科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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科学の「価値中立性」と技術との関係
科学の「価値中立性」と技術との関係

 福島第一原発事故を契機にして,「科学の価値中立性」に関する議論が復活している。科学は価値中立性であるという説に対して、原爆や原発事故と絡めて、最近「中立説」を否定する主張が展開された。その主張の論拠には基本的ところで誤解があるので、価値中立説を擁護する立場から、価値中立否定論を批判する。誤った議論が広まると、科学・技術への批判が行き過ぎると日本の科学政策を誤り,へたをすると反科学論になりかねない。それゆえ,適格な議論が望まれるからである。
  その論点の主な根拠は、1)科学と技術は、その目的も論理も異なるゆえ、両者を区別すべきであること、2)科学の存在意義は自然認識にあり、科学理論は「科学知」として価値を有すること(没価値ではない)、3)技術的利用価値について科学は中立的(良くも悪くも利用されるが、科学理論自体は利用方法を示さない)であるというものである。

 「科学の価値中立説」の否定論は、科学・技術の社会的役割の現象面に目が向けられ, 科学と技術の社会的機能を混同して科学を否定的に捉える方向に行きがちである.資本主義社会のもとで科学・技術が先行する現代では, 科学・技術利用の弊害が多く現れているので, そのことから科学は価値中立ではあり得ないと結論づけるのは論理的に飛躍がある。この主張には、「科学の価値」(科学知としての価値)を技術を通しての「利用価値」とみる誤解と混同がある。そう結論する前に, 科学の目的とは何か, 科学の価値とは何かをその本質にまで立ち戻り, 科学と技術の関係, および科学・技術の社会的機能を考察すべきである。

1.科学と技術の価値について 
科学の本来の目的は, 自然の仕組み・法則を解明することにより, 自然認識を深めることである(ここでは「科学」を「自然科学」として考察する)が, 自然科学には二つの社会的機能がある。一つは、自然認識を深めることにより知的欲求を満たすこと, 二つにはその知識を活用して生活に役立てることである。前者は人類の知的欲求を満たすと同時に, 自然観や哲学の形成など精神文明に寄与するから, 科学は精神文明の一部としてそれ自体で存在意義がある。後者は, 技術を通して物質文明への寄与である.
それゆえ, 「科学の価値」には, 科学理論それ自体(科学知)の有する「理論的価値」と, 技術を通して社会生活に活用する「利用価値」とがある。この両者を区別して科学の価値を考察すべきである。社会的「利用価値」は技術的応用の価値であり, 科学理論の有する「理論的価値」ではない。真善美に価値を認めるように, 科学知はそれ自体価値を有する。人間には.自然の仕組みについて強い好奇心があり, それを知る喜びがあるからである。それゆえ、科学は価値とは無縁な「没価値」ではない。自然科学は客観的に存在する自然の仕組みや自然法則を探究するものであるから、科学知は技術的利用価値とは独立である。
科学理論(科学知)の価値評価は, その理論の正確さと普遍性によって決まる.つまり,自然の仕組みの解明に対して適用範囲が広くかつ厳密正確な理論ほど科学的真理に近く, したがって知る喜びも大きい.さらに, そのような理論は科学研究における理論の有効性 (適用範囲と応用力)が大であるから「理論的価値」は高いといえる。ただし、科学理論も、科学の進歩に伴って変化してきたから, 科学理論に対するこの価値評価も絶対的・不変的なものではない。科学も完全ではなく本質的に不完全である(拙著『『科学はこうして発展した―科学革命の論理―』(せせらぎ出版 2002))。
科学理論の真偽の評価は, 実証に基づいて社会的・歴史的になされるものであるから, その理論の価値評価も個人的好みや信条ではなく, 社会的・歴史的に客観的になされるべきである.それゆえ, 「科学の価値中立性」に関する判断も, 現代の状況だけで決まるのではなく、地域や時代を超えて 社会制度にも依存せず普遍的になされるべきである.
 科学理論の技術への活用における「利用価値」に関していえば,それは両刃の剣であり,善用・悪用いずれにも利用できる。社会制度や文化様式・生活スタイルにより,科学の技術的利用の仕方も異なる。科学理論自体には利用目的はなく、善用し易いとか悪用し易いといった体質はない、すなわち利用価値に対して中立である。善用するか悪用するかは技術を考案する側にある。
 他方、技術の価値についていえば、科学と技術は,その存在目的が異なるので価値判断は同一には扱えない。それでも、技術知識そのものは、科学と同様に,価値中立的であるとの考え方もある.その技術を誰が何時何処で利用しようと, 同じく有効に働くからというわけである.問題はその技術の利用目的と利用方法であり, それによって技術の善悪が決まるというのである。だが、技術は,社会的であろうと個人的であろうと, 生活の手段に活用するために生まれた。それゆえ、個々の技術はその使用目的が限定されているから、善用・悪用の区別がつきやすい。そこが科学とは判断基準が異なる所以である。
 技術とは何かを, 武谷は「技術とは人間実践(生活的実践)における客観的法則性の意識的適用である」と規定した(武谷三男『弁証法の諸問題』理論社1961)。この定義は, 技術の最も本質的なところを捉えているであろう。(技術を「労働手段の体系」と規定する, いわゆる体系説もあるが, それは技術の実体論的把握であり不十分であると思う)。武谷の「意識的適用説」によれば, 技術は目的を遂行するために法則性(法則として確立する前の知識も含む)を意識的に適用するのであるから, 利用価値と切り離せないだろう。
 技術の価値評価は,利用価値の高低でなされる。技術の有効性は、 利用効率や使いやすさ, および有益と弊害との兼ね合いで決まる.有効性の高いものほど技術としての価値は高い。だが, 技術には完全なものはなく, 大なり小なり必ず欠陥と弊害がある。それは技術そのものの不完全さに由来するものと, 利用者の利用法によるものとがある.

