科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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呉清源の囲碁哲学
        呉清源の囲碁哲学
 目次:
 [1] まえおき
関西棋院 牛窪高義9段からの手紙、
 [2] 呉清源の囲碁観:資料
  『呉清源 二十一世紀の打ち方』(NHK出版)より、
『真髄は調和にあり:呉清源 碁の宇宙』(農文協)水口藤雄著より、
 [3]「調和」について
  「囲碁道」としての調和、石の形と協同性、宇宙の調和、宇宙の数的調和:ピュタゴラス主義、  
  中国の宇宙秩序観、近代科学の宇宙観:ニュートン的秩序原理 、現代科学の進化的自然観:   発展進化する宇宙、
 [4]六合:四方と上下について
  四方(碁盤)と厚み・重みの六合、 四方(空間)と上下(未来・過去)の六合、
 [5]相互依存と創発性
碁は生き物であること:囲碁の進化、進化の3要素について牛窪9段のコメント、
  対局者の相互依存:相互規定性、創発現象は予測できない、囲碁における創発、 
 [6]自由と必然性
  自由と調和、囲碁も形相(フォーム)の一つ、 完全な囲碁理論は存在しうる、
  囲碁の研究は永遠に続く、
 [7]囲碁の真髄は調和にあり
 
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[1] まえおき

関西棋院 牛窪高義9段からの手紙
 (「半田道玄の囲碁哲学と科学的自然観」に対する礼状とコメント。牛窪9段は関西棋院の理論派。囲碁教育研究会に協力して頂いている。)

「半田道玄の囲碁哲学と科学的自然観」の中にある「自由とは必然性の洞察である」(ヘーゲル)を読んだ時、呉清源先生が私の頭には浮かびました。棋士の理想は自由自在に打つことですが、それに一番近い人が呉清源と私は思っています。全体の調和を基本として一手一手を必然性の追究におかれているように思えるのです。
 棋譜(注1)に言われているような理論は、呉清源でなければ考えないし、言えないことであり、盤上には必ず最善があるはずと追究する表れだと思うのです。
 
 碁清源語録:
 「全体的な視野を持って設計していくのが碁で、東西南北の空間と上と下の釣り合い。 盤全体を見なくてはいけない。」
「一局の碁が生きものである以上、その場その場において新型・新趣向が生ずるのは当  然。」
「水の流れるごとく自然に無理なく打つこと」
 「石の形は固定的なものでなくて、その場に適合していることが重要である。」

 何時の日か呉清源語録、呉清源理論の解釈をお聞かせいただけたら幸いと思います。

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(注1)棋譜:
 「右上17-四小目1に対して、二間高掛かり(14-四)2が最善と私は思う。イの 左上星(4-四)が次善であり、左下星ロ、右下星ハの方向は悪い。また、2で昔から 打たれているニの桂馬掛かり(15-三)は悪手と思う。」 呉清源

「日本の碁は、形、気合いを尊び、呉清源先生は石の調和を尊んでおられるように思います。それゆえ、黒1の小目に対し小桂馬にかかるのは進みすぎで、無理があると考えられたのではないでしょうか。」牛窪義高
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それに対する筆者の返事: 
 「呉清源も私にとって大変興味深く、魅力的な棋士です。魅力的というよりも、囲碁に関しては近寄りがたく、神秘的な雰囲気を具えた人に感じられます。囲碁に対する情熱と探求心はまさに「碁聖厳」といった感じです。「半田道玄の囲碁哲学・・」をまとめるとき、碁清源のことも頭に浮かびましたが、遠い存在でもあり手持ちの資料も少ないので触れませんでした。
 碁清源理論の解釈など私にはまともに出来そうにありません。でも、折角お送りいただいたご意見や「碁清源語録」の解釈を無駄にしないように私なりに考えてみましょう。今、手元にある、碁清源著『21世紀の打ち方』、水口藤雄著『真髄は調和にあり』などを参考に、「調和、六合、必然性、自由、自然流」などを中心に考察してみます。途中でいろいろ質問をしますので、その折りはご指導・ご協力をお願いします。

 以上がこの論考を書くにいたった契機です。

[2] 呉清源の囲碁観:資料

『呉清源 二十一世紀の打ち方』(NHK出版)より

・碁は全局の調和です。 一手一手がよく釣り合いを保ち、全局面と調和するように工  夫することです。
 例えば、建築でいいますと、玄関だけが見栄がよくても居間が悪くては困ります。 居間がよくても台所がオンボロでは奥さんが怒るでしょう。家の造りも一局の碁も全体 の調和があってこそ、立派だといえましょう。

・私の好きな言葉に、「六合(りくごう)」 というのがあります。古代中国の言葉です が、「天地と四方(東西南北と上下)」を指す意味です。碁の一石一石は、すべからく 六合に、つまりあらゆる方面と調和し、ピタリとその場に適合するのが望ましい。
 碁盤は平面ですから四方だけで十分ではないか、とも考えられますが、石には厚みがあ り、重みもありますから、眼光紙背に徹して、やはり六合がよろしいでしょう。

・数千年の昔から碁があり、二一世紀はもちろんのこと三〇世紀も四〇世紀も、多分、 囲碁は存在し続けるでしょう。
そして、この囲碁が、五千年くらい考えたところで、とても全体の十分の一もわかっ ていないところが、そら恐ろしいではありませんか。勉強すればするほどわからないこ とが出てきます。何とかわかろうとして、私、呉清源なども毎日毎日、碁盤に向かいま す。盤に向かっている限り、毎日新しい発見があり、楽しくて仕方がありません。

