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科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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科学と技術の価値、および社会的役割
科学と技術の価値、および社会的役割

 AI(人工知能)の凄まじい進歩には目を見張るものがある。その将来像について警戒すべき所があるので、よく検討しながら開発すべきだ。あまりに急速な進歩は危険である。それにつけても、科学・技術のあり方が改めて問い直されている。

  科学・技術に対する批判は、原水爆開発競争や地球環境破壊などから、1960年代に隆盛になり、大学紛争当時は行き過ぎた「反科学論」まで叫ばれた。福島第一原発の事故により、科学批判が再び台頭した。この科学批判には耳を傾けるべきことも多々あるが、その議論には科学と技術を混同し一纏めにした「科学批判」が多いように思う。科学と技術の目的や社会的機能について、ここに改めて私見を述べてようという気になった。

1.科学と技術を区別すべきだ
 科学は人類の生産活動と結びついた技術のなかから、自然についての知的欲求により、その経験的知識を昇華して生まれた普遍的知識の体系である。したがって、科学と技術は不可分に結びついている。だが、両者はその目的も方法も、したがって社会的役割も異なるものである。
 本来、科学の目的は自然の仕組みを解明し認識することである。自然科学は古来「自然哲学」であった。自然科学には二つの社会的機能がある。第一は精神文明への寄与、つまり自然認識を深めることにより、自然観や人生観の形成に寄与することである。 第二は物質文明への寄与、その知識を応用し技術を通して生活に役立てることである。
 前者は人類の知的欲求を満たすと同時に, 自然観や哲学の形成など精神文明に寄与するから, 科学は精神文明の一部としてそれ自体存在意義がある。それに対して、後者は, 技術を通して物質文明への寄与である。技術の目的は自然の法則性や科学理論を応用して、生活に活用することである。それゆえ、科学と技術との目的は別であり、また、理論も方法もそれぞれ異なる。科学には基礎科学と応用科学があり、応用科学は技術と混同されがちであるが、やはり技術とは区別すべきである。
 科学には、それを形成した文明圏(あるいは民族)の自然観と思考形式が反映されている。17世紀に誕生した西欧近代科学の基礎には機械論的自然観、原子論的自然観、数学的自然観がある。20世紀の現代科学の自然観は、それぞれ進化的自然観、階層的自然観、数学的自然観に代わった。それゆえ、科学は文化であり、思想である。対して、技術には生活習慣や社会制度が強く反映される。
 このように、科学と技術はその目的も社会的役割も別であるにもかかわらず、「科学=技術」と誤解されがちである。日本では特にその傾向が強い。その理由は、一つには、現代では科学と技術が密接になり、基礎科学から技術への応用までの時間・空間的距離は極めて接近していて短期間の内に技術に利用されることにあろう。もう一つの理由は、江戸時代末期から明治にかけて、近代科学と技術が日本に導入されたとき、科学は「役に立つ知識」、つまり技術と同一視され、思想としての科学、精神文明としての科学の意義は無視された。この混同から日本では「科学技術」と一語で括る傾向が強い。欧米では通常“science and technology”と区別されている。この混同の傾向は日本のみでなく、実学重視の東洋に共通した科学観であろう。
 日本は西欧に追いつくために、「科学技術」の知識を急いで吸収し、その「科学技術」を富国強兵政策のために用いた。科学に対する理解とその姿勢は、その後もほぼそのまま今日まで引き継がれている。基礎科学軽視の風土の根はここにある。それゆえ、今でもノーベル賞の受賞者に対し、その学問的意義や精神文化としての意義を差し置いて、「それは何の役に立つのですか?」と聞く人が多い。また、“科学技術立国”としての基本方針にもその発想が強く反映されている。その基本方針は科学・技術における基礎科学の意義と役割を全く理解しない近視眼的見解であると思う。これでは基礎科学と基礎技術の面で、外国の後追い体質から抜け出ることはできない。