2.本質論と実体論の意義 
科学と技術の価値とは何かについて述べたが、その評価基準と社会的機能を論ずるために、まず認識に関する武谷三段階論をベースにして、本質論、実体論、および現象論の意義を考察する。
物事の本質を把握しそれを規定することは、特に科学的認識において肝要である。現象から本質の認識に至る過程で、現象が発現している実体の把握が必要であること、そして、逆に本質規定から、実体を通して本質が現象する様式を理論的に展開することで、科学理論は一応の完結をみたといえる。これが認識に関する武谷三段階論である。
 弁証的認識法として、昔から「現象と本質」の把握が重視されてきた。だが、その本質から現象を説明するためには、本質がいかにして具体的現象として発現するか、その機構まで明らかにしなければ本質認識に至らないし、認識は十全ではないというのである。一般的に本質は抽象的であり、直ちに現象と結びつかない。本質が現象として現実に発現するには、その舞台が必要である。武谷はその舞台を「実体」と呼んだ。認識に関する武谷三段階論における「実体」の内容が曖昧であるとの批判があるが、現象が「発現するための舞台」とみれば、「実体」の意味内容は自ずと明らかになるだろう。その「実体」には物質的実体ばかりではなく、現象を担う舞台のモデルとしての実体や構造なども含まれる。「実体」という表現は狭く誤解を招くので、私は「実体・構造」と言ってきたが、本質の「発現の場」という方がより適切であろう。たとえば、天文学・宇宙論では太陽系の構造や宇宙模型(有限か無眼か、階層的かも含む)も入る。また、実体というと不変的存在と採られがちであるが、この「実体」は絶対的不変であるとは限らない(絶対不変なものは存在しない)、その現象の続く範囲で相対的に不変であればよいから「発現の場」が相応しいと思う。
本質が規定されたなら、それに基づいて「発現の場」を規定し、最後にその「場」を構成する実体や構造を通して現象が発現する機構(形式)を説明する。これができて本質的な理論体系が完成したことになる。それゆえ、「発現の場」の構造と機能の解明は不可欠である。本質論的演繹体系とはこのようなものであろう。
本質規定が間違っていると、当然ながら発言の場と現象の展開を誤る。たとえば、力学の場合、アリストテレスのように、物質運動の本質的概念を静止とし、基本法則を速度と力の比例関係とするのは誤認であった。それゆえ、そこから演繹される運動現象の説明は誤っていた。それに対して、ニュートン力学は慣性運動を物質の本性とし、加速度と力の比例関係を基本法則とすることで、運動の本質を正しく規定した。こうしてニュートン力学の3法則を基礎とする理論体系は力学現象を見事に説明し、力学に関する本質的理論体系となりえた。
本質論は、現象理解や説明に対してそのまま直接的に役立つとは限らない。だが、即役に立たない理論は無用であるわけではない。その本質規定から演繹されるものが正しく有効であれば、その本質論は現実的に有効性を発揮する。ニュートン力学の基本的3法則はそれだけでは、直ちに自然の理解に直結しないが、それから演繹されるエネルギー保存則や運動量保存則などの諸法則は自然の仕組みの解明に威力を発揮する。そして、力学の技術利用にも有効的に結びつく。それゆえ、本質規定が即役に立つか否かではなく、その規定が正しいか否かがまず問題である。本質規定が妥当であれば、それから法則や現象は正しく演繹される。本質規定が間違っていれば、それから導かれる事柄は誤りであり、自然理解を誤らせるばかりでなく、技術利用にも悪影響を与える。また、科学の価値中立性の判断においても同様である。それゆえ、「本質規定」の意義とその重要性を強調しておきたい。
 本稿では、以下、認識の武谷三段階論を修正して、「本質―発現場―現象」とする。

科学の場合
 科学とは何かについて、いろいろ議論がある。バナールは『歴史における科学』で、古代から現代までの科学について規定している。それに依拠して、肯定的によく引用されるが、その規定には疑問があり肯定しかねる。
 バナールによれば、科学は社会活動の面でも、歴史的にも多面的であり、内在的な科学の定義は不可能である。唯一の方法は外延的な記述にならざるをえないと主張し、現代における科学の主要な諸面として、彼は次の5つを挙げている。
(1)一つの制度として、(2)方法として、(3)知識の累積的伝承として、(4)生産の維持・発展の主要な要因として、(5)宇宙と人類に対する信条と態度を作り直す強力な影響力の一つとして。