・私の希望としては、少なくとも百歳くらいまで生き、二十一世紀の碁がどうなってい  るかを見とどけると共に、まだまだ大いに 研究を積んで碁界のお役に立ちたいと思っ ています。
  特に星打ちは歴史が浅く、まだまだ研究の余地が残されています。小目は先哲の研究 によってある程度の成果を見ましたが、星の研究はこれからの棋士の任務でしょう。碁 に一層の厚味、深味を加えるためにも・・・。

 呉清源の囲碁に対する情熱と研究熱心さは何人も及ばないだろう。また、恐るべき集中力で碁盤に向かうので、碁盤と石以外は一切のものが眼前から消えてしまう。八十を過ぎた(現在90歳を越した)天才が、この調子で八時間でも十時間でも勉強を続けるのだから、誰も敵わない。(牛力力)

『真髄は調和にあり:呉清源 碁の宇宙』(農文協)水口藤雄著 
 宇宙・六合・調和「私の長い人生は、まさに囲碁と宗教の二本柱に支えられてきたと言っても過言ではありません。父の影響で私は幼いころから中国の古典や思想に接してきましたし、宇宙の深遠や調和の精神は私なりに理解してきたつもりです。」
 
棋神・呉清源
呉清源先生は創造的精神に満ちている。彼と秀哉先輩の三三、星、天元は棋檀を震撼させた。彼と木谷実先生が一緒に考え出した囲碁の新布石は世人の目を大いに開かせた。呉先生の対局では常に新しい変化が現れる。二十世紀の囲碁の発展は碁先生と密接に関係している。

碁は調和
 「碁は調和の姿だと、私は考えます。碁は、争いや勝負と言うよりも、調和だと思います。一石一石がつり合っていて、最後に一局の碁が、調和したものとして打ち立てられるわけです。」

 調和の真髄に触れて(川端康成『呉清源棋談』の執筆取材に対する返答):
 「碁というものは、一つ一つの石を重ねてゆくのですが、その一つ一つの石には、働きというか、力というか、そういうものが、どこに石が置かれても、あるのですね。その一つ一つの石の力が、完全な調和を保つと、完全に綜合的な力を持つわけです。かりに三つの石があるとしても、その三つの力を合わせた力は、十五にもなれば十にもなる。いくつにでもなる。ですから私は、自分の石の一つ一つが、最高の働きと調和とを持つようにつとめるわけです。」
 「碁は調和ですから、無理はききません。一つ一つの石は、取られたり、死んだりするものではないはずなのに、無理があるから、取られたり、死んだりするのです。」

 「碁の勝負は普通の勝負とちょっとちがうと、私は思います。そこには人為的なものが少なく、ほとんど自然の現象というべきで、自然の現象を、ただ勝負と名づけただけではないでしょうか。」

陰陽・五行説
 碁がこんなに面白く奥深いのは、神様が創ったにちがいないと信じて疑わないプロ棋士は何人もいる。呉清源もその一人である。とはいうものの、呉清源の“神様”にたいする認識そのものには、他の棋士との間に天と地の開きがあることは、だれしも否定できないであろう。
「碁は中国神代の時からあったらしい。神技とは、まことにこのことをいうのであろう。邃遠幽玄、覗けば覗くほど天地下は広く深い。私ら、凡庸の頭からすれば碁は神が創造したとしか考えられないのである」
「碁というものは中国の哲学であるところの三百六十の陰陽-つまり天文学に関係しておこったものではないかと思います。碁盤の目は三百六十一、そして天体は三百六十から成っていますね。碁は最初は勝負事ではなかったのではないでしょうか。天文を研究する道具じゃなかったのでしょうか。」
 「碁盤の中央、天元(太極)の一点は数の始めであり万物の根源とみなす。三百六十は太陽が天をまわる日数を象(かたど)っている。また、盤を四分して一隅の九十路は四季それぞれの日数を表し、外周の七十二路は七十二候、そして白黒の石三百六十は陰陽にのっとっている」と説く。   以上

 呉清源にとって、囲碁はまさに人生そのものであり、碁の魅力の虜になった天才という感がある。囲碁と宗教に支えられた人生観が、「碁は神が創造したとしか考えられない」という囲碁観を生んだのであろう。

 乏しい資料ではあるがその中で、呉清源の言葉と解説で私の印象に残った事柄をここに列挙した。それを基に「呉清源囲碁哲学」を科学的自然観と対応させて考察してみる。

[3]「調和」について 

「囲碁道」としての調和
 呉清源の囲碁哲学の本質は「囲碁の真髄は調和にあり」であろう。「碁は、争いや勝負と言うよりも、調和だと思います。一石一石がつり合っていて、最後に一局の碁が、調和したものとして打ち立てられる」、そして囲碁を通常のゲームではなく、「碁の勝負は普通の勝負とちょっとちがうと、私は思います。そこには人為的なものが少なく、ほとんど自然の現象というべきで、自然の現象を、ただ勝負と名づけた」とまでいっている。
 それゆえ、囲碁の論理の追究は、「囲碁道」として囲碁の「存在の理法」を究めようとしているように思える。人間を超えた自然の摂理の一つとして囲碁を観ているのではないだろうか。もちろん勝つための最善手を追究しているが、「調和」を求める心は、時には勝敗を超えて、精神浄化のためではないだろうか。