2.現代社会における科学と技術の役割
 近代科学が築かれる以前は、人間精神も社会も宗教が支配していたといえるだろう。それゆえ、科学も宗教の下にあった。だが、近代科学は神を必要としない論理を獲得し、宗教から独立していった。その過程で、宗教と科学の社会的地位は逆転した。科学・技術は、生活の隅々に浸透し、精神的にも物質的にも、人類の生活を一変させた。今や、科学・技術は一国の政治・経済を左右するまでになった。
 科学リテラシーについて。昔は、市民的教養の基礎は「読み、書き、算盤(計算)」と言われたが、現代では、それに「科学・技術の基礎知識」を加えるべきである。特に、文系の多い政治、司法、経済、教育の分野の指導者には、科学・技術に関する基礎知識が強く求められる。それなしには、専門家の意見を適切に判断して、正しい政策は打ち出すことはできない。この風土を変えるために、日本における科学教育の内容と制度を根本的に改革しなければならない。
 近代科学成立以降、科学・技術が、哲学・倫理を含む人文科学に比して、突出して急速に発展したために、社会制度や人間生活に歪みが生じ、人間精神の荒廃をもたらしている。このままでは、環境破壊(地球温暖化、汚染など)と高度の兵器開発による人類生存の危機は避けられない。
  哲学・倫理との共生がなければ、精神文明としての科学、思想としての科学は真っ当に存在も成長もしえない。その様に歪んだ科学は、適切な規制のない資本主義社会では経済支配の下で、金儲のための技術の下僕となりかねない。現代では、科学・技術は国政の支配下にあり、基礎科学すらも国威発揚のための技術の下僕となっている。この状態を脱して、「思想としての科学」の復権を唱えたい。文化としての科学が尊重される社会は、格差のない平等で平和な社会であろう。かつて、私は拙著『科学は自然をどう語ってきたか』(ミネルヴァ書房1999年)で「精神文明としての科学の復権」を主張した。
 科学と技術を区別せずに、一纏めにして「科学」として論ずる議論は、本質を踏み外して人類の未来を見誤ることになりかねないと思う。

3.科学と技術の価値について
 上記のように、科学は精神文明の一部としてそれ自体存在意義がある.「科学の価値」には, 科学理論それ自体(科学知)の有する「理論的価値」と, 技術を通して社会生活に活用する「利用価値」とがある。この両者を区別して科学の価値を考察する必要がある、と言うのが私の考えである。社会的「利用価値」は技術への応用の価値であり, 科学自体の有する「理論的価値」ではない。真善美に価値を認めるように, 科学知はそれ自体価値を有する。人間には自然の仕組みについて強い好奇心があり, それを知る喜びがあるからである.それゆえ、科学は価値とは無縁な「没価値」ではない。自然科学は客観的に存在する自然の仕組みや自然法則それ自体は価値とは無関係であるから、それを探究して得られる科学知は技術的利用価値とは無関係という意味で「没価値」である。
 科学理論(科学知)の価値評価は, その理論の正確さと普遍性によって決まる。つまり自然の仕組みを解明する活動(科学研究)において、適用範囲が広くかつ厳密正確な理論ほど科学的真理に近く, したがって知る喜びも大きい。さらに, そのような理論は科学研究における理論の有効性 (適用範囲と応用力)が大であるから「理論的価値」は高い。
 ただし、科学理論も、科学の進歩に伴って変化してきたから, 科学理論に対するこの価値評価も絶対的なものではない。科学も完全ではなく本質的に不完全である(教育改革通信238号、『近代科学はなぜ東洋でなく西欧で誕生したか』(吉岡書店)参照)。科学理論の真偽の評価は, 実証に基づいて社会的・歴史的になされるものであるから, その理論の価値評価も個人的好みや信条ではなく, 社会的・歴史的に客観的になされるべきである。それゆえ, 「科学の価値中立性」(後述)に関する判断も, 現代の状況だけで決まるのではなく、地域や時代を超えて 社会制度にも依存せず普遍的になされるべきである.
 科学理論の技術への活用における「利用価値」に関していえば,それは両刃の剣であり,善用、悪用いずれにも利用できる。社会制度や文化様式や生活スタイルにより,科学の技術的利用の仕方も異なる。科学理論自体には利用目的はなく、善用し易いとか悪用し易いといった性質はない、すなわち利用価値に対して中立である。
 他方、技術の価値についていえば、科学と技術は,その存在目的が異なるので価値判断は同一には扱えない。それでも、技術知識そのものは、科学と同様に,価値中立的であるとの考え方もある。その技術を誰が何時何処で利用しようと, 同じく有効に働くからというわけである。問題はその技術の利用目的と利用方法であり, それによって技術の善悪が決まるというのである。だが、技術は,社会的であろうと個人的であろうと, 生活の手段に活用するために生まれた。それゆえ、個々の技術はその使用目的が限定されているから、善用、悪用の区別がつきやすい。
 技術とは何かを, 武谷三男は「技術とは人間実践(生活的実践)における客観的法則性の意識的適用である」と規定した。この定義は, 技術の最も本質的なところを捉えているであろう。(これに対して技術を「労働手段の体系」と規定する, いわゆる体系説もあるが, それは技術の実体論的把握であり不十分であると思う)。武谷の「意識的適用説」によれば, 技術は目的を遂行するために法則性(法則として確立する前の知識も含む)を意識的に適用するのであるから, 利用価値と切り離せないだろう。
  技術の価値評価は,利用価値の高低でなされる.技術の有効性は, 利用効率や使いやすさ, および有益と弊害との兼ね合いで決まる.有効性の高いものほど技術としての価値は高い。だが, 技術には完全なものはなく, 大なり小なり必ず欠陥と弊害がある.それは技術そのものの不完全さに由来するものと, 利用者の利用法によるものとがある.