 この規定は、科学とあまりにも広く捉え、科学と技術を混同することになる。バナールの科学のこの外延的規定に反対して、牧二郎は科学の本質規定を提唱し、本質-実体-現象として、立体的に科学を捉えるべきだと主張した(牧 二郎『岩波講座 哲学I』)。その詳細は割愛するが、このような考えに基本的に賛成である。ただし、その科学の本質や実体規定は不完全であるように思えるので、それを参考にして筆者独自の科学の規定を次のように提示した(拙著『東の科学・西の科学』序章,東方出版1988)。
  
  科学の本質規定:(i) 自然科学は人間の社会的営為として、物質の存在様式と物質の運動・発展の原理・法則を認識する実践活動である、(ii) 歴史的・社会的に蓄積された知識体系であり、それによって合理的かつ整合的に自然の仕組みを説明することを目的とする、(iii) その知識体系(理論体系)は予言能力を有し、直接または間接的に実証可能である。(この科学の規定について補足説明が必要であるが省略する。詳しくは上記文献を参照されたい。)
  科学の本質が発現する場(「実体」に対応)は、研究制度(組織)、研究方法(パラダイム)、および理論体系である。次に、この発現の場によって自然の仕組みや現象を説明し、さらに新たな事象を予言するのが科学の現象論である。ただし、科学理論は本質的に不完全であり、科学的事実というものも相対的な真理であって、科学の発展により変わる。だが、実証的科学は客観的に存在する自然の仕組みや法則の認識を着実に進めてきた。
 この科学の規定により、自然の仕組みを解明する理論体系は人類の知的欲求を充たす「科学知」として価値を有する。自然の仕組みや法則自体には価値はないから、この科学知としての価値は科学の研究活動の中での有効性(確実さと適用範囲)、すなわち理論体系の中での価値「理論的価値」である。それゆえ、この「理論的価値」は技術を通しての「利用価値」とは異質であり、それとは関係ない。
 
技術の場合
 技術論においても武谷三段階論が適応される。技術とは生産的労働手段の体系であるとする戸坂潤らの「労働手段体系説」と,「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用」であるとする武谷三男の「意識的適用説」とが対立し長い論争があった。 
  「労働手段の体系説」によれば、生産技術の主体をなすものは、道具、機械、装置といった労働手段であるが、これらの労働手段がばらばらの状態では技術とは呼べない。これらが結合され、目的に適応した操作にしたがって働かされてはじめて技術となる。つまり、個々ばらばらの労働手段ではなく、「労働手段の体系」こそが技術である、というわけである。さらに、「本格的な技術は生産関係の一定の歴史的段階における労働手段の客観的体系に集中されるもの」であり「技術は生産性の水準を決定する労働手段を構成する体系」であるという。
  この技術規定は、ある程度レベルの進んだ「本格的技術」、「社会的技術」を想定したものであろう。そうならば、初歩的、かつ個人的レベルまで含めた技術一般を総体的に捉えたものではなく、一次期の歴史的側面を捉えたものといえる。そのような規定は本質論とはいえない。技術のごく初歩的なレベルでは、目的意識をもって石器で材料を砕くとか、単純加工といった個人的なものや、体系化まで行かない技術もある。個々の労働手段を結合して、目的に適応した操作ができる体系が技術であるならば、それは生産手段の体系として、技術が現実に発現する舞台(場)ということになる。すなわち、それは技術の本質ではなく、技術の発現形態に関わる規定である。
  それに対して、「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用」であるとする「意識的適用説」は、個人的レベルや初歩的な技術(まだ理論的にも社会的に体系化されてない経験的レベル)も含めて技術一般を射程に入れた規定である。「客観的法則性」は自然法則を「法則」として理論的に認識する以前の「規則性」などの経験的知識も含まれる。そして、「意識的適用」には、目的を遂行するために技術がより有効となるように、法則性を意識的に適用するという意味もある。この意識的適用こそは、技術の本質が発現する場として「生産手段の体系」をどのように形成するかに関わる重要な点である(後述)。
この技術規定は、個人的・社会的な技術にも、初歩から高度の技術レベルにも適用するから、人類の歴史を通して一貫して通用する普遍的な定義である。それゆえ、技術の最も基礎的本質を捉えているといえるだろう。生産活動における現象形態は生産物(広義の産物であり物質とは限らない)として現れる。本質としての技術が「発現する場」は生産過程における「生産手段の体系」である。その形態は技術レベルや社会制度により異なる様式を取る。その時代の社会制度と技術レベルを考慮して、目的遂行のためにその技術が最も有効に働くような技術体系(労働手段)を意識的に工夫・選択するわけである。その場合に、生産手段の所有形態や階級性が関わってくる。生産手段の所有者はその技術を最大限に活用するように、利益が最大になるように生産手段の体系を設定する(意識的適用)。それゆえ、「意識的適用説」は社会制度と無関係ではない。技術を目的意識的に人類のために有効に活用するには、社会制度はいかにあるべきかとも関わってくる。この技術の本質規定も抽象的一般的であるから、直ちに社会活動と直結はしていないが、生産手段をどのように体系化するか、その選択を通して間接的に社会の在り方を方向付けるわけである。 
  このように「生産手段の体系説」は技術の「発現場」(実体)の在り方を規定するものであり、それのみでは技術の規定としては不完全である。この「労働手段の体系説」と本質論である「客観的法則性の意識的適用説」とが相まって、技術論は十全となる。 
技術は、人間がある特定の目的を成し遂げるために、法則(性)を意識的に適用するのであるから、利用目的が特定化されているゆえ、利用価値と切り離せない。そして、個々の技術の利用価値の評価は、効率や使い易さと弊害(全ての技術につきもの)との兼ね合いで決まる。その価値評価の基準は社会全体に依存するものと個人に依存するものとがある。いずれにせよ、その本質規定からいって、技術には利用価値が内包されている。

