科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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科学の不完全性について
科学の不完全性について

以前書いたブログ「市民社会における科学の役割」(11月)の中の「科学の不完全性」に対して、疑念があるとのコメントを頂きました。貴重なご意見を頂き有り難いと思っています。
 これまで、「科学の不完全性」について、いろいろなところで発表してきたので、このブログでは極簡単にしか説明していません。したがって、このコメントと同じような疑念を持っておられる方は他にもおられるかも知れないので、そのコメントに対する筆者の考えをここに述べることにします。また有益なコメントを期待しています。 

 まず、そのコメントに関する私のブログの部分は以下のものです。

「5.科学・技術の可能性と限界
科学の不完全性: 人間も自然の一部である。記憶、思考、認識活動もみな高度に組織化された物質系の活動様式、自然現象の一形態である。それゆえ、「自然科学とは自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動」である。したがって、人類の営みである科学活動は自然の自己発展の一部である。
 この科学観に立てば、自然を対象化して外から認識するというこれまでの立場から、自然と共に在って内から自然を認識する立場へ転換する。
 すると「科学は自己言及型の論理」となるからゲーデルの不完全性定理が適応され、自然科学の理論体系は不完全で永久に完結しない。
 ゲーデルの定理によれば、無矛盾な述語論理の体系は真偽を決定できない命題(自然科学の場合は説明できない現象・問題)や自己矛盾的命題を含む。また、その論理体系の中で、自らの論理体系が無矛盾であることや自己完結であることを証明できない。
 完全な自然科学は永久に不可能であり、新理論もそれが無矛盾である限り、次にまた新たな決定不能な問題が発生して科学理論は永久に完成しない。それゆえ何処までも発展し続ける。自然自体は自己完結的存在であったとしても、自己完結的科学理論は不可能である。科学は無限に進歩発展するが、実在の自然の論理に無限に近づきうるのみ。」

これに対するコメント:
不完全性定理の他部門への応用について
「5.自然科学・技術の可能性と限界」におけるゲーデルの不完全性定理の引用に疑念がありましたので投稿させていただきます。というのは、自然科学は初めから矛盾があるかもしれないことを前提としている仮説を総合したものであり、無矛盾を前提としている数学や論理学とは同一には語れないのではないでしょうか。自然科学では観察の結果により、つじつまの合う仮説を後付けで構成するわけで、数学や論理学でいう意味の真理はそこにはあり得ません。
 いまだ我々の物理学のレベルは「自然の一部である人間が自然のごく一部を観察している」レベルであって、先生の仰られる「自然と共に在って内から自然を認識する立場へ転換する」レベルには永久に到達できないのではないかと思います。もし、大統一理論が完成し、宇宙のすべての要素の状態を我々が把握できて、宇宙のすべての運動を予測できるような状況になったとしたら、その時こそ「自己言及性」が問題になってくると考えます。

自然科学の「自己言及性」についての補足。
 第二不完全性定理を自然(Universe)に当てはめて考えると、「自然は統一理論(あると仮定します。)に従ってすべてが運動していることを自然自身が認識することができない。」と言うことになろうかと思います。 自然が自分自身を把握しようとしてコンピューターにデータを入れようとすれば、そのコンピューターも自然の一部ですからその「コンピューターとデータ」についてもデータとして入力しなくてはならなくなります。つまり無限の入れ子ができてしまうことになるわけです。
 物理理論はすべて暫定命題でありますから、矛盾が生じればその都度修正していくべきものであります。無矛盾性の証明を物理学の中で行うということに意味はないと考えます。 不完全性定理はあくまで、当該公理系の中でその無矛盾製を証明できない、と言う意味ですので、最終的な真理を問題とする哲学や論理学以外では適用できない、と言うのが私の考えです。

このコメントに対する私の意見:
 自然科学は自然からえた情報をもとに組み立てた理論体系で、一応相対的に完備な体系(関連する現象を説明でき、かつ予言可能性を有する体系)です。自然科学の理論体系は、基礎概念と原理とから組み立てた公理系で、その理論体系の内部に論理矛盾があってはなりません。「自然科学は初めから矛盾があるかもしれないことを前提としている仮説を総合したも」というのは科学理論に対する誤解と思います。自然科学が不完全で矛盾があるのは理論と実在の自然の間であって、内部矛盾はないのが前提です。仮説自体は間違いでも、それらを用いて組み立てた公理系の内部には論理矛盾はないことが科学理論の前提です。
 もし、内部矛盾があれば、修正されるべきで、事実そのように科学は進歩してきました。たとえば、ニュートン力学とマクスウェル電磁気学は相互に矛盾したものを含んでいました。アインシュタインの相対性理論がその矛盾を解決して両者を統一しました。

