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科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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人間と人工知能(AI)の共存
人間と人工知能(AI)の共存                            
  AIの発達・進化は目覚ましく、人間生活や社会構造を変えるばかりでなく、人間の精神や思考法にまで影響を及ぼすであろう。
 最近放映されたEテレの「超AI入門特別編」は、AIについて哲学、倫理、科学の観点から、多面的に深く考察し、新たな視点を提示してくれた。この内容は、私のこれまでの考えと共通するものがあり、共感するところが多かった。そこで、この放送内容を踏まえて、AIについて改めて考察してみた。

1.AIは、これまでの技術とは異なる。 
 AIは単なる技術開発のシステムではなく、科学や人間思考をも包摂しうるものである。
科学と技術の関係は密接であるから、両者は混同され、あるいは同一視されがちであるが、本来科学と技術とはその目的も論理も別であり、したがって社会的役割も異なる。この種の問題を論ずる場合、まず、科学と技術を区別すべきであることを強調したい。

 これまでの技術は、生産活動において、物質的な面で人間生活を豊かにすることを目的とするものであった。便利さを求めて、物の生産を容易にし、自然の脅威から逃れること、つまり物質文化に寄与するものであった。現在開発されているAIは、このような技術を飛躍的に発展させることに向けられている、しかし、将来のAI(超AI)は、便利さを求めたり、物質的生活を豊にする技術に関わるのみでなく、科学とも関連するものであろう。人間の思考法(論理)や精神をも変える可能性があり、精神文明に強い影響を及ぼすだろう。人間、他の生物、およびAIの共生によって生態系が変わる。これまでの技術は、物質文明の進歩により、社会生活の変化を通して人間の意識を間接的に変えてきた。AIとの共生は直接的に人間を変える可能性を有する。 

2.AIに意識はあるか? 
 深層学習(deep learning)AIは膨大なデータを記録し、そのデータを基にして帰納的に法則性を学習し見いだすというものである。しかし、最早その域を超えて、自らの法則性を見いだしている。囲碁の分野では、自己学習するAIの開発に成功した。 
 Deep Mind 社が新たに開発したAlpha-Go-Zero は囲碁ルールのみを入力してAI同士で自己対局させた。その棋力の成長速度はまさに脅威的である。学習を始めて3日後、400万局の自己対局でトップ棋士の棋力に達し、さらにわずか40日ほどで世界のトップ棋士を超えてしまった。人間の打った棋譜には一切頼らず、ゼロから自習のみで棋力が向上し、人類が何千年も掛けて営々と積み重ねて達成した囲碁の殿堂は、わずか40日ほどで超えられてしまった。恐ろしいといえば、まさに恐ろしいことである。これこそ「本格的AI」の始まりであろう。ただ面白いことに、Alpha-Go-Zeroの棋力向上の過程は、人類が辿った様式と似ているそうである。このことは囲碁に限らず、AIの未来を考えるための示唆を与えるものであろう。

 人間の棋譜を記録し、学習するAIでも、単なる学習を超えて質的進化を遂げているのではないかと想像される。なぜならば、AIは人間の棋譜(1次情報)を基に、深層学習によってある程度高いレベルの法則性を帰納的に自ら編みだし、新データ(2次情報)として蓄積しているはずだ。その新データの蓄積量がある閾値を超えると、それら2次情報を組み合わせた着手を打つようになるはずである。すると前に入力されたデータ(1次情報)から離れだす。すなわち2次情報をもとに自ら深層学習をするようになるからである。
 それでも、現在のAIの能力は、帰納的学習に限られるという点で限界がある。さらに、AIの評価において重要な指摘は、いかにAIの機能が進歩し ゲームで人間に勝てるからといっても、またロボットが人間相手に上手く応対できたとしても、AIには「自分の行動の意味が分かってない(理解していない)」ということである。言い替えれば、自らの行動の理由を説明できない「ブラックボックス」だというわけである。

「意識」とは
 では「意味が分かる」とか、「理解する」とはいかなることなのだろうか。そもそも「意識とは何か」がまだよく分かっていないから、「意識」について少し考察してみよう。
 生物のごく初歩的な「意識」は、少なくとも次のように規定できるだろう。最初に発生した原始的「意識」とは、生物発生から間もない進化初期の生物が無意識的行動(食物摂取、光に対する反応など)を繰り返すうちに、徐々に芽生えた目的達成のための物理・化学的機能といえるであろう。
 すなわち、「意識」とは「物質の高度な組織系が目的を持って行動する物理・化学的運動機能」の発達したものと見るならば、「意識」とは、(生物の原始的意識も含めて)一つの物質系がある目的(餌を採るなど)を達成するための行動に際して、その内部に蓄積した情報を統合して組織的に活用する内的機能(行動の起動因)といってよいだろう。ただし、この「原始的意識」の発達・進化の過程で、どこからが「意識」といえるか明確に定めることは今のところ難しい。
 この「原始的意識」から始まって、さらに複数の目的を達成するための機能を備えた情報系において、それら複数の目的と機能を統合し、選択的に活用しうるシステムならば「意識」といえるであろう。 意識のレベルは、その行動目的の性質や種類数によるだろうし、意識の進化と共に、目的は複雑多伎になっていく。