3.科学の「価値中立説」と「没価値説」について
 「科学の価値中立説と技術の適用説は社会変革の理論たりえない」との主張(宗川吉汪「科学価値中立論者に問う」『日本の科学者』49, 7)があるが、それは肯定しがたい。  これまでの科学の価値中立説や没価値説の議論は、科学の社会的機能、特に技術的利用価値についての判断が主であるといえる。この問題を考察するには、まず科学と技術を区別すること、さらに科学の「理論的価値」と技術を通しての「利用価値」とを区別すべきことを強調しておきたい。この「二つの価値」の区別は科学の「価値中立説」と「没価値説」について論ずる際に必要なことである。

科学の「価値中立説」と「没価値説」は区別すべきである 
  経験科学の価値についてヴェーバーの「価値自由Wertfreiheit」論がよく引用される。それによれば「価値自由」には二種の「自由」があって、「研究における価値からの自由」と「社会的実践における価値判断への自由=価値判断の表明」である。「研究における価値からの自由」の場合は「価値自由」と「没価値」とをほぼ同義とみなされるようである。経験科学が客観性を保つためには価値判断から分離されねばならないとし、経験科学が教えうるのは人間の行為の目的にいかなる手段が適合するかのみであって、何をなすべきか(価値判断)を示すことはできないと主張して、理論の実践的意図とその評価を厳しく拒否したわけである。
だが、この科学理論の「没価値説」には疑問があるし、科学理論の社会的実践(技術として活用)においては、価値とは無関係でありえず、没価値とは思えない。この疑問を解決するには科学の「没価値説」と「価値中立説」とを区別することにあるというのが筆者の考えである。
  科学理論の「没価値説」は、科学的事実は価値から独立していて価値とは無縁であること、そして科学理論は価値評価や価値判断を行うことはできない、というものであろう。他方、「価値中立性」は科学理論(科学知)としての価値と、その技術利用の価値について、価値判断を一切排除するものではない。価値中立説は科学知の価値、すなわち「理論的価値」の存在を認めた上で、科学的認識活動における科学理論の有効性に関しては価値判断をする。そして、技術的「利用価値」と無関係ではないが、善用・悪用いずれも可能であり、どちらに利用しやすいかには係わらないという意味で価値中立である。その「理論的価値」は科学的事実にかかわるものであり、技術的「利用価値」に関わるものではない、両者は明確に区別されるべきである。すなわち、科学理論は価値中立ではあるが没価値ではない、というのが筆者の意見である。
  科学者は科学の技術的利用価値については善用・悪用の判断はするが、その判断基準は科学的事実(自然法則など)に基づくものではない。科学理論(科学的事実)の技術的利用は、科学理論自体が行うのではなく、人間の目的的行動である。つまり、科学理論自体は、善用・悪用のいずれかに荷担する特質があるわけではない。技術として利用するとき社会に及ぼす影響によって判断するのである。
  価値中立説は没価値説と違い、「科学的事実」を適用した技術的利用価値の存在を認め、その上で利用価値にはこの二面性があるから科学は価値中立であるというのである。利用価値がそのような二面性を持ちながらも、科学的事実(自然法則)の追求はそれに囚われない、それが科学というものである。
  また、科学研究における課題の選択には科学者の自然観や価値判断が当然入るであろうが、この「価値判断」は人類の知的欲求である科学知に関する判断、または科学研究における理論の有効性に関す判断である。課題の選択にこのような科学者の判断が入ったとしても、研究の結果得られた科学的事実(自然法則、自然の仕組み)には善悪はなく、それ自体は価値中立である。
このように、科学の「価値中立説」と「没価値説」とは異なるものであるから、混同してはならない。

