科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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科学と技術の軽視と過信は危険
科学と技術の軽視と過信は危険  

科学・技術の過信:福島の原発事故 
東北大地震に次ぐ大津波は、福島第一原発に重大な被害を与えて大事故となった。東京電力会社は、今回の地震と津波は「想定を越えた」強さであったと言い訳をしている。地震発生後、1~3号炉は直ちに原子炉の作動は緊急停止されたが、停電のために燃料棒の冷却装置が作動しなくなって原子炉内の温度が上昇した。災害時の非常用発電機も津波により破壊されたために、打つ手が無く危機的状況を迎えた。その後の水素爆発、原子炉格納容器の危機、放射能の大量漏出など、次々と事故は拡大していった。
 これまで日本の原子力発電施設は、たびたび事故を起こしてきたが、その都度何とか対応できて大事故にならずにすんだ。それでも、事故隠しや被害の過小評価など、原子力行政や電力会社の姿勢が批判され、国民の不信はつのってきた。だが、いつの間にか日本の原発は安全であるという「安全神話」が作られていた。
 原子力に限らず、種々の工業施設などについて、以前しばしば聞かされた当事者の言葉は「現代科学・技術の粋を尽くして作られているから絶対安全である」であった。だが、石油・化学コンビナートなどの相次ぐ事故の後は、さすがにこの言葉はあまり聞かなくなった。それでも、何重にも安全装置をつけてあるから大丈夫という原発の「安全神話」は活き延びてきた。事故対策の不十分さを指摘する者の声は無視されてきたわけである。

科学・技術の不完全さ 
近年、科学・技術の進歩発展は著しく、目を見張るものがある。しかし、いかに科学が進歩しようとも、不完全な人間の築いた科学理論は原理的に完全でありえない(科学の不完全性については、拙著『科学はこうして発展した』を参照されたい)。まして現代科学はまだまだ不完全である。自然の奥深さと多様さは人知の及ぶものではない。その科学を応用した技術は一層不完全である。技術の限界を知っている者は、「絶対安全」などとは決して言わない。技術の体系は科学ほど理論的にきちんと構成されていない。武谷三男が「技術は法則性の意識的適用である」といったように、確かな法則として理論的に整備されてないことでも、経験的知識でもその技術が役立つなら定性的な判断で利用する。したがって、定量的理論に較べてかなり不完全であり、その結果を予測できないことが多い。だから「想定外」の結果を招くことがしばしば起こる。自然は多くの要素が絡み合う複雑系であるから、初期の僅かな差が拡大されて莫大な格差の結果をもたらすカオス現象が起こる。カオスは予測不可能な現象を引き起こす。このカオス的現象は、定量的にきちんとした決定論的科学においても起こるから、まして正確に理論化されてない技術の場合は、カオス的な想定外のことが起こるのは当然である。
 福島第一原発事故では、何重もの「安全装置」はあえなく崩落した。肝心の非常用電源が作動しなければ、全ての安全装置は役に立たなかった。これなどは「想定内」のことで予測はできることではあった。現に、2006年3月の衆議院予算委員会で吉井英勝議員が福島原発の事故の可能性を想定した質問で指摘したが、無視された。ところが、その筋書き通りの事故がこの度起こった。原子力安全性委員会や東電は先日やっと、その非を認め謝罪した。
 非常用発電機の破壊という一つの事故の影響が次々に波及して、これだけ大きな事故に拡大されたのは一種のカオス的現象といえるだろう。だが、このカオス的現象の可能性は予測できるものであった。