 もしこのように意識を定義できるならば、囲碁AI も「自己の行動の意味を理解する」という「原始意識」を持つたといえるだろう。なぜならば、囲碁ルールと定石、手筋、攻め合い法、および実戦棋譜のデータ(1次情報)を仕込まれた囲碁AIは、最初のうちはそれらデータを基に学習することで、規則性や法則的なもの(2次情報)を獲得するだろう。その2次情報の蓄積量がある閾値(臨界量)を超えると、AIはその2次情報を基にして囲碁に勝つための高次の学習を独自に始めるようになるだろう。それは人間との対局や、囲碁AI同士の対局で達成される。囲碁・将棋などの目的は、ゲームに勝つということであるから(それはルールに規定されている)、勝つことを目的とする行動の「意味」を理解し始めたといえる。すると、AIはその行動(着手)のための評価関数(情報)を内部に形成し、それによって着手の判断をしていると思われる。
 内部に蓄積された情報を操作して、目的ある行動をするということは、AIは自らの行動の「意味」を理解し始めたといえるのではないか。AIが「意味」を理解しているか否かを判定するために、チューリングテストに掛けてみる価値があろう。(拙稿「囲碁AIは意識を持った(意味を理解した)」「囲碁梁山泊」2017年白秋号参照。)
 AIが自らの行動の「意味」を理解しているならば、自らの行動の意味「なぜその様に行動したか」を、説明できる機能をAIに持たせることができるだろう。教育の仕方によって、人間とAIとの間で囲碁の理論的な会話も可能なはずである。そうなれば、人間の誘導質問により、着手の意味を聞き出すことができるだろう。そうなればAIの価値は質的に変わる。それが次の重要な課題である。AIにその行動の選択理由を説明させる機能を備える研究はすでに始まっている。

(注)チューリングテスト:アラン・チューリングは「機械に、知性を持った振る舞いができるかどうかという問題」を発表した。チューリングの提案は「機械は我々が(考える存在として)できることをできるか」というもので、人間の物理的な能力と知的な能力の間に、公平で厳しい境界線を引くことの試みである。そのためにチューリングは、「模倣ゲーム」というテストを提案した。機械と人間を別々の部屋に入れ、テスト者はいくつかの質問をし、それに対するタイプ打ちの回答を読んで、どちらが機械でどちらが人間か当てるというゲームである。このゲーム中の機械は、テスト者に人間と思わせる回答をする。最後まで、どちらが人間なのかわからなければ、そのコンピューターは合格である。そのとき「そのコンピューターには知能がある!」と言える。ピュ

3.AIの限界
 現在の深層学習AIは、学習目的の分かっている特定分野の問題について多量のデータを記憶させて、反復経験により帰納的に学習するものである。それゆえ、特定の個別分野に適用するものであり、人間のように、多面的に総合的判断ができる汎用性(多用性)AIではない。汎用性AIのソフトを開発する論理と方法は未知である。
 
 そのような汎用性AIを創るには、帰納的アルゴリズムばかりでなく、推論や論証のできる演繹的ソフトの開発が必要であろう。まして新たに物事を創造する能力を有するソフトの開発は難しい。創造性機能を有するためには、まず現在実行していることの意味(何のための計算か、ゲームの楽しさなど)を理解しなければならないが、AIにはその意味をまだ十分理解できない。さらに重要なことは、現実世界を超えて空想する「想像力」、未来を予想する「予想力」の有無である。この想像力は人間特有の能力であり(チンパンジーには少しはあるかも)、今のAIには全くない。したがって、人間の能力に「迫る」あるいは「超える」ようなAIを作ることは、今のところできない。
 ただし、特定分野のAIでも、それら複数個を一段階高い深層学習ソフトで連結すれば、「多用性」のAIができ、きっと新たな発見があるだろう。量の変化による質の転化である。ここまでが帰納法学習のAIの限界であろう。
 本当の汎用性AIを開発するには、演繹的推論の論理が必要である。それは非常に難しい。それゆえ、新たに物事を創造する能力を有するAIの開発は至難である。創造性機能を有するためには、まず現在実行していることの意味を理解しなければならないが、AIにはその意味をまだ十分よく理解できない。さらに重要なことは、現実世界を超えて空想する「想像力」の有無である。この想像力は人間特有の能力であり、AIにはない。したがって、人間の能力に「迫る」あるいは「超える」ようなAIを開発することは、今のところできない。
 とはいえ、いずれは明確な意識や意志を持ったAIが作られることは明らかであり、人間と共生、あるいは競合する時代が来るだろう。