科学の価値中立説(没価値説)社会変革の理論たりえないか?
  科学の「没価値説」は人間的発展を目指す理論たりえないともいう(宗川吉汪「科学の価値中立論擁護批判」『日本の科学者』51,12, 2016)。
  科学の「価値中立説」および「没価値説」に反対する主張をみると、社会変革に役立たない学説・理論は誤りであるか、または存在意義がないとでも言いたいように思える。もしそうなら短絡的であり、学問とは何かを誤解していると思う。そして、人間存在の意義と人間営為の目的を余りにも狭く捉えていると思う。  
  社会制度(資本主義経済、階級社会など)の変革ばかりが社会変革ではない。自然の脅威から身を守る手段や生産力の発展なども、また精神・思想の発展・進歩も「人格権の発展」に資す社会変革であろう。人類の歴史の中で、科学・技術の発展は、それ自体で社会制度や人間の生き方を変革する力となってきた。
人間の営為は個人的にも社会的にも、また物質的にも精神的にも非常に多面的であり、人間は社会制度の変革のためだけに生き、科学を研究しているのではない。精神的、物質的豊かさを求める文化活動も重要な要素である。科学は精神文明の一翼であり、それ自体存在意義を有している。
  社会変革に直接的に役に立たない論説は存在意義がないわけではない、「本質と実体」のところで述べたように、本質的理論は直接的に社会活動や変革に寄与しなくとも、正しい本質論から導かれる理論は社会的機能において有効性を発揮する。一例としてニュートン力学を初めとする近代科学の成立の歴史的意義を述べる。ニュートン力学の成立はヒューム, カント,ディドロなどの哲学・思想に多大の影響を与えた。さらにニュートン力学の成立に影響されて、新しい科学の姿を説いたフランス百科全書派の啓蒙主義はフランス革命の精神的準備を与えたといわれている。また、近代科学は神を必要としない論理を獲得したので,自然の原理を理性の力によって自然自体の内に求めるようになり,宗教から独立する道を拓いた。こうして西欧社会は「信仰の時代」から「理性の時代」へと脱皮し,やがて宗教と科学の社会的地位を逆転させたのである。
また、技術に関する武谷の「法則性の意識的適用説」は技術を有効に活用させるために、いかなる技術体系を選択すべきかとかかわる。その際に、社会制度が技術の有効利用に適切であるかどうかの判断にもかかわってくる。それゆえ、武谷技術論は社会変革と無関係でも、社会変革に対して無力でもない。
 価値中立説や技術の意識的適用説は社会変革の理論となりえないと、切り捨てることはできない。ここの判断で重要なことは、その説が正しいか否かであり、そして人類の営為において、その波及効果まで含めた存在意義である。その説が正しければ、いずれ社会の発展や変革に貢献するだろう。

4.終わりに
 科学は価値と一切関わりのない「没価値」ではなく、科学知として「理論的価値」を有する。だが、自然の仕組みや自然法則そのものには「価値」は存在しないから、理論的価値は人間の知的欲求を満たすという点での価値、および自然の認識活動における理論の有効性(正確さ、適用範囲の広さなど)に対する価値である。科学理論は技術として善用・悪用いずれにも利用されるが、科学理論自体には善用・悪用いずれかに味方する性質はない。それゆえ科学は利用価値に関しても中立である。
 「没価値性」と「価値中立性」との区別、および「理論的価値」と技術的「利用価値」との区別をして、この種の問題を論ずべきである。
 誤解のないように付言すると、科学は「価値中立」だからといって、科学を研究する科学者が科学の利用について「われ関せず」という態度は許されない。科学者も社会の一員である。科学が悪用されないように監視し、また悪用されたなら反対すべきである。科学は利用価値中立である故に、科学者はいっそう強く利用法を監視して、悪用防止に努めなければならない。それは科学者の社会的責任として当然の義務である。科学の価値中立論こそ、科学研究と技術利用について、主観や偏見に囚われず正しい判断をもって社会的に発言できるのである。そのためにも、科学の「本質」と「発現の場」を正しく認識する必要がある。科学の価値中立性の議論は、正にその本質規定と発現の場に関わるものであろう。

この記事は、すでに「科学の価値中立性批判」に反論した論稿をまとめたものである。
 「科学の価値中立性について」『日本の科学者』Vol.50, No.7, 2015.
 「科学の価値中立性と技術の関係」『唯物論と現代』No.54、2015.11.
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「軍学共同研究」に対する学術会議検討委員会の「新声明案」 
「軍学共同研究」に対する学術会議検討委員会の「新声明案」              

  「軍学共同研究は是か非か」について学術会議で熱心に議論されてきた。また、学術会議以外にも新聞紙上での討論、また各地(大学)でこの問題について講演会や討論会がなされ、関心は非常に高まった。学術会議の討論では軍学共同研究に反対する意見が多かった。これらの議論から改めて多くにことを学んだ。関係者の熱心な討論によって議論はかなり深まり、その結果「安全保障と学術に関する検討委員会」(委員長 杉田敦法政大教授)が声明案を決めた。この声明案は学術会議の総会にかけられ承認されるだろう。

 その骨子は、学術会議が戦前の反省を込めて、戦後に出された「軍事目的の研究は行わない」との学術会議の声明を継承すること。さらに、防衛省が創設した安全保障技術研究推進制度は、兵器開発につなげる目的を持つものであり、防衛装備委託研究は、政府介入の度合いが強く問題が多いと、強く批判した。そして、大学や学会にも倫理審査や指針整備などによる慎重な対応を求めものであった。