技術の事前評価は科学による総合判定で 
技術の利用には事前評価(アセスメント)が必要であるが、その事前評価は、技術論ばかりでなく、基礎にまで立ち戻る科学理論を重視すべきである。その理由を述べる。
 技術の進歩・改良は経験的知識に頼るところがあるから、技術理論の基盤は強固でない。それゆえ、技術利用の結果を技術理論によって予測するのは危険である。もっと基本的理論にまで立ち返って判断すべきである。その役目をするのは科学である。科学は自然の構造と仕組みを解明するものであるが、既存の現象を解明し説明するだけでなく、未知の現象や未来の可能性について予測できなければならない。この予測・予言の可能性が科学理論の重要な特性である。ほとんどの技術はその科学理論の応用である。したがって、技術よりは、科学のほうが先の結果を深く予測できるからである。しかし、日本は基礎理論よりも応用科学が得意であるので、科学よりも技術優先の傾向がある。直ぐに役立つ実学的知識も大事であるが、もっと物事の本質に目を向けて、基礎科学を大切にしなければならない。
 ただし、科学によるその事前評価が有効に機能し、かつ信頼できるためには、基礎から応用まで、また全ての分野(社会科学も含めて)にわたり科学が進歩発展していなければならない。ある特別の分野がいかにレベルが高くとも、狭く偏っていたのでは視野が狭くなり正しい評価はできず必ず見落としがでる。
 将来に亘り科学がいかに進歩しても、完全無欠な科学は原理的に不可能であるから、科学の限界を認識し過信すべきでない。科学も不完全であるゆえに、科学による事前評価も不完全であり誤った予測をすることがあるゆえ、百パーセント信頼できないことを念頭においておくべきである。現に、今度の東日本地震について、これ程強烈な地震が起こるとは予想してなかったと、地震学者は告白している。

 それゆえ、科学研究自体の事前評価が必要となる。「科学とは何か」といった科学の本質を踏まえて、科学研究のあり方を考察しなければならない。また、特定の科学分野が突出するとき、その研究の孕む危険性を事前に想定する必要がある。たとえば遺伝子操作など、人間倫理に関わる研究は事前評価に基づくコントロールが必要となる。科学の力と社会的機能を総合的に見据えて、その研究と応用をコントロールする科学哲学の論理が強く求められる時代である。

2次,3次効果の予測が必要 
事前評価でもう一つ重要なことは、技術の一次効果のみでなく、二次、三次効果も考慮すべきことである。地球は一つのシステムとして多くの要素が複雑かつ微妙に絡まり合った複雑系であるから,多くの現象において小さな作用でも相乗効果によってカオス現象のように拡大され,二次,三次効果の方が一次効果よりも大きくなる可能性もある。現代では,科学・技術の規模は巨大化されて,大規模工事の施工や大量の物が一挙に製造されるようになった。新技術が開発されて一気にそれが使用されると,たちまち全地球にその影響は及ぶ.それゆえ,十分なテストで安全性を確認せずに使用すると,後から気づいたときには遅く,取り返しがつかないことになる。

 科学・技術の事前評価の方法と制度が確立されねばならない。それには、三権分立のような制度、たとえば、専門家の公的委員会・科学技術利用の当事者・関係市民から成る評価機関はどうだろうか。ただし、その科学者・技術者および市民の人選法が問題である。これまでは当局の意向で動く専門家が多く選ばれてきた。良心的な専門家を推薦で選ぶ方法を採らねば、この制度も有名無実になる。

科学・技術の力は自然力を超えられない
自然の力は人力に比して無限大である。自然の脅威から逃れようと、また自然を利用して生活を豊かにしようと、人類は努力して科学・技術を開発してきた。それがかなり成功したので、人類は自然の力を克服し、自然を支配できると以前に錯覚した。今では、その誤りと人類の驕りに気づき反省した。人間も自然に一部であり、自然の支配などできるはずがない。
 人知は有限であり、現代の科学・技術の力は自然の威力に対してまだまだ小さい。それゆえ、これで絶対安全であるという技術力はありえない。「想定外」であったというのは認識不足による錯誤であか、自然の力を甘く見たためである。
 地震、津波、火山、台風による災害を経験する度に、人類はそれらに対する対策をし、そのための技術を改良してきた。だが、それを超える自然力による災害が繰り返し起こってきた。阪神淡路震災のときも、想定を超えた震度だったという声を聞いた。神戸市役所建築のとき、諮問委員の地震学者は震度6以上に耐えるような構造を提言した。しかし、市役所の担当者は、関西には大地震は来ないから震度5でよい、そんな丈夫な建物を造る予算はない、といって学者を泣き落としたという。その後の大震災で建物は破壊された。耐震強度5を認めたその学者は深く反省し、懺悔したという。この学者は良心的である。