 この「囲碁の調和」には、対局者の心の調和と盤上の石の調和があり、両者は深く関連照応しているであろう。まず、石の調和から考察する。

石の形と協同性
 碁盤上の石の「調和」には、二つのものが含まれていると思う。
 一つは、配石の形の調和、無駄がなく効率のよい形の美しさであろう。白石(または黒石)の配石が整然とした秩序ある形はエントロピーが低い状態である[注]。石の配置が対称的であるときや、直線的でぴんと張った状態は整然としていてエントロピーが低い。反対に、盤上の石が雑然とした状態には無駄石があり、整然としてないので形が悪くエントロピーが高い場合が多い。
 白黒石を併せた盤面全体の配石の秩序についても同様で、模様や境界は整然と調和のとれた配石はどエントロピーが低い。
碁は「手談」といわれるように、着手によって自分の意図を相手に告げ、逆に相手は
こちらの意志を読み取る作業の継続である。一般に、会話には互いの思いを伝える情報が含まれているが、交わす言葉の中に含まれる情報量が多いほど、内容豊かな会話となる。 ところが、エントロピーは無秩序さの程度を表す概念であるから、エントロピーが高いとその状態の中に含まれる情報量は少ない。それゆえ、「情報」とはエントロピーの逆で、負エントロピー(マイナスエントロピー)をもって情報量を表す。
 すると、整然とした秩序性の高い状態ほどエントロピーが低いから、その状態に含まれる情報量は多くなる。調和の取れた配石の囲碁は、対局者の品位や意志なども含めて、手談としてもその中に含まれている情報量が豊富である。そのような碁は、対局者の会話(手談)の内容もレベルが高いことになる。それが名局と呼ばれるものだろう。
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[注]エントロピーとは:
エントロピーとは元は物理学(熱力学)の中で生まれた概念量である。たとえば、原子・分子が雑然と混在している無秩序状態はエントロピーが高いという。反対に、原子・分子が整然と並び結晶状態にあるなら、エントロピーは最も低いという。それゆえ、エントロピーは無秩序性の程度を表す概念量である。
 石がジグザグに並ぶより直線的に並ぶ方が、また歪んだ非対称な形より対称形に並ぶ方がエントロピーは低い。
 このことから、 エントロピーは情報理論に応用された。整然とした秩序性の高い状態には情報量が多く含まれる。逆に、雑然とした無秩序状態にはほとんど情報はない。それゆえ、負(マイナス)エントロピーをもって「情報量」を定義した(シャノンの情報理論)。情報をネゲントロピー(ネガティブ エントロピー)ともいう。
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 調和の意味の二番目は、石と石の連関から生ずる協同性効果(シナジー効果)が大きいことであろう。盤上の複数個の石の集団には、一個の石にはない協同性という力が生まれる。
呉清源:
 「その一つ一つの石の力が、完全な調和を保つと、完全に綜合的な力を持つわけです。 かりに三つの石があるとしても、その三つの力を合わせた力は、十五にもなれば十にも なる。いくつにでもなる。」「ですから、私は、自分の石の一つ一つが、最高の働きと 調和とを持つようにつとめるわけです。」

 盤上の石は大なり小なり相互に関連しているが、その関連の仕方で協同性の効果は変わる。一つの着手にはいろいろな働きがある。攻め、守り、厚み、地取り、消しなどあって、一つの役割しかない着手は少ない。それゆえ、一手の働き方の数は石の関連の仕方に依存する。完全な調和を保った石同士は連関も強く互いに共鳴し合って多目的に働くだろうから、それによって生ずる「綜合的な力」(協同性効果)は最大となるということだろう。形の悪い石は調和がとれてないので、総合的な石の働きに関して効率が低くなる。
 多面的な働きのある着手には、その中に含まれている情報量が多い(エントロピーが低い)。
 以上のように、「石の調和」には低エントロピー(良い形)と高いシナジー(協同性)という意味が含まれていると思う。(文献2参照)
 囲碁における調和でもう一つ大事な要素は、両対局者の心と棋力の調和であろう。互いに棋勢のバランスを保ちながら、交互最善手を打つのが理想的であり、そこに見事な調和が生まれる。無理手を打ってバランスを崩すことなく、相手の着手に呼応してそれに見合う着手で応えるなら、バランスがとれて互いに共鳴し合う。そのためには心と棋力の調和が必要であろう。大差がついて一方的な勝負になるのは、棋力が違う(手相違い)のだから、そこには調和はない。バランスが取れるようにハンディをつけることで調和のとれた碁にすることができる。
 調和のとれた碁とは、互いに好手によって棋勢もバランスを保ちつつ、水の流れのように自然に打ち進むことをいうのであろう。そして、最後に僅差で勝敗がつく。 
 そのようなときは、私たちアマチュアでも“綺麗でよい碁でした”といって満足し相手を讃え合う。