 昨年、防衛省は軍事研究を大学・公的研究機関と共同で行うことを強く打ち出し、そのための研究予算を急増した。2016年度の6億円から、2017年度は一挙に110億円とした。この動きは武器輸出の解禁と連動していることは明らかであろう。この防衛省の動きに対して、いち早くその危険性を察知して「反対声明」と、大学研究者の応募にストップを呼びかけて、運動をはじめた「軍学共同反対の連絡会」(代表 池内了氏)のメンバーに敬意を表したい。

 軍学共同に関する賛否の議論の焦点は、戦前の反省を込めて1950年に学術会議が行った決議「戦争を目的とする科学の研究はしない」を認め継続するか否かである。そのさいの議論の主な問題点は3点である。(1)ほとんどの技術は平和・戦争のいずれにも使えるという「デュアルユース」の問題、(2)研究成果の公表の自由性(3)防衛のための軍事研究ならよいか。

 国公立大学が独立法人になってから、大学の教育・研究の経常費は年々減少し、教員は外部から研究費を獲得しなければ苦しい状況に追い込まれている。研究能力よりも資金獲得能力のある者の方が優遇され発言力も強くなっている。独立法人化は文部官僚の天下り先を増やすためばかりでなく、軍学共同研究に手を染めざるをえない状況に大学教員を追い込んでいる。
 政府・防衛省の意図と目的からして、この軍学共同研究は軍事目的の研究推進であることははっきりしているだろう。 防衛省は「研究成果の公表を制限することはない」といているが、「完全自由」とは言わず歯切れが悪い。

技術の「デュアルユース」や「防衛のための軍事研究」などは考えが甘すぎるだろう。戦争に防衛と侵略の明確な区別などない「デュアル」である。 防衛のためとか、非軍事目的とかが問題ではなく、資金の出所が問題であって、いざとなったら国家権力の介入により軍事研究優先となる。要するに、いくら言い訳をしても、防衛省の研究資金ならば、主導権は防衛省にあることは明らかである。いったんその資金に依存したら、アルコール依存症のようなもので、その依存から抜けられずやがて心身ともにコントロールされていくだろう。そのとき資金を断たれたなら研究不能となる。そのことは軍事に限らず、また古今東西を問わず歴史の示すところである。特に有事の時の軍の権力の恐ろしさに思いを致すべきである。

 例えが大げさかも知れないが、この軍学共同研究に応募する研究者に対しては、悪魔に良心を売ったファウスト博士の運命が思い浮かんでくるのである。それは杞憂といえるだろうか。戦中に軍に協力した(良心的な)科学・技術者の戦後の反省と苦悩を、間近に見てきた私には杞憂とは思えない。
 
 アメリカの軍事研究費を東大、京大がすでに受け取っていることが報道され驚いた。日本で最も予算の多い両大学ですら、研究費が不足しているからだろう。かってアメリカの研究者は陸・海軍から研究資金(グラント)を受け、比較的自由に基礎研究などにも使われていたが、ベトナム戦争でアメリカ経済が疲弊すると予算不足となり、軍からの研究費が途絶えて軍事研究に協力させられたり、研究が継続できなくなった例を思いだす。

 「軍学共同研究」に対し反対意見が盛り上がり、すでに反対声明や、防衛省のプロジェクトへの応募に反対であることを決めた大学もある。再び過ちを犯して苦い思いを繰り返さないことを願う。今こそ科学者の良心と社会的責任が問われている。
囲碁ソフトは行動の「意味」を理解できたか 
囲碁ソフトは行動の「意味」を理解できたか 

 囲碁ソフトAlphaGoが世界のトップ棋士李セドルに圧勝して世界をあっと言わせてから、一年も経っていないのに、深層学習(Deep Learning)を取り入れた囲碁ソフトがいくつか開発された。日本で開発された DeepZenGo が趙治勲名誉名人と対局し1勝をあげた(対戦成績2:1)。これも,トップ棋士にハンディなしで1勝をあげたと、大変な話題になった。

 最近ネット碁でAlphaGo の進化版として、ハンドルネーム「Master」がトップ棋士を相手に無敵の強さを誇っている。今やプロ棋士たちは囲碁ソフトの打った新手を真似るだけでなく、囲碁の考え方まで再考を促されているところまできた。 

 これまでの囲碁ソフトは、定石や膨大な棋譜をひたすら記録し、そのデータを基に深層学習法によって帰納的に法則を学習するというものであった。しかし、最早その域を超えて、自らの着手を編み出しているようだ、と伝えられる。以前は、プロ棋士には思いつかない着手、打てない着手(疑問手)を打ってAIが勝ったので驚かされた。だが、Master の対局棋譜では、プロ棋士が感動させられる素晴らしい手が打たれているそうだ。もう棋士の棋譜から学ぶのではなく「人間の棋譜を介さずに、AI独自の強化学習で飛躍的な棋力の向上を試みているように思える。」(朝日新聞2月2日夕刊)。 