 でも、現段階での科学理論は不完全で、説明できない現象があります。これが自然との不整合・矛盾です。だから実験で自然に問いかけ、その矛盾を解決すべき方法を求めるわけです。
 科学理論はω無矛盾な述語論理の体系ですから、ゲーデルの不完全性定理が適応されるはずです。「不完全性定理はあくまで、当該公理系の中でその無矛盾製を証明できない、と言う意味ですので、最終的な真理を問題とする哲学や論理学以外では適用できない」というのはゲーデルの定理の誤解と思います。この不完全性定理の証明を読めばこのような適用の限定はありません。
 科学理論への適用の問題に関する詳しい考察は拙著『科学はこうして発展した-科学革命の論理』(せせらぎ出版2002年)を参照してください。

 自然科学の理論は不完全だから、説明できない問題(真偽決定不能命題)があり、それを解決すべく進歩するわけです。しかし、自然自体が自己完結的に完全(統一的真理がある)としても、自然科学は永久に自然の真理には到達できない。それが不完全性定理からの帰結でしょう。説明できない現象(真偽の決定不能命題)や理論的問題があれば、それを解決する仮説を設けて新たな理論を創る。それでもその理論が内部矛盾を含まなければ、その先にまた説明できない現象が発見されます。こうして無限に続くわけです。

 「自然の内部から共感する」というのは、自然科学が完全であるか否かには関係ありません。内部から共感するといっても、完全な観察・実験が出来るとは思っていません。実験はその方法もデータの解釈も理論に依存しています(データの理論負荷性)から、理論と実験とは相互依存的な循環論的性格を帯びています。したがって、ここにも科学の不完全さがあります。
 ここでいいたいことは、自然を対象化して客観視して自然科学の理論を創るか、内部から共感する立場で観察するかの違いで、科学の方法に関するものと考えています。これにより自然観や科学理論の解釈が変わると思います。自然支配の思想で科学を研究し、利用するか否かに関わることです。自然を対象化した外からの認識とは異なる立場での認識法をいっているので、立場の転換以上のことはいっていません。

 「大統一理論が完成し、宇宙のすべての要素の状態を我々が把握できて、宇宙のすべての運動を予測できるような状況になったとしたら、その時こそ「自己言及性」が問題になってくる」というのも同意できません。
 大統一理論が出来たとしても、それが最終理論であるはずがないです(欧米の一部の物理屋や最終理論といいましたが)。その先に必ず新たな問題が生じます。大統一理論には仮定や暗黙の前提が含まれていることを忘れてはなりません。これは大統一理論に限らず全ての科学理論の宿命です。
 ちなみに、「自然法則には 数学や論理学でいう意味の真理はないから、同一には論じられない」というのも納得できません。数学も経験的知識から得られた知識や論理をもとに構成された理論体系ですし、数学にも矛盾があり不完全であることが明らかにされました。

「自然科学の「自己言及性」について補足」について。
 第二不完全性定理を自然(Universe)に当てはめて考えると、「自然は統一理論(あると仮定します。)に従ってすべてが運動していることを自然自身が認識することができない」
ということはその通りでしょう。これも不完全性定理から言える一つの結論でしょうが、科学理論に当てはめられないということにはならないでしょう。自然科学は自然運動の中に含まれるが、自然の部分系として相対的ながら閉じた一つの理論体系です。
 「コンピュータにデータを入力する」のは「入れ子」になるというのは、その通りでしょう。やや問題が違うかも知れませんが、「データ解析の理論依存性」と同じような循環論的性格の一つかと思います。

 「無矛盾性の証明を物理学の中で行うということに意味はない」、「不完全性定理はあくまで、当該公理系の中でその無矛盾製を証明できない、と言う意味ですので、最終的な真理を問題とする哲学や論理学以外では適用できない」ということについて。
 無矛盾性を物理学の中で証明することを誰か問題にしたでしょうか。昔、哲学者がその証明を試みたかも知れません(神の存在証明のように)。その証明が自分のなかで出来ないから、物理学は実験をするのです。
 上記のように、自然科学の理論体系は相対的に閉じた「内部矛盾のない体系」です。不完全性定理は「無矛盾な理論体系は決定不能命題を含む」というのが本です。また、数学や論理学は経験とは関係ない特別な知的体系ではないです。「最終的な真理を問題とする哲学や論理学」という、「最終的真理」とは何を意味するか私には分かりません。
 自然自体は自己完結的に存在しているでしょう。科学理論は科学理論によって無矛盾性や完全性を証明できないから、自然に問いかけながら(実験)進むわけです。 
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