宇宙の調和 
 碁盤上の世界はよく宇宙に例えられる。そこで、「調和」を「宇宙の調和」の観点から考察してみよう。

宇宙の数的調和:ピュタゴラス主義
 古代ギリシアのピュタゴラスは、宇宙の調和の原理を数的調和に求めた。オルフェウス宗教は精神浄化に美しい音楽を用いた。ピュタゴラスは美しい協和音は4度、5度、8度の音階からなることに着目し、整数比を重視した。整数比にハーモニーを感じたわけである。それを全自然界に敷衍して「数的調和」の自然観を提唱した。宇宙の秩序を整数比で説明し、10を完全数として太陽系の構造を想定した。
 整数比(分数)は有理数と呼ばれ、調和の基礎数とみなされた。それに対して、√2や円周率πは整数比では表されず、無限に続く小数となるので無理数と呼び、忌避された。
整数比(有理数)には調和が含まれ美があるとした。
 この数的調和の原理は科学的実証を伴わず根拠のないものであるにもかかわらず、飛躍してそれを全宇宙の原理に据えたのでピュタゴラス主義はやがて神秘主義に陥った。しかし、この自然観はアリストテレスの宇宙像(地球を中心とする恒星天球とその内側に何重ものもの惑星天球からなる階層宇宙模型)とともに中世まで生き延びた。17世紀にケプラーは数的調和を太陽系の惑星軌道に適用して、太陽系の構造を幾何学的に説明した。
 これが西欧における古典的な宇宙調和の自然観であるが、囲碁の宇宙調和にはあまり適合しない。ただし、美しい調和(協和音)を作るには、2つ以上のものが単純な整数比をなさねばならないことを示唆している。すなわち、交互に打つ黒白の石の働きが数的に相い見合うとき調和が保てる(着手の数量化はまだ完成してないが)。三度の音には、二度でも五度でもなく、四度でなければ協和しないように、相手の着手に見合う手でないと調和は保てない。
 呉清源は、囲碁の真髄を「調和」に置いたのは、囲碁道として囲碁の「調和」に精神浄化を求めたといえるであろう。ピュタゴラスは音楽における調和に、呉清源は囲碁における調和に精神浄化の作用を見出したのだと思う。

中国の宇宙秩序観
 中国の天文学は主として暦法の研究によって進められた。宇宙の「宇」は天地四方の空間を、「宙」は時間をさす。宇宙論は天蓋説と渾天説が主流であった。いずれも極と極星中心の天文学で、極星は皇帝を表す。すべての天体はこの極星を中心に整然と回転するというものである。極星(皇帝)に近い星ほど身分が高いとされた。
 また、大宇宙(自然)と小宇宙(人間)との対応、「天人相関説」に基づき、天体の運行は天命を反映し、天体の異変は地上界の異変、天変地異の前兆とされた。これが宇宙調和の基本的原理であった。
 極は碁盤の天元に対応するとされている。碁盤目の数や星について、陰陽・五行説と結びつけた解釈がいろいろあるが省略する。

近代科学の宇宙観:ニュートン的秩序原理
 ニュートンは万有引力の法則と力学法則を発見し、近代科学を築いた。これによって、太陽系ばかりでなく宇宙の構造と調和は、ニュートン力学によって説明された。つまり、数的調和の原理に代わり、自然法則と力学理論によって必然的法則として宇宙の調和を理解したわけである。
 宇宙は必然的自然法則に従って機械的に運行するという、機械論的自然観が西欧で定着した。この近代科学は、宇宙創生期を除いて、宇宙の運行に関しては「神の手」を必要としない論理を手にしたわけであるが、ニュートンは「神の操縦する宇宙」を信じていた。無数の諸天体が衝突することなく秩序を保って運行するように配置され、かつ運行し続ける宇宙の構造と調和の中に神の意志を感じたのである。
 いずれにせよ、ニュートン以後は、宇宙の運行は必然的自然法則にしたがっていること、宇宙の調和のなかに必然的真理の存在を信じたわけである。
 囲碁の完全な棋理(必然的法則)にしたがって打ち進めるとき、調和は自ずと保たれていくだろう。

 ピュタゴラス主義の宇宙調和も、ニュートンの宇宙調和も、また中国の場合も、同じ状態を繰り返す宇宙像を前提にしている。つまり、発展・進化しない定常的宇宙の調和である。したがって、進行を止めた一局面における配石の調和、つまり静的調和を考えるには役立つかも知れない。盤面の石の調和(形と優劣)と、石と石の共鳴(協同性)についてである。
 しかし、囲碁の宇宙は一手ごとに複雑になり発展・進化するものであるから、これら定常的宇宙の調和原理との対応はあまり適切ではない。現代科学の発展進化する宇宙、ビッグバン宇宙観との照応が相応しい。

現代科学の進化的自然観:発展進化する宇宙 
 現代の自然科学によれば、この宇宙は、宇宙創生期のビッグバン直後の混沌とした高温・高圧の極く小さなガス状態から膨張する過程で、自己発展し現在の状態まで進化してきた。
 宇宙の進化により、現在のような秩序系が生まれたのは、超自然的な外部からの作用(超越神の手)によるものではなく、物質自身に具わった能動的性質により自ら創生されたものである。この物質の能動性の起源(動力因)は、物質間の種々の相互作用(力)と自然法則である。 
 宇宙は、枠組みとしての時間・空間と、その中身である物質とからなる体系(システム)である。物質のみでは存在し得ず、時間・空間と物質の両者があって宇宙は成り立つ。宇宙の「宇」は天地四方の空間を、「宙」は時間をさす。また、コスモス(cosmos)は秩序と調和をもつ自然界を意味する。
 宇宙体系を構成している時間・空間とその中身の物質とは、互いにその存在と運動の仕方を規定しあっている一つのシステムである。一般相対性理論により、中身の物質は容れものである時空の構造を決定し、同時に、時空の歪みは重力分布を表すから物質の運動を規定する。このように、時空と物質は互いに持ちつ持たれつしながら自己運動をしている。
 現在の宇宙の秩序と調和は、自然法則の下での物質間の相互作用と、その物質と時空間との相互規定によって創られ、かつ保持されているわけである。