 ここまでくると、AIは質的な進化を遂げているのではないかと想像される。AIの囲碁ソフトは人間の棋譜(1次情報)を基にした深層学習によって、ある程度高いレベルの規則性(法則性)を自ら編みだし、2次的データとして蓄積しているはずだ。その蓄積されたいろいろなデータ(2次情報)の量がある閾値を超えると、それら2次情報のデータを組み合わせた着手を打つようになるだろう。すると前に入力されたデータ(1次情報)から離れだす。すなわち2次情報をもとに深層学習をするようになる。そのように「進化」したAI同士で何万、何十万局も対局を重ねれば、人間の棋譜に頼らないAI独自の法則性(囲碁理論)を編み出すこともできるだろう。AIの囲碁ソフトはその域に達したのではなかろうか。勝敗だけの問題ならば、最早、AI囲碁ソフトは人間を超えた。 

 AIの評価として指摘されてきたことは、いかにAIの機能が進歩し人間に勝てても、またロボットが人間相手に上手く応対できても、AIには「自分のしているその意味が分かってない(理解していない)」ということである。機械的に無意識に反応しているだけで、その意味を理解してないというわけである。

 そもそも「意味が分かる」とはいかなることなのであろうか。「意識とは何か」がまだよく分かっていない。
しかし、生物(高度に組織化された物質系)のごく初歩的な意識は、少なくとも次のように規定できるだろう。最初に発生した「原始的意識」とは、生物発生から間もない進化初期の生物が無意識的行動(食物摂取、光に対する反応など)を繰り返すうちに、徐々に芽生えた目的達成のための物理・化学的機能の一種といえるであろう。

 すなわち、意識を「組織的物質系の物理・化学的運動による機能の一種」と見るならば、「意識」(生物の原始的意識も含めて)とは、一つの物質系がある目的(餌を採るなど)を達成するための行動に際して、その内部に蓄積した情報を統合的に活用する内的機能(行動の起動因)といってよいだろう。ただし、原始的意識の発生過程で、どこからが「意識」といえるか明確に定義することは今のところ難しい。  

 もしこのように意識を定義できるならば、囲碁ソフトMaster も「自己の行動の意味を理解する」という意識を持つたといえるだろう。最初は人為的に仕込まれた棋譜データ(1次情報)を基に深層学習によって無意識的な着手を繰り返していた(反応していた)囲碁ソフトが、習得したデータ(2次情報)の蓄積がある閾値を超えると、AIは独自に2次情報から囲碁に勝つための高次の学習を始めることも起こりうる。その場合は、囲碁に勝つことを目的とする行動を始めたといえるであろう。

 囲碁ソフトは打ち終わった(あるいは中途の)段階でゲームの勝敗を判定できるように、最初から作られている。勝てないと判定したら中途で投了することもある。すなわち「ゲームに勝つ」という目的は決まっている。そして勝つための着手を選択するように仕組まれている。すなわち「目的は何か」は決まっていて、それに向かって行動している。

 蓄積された2次的内部情報を統合して、目的のある行動をするということは、自らの行動の「意味」を理解したといえるのではなかろうか。チューリングテストに掛ける価値があろう。

人工知能(AI)の可能性:人間思考の盲点の発掘
人工知能(AI)の可能性:人間思考の盲点の発掘

 AIの能力は素晴らしく進み、特殊な個別分野では人間を超えるようになった。そして、AIは人間の知能をいずれは超えるだろうとの予測があり、その時点を「シンギュラーポイント」と呼んでいる。だがその「人間の知能を超える」という判断には問題がある。その理由は、人間の能力を完全に知ることは不可能だからである。なぜならば、人間が人間を探究する論理は「自己言及型の論理」であるゆえに、ゲーデルの不完全性定理によって、そのような理論は原理的に不完全であり、自己完結的理論となりえないからである


 近年の脳研究で未知の領域が広がり、人間の意識の奥深さ、複雑さが改めて認識されている。それゆえ、人間の能力を知り尽くす事は不可能であり、AIが人間を超えたか否かを判定することも不可能であろう。

 今の深層学習(Deep Learning)は、学習目的の分かっている特定分野の問題について多量のデータを記憶させて、反復経験により帰納的に学習するものである。それゆえ、深層学習のソフトは個別分野適用のソフトであり、人間のように、多面的に総合的判断ができる汎用性AIではない。汎用性AIのソフトを開発する論理と方法(それは演繹的推論の論理)はまだ未知である。まして新たな物事を創造する能力を有するソフトの開発は難しい。創造性機能を有するためには、現在実行していることの意味(何のための計算か、ゲームの楽しさなど)を理解しなければならないが、コンピューターにはその意味を理解できない。したがって、人間の能力に「迫る」あるいは「超える」ようなAIを開発することは今のところできない。 

そこで、それよりも現時点でAIにとって可能性の高い開発分野は、「人間の思考形式の盲点」となっているところを発見することであろう。人間の思考形式(発想)は決まったものではなく、東洋と西洋で、あるいは民族により異なるし、また時代とともに発展進歩してきた。論理学にしても弁証法論理や形式論理がある。特に形式論学は古代から、名辞論理(三段論法)、命題論理、述語論理など次々に開発されてきた。今後も新しい論理が誕生するだろう。それゆえ、現代人の思考形式はまだ不十分で、未知の論理があるはずだ。つまり人間の思考や発想には盲点があるだろう。地球外の高等生物は我々とは異なる論理思考を持っているかも知れない。 