4.人間の盲点を突くAI
 その様な未来のことよりも、現時点でAIを如何に活用しうるかを考えて見よう。いうまでもなく、AIは能率よく仕事をこなし人間の代わりをする。だが、それは一面であり、より重要な働きが他にもある。

 その一つは、人間の思考の盲点となっているところを発見し、その穴を埋めうることである。人間の思考形式(発想)は一つに決まったものではなく、東洋と西洋でも、あるいは民族によっても異なる。また時代とともに変化し、発展進歩してきた。それゆえ、現代人の思考形式は、まだ不十分で盲点がある。 

 現に、将棋や囲碁の対局で、人間には思いつかない着手や、悪手とされていた着手が飛び出して驚かされている。トップ棋士が、AIを使って着手の研究するのは、AIが強いからだけではなく、人間の盲点を指摘されて、新たな発想に至ることがあるからだという。人間は最初からこの手は駄目だと思って読みの対象から外してしまうものがある。しかし、AIは愚直にすべての可能な手を読み尽くすので、人間が見落としていた思わぬ応手によって盲点を突かれることがあるという。

 このことは将棋や囲碁に限らず、一般的にいえることである。人間の思考法はまだ一面的なのである。地球外生命は人間とは異なる発想や思考をしているかも知れない。論理学にしても形式論理や弁証法論理がある。特に形式論学は古代から、名辞論理(三段論法)、命題論理、述語論理など次々に開発されてきた。今後も新しい論理が誕生するだろう。つまり人間の思考や発想には欠けている(盲点がある)ということである。まだまだ未知の論理や発想があるはずだ。AIは人間の盲点を突くことで、人間思考の限界を気づかせてくれるかも知れない。

 単一分野に限ったAIでも、このように人間の盲点の発見に繋がる。それゆえ、複数の分野のAIを繋げ統合すれば、更なる人間思考の盲点や隙間を発見することができるだろう。このようにAIを活用できるなら、人類の思考形式に質的な変化をもたらすだろう。この関係は人間とAIの協力的共生の一つの形態であるから、未来社会における人類とAIの共生法に示唆を与えるだろう。

 だが、AIが突く人間の盲点は、人間の想定しうる範囲(人間の有する概念の範囲)のレベルである。人間が与えたデータを基に帰納的に作動した結果、偶然に発見するものであるから、人間が考え及ばないこと、人間を超えるものではない。
 このことは、論理的思考以外に、感性についてもいえる。たとえば、絵画芸術の分野で、優れた多数の絵画を認識させ、AIに絵画を描かせる場合でも、全く人間が想像しなかった作品を創造することはできないであろう。人間の作品の周辺、つまり人間が想定できる範囲に停まっているのではなかろうか。
 真の創造は、演繹的論理と推論・論証のできる演繹的論理を併用したアルゴリズムが必要であろう。 

5.「人間を超える」シンギュラリティとは。
 技術的メカニズムや、個々の分野ではAIは人間の能力を超えた。いずれ多用性のAIができて、その分野の範囲では人間能力を超えうるだろう。だが、これだけで人間を超えたとは言えない。 

 近年の脳研究によって、未知の領域が広がり人間の意識の多様さと奥深さ、複雑さが改めて認識されている。それゆえ、人間の能力を知り尽くす事は不可能である。そもそも、人間が人間を解明するということは、自己言及型の科学(論理)であるから、人間の能力を完全に知り尽くす事は原理的に不可能である(ゲーデルの不完全性定理)。それゆえ、AIが人間を完全に超えたか否かを判定することも不可能であろう。 人間の能力は、帰納的学習以外に、推論・演繹による予想、創造力がある。感情や深層意識など、まだ未知の分野がある。これらの能力を超えてこそ、人間を超えたといえる。したがって、なにを以て「シンギュラリティ」といえるのか、その定義を明確にすべきである。 
 AIの未来について考察は尽きない。
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科学と技術の価値、および社会的役割
科学と技術の価値、および社会的役割

 AI(人工知能)の凄まじい進歩には目を見張るものがある。その将来像について警戒すべき所があるので、よく検討しながら開発すべきだ。あまりに急速な進歩は危険である。それにつけても、科学・技術のあり方が改めて問い直されている。

  科学・技術に対する批判は、原水爆開発競争や地球環境破壊などから、1960年代に隆盛になり、大学紛争当時は行き過ぎた「反科学論」まで叫ばれた。福島第一原発の事故により、科学批判が再び台頭した。この科学批判には耳を傾けるべきことも多々あるが、その議論には科学と技術を混同し一纏めにした「科学批判」が多いように思う。科学と技術の目的や社会的機能について、ここに改めて私見を述べてようという気になった。