 盤上の囲碁の世界も、何もない空間(真空)から始まり一手ごとに宇宙は成長し秩序が形成されていく。一手ごとに次の着手を決めるのは、それ以前に打たれた配石との連関(相互作用)である。それら石の相互連関において最も調和のとれた着手が最善手となるのだろう。両対局者は相互に規制し合いそれが上手く共鳴して調和が保たれる。一方だけでは美しい協和音は生まれない。呉清源のたとえ話「建築でいいますと、玄関だけが見栄がよくても居間が悪くては困ります。居間がよくても台所がオンボロでは奥さんが怒るでしょう。家の造りも一局の碁も全体の調和があってこそ、立派だといえましょう」は盤上の石全体の調和のみでなく、2人の対局者の調和も含まれているだろう。

 宇宙は膨張し進化する過程で、エントロピーを生成するから、宇宙の全エントロピーは増大し続ける[注]。宇宙の拡がりが一定なら、増えたエントロピーを収容しきれなくなり、いつかは平衡状態に達して死滅する。これが宇宙の熱的死滅である。ところが、幸いにして、宇宙は創成以来膨張し続けているので、膨張によってできた空間が増大するエントロピーを収容してきた。だから、混沌とした火の玉宇宙が現在のような秩序ある宇宙に進化できたのである。つまり、空間の膨張速度が、エントロピー増大速度より速い、いいかえれば、空間膨張よりもエントロピー増大がゆっくりであるために、宇宙は破綻せずに進化を続けてきたわけである。

 囲碁も同様であって、一手ごとに盤面の石数は増えるので、盤面全体のエントロピーは増大するが、その増え方が最小になるように打つべきである。そして、できるだけ広い空間に展開すべきである。狭い領域に閉じこもってごちゃごちゃ打つと、その中でエントロピーは最大となり打つ手に窮することになる。それを避けるには、エントロピー増大を最小限に止め、また広い空間に転身すべきである。これも調和とバランスを保つ方法であろう。さもないと、エントロピーが急速に増大して満杯になったり、あるいはエントロピー密度が大きくなりすぎて身動きできなくなる。すなわち構想は破綻し、打つ手がなくなる。
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[注]物理学の理論によれば、非可逆現象ではエントロピーは増大するのみで、減少することはない。これをエントロピー増大則という。閉じた系では、エントロピーが増大し続けて最大になると、その系は熱的平衡状態に達する。こうなると、ランダムな運動のみでもはや発展進化は起こらないから、これを熱的死滅状態という。
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[4]六合:四方と上下について

四方(碁盤)と厚み・重みの六合
 呉:私の好きな言葉に、「六合(りくごう)」というのがあります。「六合」とは古代中国 の言葉ですが、「天地と四方(上下と東西南北)」を指す意味です。碁盤は平面ですか ら四方だけで十分ではないかとも考えられますが、石には厚みがあり、重みもありますから、眼光紙背に徹して、やはり六合がよろしいでしょう。
碁の一石一石は、すべからく六合に、つまりあらゆる方面と調和し、ピタリとその場  に適合するのが望ましい。

 呉清源の自然観にこの六合はよく合っているように思える。確かに、四合より六合の方がよい。「調和と六合」が呉清源囲碁哲学の核心であることは、私なりに理解できる。言われてみれば素晴らしい囲碁観と感服するばかりである。

四方(空間)と上下(時間:未来・過去)の六合
 だが、六合の「上下」の解釈について、科学的自然観と対応させて、私は別の解釈を持っている。碁盤と石の世界を宇宙とみなすとき、「上下」を「石の厚みと重み」に対応させるよりも、「上下」は時間軸とし、「上」は未来、「下」は過去の世界と見る方がしっくりすると思う。
 中国では古代から、宇宙の「宇」は天地四方の空間を、「宙」は時間をさし、時間と空間を併せて宇宙はなりたつ。この宇宙観は、上記のように、現代科学にも通ずるものである。囲碁は生き物であり、一手ごとに時間とともに発展・進化する。「上」の未来はこれから発展する世界を、「下」の過去はすでに打った世界を表すと考えている。
 運動・変化なくして時間は存在しない、つまり時間は運動・変化の内にある。運動・変化なくして時間はなく、時間なくして運動・変化はない。それゆえ、一手ごとに変化発展する囲碁の世界では、時間軸を六合の中に据えるべきだと思っている。
 過去に打った石の顔を立て、これから築かれて行くであろう構図を描きながら次の手を考える。四方の盤面を離れて、時間軸という一段高いところからみることで、過去・未来との調和のとれた最善手が見出せるのではないだろうか。
構想を立てたり、手を読んだりすることは、無意識的に時間要素を取り入れている。最善手を見出すことは容易ではないが、「眼光紙背に徹して」熟考するためにも時間という要素の存在を意識し、もっと重視すべきではなかろうか。変化のある世界では空間と時間は切り離せない。

[5]相互依存と創発性 
 
 呉清源語録:
「一局の碁が生きものである以上、その場その場において新型・新趣向が生ずるのは当然。」(相互規定による創発)
 「石の形は固定的なものでなくて、その場に適合していることが重要である。」(自由度と調和、生物の環境適合性)      (括弧内は私の解釈)
 
碁は生き物であること:囲碁の進化
 囲碁は生き物であるということ、その意味の取り方には人により深さの違いがあるが、囲碁を打つ人は誰でも肯くであろう。その場の曲面に応じて一手一手変化発展していくのは生物の成長に似ている。その成長の仕方は、時には振り替わりで突然変異をしたり、初期の構想が変わったりして、進化する。
 生物は個体を維持し、成長するのに必要な条件を具えている。それらは新陳代謝によって、外からエネルギーと低エントロピーを取り込み、それを活用する機能が備わっていることが個体維持・成長のための最低条件である。つまり、活動のための適度のエネルギーと、形体を保ち成長するための低エントロピー、そして生物としての機能の3要素である。それを象徴的に言うと、エネルギー、エントロピー、及びシナジーとなる。[注]

