科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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「囲碁を学問にするために」への批判と回答
「囲碁を学問にするために」への批判と回答 

前掲「囲碁を学問にするために」に対して批判が寄せられた。有益な意見であり、このような議論をすることにより考察を深めることができるので、大いに歓迎する。

 指摘された問題点について、私の言い訳と反論を以下に述べる。

問題点1.囲碁は、二人のプレーヤーが相手の動きを予想しながら対決するゲームであるというゲーム論的視点が欠けているのが問題だとおもう。 

 この指摘はその通りだと思う。だが、私はまず、現実のゲーム進行とは異なる理想化された囲碁の理論化の方法とスタイルを述べた。
 理論化の方法には二つの段階があると思う。まず第一段階は、できるだけ問題を単純化・理想化した状況を理論化する。これは科学で言えば、副次的な要素を除いて単純化し、純粋な法則をもとに理論化する段階であり、力学の基礎理論がそれである。
 次の第二段階は、その理想化された理論に現実的な要素を取り入れると、どのように修正されるかを分析する。その上で、できるだけ現実的な要素を考慮した総合的判断によって次の段階の理論化を行う。
第一段階は、碁盤上の配石、つまり囲碁の進行しつつある局面のみを問題にして、次の最善着手を決定する理論を求めることである。相手も常に最善手を打ってくることを前提にして、目の前に与えられた盤面の状況に対して、最善手はどれかを決定できる理論の構築である。この場合は、相手の意識状態や駆け引きは無視した純粋理論化である。
ユークリッド幾何学とニュートン力学を例に説明したのはそのためである。

問題点2. 囲碁の理論化を物理学とのアナロジーで展開しようとするのは無理だと感じる。むしろ、「複雑系」の理論が必要となる。

 現実の囲碁対局は相手の反応を無視した単純理論では扱えないから、物理学とのアナロジーは無理だというのはそうであろう。しかし、上述のように、第一段階の理論化には物理学のアナロジーは通用すると思う。
 ニュートン力学では複雑な現実の運動を分解して単純化し、二体問題に帰着する。つまり、素過程は二粒子間相互作用であるとして、複雑な現象も二体問題の組み合わせとする。さらに、二体間の相互作用(力)を切り離して、相手の作用を外力とすると一体問題にできる。すなわち、外力のもとでその一粒子の運動を扱うことができる。それが運動方程式の ma=fである。
 この理想化された運動法則をもとに、空気の抵抗を考慮したり、拡がりのある物体の回転を取り入れたりして現実の運動を説明するのである。

 この方法は、囲碁では対局の相手を一応外して、盤面の配石のみを考察の対象とすることに対応する(第一段階)。(複雑系科学の理論化は第二段階になるだろう。)

 囲碁は初手から終局まで、手順と配石のパターン数は超天文学的数であり、人間の扱える限界を遙かに超えるが有限である。したがって、原理的には全てのパターンを並べ尽くすことは可能である(人間には不可能だが)。ならば、必勝法は存在するはずである。
 したがって、与えられた盤面の状況に対して、最善手は存在するはずである。次に相手が最善手を打ってきても、また最善手で応える手はあるはずだ。(先手必勝なら、この方法で最善手を打っていけば、先手が勝つ方法はあるはずである。)
そのような最善手を見出すことは人間には不可能だが、できる限りそれに近い着手を決定できる理論は存在するはずである。それは相手との駆け引きなど考慮しなくてよい純粋理論化であり、囲碁理論として当然目指すべき方法の一つであろう。いや、一つの方法と言うより、囲碁の基礎理論として不可欠なものであると思う。
 フォン・ノイマンのゲームの理論はこのレベル段階だろう。
 囲碁ソフトの開発では、この第一段階の理論がベースになるだろう。特に、評価関数を作る論理にはこの種の基礎理論が必要である。コンピュータは対局相手の癖や性格によって着手を変えることはできないから、誰にでも通用するソフトを開発するのが基本である。

問題点3. 囲碁の理論化はむしろ、「複雑系」の理論が必要となる。経済学に例をとると、複数の企業が市場で競争をする『寡占的競争』の例があてはまる。いくつかの有限の手を考慮した上で、利得の最大化、および、損害の最小化をはかっていくと、たぶん『ここらで手を打とう』という妥協点=部分均衡点がみつかる。そこで、無難なワカレに到達して、次のラウンドにすすむというわけだ。