科学の価値中立性について
 経験科学の価値についてヴェーバーの「価値自由Wertfreiheit」論がよく引用される。それによれば「価値自由」には二種の「自由」があって、「研究における価値からの自由」と「社会的実践における価値判断への自由=価値判断の表明」である。「研究における価値からの自由」の場合は「価値自由」と「没価値」とをほぼ同義とみなされるようである。経験科学が客観性を保つためには価値判断から分離されねばならないとし、経験科学が教えうるのは人間の行為の目的にいかなる手段が適合するかのみであって、何をなすべきか(価値判断)を示すことはできないと主張して、理論の実践的意図とその評価を厳しく拒否したわけである。
だが、この科学理論の「没価値説」には疑問があるし、科学理論の社会的実践(技術を通しての活用)においては、価値とは無関係でありえず、没価値とは思えない。この疑問を解決するには科学の「没価値説」と「価値中立説」とを区別することにあると思う。
科学理論の「没価値説」は、科学的事実は価値から独立していて価値とは無縁であること、そして科学理論は価値評価や価値判断を行うことはできない、というものであろう。他方、「価値中立性」は科学理論とその利用について、価値と価値判断を一切排除するものではないだろう。価値中立説は科学知の価値、すなわち「理論的価値」の存在を認めた上で、科学的認識活動における科学理論の有効性に関しては価値判断をする。そして、技術的「利用価値」について無関係ではないが、善用・悪用いずれにも使えるという意味で価値中立であるというのである。その「理論的価値」は科学的事実にかかわるものであり、技術的「利用価値」に関わるものではない、両者は明確に区別されるべきである。すなわち、科学理論は価値中立ではあるが没価値ではない、というのが筆者の意見である。
 誤解のないように付言すると、科学は「価値中立」だからといって、科学を研究する科学者が科学の利用について「われ関せず」という態度は許されない。科学者も社会の一員であり、かつ理論応用に対する知識が深い。科学が技術を通して悪用されないように監視し、また悪用されたなら反対すべきである。科学は利用価値中立である故に、科学者はいっそう強くその利用法を監視して、悪用防止に努めなければならない。それは科学者の社会的責任として当然の義務である。

4.基礎科学の大切さ
 自然科学における基礎科学は、主として自然の仕組みについての原理や法則を追求するものである。それゆえ、その成果を技術としてどのように役立つかということとは、一応無関係である。基礎科学のテーマは、それが何の役に立つかを最初から明らかなものは少ない。むしろ何の訳に立つか分からない研究ほど、将来社会的に大きな役割を果たすものである。そのことは基礎技術の開発についてもいえることである。
 基礎科学の振興には、研究の自由が必要であり、長期間の研究継続を認める環境が不可欠である。新しい課題の研究に対する理解が無く、すぐに成果を求めたりする日本の風土には、基礎研究は育ちにくい。基礎科学、基礎技術の研究費は、国公立大学の特殊法人化以後ますます圧迫されている。
 基礎科学で「理論的価値」の高い論文は、科学研究の分野では貢献が大である。基礎科学の成果は、その延長として応用科学を活性化させ、科学全般のレベルを高める。その結果、将来、技術として広く応用活用されるわけである。それゆえ、長い目で見れば、基礎科学の重視が科学・技術全般のレベルアップと振興に欠かせない。
 日本はノーベル賞の受賞を、国を揚げて称賛し喜ぶが、基礎科学軽視の状態が続けば、ノーベル賞級の研究は衰退することを、もっと認識すべきである。そのことをノーベル賞受賞者は、受賞の都度みな口を揃えて強調し、基礎科学予算増加を訴えている。しかし、その声はなかなか関係者には届かない。
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新刊案内「近代科学はなぜ東洋でなく西欧で誕生したか」
近代科学はなぜ東洋でなく西欧で誕生したか
-近代科学から現代科学への転換とその意義-

       菅野礼司著  (2019.1.吉岡書店)
  (2,500円 税別)