それを囲碁に対応させると、エネルギーは勢い、活力など;エントロピーは形、秩序、バランスであり;シナジー(協同性)は石の連関によって生ずる機能である。複数の配石の協同性によって生ずる機能には、模様、厚み、囲み、勢力、攻めなどいろいろある。少ない石でできるだけ多くの機能を持った配石はエントロピーの最低であり、調和も取れているであろう。
 盤面で石の集団が幹(骨格)を造り、さらに枝を伸ばしていく様は、まさに生き物の成長である。そして、単に成長するだけでなく、時には質的変化を遂げて新たな種になる(進化する)。
 囲碁が生き物として成長、あるいは進化するのは、一局の中でも見られるが、囲碁理論自体も生き物として歴史的に絶えず成長・進化してきた。定石、手筋などの技術面、布石などの戦略面、規約(ルール)の整備などの発展進歩が進化である。

進化の3要素について牛窪9段のコメント
 指導碁の場合、主に3面打ちでほとんど考えずに反射的に打っている。その根拠は、石の形と気合いにあり、困ったときのみ形成や損得の判断をする。その経験から、エネルギーは気合い、エントロピーは形、シナジーは判断力ではないかと思う。指導碁では勝たねばならないとう気持ちは無いのとミスをしても取り返す余裕があるから、このように打てるわけです。
 公式戦の手合いでは勝たねばならないというプレッシャーから、伸び伸び打てないので当然また違った解釈がある。

 囲碁は奥が深いから、状況に応じていろいろな解釈ができるだろう。プロ棋士は鍛錬によって磨かれた感性と直感で指導碁を打つそうだから、このような解釈ができるのだと思う。シナジーの「判断力」には当然全局の情勢判断も入っているだろう。この解釈はアマチュアにとって参考になるだろう。
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  [注] 以前、私は「囲碁梁山泊」に「囲碁の進化論」と題して試論を書いた。そこに物質の進化度を表す指標として、安定性、秩序性、機能性をあげ、それらをそれぞれエネルギー、エントロピー、および協同性(シナジー)と関連づけて考察した。(文献2)
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対局者の相互依存:相互規定性
 呉:「その場その場において新型・新趣向が生ずるのは当然」
 「石の形はその場に適合していること」

 宇宙は時間・空間という枠組み(容れ物)と物質(中味)が、相互に依存しつつ存在形態と進化の方向を自ら決定する体系である。すなわち、容れ物と中身が相互規定的なシステムとして自己発展している。 自然はそれを構成する基本的要素が、その存在様式と運動に関して、相互に他を規定しつつ自己発展しているわけである。
 宇宙の基本構造が、相互規定によって律せられているから、人間社会もそれに従う。自然科学は自然と人類の相互交流の中で生まれ、発展進化する知的体系である。

 これと同様に囲碁も相互規定的に発展する体系である。他のゲームも同様であるが、特に囲碁は二人でやる構築型のゲームであるから、一層その特徴が顕著である。 
 囲碁は「手談」であり、2人の対局者が相互に応答しながら、相手の出方(着手)に依存してこちらの次の着手が決まる。盤上に一つの石もない無の状態から、一つの世界を二人の共同作業で構築していく。だから、対局者と盤面は一つの世界を作る。一局の囲碁は、対局者が相互依存しつつ盤面の世界を築いていく一つのシステムである。対局の相手がいなければこちらも存在せず、互いに相手の着手に規定されて進行する。2人の対局者の手談の波長が旨く合うと共鳴し、調和が保たれ名局となるだろう。調和は盤面だけでなく、対局者の心の調和(共鳴)も必要である。それゆえ、囲碁の調和には相互依存は欠かせない。
 よくいわれるように、相手の存在を忘れて盤上に没入するという場合でも、相手との共同作業で盤面の世界は動いていくはずである。これが囲碁の相互規定性である。(文献1)
 
創発現象は予測できない 
 発展過程において、過去の状態の中にはなかった新たな質が生み出されていくことを「創発(emergence)」という。単に同じ状態で拡大・成長するのでなく、質的に異なる新たな特性(新たな質)がその中で自ら創り出される現象のことである。
 宇宙の発展・進化は、宇宙自体の中に埋め込まれた能動性によって、次の状態に発展・進化する道を自らの内に創り出しつつ進む現象、すなわち「創発」の現象である。自然法則や初期条件が決まっていても、自然界ではなにが創発されるかを理論的に前もって予測することはできない。発展過程で新たに造り出された状況によって、その次に創発される現象は異なりうるからである。
 創発の機構は、後から理論的に説明はできるが、何が創発されるかを事前に予測することはできないと言われている。たとえば、生物進化で、ある種の生物が将来どのような進化を遂げるかを前もって理論的に予測はできない。後からならば、その進化の過程を辿ることによって、なぜそのように進化したかの説明ができるだけである。[注]