1.科学と技術を区別すべきだ
 科学は人類の生産活動と結びついた技術のなかから、自然についての知的欲求により、その経験的知識を昇華して生まれた普遍的知識の体系である。したがって、科学と技術は不可分に結びついている。だが、両者はその目的も方法も、したがって社会的役割も異なるものである。
 本来、科学の目的は自然の仕組みを解明し認識することである。自然科学は古来「自然哲学」であった。自然科学には二つの社会的機能がある。第一は精神文明への寄与、つまり自然認識を深めることにより、自然観や人生観の形成に寄与することである。 第二は物質文明への寄与、その知識を応用し技術を通して生活に役立てることである。
 前者は人類の知的欲求を満たすと同時に, 自然観や哲学の形成など精神文明に寄与するから, 科学は精神文明の一部としてそれ自体存在意義がある。それに対して、後者は, 技術を通して物質文明への寄与である。技術の目的は自然の法則性や科学理論を応用して、生活に活用することである。それゆえ、科学と技術との目的は別であり、また、理論も方法もそれぞれ異なる。科学には基礎科学と応用科学があり、応用科学は技術と混同されがちであるが、やはり技術とは区別すべきである。
 科学には、それを形成した文明圏(あるいは民族)の自然観と思考形式が反映されている。17世紀に誕生した西欧近代科学の基礎には機械論的自然観、原子論的自然観、数学的自然観がある。20世紀の現代科学の自然観は、それぞれ進化的自然観、階層的自然観、数学的自然観に代わった。それゆえ、科学は文化であり、思想である。対して、技術には生活習慣や社会制度が強く反映される。
 このように、科学と技術はその目的も社会的役割も別であるにもかかわらず、「科学=技術」と誤解されがちである。日本では特にその傾向が強い。その理由は、一つには、現代では科学と技術が密接になり、基礎科学から技術への応用までの時間・空間的距離は極めて接近していて短期間の内に技術に利用されることにあろう。もう一つの理由は、江戸時代末期から明治にかけて、近代科学と技術が日本に導入されたとき、科学は「役に立つ知識」、つまり技術と同一視され、思想としての科学、精神文明としての科学の意義は無視された。この混同から日本では「科学技術」と一語で括る傾向が強い。欧米では通常“science and technology”と区別されている。この混同の傾向は日本のみでなく、実学重視の東洋に共通した科学観であろう。
 日本は西欧に追いつくために、「科学技術」の知識を急いで吸収し、その「科学技術」を富国強兵政策のために用いた。科学に対する理解とその姿勢は、その後もほぼそのまま今日まで引き継がれている。基礎科学軽視の風土の根はここにある。それゆえ、今でもノーベル賞の受賞者に対し、その学問的意義や精神文化としての意義を差し置いて、「それは何の役に立つのですか?」と聞く人が多い。また、“科学技術立国”としての基本方針にもその発想が強く反映されている。その基本方針は科学・技術における基礎科学の意義と役割を全く理解しない近視眼的見解であると思う。これでは基礎科学と基礎技術の面で、外国の後追い体質から抜け出ることはできない。

2.現代社会における科学と技術の役割
 近代科学が築かれる以前は、人間精神も社会も宗教が支配していたといえるだろう。それゆえ、科学も宗教の下にあった。だが、近代科学は神を必要としない論理を獲得し、宗教から独立していった。その過程で、宗教と科学の社会的地位は逆転した。科学・技術は、生活の隅々に浸透し、精神的にも物質的にも、人類の生活を一変させた。今や、科学・技術は一国の政治・経済を左右するまでになった。
 科学リテラシーについて。昔は、市民的教養の基礎は「読み、書き、算盤(計算)」と言われたが、現代では、それに「科学・技術の基礎知識」を加えるべきである。特に、文系の多い政治、司法、経済、教育の分野の指導者には、科学・技術に関する基礎知識が強く求められる。それなしには、専門家の意見を適切に判断して、正しい政策は打ち出すことはできない。この風土を変えるために、日本における科学教育の内容と制度を根本的に改革しなければならない。
 近代科学成立以降、科学・技術が、哲学・倫理を含む人文科学に比して、突出して急速に発展したために、社会制度や人間生活に歪みが生じ、人間精神の荒廃をもたらしている。このままでは、環境破壊(地球温暖化、汚染など)と高度の兵器開発による人類生存の危機は避けられない。
  哲学・倫理との共生がなければ、精神文明としての科学、思想としての科学は真っ当に存在も成長もしえない。その様に歪んだ科学は、適切な規制のない資本主義社会では経済支配の下で、金儲のための技術の下僕となりかねない。現代では、科学・技術は国政の支配下にあり、基礎科学すらも国威発揚のための技術の下僕となっている。この状態を脱して、「思想としての科学」の復権を唱えたい。文化としての科学が尊重される社会は、格差のない平等で平和な社会であろう。かつて、私は拙著『科学は自然をどう語ってきたか』(ミネルヴァ書房1999年)で「精神文明としての科学の復権」を主張した。
 科学と技術を区別せずに、一纏めにして「科学」として論ずる議論は、本質を踏み外して人類の未来を見誤ることになりかねないと思う。