近代科学の成立の意義は、その誕生自体が人類の文明史における一大エポックであるばかりでなく、それが以後の人類史を転換し発展させる原動力となったことを思えば、これほど大きな歴史的事象はないであろう。それゆえ、このテーマはこれまでに多くの科学史家の重要な課題として関心が寄せられ、研究されてきた。筆者は物理学が専門であり科学史が専門ではないが、科学論の研究とともに、興味をもってこの問題に取り組んできた。

古代から近代科学の誕生まで、東西の文化圏における自然観、思考形式(論理学、数学など)、技術、社会における科学の地位などを比較検討した。
 表題の課題を考察する基本的観点と論点は、1.科学は思想・文化であること、2. 風土に基づく自然観と思考形式が科学に反映されていること、3.科学・技術の性格は、社会制度に規定された科学の目的と科学の担い手に依存、4.科学の質的進化には、その発展段階に適応した新たな自然観と思考形式を持った文化圏(民族)による科学の継承と発想の転換が必要ということである。
東西の文化圏にそれぞれの科学・技術が生まれたが、自然観や思考形式が異なるので、その性格・内容も異質である。
中国の思考法は具象的・実学的で、普遍化体系化に向いてない、インドのそれは普遍的・観念的で科学の概念も明確でなかった、西洋は分析的・論理的で、原理・法則を徹底して追求する傾向が強い。
古代ギリシアからアラビア(イスラム圏)・ラテン・西欧へと、科学の発展段階にマッチした文化圏によって引き継がれ、近代科学が誕生した。
中国、インドの科学・技術は中世までかなり進んでいたが、文化圏としてほぼ閉じていたために、尚古主義に陥り科学の進歩は停滞した。
近代科学の基磯にある自然観は機械論的、原子論的、数学的自然観である。これら自然観と「数学的実験科学」という思想は、東洋には生まれなかった。
最後に、近年の「科学・技術に対する批判」に関連して、近代科学から現代科学への転換の様相とその意義を科学の論理と方法、自然観を中心に考察した。
近代科学から現代科学への転進では、自然観や科学の論理などに質的転換がある。その様相と意義を概観した。

目次

序章
第1節 はじめに
第2節 科学・技術の社会的機能
第3節 「科学」とは何か
第4節 アプローチの方法
第5節 近代科学の特徴:方法と論理

第1章 古代文明における科学と技術
第1節 古代の四大文化圏における自然観と技術
第2節 古典科学の誕生:技術から科学への進展
第3節 中国文明と古典科学
第4節 インド文明と古典科学
第5節 ギリシア文明と自然哲学
第6節 古代科学文明のまとめ

第2章 中世における科学・技術
第1節 中国の自然観と科学・技術
第2節 中世インドの科学
第3節 アラビア科学(イスラム圏の科学
第4節 中世西欧の科学・技術
第5節 まとめ:中世における科学の継承と発展

第3章 近代科学の形成
第1節 近代物理学誕生の前夜
第2節 近代物理学の形成
第3節 近代科学の基礎となる自然観
第4節 デカルト物理学
第5節 惑星に関するケプラーの法則
第6節 学協会の設立
第7節 ニュートンの総合
第8節 第一科学革命
第9節 近代物理学の完成へ
第10節 科学の前線が拡大:物理、化学、生物学
第11節 西欧近代科学の性格と論理的特徴
第4章 現代科学-20世紀の科学の特徴
第1節 20世紀における科学の展開
第2節 第二科学革命
第3節 現代科学の論理の特徴

終章 21世紀の科学:第三科学革命
第1節 自然科学は「人類による自然自体の自己反映」
第2節 21世紀の科学
ノーベル医学生理学賞 本庶佑教授に
ノーベル医学生理学賞 本庶佑教授に

今年も日本人科学者本庶佑教授がノーベル医学生理学賞を受賞した。本庶氏ご自身はもとより、日本の基礎研究が認められたことは大変喜ばしいことである。
 ガン治療薬のオブジーボの発明にいたる基礎研究で、免疫細胞の働きを抑えるPD-1分子の発見には、生命の仕組みの奥深さ、複雑さと巧みさに改めて感嘆させられる。


  テレビ会見における本庶教授の、研究に対する確固とした揺るぎなき信念は語る姿には感動を覚えた。日本の現状を憂えてノーベル賞金を基に若手研究者育成のための基金を作るという。

 ノーベル賞となると何時ものように、昨夜からマスメディアは大きく取り上げている。テレビでの受賞紹介のニュースや、討論などを聞いていると、見方が一面的・現象的な傾向があるので気になることが多い。まず言いたいことは、このよう討論の場には、研究現場のことを身を持ってよく知っている科学者を複数参加させるべきである。

