感できない若者
        環境異変を実感できない若者

 私の家の庭には、11月頃から、春に繁茂するはずの雑草が次々に芽を出しています。昨年も芽を出ましたが、それほど多くなく間違って目を覚ましたなと思うくらいでした。この現象は年々増してきました。今年は間違いではすまされないほど多く、度々除草しないとどんどん大きくなり庭一杯にはびこりそうです。まさに「我が世の春」が来たと思っているようです。 これだけ温暖化が進み気象異変が進行しているなーと、身近なところで実感するこの頃です。

 気象異変の進行については、最近は多くのところで取りあげられ警告されておりますから改めてここで言う必要はないほどです。でも、地球の気象異変や環境破壊の事態をマスコミ報道や学校教育で耳を通して教えられるから頭では理解できても、体験として実感できない人たちが多いのではないかと思うのです。とくに、若い人たちがそうだと思われます。
 
 なぜならば、温暖化などの気候異変は徐々に起こるので、子供たちは以前の状態を体験してないから、その変化を体で実感できないです。また、食べ物にしても、野菜・果物から魚まで、ほとんどの種類のものが1年中食べられます。スーパーマーケットに行けば、何時でも好きなものが手に入り得るので、季節感が欠けています。だから、自然の本当の姿を知りません。

 昔は、生活が自然と結びついていたので、1年の4季の移り変わりを、単に気温変化だけでなく、季節の食べ物や生活習慣によって、また社会の行事によっていろいろ体験して来ました。しかし、先進国の現代社会では、ほとんどの人がほとんどの時間を自然の中でなく、人工的空間の中で生活しているので、本当の自然の循環を実感として体験できない状況です。

夏と冬の気温変化は体感的に実感できますが、春秋の微妙な季節の動き、それにつれて自然が移りゆく様子などを経験する機会がなくなっています。したがって、自然の変化のなかに微妙なバランスを感じとる感性が養われません。

 生まれたときから、今のような物質的に豊かな環境で育つと、無駄や贅沢が分かりません。戦後物のない時代に苦労した私たち老人は、今の生活にはいかに浪費が多く贅沢かが分かりますが、若い人たちはこの生活が当たり前と思っていますから、そのことを理解しかねるようです。

 だから、地球環境を守るためのエコロジー教育は、省エネルギーやCO2排出削減を説くと同時に、自然に親しんで、自然の営みを体で知ることから始めることが欠かせないと思います。 
 自然を愛する人は感性も豊かです。



地球は自然界も人間社会も変調だ
地球は自然界も人間社会も変調だ

 最近の世の中は完全におかしくなってきた。老人のせいか嫌なことばかり目に付く。

 今年の夏の暑さは異常だ。去年より一段と猛暑が進んでいる。人間による地球環境破壊のために気候異変は目に見えて加速され要るように思う。自然の異変は気候ばかりでなく、地震、津波、竜巻、干魃、洪水などの天災が世界の各地に頻発している。巨大台風(ハリケーン)、竜巻、干魃、洪水などは天災でなく、その元を質せば人災であろうし、地震や津波も対策を平生からきちんとしておれば被害はもっと少なかったはずである。自然界はがたがたに狂いだした。

 他方、人間社会も秩序維持が困難になりつつあり、安心して生活できない。テロによる無差別殺人、通り魔の無差別殺傷、乗っ取り事件、押し入り強盗殺人、親子・兄弟の殺人が横行している。民族間抗争、宗教戦争は各地で続き大量虐殺も絶えない。まったく殺伐とした世の中だ。比較的治安のよい日本ですら酷い状態になってきた。殺傷事件、偽造・詐欺事件は毎日のようにニュースになっている。食べ物の産地や原料の質など信用している人などほとんどいないだろう。嘘が当たり前になっている。

 政治経済の面でも、各国の首脳は国民・世論の支持率は非常に低く、有能な政治指導者が欠如しているから、民意を引きつけてこの困難を救う手だてがなく右往左往している状態だ。各種サミットの会議は開くが有効な解決策は見つからない。だから、投機屋が巨大資金を操って世界経済を引き掻き回している。住宅のバブルがはじけると、次は原油価格の異常高騰、バイオエタノール製造による穀物の欠乏で食物価格の高騰というように、次々に投機マネーは世界を駆けめぐって巨利をあげ、ますます肥大化していく。このような状態に手を打とうとせず(打つ手がないのか)投機屋のなすがままである。今やグローバル化時代の帝王はこれら投資屋である。 