 原発安全性の場合も同じようなことを繰り返してきた。原発の事故が起こる度に少しずつ対策の技術は改良されてきたが、抜本的な安全対策はなされなかった。にもかかわらず原発の「安全神話」がいつの間にか作られていった。地震対策については、いくつもの原子炉が活断層の上に立地されていることが後になってわかると、電力会社は耐震強度をある程度上げることで、これで安全・大丈夫といってきた。原子力安全・保安委員会もそれを認めてきた。今度の東日本地震までは、新潟、福井など何度かの大地震には耐えたので「安全神話」が通るようになってしまった。だが、福島第一原発は緊急発電機が津波により破壊されたのが大事故の最大の原因であるが、原子炉施設のあちこちで、地震によるひび割れが起こっていることが、次々に明らかになってきた。そこから、放射能漏洩や汚染された冷却水・ガスの流出が発見された。津波だけでなく、耐震強度も不十分であったわけである。
 自然災害の対策について、これで絶対十分ということは原理的にない。現在の科学・技術では防げないものがあるし、将来科学・技術がいくら進歩してもそれを防げないものがあることを認識しておくべきである。たとえば、巨大隕石やジャンボ機が原発に墜落するかも知れない。それゆえ、起こりうる全てのことがらに対して、絶対安全な対策は無いと思うべきである。「想定外だった」というのは科学・技術というものを的確に理解してないための過信と、想像力の貧困によるものである。

安全度は科学・技術と経費との兼ね合い:科学を優先し、政治的妥協を排せ 
 自然の威力は人力に比して「無限」と思うべきである。科学・技術による防災には限界があるから、いくらお金を注ぎ込んでもこれで十分ということはない。それならば、災害対策は安全度を考慮して、どこかで線を引かなければならない。その線引きには政治・経済力や利害が絡むから、政治的判断でなされることが多い。
 日本では専門科学者の意見に耳を傾ける姿勢が無く、ほとんどのことは科学を知らない政治家・官僚の政治的判断で決められる。公聴会などで専門家・科学者の意見を聞くことになっているが、そこに呼ばれるのは政府・官僚寄りの者が多い。たとえ反対意見を述べても、主催者側の結論は前から決まっていて、その意見を取り入れて変更することは滅多にない。「初めに結論ありき」であって、公聴会は法律で決められているから仕方なく形式を整えるために開かれるにすぎない。
 新規プロジェクトの安全度をどこにするかは、その時代の科学・技術力による判断がまず優先されねばならない。次に経済的能力を考慮して、安全係数を何倍にするかを決めるのが本筋である。その安全度を公開し、評価基準を基にした分かり易い説明をすべきである。そして、一般の意見を聴取し改善すべき点があれば再検討すべきである。
 放射能汚染の許容量は人体に影響の出る100分の1に決められているが、それに対して原発施設について安全係数はあまりにも低かったのでは無いか。安全係数の評価法として、しっかりした基準はあるのだろうか。「安全神話」を言うからには、安全性の評価基準を公開して「安全度」を示すべきである。
 原発が必要か否かの判定も、このような方法で改めて再検討せねばならない。原子力利用3原則「民主・自主・公開」は形骸化されてきたが、それをしっかりと活かさなければならない。
それにしても、日本の政治家や官僚、企業の上役は科学・技術の知識が不十分であり、科学について基本的認識に欠けているから、科学・技術政策に関して真っ当な判断ができない。だから、専門家の意見を正しく評価できず、「政治的判断」でことを決めてしまう。この科学・技術社会において、指導的立場の人はこれでは務まらない。現代では科学は、「読み書き計算」と同じく、基礎教養(リテラシー)である。初等教育から高等教育まで、科学教育のあり方を見直すべきである。
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