 近年は日本の科学研究、特に基礎科学分野で力量が目に見えて低下していることがしばしば指摘されている。将来ノーベル賞級科学者は出にくいという。その理由として挙げられるのは、研究費の減少、研究費の配分法の歪みが第一にあげられている。確かにこれは深刻な問題である。欧米や中国などではGNPに対する研究費率は増えているが、日本はむしろ減っている。科学研究の規模の巨大化、スピード化で研究費は益々増大するから、問題は深刻である。科学研究には無駄がつきものである。また一見無駄のように見える「無用の用」にも目を向けるべきである。研究には精神的ゆとりや遊び心も必要である。「無用の用」も回り回って後で生きてくることもある。
 安倍政権は国際情勢の危機を煽って不必要な軍事費を増やし、アメリカから巨額の兵器を買わされている。それよりも科学研究費や福祉に回すべきだと多くの人は思っているだろう。
 
 日本の科学研究の現状で、憂えるべきは研究資金の不足のみではなく、その配分法である。直接的には実験費の不足のみではない。現状は、成果がすぐ目に見える研究や大型プロジェクトへの重点配分優先である(技術優先)。間接的には、大学・研究所における研究者数の減少である。科学者数を増やし、優遇すること、特に若手研究者の身分を保障し、落ちついて基礎的な問題に長年取り組める研究環境を作ることである。浮き草のような不安定な研究生活を送っている優秀な若手研究者の何と多いことか。偉大な研究成果は、一人の天才によってなされることは稀にあるかも知れないが、まずないといえる。研究者の幅が広く裾野が広がっていることが高山の存在条件である。

 国内外の多くの研究者の交流と討論を通して、その相互刺激によって素晴らしいアイデアが生まれる可能性が高い。ノーベル賞受賞者は、欧米に留学中に、あるいは協同研究で研究テーマを見つけ、発想と研究の腕を磨いた方が多いことにも注目すべきであろう。

 研究条件や研究環境とは何かを総合的に判断した議論や発言が欲しい。研究者の参加してないテレビの議論には、これらのことに着目して本質を突いた発言が見られない。
 誰かの片言節句を引用して、一面的な私見を述べているのを見かけるが、的を外れていることが多い。たとえば、「資金がないから良い研究はできない」というが、それは「何もできない人の言うことだ」といった発言もある。このようなことは稀で、特別な研究者にしか当てはまらない。昔と違い、現代では教育・研究の状況は変わっている。
 
 繰り返すが、この種の討論、議論には、経験豊かな研究者と現場の研究者を複数参加させてるべきである


追記: 
 この研究の最も偉大な成果は、免疫細胞の働きを抑えるPD-1分子の発見にある。免疫細胞の働きを抑えるPD-1に類似するメカニズムは他にもあるだろうから、それは生理学の基礎研究の成果である。それゆえ、この発見こそノーベル賞に値するものであると思う。
  だがマスメディアでは、ガン治療薬のオブジーボの発明の方が大きく取り上げられ、称賛されている。オブジーボの発明も素晴らしい成果ではあるが、それはむしろPD-1発見の応用といえるだろう。

 基礎研究であるPD-1の発見の真価を理解せず、目に見える実用的成果であるオブジーボの方にばかり目が行くのは、日本人の発想、「何お役に立つのか」 の現れであろうか。 これでは、基礎研究が重視されない日本の精神風土は変わらないだろう。
 本庶教授に限らず、これまで多くのノーベル賞受賞者が基礎科学を重視し、育てよと訴えてきたが、改善されない。


マスコミは、そのことを支持し、持ち上げるように、ノーベル賞受賞の意義を報道して欲しい。報道姿勢が歪んでいるように思えてならない。
人工知能(AI)への過信
人工知能(AI)への過信

深層学習(Deep learning)が開発されてから、AIの進歩は目を見張るばかりである。
最も困難と思われていた囲碁でトップ棋士に完勝してから、一躍世界中の注目を浴びている。今やあらゆる分野にAI技術を利用しようと、鎬を削って開発競争が始まった。いずれ、AIは人間を凌駕する時期(シンギュラーポイント)がくるだろうと予想されている。だが、総合的に人間の能力を超えることはそう簡単ではないはずだ。

 近い将来に、AI技術は社会のあらゆる分野に進出し、人間の仕事の半分はAIに奪われるだろうといわれている。そのこと自体は人口減・人手不足の助けになるだろう。しかし、新たな仕事・職業が次々に生まれるから、仕事がなくなることはないだろう。