 以前NHKスペシャルで新興ドバイのバブル振りを放映していた。原油価格の高騰で儲けた一握りのアラブの成金と投機屋が、海を埋め立てその上に巨大な高層ビルを林立させていた。それでも足りず、また次にさらなる巨大プロジェクトを計画しているという。それを見て空恐ろしさと馬鹿らしさが交錯した。そのバブルが弾けたらどうなるのだろうと、そして古代のバベルの塔が頭をよぎった。

 今や世界の人口は地球の収容能力を超えて、すでに1.2倍に達しているそうである。
したがって、生活水準を平等にすれば、先進国の人びとの生活はかなり低くなる。だが、一方では、飢えと病気に苦しみ餓死者がでている、それを尻目にして、他方では途方もない贅沢な生活をしている者がいる。余りにも不均衡である。

 日本でも毎日余った大量の食べ物を捨てている。ほとんどまだ食べられる物だそうだ。世界的には食糧が不足し、国内では貧富の格差が拡大して、”ワーキングプア”が続出しているにもかかわらずである。日本人の美徳といわれた「もったいない」の精神は、経済原理、市場原理に押し流されてしまいそうだ。食糧自給率が40%を切っている日本は、いずれ食糧難で食べ物に不自由する時代がくるかも知れない。

 自然界の食物連鎖の頂点にいる人類は、食料貯蔵法を工夫開発したために、必要以上の動植物を殺している。そして、食用動物・魚類の飼育は物質生産と同じく工場となっている。食料工場で飼育している生き物は殺すのが前提になっているので、その死をなんとも思わない。それを食べる人間は、お金さえ出せばいつでも好きなだけ手にはいるから、その食物がどのような過程で食卓まであがってきたかなど、気にもかけずに飽食している。それはすべて動植物の犠牲の上に成り立っていることを直接知るよしもなく、また知ろうともしない。だから、食べ物を平気で捨てられるのである。人類は食物連鎖のバランスを崩して、生態系を破壊している。これでは相手の痛みが分からなくなり、平気で殺傷をするようになるのではないか。 しかし、他方では、自分のペットに対しては、生活で苦しんでいる人びとに対するよりも思いやりがあり、可愛い動物が傷ついたり、迷子になったりするとニュースになり大騒ぎをして同情するといった現象がある。どうもアンバランスである。

 テレビのグルメ旅行に出てくる画面では、盛り沢山な旨い御馳走に舌鼓を打っているばかりで、命をくれた動物や魚に感謝する言葉や場面は一度も見ない。このように人間中心の「食文化」を見るたびに、金子みすずの詩「大漁」を思い出す。

大漁: 朝焼小焼だ大漁だ  大羽鰮(いわし)の大漁だ
       浜は祭りのようだけど 
      海のなかでは何万の  鰮のとむらいするだろう


 目に余る悪いことばかり並べ立てたが、嬉しいことよりも腹の立つことが多すぎて、つい文句がでる。だが、こういうようにすべての面でアンバランスな環境では、精神的に変調な人間が育つのは当然かも知れない。通り魔は「誰でもよかった」といって簡単に人を殺して平然としている。このような異常な事件を繰り返し聞いていると麻痺して、無差別殺人が異常でなくなってしまい、また次の事件を誘う。マスコミは採りあげ方を考えて欲しい。そのようなことは人間として許されないのだということを、特に若者に思わせるような報道をすべきである。犯人の生い立ちがどうの、学校の成績がどうのという現象的なことばかりに目が向いている。

 それにつけても思うのは、マスコミはもっと工夫して報道の姿勢を変えて欲しいということである。興味本位の現象を追ったり、表層的な解説ばかりするのではなく、もう一歩踏み込んでその原因を分析し、総合的判断をもって内容を構成して欲しい。また、政治・経済、社会、スポーツ、娯楽など、すべての面で、「なぜか」や「どうすべきか」が少なく、「いかに」ばかりが多いのも気にいらない。
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