科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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福島原発事故の「想定外」について
福島原発事故の「想定外」について               

 福島第一原発の事故について、東京電力も、政府、原子力安全委員会などみな、今度の事故を「想定外」といって、弁解し逃げている。マスコミもこの「想定外」の言い訳につられて、現代科学でも予想できなかったものがある、と言っている。この「想定外」には二つの落とし穴があり、それを認めることは危険であると思う。

 第一の落とし穴 
 福島第一原発に限らず、地震国日本における原発の安全性は不十分であることは、良識ある専門家からしばしば指摘されてきた。しかし、自民党政権時代から政府の原子力推進政策に乗って、前通産省・前科学技術庁(現経産省・文部科学小)を中心にして原子力産業は強引に進められてきた。その方針に対して批判的意見を述べる者はすべて退けられ、日陰に追いやられた。あるいは、陰に陽に圧力をかけられて、生き伸びるために方針を転換せざるをえなかった組織や会社も多々あった。このような状態を背景に、政・官・財のつくる原子力村は「安全神話」を築き、その上に胡座をかいていた。原子力村の馴れ合い体制に浸かって、原子力産業の甘えの体質ができた。それゆえ、本来公表されるべき情報はおろか、事故情報の隠蔽も大目に見逃されてきた。こうして、「安全神話」にひたって大災害に対する安全対策を怠ってきたために、いざ大事故というときに応急対応ができなかった。事故を過小評価して、対応が後手後手と遅れたために、次々に予想以上の悪い事態を招いた。まさに人災である。
 
 福島原発については、大地震に次ぐ大津波の対策が不十分であること、そして地震・津波により引き起こされる事故の危険性は指摘されたが、「そのような事故は絶対に起こらない」といって東電も原子力安全保安院、安全委員会も耳を貸さなかった。ところが、その指摘通り、津波による電源破壊、冷却装置の停止、炉心溶融、水素爆発、圧力容器の破壊などの事故が連鎖的に続いて起こった。事故後彼らは予測が甘かったことを認めざるをえなかった。
 
 地震強度と津波の高さも、それによる原発事故も、すべて科学・技術的に予測され指摘されたことであり、「想定外」ではなかった。「想定外」であったのは、「安全神話」をつくって油断していた東電を初め、原子力村の人たちである。本当にそう思っていたのなら、「想定外」という言い訳は、彼らの想像力と判断力がいかに貧弱であったかを示すものであり、科学・技術に対する誤解でる(以前の「科学・技術に対する過信と軽視は危険」を参照されたい。)。これで日本の技術に対する信頼は低下した。

 第二次の落とし穴 
現代科学・技術についての評価を誤らせることである。今度の原発事故の可能性は、科学的に予測できた。これまでの原発の安全性基準は甘いことを指摘し、この事故も想定できたのは科学・技術によってなされたものである。現在の科学・技術力を持ってすれば、原発は格段に安全なものになりうる。そのことを知ってか知らずか、原発は科学によっても予測できないとか、コントロールできないほど危険なものであるかのようなマスコミ報道をみた。このような判断には首をかしげたくなる。
 もちろん、絶対安全な技術は存在しないし、本当に想定外のこともありうるから、科学・技術の過信は危険である。人力は自然の力を超えることはできないし、まして自然支配など不可能である。
 しかし、上記のように、現代科学の予測能力を疑ったり、実状以上の不信を抱くことは、逆の行き過ぎを感ずる。科学・技術に対する正しい認識と評価がないと、「想定外」という言い訳を許すことになるし、また要らぬ風評や心配を煽ることにもなる。科学・技術の軽視もまた危険である。

科学が永遠に完全にならないのと同じように、原発に限らず、すべての技術は不完全、かつ完成されないものである。 ほとんどの技術はその上に立って、利便さ、経費(コスト)、安全さの兼ね合いで決められ活用されてる。どこで線を引くかが問題である。
 日本の原発は、コストと安全性を誤魔化してきた。「安全神話」に浸り、安全性の研究を怠り、むしろどこまで手を抜いても大丈夫かを研究していたといえよう。
 現在の科学・技術力を持ってすれば、本当は遙かに安全で、コントロールできるはずである。使用済核燃料の処理にしても、これまで国民に不信感を植え付けたから、日本はできずに一部外国に依存するわけである。この技術に関して、もっと真剣に研究すべきである。それにしても、原発政策について、不信感を払拭することが不可欠である。

 原発は、一旦事故が起こった場合に、他の事故とは異質の大きな危険性があるし、対処の仕方も大部違う。それゆえ、自然エネルギーで賄えるなら、原発はない方がよい。だが、現代の科学・技術力で、原発は本当にコントロールできないものかどうか、科学的検討を真剣にし直す必要があるように思う。

 まず、原発の可否を根本的に再検討することから始めるべきであるが、今の日本の体制と風土では無理であり、まともな検討は出来そうにない。やるならば、国連UNESCOで、温暖化問題のICCPのように、国際的にすべきである。

 原発に限らず、真面目な科学・技術者の意見を無視してきたこれまでの日本の行政の体質が問題である。自民党および公明党も混用な原子力政策と原子力村の体質を見逃してきた(馴れ合ってきた)責任を強く感じて、原発事故の救済に献身的に立ち向かうべきである。そして、原子力政策に関して、根本的な体制・組織と体質の改変に協力すべきである。それができないなら、せめて根本的体質改変を妨害しないようにして貰いたい。

 菅首相の政治能力について評価は低いが、少なくとも原発とエネルギー政策に関する既存の組織に対する強い不信と、それを根本的に改変しなければ成らないといって、奮闘している菅首相の姿勢を応援したい。この改革では、政・官・財の癒着体質を崩すこと、制度・組織の根本的改組(新たに作り直す方がよい)と同時に、各種委員会の人選法を改めねばならない。そして真っ当な専門家の意見が反映できるようにすべきである。制度・組織の運営の善し悪しはすべてそれに携わる人により決まる。

 また、現場での判断でも専門家よりも素人の上役が決める体質は困ったものである。この際、このような組織、機構の運営も根本的に改革すべきである。
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