 このように、AIに対する行き過ぎた期待と不安が交錯しているが、AIへの過信は危険である。たとえば、社員の採用にAIを導入している会社が増えているそうだ。採用合否の判定基準としていかなるデータがインプットされているか知らないが、多様な人間の能力を正しく判定できることは、まだまだ不可能であろう。AIによって、一度不採用になると、AIを導入している会社や組織から排除されてしまうそうである。その様な事例がすでにあるとのことだ。一旦AIに「ダメ」といわれた者は、挽回の機会を与えられず、社会的排除が続けられかねない」と山本龍彦慶応大教授は指摘しているそうだ(1月7日朝日新聞)。

 このようなシステムが定着したら、とんでも無い過ちを犯すようになる。昔、コンピューターが銀行や公共企業に導入され始めた頃、集金や預貯金などの現場でトラブルがよく起こった。コンピューターを過信して、企業側は「コンピューターの計算だから絶対間違いない」と言い張った。だが、後にプログラムのミスであったことが判明し、企業側が謝罪した。それ以後、「コンピューター神話」はなくなった。どれほど正確な機械でも、それを作り操作するのは人間であるから、製作過程で人為的ミスの入りうることを忘れてはならない。少しでもコンピューターの基礎知識(たとえばプログラミング)のある者なら、「絶対間違いない」とはいわないはずであった。

 これと類似の過ちを再び犯さないようにしなければならない。AIも膨大なデーターを入力して判断し行動するが、そのデータとて人間が選択したものである。その与えられたデーターによってAIは学習(深層学習)するが、限られた範囲で判断する。その判断結果を絶対視してはならない。人間の能力は千差万別、個人差があり、その能力の発揮も環境や条件によって変わる。その微妙な違いを、人間なら臨機応変に判断できるが(人により差があるが)、機械であるAIにはまだできない。

 何事でも、過信による画一的な思い込みは恐ろしい。AIは急速に社会の多方面に浸透するから、トラブルも多くなるだろう。それを利用する者は、AIとは何か、その基本的なところを理解して過ちを繰り返さないように気をつけねばならない。
近代科学はなぜ東洋でなく西洋で誕生したか
近代科学はなぜ東洋でなく西洋で誕生したか

 かねてから少しずつ書きためてきた表題の原稿が、漸くこのほど完成した。下記の「まえがき」のような目的と内容である。
この種の読み物は売れないので、出版社との交渉も一苦労であるが、周囲の人たちは興味を示してくれている。
これが最後の著作のつもりでいる。


近代科学はなぜ東洋でなく西欧で誕生したか(仮題)
         -近代科学を超えて現代科学へ- 

まえがき
 近代科学の成立の意義は、その誕生自体が人類の文明史における一大エポックであるばかりでなく、それが以後の人類史を転換し発展させる原動力となったことを思えば、これほど大きな歴史的事象はないと思う。
 それゆえ、このテーマはこれまでに多くの科学史家の重要な課題として関心が寄せられ、研究されてきた。筆者は物理学が専門であり科学史が専門ではないが、科学論の研究とともに、興味をもってこの問題に取り組み、文系・理系分野の仲間と協同で長年研究会を続け、研鑽を重ねてきた。そのなかで、東洋と西洋との文化を比較検討することにより、近代科学成立の経緯と意義を考察した。その成果を不十分ながら『東の科学・西の科学』(共著)(東方出版1988)として上梓した。

 その延長として、筆者はその後も「近代科学はなぜ東洋でなく西欧で誕生したか」を考察してきた。だが、この課題は非常に広くかつ奥が深いので、限られた人数で一次資料を探索しながら進めることはおそらく無理であろう。まして語学において非力な筆者にはそれは不可能である。幸いに日本では優れた科学史家や科学論が纏められた著作や論文があり、また海外著作の翻訳もある。そこで、これまでの科学史家の努力の諸成果を二次資料として用い、筆者の科学観に基づいて科学史的に妥当と思われるそれら資料を採択することにした。その資料に頼りながら当時の文明とその歴史的動態を分析することで、筆者なりの推論と解釈を重ねてきた。それによって古代から東洋と西洋における科学の発展過程を辿り、なぜ近代科学が東洋でなく西洋で誕生したのかを、その特徴的と思われる理由を取り上げてまとめたのが本書である。
 さらに最後に、近代科学から現代科学への移行過程を概観し、自然観や論理の転換の特徴とその意義を考察する。それに基づいて、近代および現代の科学・技術に対する批判を踏まえ、今後の科学のあり方を論ずる。