 現に、将棋や囲碁の対局で、人間には思いつかない着手が飛び出して、驚かされている。しかもそれで勝っている。トップ棋士が、ゲ-ムソフトを使って研究するのは人間の盲点を指摘されるからだという。人間は最初からこの手は駄目だと思って読みの対象から外してしまうものがある。しかし、コンピューターは愚直にすべての可能な手を読み尽くすので、人間が見落としていた思わぬ応手によって盲点を突かれることがあるという。
 
 単一分野の深層学習ソフトでも、このように人間の盲点の発見に繋がる。それゆえ、複数の分野の深層学習ソフトを並列に繋げば、更なる人間思考の盲点や隙間を発見することができるだろう。メモリー容量が許すならば、種々の分野の深層学習ソフトを並列処理したもう一段階高い深層学習ソフトで繋げば、ある程度の汎用性のあるものができ、きっと新たな発見があるはずである。

 しかし、問題は何が人間の盲点かを判定する基準と、それを拾い出すプログラミングの開発である。人間がコンピューターの反応全部を終始監視し続けることはできないから、それをコンピューターにさせるのである。このレベルではコンピューターの応答(動作)のほとんどのものは、ソフトを作った人間の期待に応える常識の範囲であろう。それら応答の中で異常と思われるものを取り出して、それが人間の盲点を突き、かつ有効なものと判断できるプログラミングを作らねばならない。それができるコンピューター同士でシミュレーションをするなら面白いだろう。 囲碁、将棋のようなゲームの場合は、盲点であることの判断は比較的し易い。しかし、一般の社会的現象ではその判断基準は簡単ではなかろう。

 だが、この種のソフトの開発は、「創造的ソフト」の開発のヒントを与えてくれるだろうから研究の価値があると思う。
文化としての科学を! 
文化としての科学を! 

 現代は科学・技術が人文科学に比し突出して発展し、物質文明に対して精神文明が非常に遅れている。そのために、科学・技術の社会的機能に歪みが生じ、いろいろな軍事利用、原水爆開発や環境破壊などのようにいろいろ弊害がでた。 それゆえに、科学・技術のあり方に対して批判的意見がでている。その意見にはもっともな論も多いが、科学と技術を区別せず一纏めにして「科学」を攻撃する的外れのものも多い。

 自然の存在様式や運動の法則それ自体の中に価値は存在しない。人間も自然の一部であるから、科学も自然現象の一部に含まれる。「自然科学は自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動である」というのが私の科学観である。科学が自然現象の一つであるならば自然科学自体に使用価値はない。科学の使用価値は人間が技術を通して社会活動において創り出したもので自然自体にはない。科学は技術を通して善用・悪用のいずれにも利用可能であるが、科学理論自体にはどちらに利用し易いということはない。それゆえ、科学は使用価値に関して「価値中立」である。

 科学の目的、つまり社会的機能には2つある。自然の仕組みを解明する「知」の体系としての存在意義、および技術への応用である。前者は精神文明への寄与、後者は物質文明への寄与である。本来、科学は文化の一形態であり、精神文明の形成に不可欠である。

  「真善美」は古代から最も崇高なものとして求められてきた。科学的知はこの「真善美」の「真」の探求の成果である。「科学知」の理論形式は美しく「美」でもある。その意味で科学は価値を有する。技術として役立つことを主体とする科学ではなく、これからの科学は、真善美と一体となる精神文明としての科学、思想としての科学が求められる。そのためには基礎科学をもっと重視すべきである。

 自然科学は本来自然哲学であった。今また科学と哲学との共生が求められている。哲学との共生がなければ、精神文明としての科学、思想としての科学は存在しえない。その様な科学は、資本主義社会では、技術の下僕となる。現代では、科学は国家の支配下にあり、技術の下僕となっている。この状態を脱して、「思想としての科学」の復権を唱えたい。 以前、私は拙著『科学は自然をどう語ってきたか』(ミネルヴァ書房)で「精神文明としての科学の復権」を主張した。

 今年度のノーベル医学・生理学賞の受賞者大隅良典氏は、基礎科学を重視し、「科学が文化として受け容れられる社会を望む」といわれた。この思想に強く共鳴する。

追記:
 近年、大学と防衛省との共同研究が増えている。大学や民間企業へ防衛省から共同研究の誘いが急増し、予算も増えている。
学術会議でも「軍学共同研究」を巡ってその可否が盛んに議論されているが、反対意見が大勢をを占めている。

 その議論のなかで、「科学・技術の2面性(デュアルユース)」が問題になっている。上記のように、科学は技術を通しての利用価値に関しては中立である。それゆえにこそ、科学者は科学理論が悪用されないように監視し発言せねばならない。それが科学者の社会的責任である。「科学の価値中立論」は科学の利用につい科学者は無関心であることを許すわけけではない。
  科学が平和と人類の幸福に貢献し、悪用を阻止できる社会こそ文化国家であり、そのような社会でこそ「文化としての科学」となりうる。
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