科学・技術と自然環境について、教育を考える。
  • 07«
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • »09
続 囲碁を学問にするために
続 囲碁を学問にするために

 前掲の拙稿「囲碁を学問にするために」次のようなご意見を頂いた。囲碁に対する見方は、それぞれ人によって当然異なるであろう。そのこと自体は囲碁の深さを示していると思う。これを機に考察を深めるために議論を続けたい。(囲碁教育研究会でも取りあげて議論していただくことになった。)

批判意見:「碁は調和であるとは日本の大家の方が多くいわれることですが、この頃の韓国、中国との対戦を見るとむしろ碁は破壊であるというほうが強いのではないかと思います.
 もし攻め合いを一つの完全なコンピユーターで計算すれば結果が出るでしょうが、二つのコンピユーターが分かれて計算すれば結果も分かれるのではないかと思います.
 だいたい碁とはなんぞやというのはあまり堅い学問にはならないのではないかと思っています.」

コメントに対する私の考え:
 まず、「完全なコンピュータ」をどのように作るか、その処方には囲碁の理論化が必要である。また、そのコンピュータが完全であるということの判定はどのようにするのであろうか。その基準を決めるにも囲碁理論が必要だと思う。
 次に、韓国・中国の対戦(戦略・戦術)は調和ではなく、「むしろ破壊であるという方が強いのではないか」ということについて。彼らは、調和や形の美などを無視し、囲碁ゲームを勝つための戦術として、実戦的な新手を編み出すことに力を注いでいるのであろう。その戦術・戦略を破壊と見るか、最善手追究の応酬と見るかは今後の検討課題であろう。彼らの対戦法についての評価は短期間には結論はだせないが、囲碁の理論化との関連で考察してみたい。というのは「囲碁はあまり堅い学問にはならないのではないか」との判断とも関係していると思うからである。

東洋的思考の傾向
 古代から中国では、具体的な個別知識の収集や実用的な技術の開発は優れていた。数学でも『九章算術』に代表されるように、具体的問題の解法はかなり高度に発達していた。だが、それらを一般化して抽象化・普遍化する発想はなかった。それゆえ、代数学は芽生えなかった。また、円周率や√2などの計算法も編み出していたが、それらが有理数(分数で表される)であるか、無理数(無限小数)であるかという問題意識は持たなかった。直角三角形に関する「三平方の定理」の具体的実例は沢山発見していたが、それが一般的に成り立つという証明はしなかった。すなわち、その方法は実学的(実戦的)であって、個々の具体的問題は解くが、それらを抽象化・普遍化して、「証明」するという発想は生まれなかった。このように、「計算術」は得意であったが「数学」にはならなかったわけである。
 このことは、程度の差はあれインド数学についてもいえる。総じて、東洋的思惟形式は具象的・個別的であり、抽象化・普遍化し理論化する思考法は弱かった。つまり、物事の思考は「術」の段階で止まり「理論」に至らなかった。日本人は中国ほど実学的ではないが、理論よりも技術的に傾いていた。
東洋人のこの思惟傾向は、西洋的論理学や近代科学が東洋で生まれなかったこととも関係している。古代ギリシア以来の三段論法の発達もなく(わずかにインドの因明論を除き)、中世のスコラ論理学のように徹底した形式論理の論争は東洋にはなかった。「神の存在証明」などのような空理空論といわれる「スコラ論理」ではあったが、その中で形式論理学(命題論理や述語論理学)の基礎が築かれた。