囲碁における創発 
 囲碁ゲームは碁盤上に無から繰り広げられる「宇宙構築」のゲームであり、ルール(自然法則に当たる)は決められている。そのルールに従って勝利を目指して着手は進められる。一手ごとに新たな局面が現れ、その状況に応じて次の着手が創造されるのは、対局者を経た創発であり自己発展である。対局者が予め想定した構想通り、局面が進められることはまずない。だから「一局の碁が生きものである以上、その場その場において新型・新趣向が生ずるのは当然」であって、前もって予測はできない。素晴らしい創発の「新手」はプロ棋士にとって最大の喜びの一つであろう。
 対局者は常に最善手を打つべく努力し、名局の実現を目指して打つ。それゆえ、対局者個人にとっては、それは最善の終局を目指す自己実現の過程である。だが、一寸した心のゆれで着手が僅かにずれることもある(心の揺らぎ→着手のゆらぎ)。その小さな着手のずれはそれ以後の展開に大きく影響することもある。それゆえ、序盤からゲーム結果を予測することは不可能である。初期のごく僅かな差が時間経過とともに拡大されていって、非常に大きな変化(質的変化)をもたらすことを「カオス現象」という。カオス現象は背景の状況が不安定な場面の下で起こる(不安定な気圧配置のもとでの異常気象)。
 創発も予測不可能であるが、カオス現象も予測不可能である。 (文献1)
 
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 [注]宇宙進化も同様に進化過程でガス体の中に生ずる僅かなゆらぎ(量子的ゆらぎなど)によって、宇宙構造はかなり変わる(たとえば、銀河の大きさの違い、星の出来方)。したがって、宇宙創生期に刷り込まれた法則と初期条件で、その後の進化が完全に決まるわけではない。(近代科学の必然的決定論は否定される。)それゆえ、自然の「形相」も宇宙初期にすべて完全にすり込まれているわけではなく、進化の過程で創発されるだろう。
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[6]自由と必然性 

 呉:「水の流れるごとく自然に無理なく打つこと。」 
 牛窪:「棋士の理想は自由自在に打つことです」、そして「水の流れのように自然 法則に逆らわないことです。」

自由と調和 
 自由に打てることとは、棋理(法則)に従ってはいるが既成の型や概念に囚われず自然に最善手が打てることであろう。「自由とは必然性の洞察である(ヘーゲル)」というように、自由とは必然的自然法則に逆らわずそれに従うことである。そうすれば宇宙の「意志(法則性)」と共に不自由なく自然に行動できるようになるということだろう。囲碁の世界も同じであろう。自然法則に逆らえば、抵抗を受け思うようにいかず不自由である。
 完全な囲碁理論(棋理)があれば、その囲碁理論は必然法則を意味する。したがって、その場合には、その棋理に従えば、水の流れのように自然に最善手が打てて、 孔子の「己の欲するところに従えど則を超えず」の境地になるだろう。

 自由に打てるためには、次の手の自由度を残すことが必要だろう。ぎりぎり一杯の手は次の手を縛る。ゆとりある柔軟な手は、相手の反応に応じて変化できる自由度を次の着手に残す。発展性、変化可能性など多くの自由度を持った着手は、全体との調和を保ち易いことにもなろう。 
 呉清源が、小目には、小桂馬掛かりではなく、2間高掛かりや大桂馬掛かりが良いというのも、挟まれた時に空間が広く自由度があるから、変化や発展がしやすいということのようだ。(牛窪9段の解説によって判断。これについては別に記す。)

囲碁も形相(フォーム)の一つ
 呉:神技とは、まことにこのことをいうのであろう。邃遠幽玄、覗けば覗くほど天地下は 広く深い。私ら、凡庸の頭からすれば碁は神が創造したとしか考えられないのである。  碁の勝負は普通の勝負とちょっとちがうと、私は思います。そこには人為的なものが 少なく、ほとんど自然の現象というべきで、自然の現象を、ただ勝負と名づけただけで はないでしょうか。

 碁は邃遠幽玄。神が創造したもの、人為的なものが少なく自然の現象とでも言うべきもので、人事の及ばぬほど奥深いという。この理解の仕方は、囲碁は形相(フォーム)の一種であって、人類誕生以前からすでに自然の中に「形相」として存在していたという自然観と一致するだろう。すると、数学や科学と同様に、囲碁は人間が「創造(発明)」したものではなく、形相として自然界に存在していたものを「発見」したのである、ということになる。呉清源の神は自然そのもの、囲碁も人間も自然の一部(自然現象)ということになるのではないだろうか。
 囲碁と形相については「半田道玄の囲碁哲学と科学的自然観」(文献1)で詳しく論じたので省略する。

完全な囲碁理論は存在しうる
 囲碁ゲームでは石の配置と手順の可能な数(可能な全対局数)は、ほぼ300!(階乗)~10600通りという想像を絶する超宇宙的数である(ちなみに宇宙の全原子数、あるいは素粒子数は、高々1080)が、それがいかに多くとも有限である。この数は有限だから、すべての対局パターンを並べ尽くすことは原理的には可能である。しかし、人類にとってはその対局数は事実上無限であるから、並べ尽くすことは不可能であることはいうまでもない。
 すると、論理上のことではあるが、有限回の操作ですべての対局パターンを尽くすことができるのだから、勝敗とその過程は必ず見極めることが出来る。すなわち必勝法と最善手は存在するはずである。また、もし囲碁規約に不備があって勝敗を決することができない場合は(たとえば、3コウが生じた場合)、規約の不備を修正して勝敗を決するようにすることもできる。そのようなすべての規約の不備を洗い出すこともできるし、その理論的解析と規約の改良は有限回の操作で済む。
 それゆえ、必勝法は存在するであろうし(先手必勝とは限らないが)、そして同時に、妥当なコミ数も決定されるはずである。そうなら、論理的には、初手から勝敗は決まっているはずである(ただし、その初手も一通りとは限らないだろう、何通りかの初手に応じた必勝法の手順があるかも知れない)。かくして、囲碁理論は、原理的ではあるが、完全なものが存在するはずである。(文献1)
 囲碁理論の完全性とは、囲碁に関するすべての問題(最善手や詰め碁など)と疑問に答えたり説明したりできること、不備のない完全な規約を造りうること、そして必勝法を示しうることである。
 だが何遍も繰り返すが、人類の能力では完全な囲碁理論(規約と必勝法)を作ることはできないだろう。それは「全能の神のみぞ知る」である。だから、囲碁は無限に深淵である。人間はそれに少しでも近づこうとして永遠に努力するが、決してそこに到達できない。囲碁には永久に研究する余地がある。