3.科学と技術の価値について
 上記のように、科学は精神文明の一部としてそれ自体存在意義がある.「科学の価値」には, 科学理論それ自体(科学知)の有する「理論的価値」と, 技術を通して社会生活に活用する「利用価値」とがある。この両者を区別して科学の価値を考察する必要がある、と言うのが私の考えである。社会的「利用価値」は技術への応用の価値であり, 科学自体の有する「理論的価値」ではない。真善美に価値を認めるように, 科学知はそれ自体価値を有する。人間には自然の仕組みについて強い好奇心があり, それを知る喜びがあるからである.それゆえ、科学は価値とは無縁な「没価値」ではない。自然科学は客観的に存在する自然の仕組みや自然法則それ自体は価値とは無関係であるから、それを探究して得られる科学知は技術的利用価値とは無関係という意味で「没価値」である。
 科学理論(科学知)の価値評価は, その理論の正確さと普遍性によって決まる。つまり自然の仕組みを解明する活動(科学研究)において、適用範囲が広くかつ厳密正確な理論ほど科学的真理に近く, したがって知る喜びも大きい。さらに, そのような理論は科学研究における理論の有効性 (適用範囲と応用力)が大であるから「理論的価値」は高い。
 ただし、科学理論も、科学の進歩に伴って変化してきたから, 科学理論に対するこの価値評価も絶対的なものではない。科学も完全ではなく本質的に不完全である(教育改革通信238号、『近代科学はなぜ東洋でなく西欧で誕生したか』(吉岡書店)参照)。科学理論の真偽の評価は, 実証に基づいて社会的・歴史的になされるものであるから, その理論の価値評価も個人的好みや信条ではなく, 社会的・歴史的に客観的になされるべきである。それゆえ, 「科学の価値中立性」(後述)に関する判断も, 現代の状況だけで決まるのではなく、地域や時代を超えて 社会制度にも依存せず普遍的になされるべきである.
 科学理論の技術への活用における「利用価値」に関していえば,それは両刃の剣であり,善用、悪用いずれにも利用できる。社会制度や文化様式や生活スタイルにより,科学の技術的利用の仕方も異なる。科学理論自体には利用目的はなく、善用し易いとか悪用し易いといった性質はない、すなわち利用価値に対して中立である。
 他方、技術の価値についていえば、科学と技術は,その存在目的が異なるので価値判断は同一には扱えない。それでも、技術知識そのものは、科学と同様に,価値中立的であるとの考え方もある。その技術を誰が何時何処で利用しようと, 同じく有効に働くからというわけである。問題はその技術の利用目的と利用方法であり, それによって技術の善悪が決まるというのである。だが、技術は,社会的であろうと個人的であろうと, 生活の手段に活用するために生まれた。それゆえ、個々の技術はその使用目的が限定されているから、善用、悪用の区別がつきやすい。
 技術とは何かを, 武谷三男は「技術とは人間実践(生活的実践)における客観的法則性の意識的適用である」と規定した。この定義は, 技術の最も本質的なところを捉えているであろう。(これに対して技術を「労働手段の体系」と規定する, いわゆる体系説もあるが, それは技術の実体論的把握であり不十分であると思う)。武谷の「意識的適用説」によれば, 技術は目的を遂行するために法則性(法則として確立する前の知識も含む)を意識的に適用するのであるから, 利用価値と切り離せないだろう。
  技術の価値評価は,利用価値の高低でなされる.技術の有効性は, 利用効率や使いやすさ, および有益と弊害との兼ね合いで決まる.有効性の高いものほど技術としての価値は高い。だが, 技術には完全なものはなく, 大なり小なり必ず欠陥と弊害がある.それは技術そのものの不完全さに由来するものと, 利用者の利用法によるものとがある.