 再び算術・数学に戻ろう。インドにおける「ゼロの発見」は有名であり、中国では位取りや負の数を算木を用いた実際の計算では使用していたそうである。しかし、「ゼロや負の数は数の概念に入るか」ということをあまり気にしなかった。だが、西洋ではそのことに悩みその意味を真剣に議論した。また、微分の極限としての0/0は果たして意味があるかとうことでも、長い論争があった。その結果、「0」にも程度の違いがあり、一次、二次(高次)のゼロがあることに気づいた。一見何の役にも立たない無駄な空論を弄んでいるように見える議論が、その後の数学理論の発展に寄与したのである。
 東洋では、そのような抽象的議論は、「役に立たない」といって切り捨てる傾向があった。自然科学においても、経験的知識や技術を普遍化し理論化して科学にすることは得意ではなかった。中世までは東洋(特に中国)では技術の面ではかなり進んでいたが、途中で停滞して近代科学は生まれなかった。このことから学ぶことは、実際に役立つか否かを直ぐに判定できるような現象的レベルに止まることなく、さらに一歩踏み込んで抽象的・普遍的な論理に進むことの大切さである。

理論化とコンピュータソフトの開発
 囲碁の理論化の意義についてはすでに「囲碁を学問にするために」で簡単に述べたが、それに少し付け加えておきたい。
 学問には遊びの心がいる。ゲームや遊び心の中から生まれた学問は多い。囲碁は新たな論理や学問を生む可能性に富んだゲームと思われる。
 囲碁の理論化は難しく、完全なものは不可能であるが、それに近い理論を築くための努力は有意義であろう。その体系的理論化の過程で新たな論理学や問題意識が生まれるだろうから。

 特に、コンピュータの囲碁ソフトの開発には、囲碁理論の構築は不可欠であろう。布石や定石はかなり普遍的理論化がなされているが、新たな布石感覚や新定石が提唱されているし、手筋や詰め碁は、ある程度分類されているが、体系的にきちんと分類された理論はまだない。まして序盤から中盤における一手の評価を与える「評価関数」に関するよい理論はない。この評価関数の善し悪しが囲碁理論の決め手といっても言い過ぎではかろう。だが、それを決める理論はまだ暗中模索の域をでない。
 囲碁の一手の働きは多面的であるから、評価関数は多変数関数であり、しかもその評価値は一流棋士の間でも意見が分かれる。だから多値論理やファジー理論が必要であろう。つまり、「イエス・ノー」の2値論理ではすまないだろうから、弁証法も含め新しい論理が必要のように思える。

 囲碁ソフトの開発は、いまや世界的になされつつある。まだ体系的な基礎的理論がないので、試行錯誤の段階である。布石や定石を記憶させて活用したり、攻め合や詰め碁の手を読むことはできても、自力で判断することはできない。それぞれのソフトには特徴があり、癖や弱点を持っている。だから、その弱点を衝くと案外脆いと言われている。
 評価関数を作る試みはいろいろなされているが、まだ非常にレベルが低い。でも、欧米でのこの方面での研究は、侮れないように思う。その方法はできるだけ広い場面に適用できるような評価関数を模索しているからである。つまり一般化・普遍化ができるような方法で理論の開発が進められているように思う。このような探究法は、遠回りのようであるが、やがて強力な理論を生み出す可能性がある。

 フォン・ノイマンがゲームの理論を最初に作ったが、それがやがてオペレーションレサーチに適用させられた。そのゲームの理論はさらに、複雑な形式のナッシュ理論にまで発展進化した。そのような発想は東洋にはなかった。一度彼らが真剣に囲碁理論の研究に取り組んだら、いつか壁を突破して急速に進歩する可能性がある。
いずれにせよ、囲碁には東洋的思考法と西洋的思考法のいずれが適しているかを見るのも興味ある課題であろう。

 要するに、囲碁は一般的理論化ができない、体系的学問にすることはできないと諦めるのではなく、執拗に追究する価値のある対象であると思う。


思考形式、自然観、科学・技術に関する東西比較については次の拙稿を参考されたい。
1.『東の科学・西の科学』(東方出版1988年)(共著)
2.「近代科学はなぜ東洋でなく西洋で誕生したか」『比較文明』No.15(1999年11月)
スポンサーサイト
この記事へのコメント

管理者にだけ表示を許可する
 
Copyright © 2005 自然と科学. all rights reserved.