 科学・技術の性格は社会制度に規定された科学の目的と科学の担い手に依存する。科学の内容と形式には、それが築かれた文化圏(あるいは民族)の自然観と思惟形式が反映している。そして重要なことは、科学の進歩・発展は一つの文化圏に閉じていては限界があり停滞するということである。科学の進歩には、その発展段階に応じた自然観と思惟形式が求められるが、それに応えうるには新たな自然観と思惟形式をもった異なる文化圏(民族)にその科学が移行し継承されてこそ可能である。そのことが科学の発展史を通して明らかになる。
 西では古代ギリシアからアラビア(イスラム圏)・ラテン・西欧へと、科学の発展段階にマッチした文化圏によって引き継がれ、近代科学が誕生した。東洋では、中国・インドともに、科学・技術の継承はそれぞれの文化圏内に閉じていたために、尚古主義に陥って自然観と発想が固定化された。そのために、中世までに進んでいた科学・技術の進歩は停滞した。
 科学の進歩・発展には、ある局面では発想の転換が必要である。そのためには、科学文明がそれまでとは異なる自然観と思惟形式をもった文化圏(民族)によって継承され、新たな発想と思考形式をもって研究が進められる必要があることを強調したい。現代科学は西洋的近代科学の論理と方法を引き継いでいるが、新たな自然観と論理をもってそれを超克し、世界科学になりつつある。


目次

序章   (23ページ)
第1節 はじめに
第2節 科学・技術の社会的機能、
(1) 現代科学・技術に対する批判について
(2) 近代科学の論理と方法について
(3)科学批判に対する問題意識
第3節 「科学」とは何か
(1) 科学の定義について
(2) 科学と自然観の相互依存
(3) 自然科学の本質:「科学は自然自体の自己反映活動」  
  科学の不完全性:自己言及型の論理
第4節 アプローチの方法 
(1) 風土論
   (i) ユーラシア大陸の代表的3地域
(i i) 風土と人間の相互依存性
(2)対象とする東西の文化圏
(3)比較項目
 (i) 自然観:宇宙観、物質観、生命観、自然と人間との関係
 (i i) 思惟形式:論理学と数学
 (i i i) 科学の方法:分類法、実証法、数学記述
 (i v) 科学の社会的地位:科学・技術の役割と担い手
 (v) 科学と宗教との関係
 (v i) 科学・技術の伝承と発展の経緯
第5節 近代科学の特徴:方法と論理
(1)観察・実験による実証性
(2)数学による記述
(3)公理論的演繹理論の体系化

第1章 古代文明における科学と技術 (58ページ)
第1節 古代の4大文化圏における自然観と技術
(1)エジプト文明
(2)メソポタミア文明
(3)インダス文明
(4)黄河・長江文明
第2節 古典科学の発祥:技術から科学への進展
第3節 中国文明における古典科学
(1)中国の自然観
(2)中国の宇宙観・天文学
(3)中国の物質観
(4) 中国医学と本草学
(5)中国の思惟形式
(6)中国の伝統数学
(7)物理学的科学と技術
(8)科学の社会的地位:科学・技術の役割と担い手 
第4節 インド文明と古典科学
(1)インドの自然観
(2)インドの科学・技術の性格
(3)物質観:元素論、原子論
(4)物理学的科学:運動論
(5)インド錬金術
(6)生命観と医薬術
(7)思惟形式:論理学
(8)インドの数学
(9)科学の社会的地位:科学・技術の役割と担い手
第5節 ギリシア文明と自然哲学 
(1) 古代ギリシアの自然観
 (i)第1期 イオニア的自然観(自然学)
 (i i)第2期 アテナイ期の自然観(自然学)
 (i i i)第3期ヘレニズムの自然観(自然学)
(2)古代ギリシアの宇宙観・天文学
(3)物質観:元素論と原子論
(4)古代ギリシアの医学
(5)ギリシアの思惟形式
(6)ギリシアの数学
(7)古代ギリシアの科学と技術
 (i)物理的科学  
 (i i)技術
(8)アリストテレスの総合
(9)自然学の社会的地位と担い手
(1 0)ローマ帝国の科学・技術
第6節 古代科学文明のまとめ