科学の価値中立性について
 経験科学の価値についてヴェーバーの「価値自由Wertfreiheit」論がよく引用される。それによれば「価値自由」には二種の「自由」があって、「研究における価値からの自由」と「社会的実践における価値判断への自由=価値判断の表明」である。「研究における価値からの自由」の場合は「価値自由」と「没価値」とをほぼ同義とみなされるようである。経験科学が客観性を保つためには価値判断から分離されねばならないとし、経験科学が教えうるのは人間の行為の目的にいかなる手段が適合するかのみであって、何をなすべきか(価値判断)を示すことはできないと主張して、理論の実践的意図とその評価を厳しく拒否したわけである。
だが、この科学理論の「没価値説」には疑問があるし、科学理論の社会的実践(技術を通しての活用)においては、価値とは無関係でありえず、没価値とは思えない。この疑問を解決するには科学の「没価値説」と「価値中立説」とを区別することにあると思う。
科学理論の「没価値説」は、科学的事実は価値から独立していて価値とは無縁であること、そして科学理論は価値評価や価値判断を行うことはできない、というものであろう。他方、「価値中立性」は科学理論とその利用について、価値と価値判断を一切排除するものではないだろう。価値中立説は科学知の価値、すなわち「理論的価値」の存在を認めた上で、科学的認識活動における科学理論の有効性に関しては価値判断をする。そして、技術的「利用価値」について無関係ではないが、善用・悪用いずれにも使えるという意味で価値中立であるというのである。その「理論的価値」は科学的事実にかかわるものであり、技術的「利用価値」に関わるものではない、両者は明確に区別されるべきである。すなわち、科学理論は価値中立ではあるが没価値ではない、というのが筆者の意見である。
 誤解のないように付言すると、科学は「価値中立」だからといって、科学を研究する科学者が科学の利用について「われ関せず」という態度は許されない。科学者も社会の一員であり、かつ理論応用に対する知識が深い。科学が技術を通して悪用されないように監視し、また悪用されたなら反対すべきである。科学は利用価値中立である故に、科学者はいっそう強くその利用法を監視して、悪用防止に努めなければならない。それは科学者の社会的責任として当然の義務である。

4.基礎科学の大切さ
 自然科学における基礎科学は、主として自然の仕組みについての原理や法則を追求するものである。それゆえ、その成果を技術としてどのように役立つかということとは、一応無関係である。基礎科学のテーマは、それが何の役に立つかを最初から明らかなものは少ない。むしろ何の訳に立つか分からない研究ほど、将来社会的に大きな役割を果たすものである。そのことは基礎技術の開発についてもいえることである。
 基礎科学の振興には、研究の自由が必要であり、長期間の研究継続を認める環境が不可欠である。新しい課題の研究に対する理解が無く、すぐに成果を求めたりする日本の風土には、基礎研究は育ちにくい。基礎科学、基礎技術の研究費は、国公立大学の特殊法人化以後ますます圧迫されている。
 基礎科学で「理論的価値」の高い論文は、科学研究の分野では貢献が大である。基礎科学の成果は、その延長として応用科学を活性化させ、科学全般のレベルを高める。その結果、将来、技術として広く応用活用されるわけである。それゆえ、長い目で見れば、基礎科学の重視が科学・技術全般のレベルアップと振興に欠かせない。
 日本はノーベル賞の受賞を、国を揚げて称賛し喜ぶが、基礎科学軽視の状態が続けば、ノーベル賞級の研究は衰退することを、もっと認識すべきである。そのことをノーベル賞受賞者は、受賞の都度みな口を揃えて強調し、基礎科学予算増加を訴えている。しかし、その声はなかなか関係者には届かない。
新刊案内「近代科学はなぜ東洋でなく西欧で誕生したか」
近代科学はなぜ東洋でなく西欧で誕生したか
-近代科学から現代科学への転換とその意義-

       菅野礼司著  (2019.1.吉岡書店)
  (2,500円 税別)


近代科学の成立の意義は、その誕生自体が人類の文明史における一大エポックであるばかりでなく、それが以後の人類史を転換し発展させる原動力となったことを思えば、これほど大きな歴史的事象はないであろう。それゆえ、このテーマはこれまでに多くの科学史家の重要な課題として関心が寄せられ、研究されてきた。筆者は物理学が専門であり科学史が専門ではないが、科学論の研究とともに、興味をもってこの問題に取り組んできた。

古代から近代科学の誕生まで、東西の文化圏における自然観、思考形式(論理学、数学など)、技術、社会における科学の地位などを比較検討した。
 表題の課題を考察する基本的観点と論点は、1.科学は思想・文化であること、2. 風土に基づく自然観と思考形式が科学に反映されていること、3.科学・技術の性格は、社会制度に規定された科学の目的と科学の担い手に依存、4.科学の質的進化には、その発展段階に適応した新たな自然観と思考形式を持った文化圏(民族)による科学の継承と発想の転換が必要ということである。
東西の文化圏にそれぞれの科学・技術が生まれたが、自然観や思考形式が異なるので、その性格・内容も異質である。
中国の思考法は具象的・実学的で、普遍化体系化に向いてない、インドのそれは普遍的・観念的で科学の概念も明確でなかった、西洋は分析的・論理的で、原理・法則を徹底して追求する傾向が強い。
古代ギリシアからアラビア(イスラム圏)・ラテン・西欧へと、科学の発展段階にマッチした文化圏によって引き継がれ、近代科学が誕生した。
中国、インドの科学・技術は中世までかなり進んでいたが、文化圏としてほぼ閉じていたために、尚古主義に陥り科学の進歩は停滞した。
近代科学の基磯にある自然観は機械論的、原子論的、数学的自然観である。これら自然観と「数学的実験科学」という思想は、東洋には生まれなかった。
最後に、近年の「科学・技術に対する批判」に関連して、近代科学から現代科学への転換の様相とその意義を科学の論理と方法、自然観を中心に考察した。
近代科学から現代科学への転進では、自然観や科学の論理などに質的転換がある。その様相と意義を概観した。