囲碁の研究は永遠に続く
  呉清源:「この囲碁が、五千年くらい考えたところで、とても全体の十分の一もわかっていないところが、そら恐ろしいではありませんか。勉強すればするほどわからないことが出てきます」。「盤に向かっている限り、毎日新しい発見があります」「数千年の昔から碁があり、二一世紀はもちろんのこと三〇世紀も四〇世紀も、多分、囲碁は存在し続けるでしょう」ということになろう。[注]
 完全な囲碁理論は存在するとしても、人類にとってそれは邃遠幽玄、永遠に研究対象として残る。しかも、相手の応手により変化し、その変化の行き先はカオス的で予測不可能であるとなるとなおさらである。
 それでも最善手、完全理論があると信じているから、人類はこのように努力するのだと思う。
呉清源が、小目に掛かる2手目からすでに好手と悪手をはっきりと明言できるのは、完全な囲碁理論(神の手)の存在を信じ、かつそれに最も近い着手はこれだとの信念の表れではなかろうか。
 
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[注]自然科学でも、一つの疑問が解決され、理由が判ると、その先にさらに新たに多くの問題が現れてくる。自然科学は不完全で永遠に完結しえない。これも自然科学のもつ論理的宿命である。(詳細は「半田道玄の囲碁哲学と科学的自然観」参照)
常に疑問を抱き問題意識を持っている人は感性と想像力が豊である。感性豊かで想像力の強い人ほど、一つの問題が解決したときその先に新たな疑問が多く湧いてくる。この点囲碁も同じであろう。

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[7]囲碁の真髄は調和にあり

 呉:「碁は調和の姿だと、私は考えます。碁は、争いや勝負と言うよりも、調和だと思います。一石一石がつり合っていて、最後に一局の碁が、調和したものとして打ち立てられるわけです。」

 呉清源は、なぜ勝負より調和を尊ぶのであろうか。前述のように、囲碁を単なるゲームではなく、神の創造したもの、勝敗を超えた自然現象の一つとして、精神浄化や人格陶冶の手段と観ているからであろう。
 好手と悪手を指摘するからには、勝つための最善手を追究しているはずである。しかし、水の流れるごとく自然に無理なく、しかも自由自在に打てることを理想として、最善手を追究しているのであろう。それには、自然法則(棋理)に逆らわないことである。そうすれば、最後に一局の碁が調和したものとして打ち立てられ、自ずと勝敗が決するというわけであろうか。最善手や名局とはそのようなものであろう。

 囲碁は地取りゲームでも、石の生存を競うゲーム(中国流規約)でもなく、「地を分かち合う」ゲームであると、ある知人に言われた。なるほど、地は361路と決まっている。その地を奪い合うのでなく、地を分かち合うゲームならば、「碁は調和の姿」とする拠り所が見えてくる。 これならば、無理手を打ったり、強いて相手の石を取ろうとすることもなく、調和が自然の姿となろう。囲碁の本質は平和主義なのである。
 調和した碁が成立するためには、対局者の棋力と精神力が互角であり、互いに共鳴しあえるレベルに達しなければならない。
 エネルギー、エントロピー、およびシナジーの三要素がその局面その局面にマッチした着手は、自由度があり効率もよくバランスのとれた最善手となろう。だが、プロ棋士は生活がかかっているから、勝ちたい、勝たねばならないというプレッシャーがかかり、焦りや精神的動揺から無理手が、またほっとした気の緩みから緩着がでることもある。その時、バランスが破れて調和が崩れる。

牛窪:プロ棋士の手合い、勝たねばならないというプレッシャーから伸び伸び打てなくなります。勝ちたいという欲が判断を狂わせミスがでる、ミスは相手に的確に咎められて後悔する。それゆえ、プロの対局は心理面と体力が大きく影響します。
 私は後悔ばかりですが、宮本武蔵の独行道の一番に「我が事において後悔せず」という自戒の言葉を読んだ時、武蔵にしても後悔が多くあったのだろうと慰められました。
 ある稽古先の方から、「呉清源が“私は一局も勝とうと思って打ったことはない”と書かれていたのですが、本当ですか]と聞かれたことがあります。そこが呉清源の精神の高さで、私共の手の届かない偉大なところだと思っています。

 呉清源は、調和を棋理の真髄として完全な囲碁理論を探究し、調和をベースにして囲碁道を求め続け、それを通して自然の理「神」に近づこうと努力しているように思える。


 謝辞:この小論を書く契機を与えていただき、かつ、種々ご教示いただいた牛窪義高9段に感謝します。

              参考文献

1.「半田道玄の囲碁哲学と科学的自然観」
2.「囲碁の進化論」:『囲碁梁山泊』第11号(1998年秋)~第14号(1999年夏)
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