第2章 中世における科学・技術 (31ページ)
第1節 中国の自然観と科学・技術
(1)中世中国の自然観
(2)宇宙論・天文学
(3)中国の技術
(4)思惟形式
(5)中国数学の黄金時代
第2節 中世インドの科学
(1)インド数学
(2)インドの運動論 
(3)インド科学の停滞理由
第3節 アラビア科学(イスラム圏の科学)
(1)ギリシア・ヘレニズム科学の移行
(2)イスラムの自然観
(3)アラビア科学の特徴
(4)アラビアの天文学
(5)物質論と錬金術
(6)物理的科学:観測・実験科学の芽生え
(7)アラビアの医学
(8)アラビアの数学
(9)アラビア科学の貢献  
第4節 中世西欧の科学・技術
(1)12世紀ルネサンス
(2)中世西欧の自然観
(3)数学的実験科学の方法:グロステスト
(4)14世紀西欧ルネサンスとその影響
(5)中世西欧の科学・技術
 (i) 静力学
 (ii) 運動論
(6)天文学・宇宙論
(7)コペルニクスの地動説
(8)空間革命
(9)中世西欧の技術
第5節 まとめ:中世における科学の継承
(1)異民族による学術文化の受容と発展
(2)学術の継承・発展の条件

第3章 近代科学の形成 (43ページ)
第1節 近代物理学誕生の前夜
(1)新たな科学のための哲学
(2)デカルトの自然哲学 
第2節 近代物理学の形成 
(1)ガリレイの功績
(i)地動説の力学的擁護 
(i i)自由落下法則
(i i i) 慣性法則の発見
第3節 近代科学の基礎となる自然観
(1)真空の存在
(2)原子論的自然観
(3)機械論的自然観
(4)数学的自然観
 (i)数学化の意義
(i i) 数量化の可能なものと不可能なもの
第4節 デカルト物理学
第5節 惑星に関するケプラーの法則:円のドグマからの脱出
第6節 学協会の設立達成
第7節 ニュートンの総合
(1)ニュートン力学の成立 
(2)『プリンキピア』とその意義
(3)ニュートン派とデカルト派の対立:万有引力をめぐる論争
第8節 第一科学革命
(1)科学革命は二段階で達成
(2)自然法則概念の転換
(3)ニュートン力学成立の社会的影響
第9節 近代物理学の完成へ
(1)ニュートン力学の整備から解析力学へ
(2)微分積分学の誕生:数学革命と科学
(3)力学的決定論
第10節 科学の前線が拡大:物理、化学、生物学
(1)電磁気学
(2)光学
(3)熱学から熱力学へ
(i) 熱素説 
(i i) 熱の運動論
(i i i) 熱機関:カルノー機関
(i v) エネルギー保存則
(v) エントロピー増大則
(4)熱(分子)統計力学
(i) 熱力学の 実体的基礎づけ
(i i)時間反転不変性とエントロピー増大則の矛盾の問題
(5)原子論に基づく近代化学の形成 
(6)生物学の新展開
( i ) 解剖学・生理学
(i i) 細胞学の形成
(i i i) リンネの近代分類学
(i v) ダーヴィンの進化論
(7)近代科学の完成 
第11節 西欧近代科学の性格と論理的特徴
(1)近代科学の基礎にある三つの自然観と「絶対性」の概念
( I ) 三つの自然観
(i i)「絶対性」の概念を骨格とする理論体系
(2)近代科学の論理構造
(i)観察・実験による実証法
(i i) 数学による記述とその効用
(i i i) 演繹的理論の体系化

第4章 現代科学-20世紀の科学 (20ページ)
第1節 20世紀における科学の展開
(1)科学の新展開
 (2)現代科学は世界科学となった
第2節 第2科学革命
(1)物理学革命の始まり:相対性理論
 (i)特殊相対性理論
 ( i i )一般相対性理論
(2)量子力学の誕生:最大の物理学革命
 (i)前期量子論の意義と役割について
 ( i i ) 量子力学の成立
(3)素粒子論:究極物質を求めて
 (i)相対論的場の量子論と反粒子
 ( i i ) 素粒子論の始まり
 ( i i i ) 素粒子の複合模型 : クォーク
 ( i v ) 物質の階層性
 ( v ) 相互作用の統一理論
(4)進化する宇宙:膨張宇宙論
(5)量子化学と物質科学
(6)生物学革命
(7)情報科学の誕生
第3節 現代科学の論理の特徴
(1)絶対概念から相対概念へ
(2)物理学の理論構成にみる質的変化
(3)新たな概念による自然界の再分類
(4)要素還元的分析法を超克して

終章 今後の科学の意義と目的:第3科学革命 (7ページ)
第1節 自然科学は「人類による自然自体の自己反映」
(1)自然・人類・科学の関係
(2)科学の不完全性:自己言及型の論理
(3)自然との共生を目指す科学・技術
第2節 21世紀の科学
(1)第三科学革命:複雑系科学、認知科学の誕生
(2)21世紀の科学は名実ともに「世界科学」となり得るか
(3)科学の価値について:科学と技術の区別を 
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