目次

序章
第1節 はじめに
第2節 科学・技術の社会的機能
第3節 「科学」とは何か
第4節 アプローチの方法
第5節 近代科学の特徴:方法と論理

第1章 古代文明における科学と技術
第1節 古代の四大文化圏における自然観と技術
第2節 古典科学の誕生:技術から科学への進展
第3節 中国文明と古典科学
第4節 インド文明と古典科学
第5節 ギリシア文明と自然哲学
第6節 古代科学文明のまとめ

第2章 中世における科学・技術
第1節 中国の自然観と科学・技術
第2節 中世インドの科学
第3節 アラビア科学(イスラム圏の科学
第4節 中世西欧の科学・技術
第5節 まとめ:中世における科学の継承と発展

第3章 近代科学の形成
第1節 近代物理学誕生の前夜
第2節 近代物理学の形成
第3節 近代科学の基礎となる自然観
第4節 デカルト物理学
第5節 惑星に関するケプラーの法則
第6節 学協会の設立
第7節 ニュートンの総合
第8節 第一科学革命
第9節 近代物理学の完成へ
第10節 科学の前線が拡大:物理、化学、生物学
第11節 西欧近代科学の性格と論理的特徴
第4章 現代科学-20世紀の科学の特徴
第1節 20世紀における科学の展開
第2節 第二科学革命
第3節 現代科学の論理の特徴

終章 21世紀の科学:第三科学革命
第1節 自然科学は「人類による自然自体の自己反映」
第2節 21世紀の科学
ノーベル医学生理学賞 本庶佑教授に
ノーベル医学生理学賞 本庶佑教授に

今年も日本人科学者本庶佑教授がノーベル医学生理学賞を受賞した。本庶氏ご自身はもとより、日本の基礎研究が認められたことは大変喜ばしいことである。
 ガン治療薬のオブジーボの発明にいたる基礎研究で、免疫細胞の働きを抑えるPD-1分子の発見には、生命の仕組みの奥深さ、複雑さと巧みさに改めて感嘆させられる。


  テレビ会見における本庶教授の、研究に対する確固とした揺るぎなき信念は語る姿には感動を覚えた。日本の現状を憂えてノーベル賞金を基に若手研究者育成のための基金を作るという。

 ノーベル賞となると何時ものように、昨夜からマスメディアは大きく取り上げている。テレビでの受賞紹介のニュースや、討論などを聞いていると、見方が一面的・現象的な傾向があるので気になることが多い。まず言いたいことは、このよう討論の場には、研究現場のことを身を持ってよく知っている科学者を複数参加させるべきである。

 近年は日本の科学研究、特に基礎科学分野で力量が目に見えて低下していることがしばしば指摘されている。将来ノーベル賞級科学者は出にくいという。その理由として挙げられるのは、研究費の減少、研究費の配分法の歪みが第一にあげられている。確かにこれは深刻な問題である。欧米や中国などではGNPに対する研究費率は増えているが、日本はむしろ減っている。科学研究の規模の巨大化、スピード化で研究費は益々増大するから、問題は深刻である。科学研究には無駄がつきものである。また一見無駄のように見える「無用の用」にも目を向けるべきである。研究には精神的ゆとりや遊び心も必要である。「無用の用」も回り回って後で生きてくることもある。
 安倍政権は国際情勢の危機を煽って不必要な軍事費を増やし、アメリカから巨額の兵器を買わされている。それよりも科学研究費や福祉に回すべきだと多くの人は思っているだろう。
 
 日本の科学研究の現状で、憂えるべきは研究資金の不足のみではなく、その配分法である。直接的には実験費の不足のみではない。現状は、成果がすぐ目に見える研究や大型プロジェクトへの重点配分優先である(技術優先)。間接的には、大学・研究所における研究者数の減少である。科学者数を増やし、優遇すること、特に若手研究者の身分を保障し、落ちついて基礎的な問題に長年取り組める研究環境を作ることである。浮き草のような不安定な研究生活を送っている優秀な若手研究者の何と多いことか。偉大な研究成果は、一人の天才によってなされることは稀にあるかも知れないが、まずないといえる。研究者の幅が広く裾野が広がっていることが高山の存在条件である。