実際の囲碁では勝つためにいろいろな要因が絡む。相手の思考傾向や癖を考慮して駆け引きもなされるだろう。まさに複雑系であり、力学理論よりも経済学の状況に近いことは認める。しかし、自然科学の複雑系は経済学のそれよりも単純化できる。
自然科学における複雑系は、構成要素の数とそれらの間の相互作用の数(連結手、ボンドの数)が臨界点を越えるた物質系である。この物質系は非平衡開放系であり、外部環境のもとで発展・進化する法則を探究するのが複雑系科学である。複雑系の種類や外部環境との相互作用の仕方は多様であるから、状況により発展・進化の法則は異なるが、できるだけ広く共通する普遍的理論を構築することを目指している。そのためには、やはり出来るだけ副次的要因を排除し純粋化をする必要がある。この方法は物理学の場合と似ている。経済学的複雑系はもっと多くの難しい要因が絡みむので、単純化は困難であろうが。
 囲碁を複雑系としてみると、盤面上の石の役割は一つでなく、他の石との関連は幾重にもなっていて、複雑に絡み合っている。すなわちそれぞれの石の連結数、ボンドの数は多い。また、次の一手の働きも単純ではなく、攻め、切断、消し、連絡、逃げ、厚みなどいくつかの役割を兼ねた多様な場合が多い。一手打つごとに盤面は段々複雑になって発展・進化していく。
 盤面上の配石が物質系に対応し、外部環境は対局相手である。その相手の着手が外部環境からの作用である。これら着手の多様な働きの1つひとつに比重をつけて最大評価値を得るように次の一手を選択せねばならないから、評価関数は多変数関数となる。また、一手の評価は人により異なるし、幅もある。それゆえ、イエス・ノーの二値論理ではなく多値論理を必要とするだろう。
 経済の「寡占的競争」の例は、相手の出方を考慮したうえで、利得の最大化と損害の最小化をはかって行動を選択するというのは、ナッシュ均衡の論理であろう。そうならば、相手の出方を忖度した一種の駆け引きで選択肢を決めることになる。囲碁の場合も、現実の生身の勝負では勝つために相手の心理や性格を考慮して、着手を選ぶこともあろう。すると、対応の仕方はかなり個別的となるから、そのような方法にはこ普遍性がなく理論化は非常に困難であろう。
 一般的に、法則・理論には客観的普遍性が求められる。それゆえ、囲碁理論も、相手は常に最善手を打ってくることを前提にした理論を築くのが、囲碁を学問にするオーソドックスな道であると思う。
 
問題点4.碁とは『調和のゲームである』と呉清源はいう。この場合、プレーヤーはともに部分的均衡を求め、カタストロフを避けるということになるのだろう。碁は最終的に細かくなって、どちらかが、半目勝ちになって終わるだろう。それを理想としてよいのかもしれないが、 実際には、勝負師を自認するようなプレーヤーは、相手の不完全性を信じて、勝負を挑むだろう。その時は、どちらかがカタストロフにいたるわけだ。
私は囲碁の戦いの流れをそのようなものだと理解するのが、囲碁の本質を衝いていると思っている。しかし、そのようなアプローチで、囲碁を理論化してみろといわれると、怖気づいてしまう。これは、壮大な複雑系モデルの作成を意味するからである
 

 呉清源の「囲碁の真髄は調和にあり」と言う言葉は有名である。「碁とは調和のゲームである」というのは、駆け引きなしに両者が常に最善手を打つということを前提にしたものだろう。すなわち、理想化された囲碁論であろう。上述のように、囲碁を学問にするには、まずそのような理想化された状況を理論化すべきだと思う(第一段階)。その次に、第二段階として、現実的要素を取り入れた理論を築かざるをえないだろう。物理学の例でいえば、ニュートン力学(第一段階)を経ないで、いきなり相対性理論や量子力学(第二段階)を築くことは、不完全な人間の認識能力では不可能である。囲碁もおなじであろう。
 「実際には、勝負師を自認するようなプレーヤーは、相手の不完全性を信じて、勝負を挑むだろう」というのも、現実はその通りと思う。しかし、その方法は個別的であって、それを体系的に理論化することは、いかに複雑系理論を用いても無理ではないだろうか。状況が自分に不利であるとき、このまま行っては挽回できないときに勝負手を挑むことを戦術としていうことはできても、いかなる状況のときいかなる勝負手を打つかを示す一般的理論を作ることが果たしてできでうだろうか。

問題点5.最近急速な進歩を見せている対戦ソフトは、モンテカルロ法を応用しているとのことだ。上記の私の議論にそっていえば、複数個の手のそれぞれに確率を付与して利得関数を最大化するのではなく、有限個の手の流れを打ってみて、それぞれの流れの行き着く先を『形勢判断』し、これによって当面の手を選択するというものである。形勢判断をどういう評価関数でやるのか、というのが次の問題であるが。 

 モンテカルロ法は、いわば「試行錯誤法」であって、ソフトの開発法としては本筋ではないと思う。この方法である程度までは強くなるが限界があるだろう。特に、形勢判断の評価関数をいかに作るか、その論理を築くのが囲碁理論の本筋と思う。そのためには、第一段階の理想化された場合の理論化が不可欠であろう。


 私のこの意見について、後日さらに議論を続けることになっている。
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