 国内外の多くの研究者の交流と討論を通して、その相互刺激によって素晴らしいアイデアが生まれる可能性が高い。ノーベル賞受賞者は、欧米に留学中に、あるいは協同研究で研究テーマを見つけ、発想と研究の腕を磨いた方が多いことにも注目すべきであろう。

 研究条件や研究環境とは何かを総合的に判断した議論や発言が欲しい。研究者の参加してないテレビの議論には、これらのことに着目して本質を突いた発言が見られない。
 誰かの片言節句を引用して、一面的な私見を述べているのを見かけるが、的を外れていることが多い。たとえば、「資金がないから良い研究はできない」というが、それは「何もできない人の言うことだ」といった発言もある。このようなことは稀で、特別な研究者にしか当てはまらない。昔と違い、現代では教育・研究の状況は変わっている。
 
 繰り返すが、この種の討論、議論には、経験豊かな研究者と現場の研究者を複数参加させてるべきである


追記: 
 この研究の最も偉大な成果は、免疫細胞の働きを抑えるPD-1分子の発見にある。免疫細胞の働きを抑えるPD-1に類似するメカニズムは他にもあるだろうから、それは生理学の基礎研究の成果である。それゆえ、この発見こそノーベル賞に値するものであると思う。
  だがマスメディアでは、ガン治療薬のオブジーボの発明の方が大きく取り上げられ、称賛されている。オブジーボの発明も素晴らしい成果ではあるが、それはむしろPD-1発見の応用といえるだろう。

 基礎研究であるPD-1の発見の真価を理解せず、目に見える実用的成果であるオブジーボの方にばかり目が行くのは、日本人の発想、「何お役に立つのか」 の現れであろうか。 これでは、基礎研究が重視されない日本の精神風土は変わらないだろう。
 本庶教授に限らず、これまで多くのノーベル賞受賞者が基礎科学を重視し、育てよと訴えてきたが、改善されない。


マスコミは、そのことを支持し、持ち上げるように、ノーベル賞受賞の意義を報道して欲しい。報道姿勢が歪んでいるように思えてならない。
人工知能(AI)への過信
人工知能(AI)への過信

深層学習(Deep learning)が開発されてから、AIの進歩は目を見張るばかりである。
最も困難と思われていた囲碁でトップ棋士に完勝してから、一躍世界中の注目を浴びている。今やあらゆる分野にAI技術を利用しようと、鎬を削って開発競争が始まった。いずれ、AIは人間を凌駕する時期(シンギュラーポイント)がくるだろうと予想されている。だが、総合的に人間の能力を超えることはそう簡単ではないはずだ。

 近い将来に、AI技術は社会のあらゆる分野に進出し、人間の仕事の半分はAIに奪われるだろうといわれている。そのこと自体は人口減・人手不足の助けになるだろう。しかし、新たな仕事・職業が次々に生まれるから、仕事がなくなることはないだろう。

 このように、AIに対する行き過ぎた期待と不安が交錯しているが、AIへの過信は危険である。たとえば、社員の採用にAIを導入している会社が増えているそうだ。採用合否の判定基準としていかなるデータがインプットされているか知らないが、多様な人間の能力を正しく判定できることは、まだまだ不可能であろう。AIによって、一度不採用になると、AIを導入している会社や組織から排除されてしまうそうである。その様な事例がすでにあるとのことだ。一旦AIに「ダメ」といわれた者は、挽回の機会を与えられず、社会的排除が続けられかねない」と山本龍彦慶応大教授は指摘しているそうだ(1月7日朝日新聞)。

 このようなシステムが定着したら、とんでも無い過ちを犯すようになる。昔、コンピューターが銀行や公共企業に導入され始めた頃、集金や預貯金などの現場でトラブルがよく起こった。コンピューターを過信して、企業側は「コンピューターの計算だから絶対間違いない」と言い張った。だが、後にプログラムのミスであったことが判明し、企業側が謝罪した。それ以後、「コンピューター神話」はなくなった。どれほど正確な機械でも、それを作り操作するのは人間であるから、製作過程で人為的ミスの入りうることを忘れてはならない。少しでもコンピューターの基礎知識(たとえばプログラミング)のある者なら、「絶対間違いない」とはいわないはずであった。

 これと類似の過ちを再び犯さないようにしなければならない。AIも膨大なデーターを入力して判断し行動するが、そのデータとて人間が選択したものである。その与えられたデーターによってAIは学習(深層学習)するが、限られた範囲で判断する。その判断結果を絶対視してはならない。人間の能力は千差万別、個人差があり、その能力の発揮も環境や条件によって変わる。その微妙な違いを、人間なら臨機応変に判断できるが(人により差があるが)、機械であるAIにはまだできない。

 何事でも、過信による画一的な思い込みは恐ろしい。AIは急速に社会の多方面に浸透するから、トラブルも多くなるだろう。それを利用する者は、AIとは何か、その基本的なところを理解して過ちを繰り返さないように気をつけねばならない。
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