科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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原子力で制御できるものとできないものー技術の可能性と限界ー

原子力に関する現象で制御できるものとできないもの
  -技術の可能性と限界-


人類と放射能 
古代の地球は放射性元素が現代よりも遙かに多く、その崩壊による放射線量は非常に強かったと推定されている。地球誕生以来45億年の間に、それら放射性元素のほとんどのものは崩壊し、地上の放射線量は当時と較べて非常に低くなった。
 放射線に弱い生物が発生し、繁殖できたのは地上の放射線量が低くなってからである。
したがって、人類も含めて生物は、生理的にも遺伝的にも、生来高い放射能の環境には弱いように作られていると見るべきであろう。だから、可能な限り放射線照射を避けるべきである。しかし、宇宙から飛来する宇宙線と地表近くの放射性元素による微量な放射能は避けることはできない。この微量放射線を生物は発生以来、数十億年の間絶えず被爆し続け、その中で進化してきた。それゆえ、この程度の微量被爆は恐れる必要はないだろうし、むしろその方が生物(進化)のメカニズムに合っているかもしれない。だが、大量放射線の被爆には耐えられない。それゆえ原子力利用によってもたらされる放射能の急激な増加は、慎重にせねばならない。
 人類は原子力を手にしてから、放射性元素を利用するために、多量の放射性元素をかき集めて、地上の環境を放射能で汚染するようになった。地球全体に自然に散在していた放射性元素は、生物に害をもたらさなかったが、それらを人為的に特定のところに集めたから、その管理に失敗すると当然ながら生物に大きな危害を与える。その管理を怠り制御に失敗したのが原発事故である。原爆は放射能による意図的な大量殺戮であり、しかも環境を汚染した。原発事故と原爆実験による環境汚染は、自然からの人類へのしっぺ返しである。
 原発事故の後、原子力利用は「制御不可能な技術」だと一部に宣伝されたことがある。しかし、それは必ずしも正しいわけではなく、誤った知識が誇張されたものである。原子力利用では制御可能なものと不可能なものがある。原発は制御不可能な技術だと十把一絡げにいうのでなく、どの現象が技術的に制御不可能なのかを科学的に吟味し、制御可能な部分と区別して認識すべきである。そうでないと、将来ともに人類は原子力とどう向き合っていくべきかの判断を誤ることになる。また、事故対策を誤ったり、いらぬ風評被害をもたらすことにもなる。

原子力利用にかんする技術
(1)技術で制御できない放射能の現象
放射性元素の自然崩壊:放射性元素の半減期は、各元素(同位元素)の種類により決まっていいるが、個々の原子についてはどの原子が何時崩壊するかは全く予測できない。その予測は確率的にしかできない。その放射性原子核を変えない限り、煮ても焼いても化学的反応ではその半減期と崩壊確率は変えることができない。この事実は量子力学によって確立されている。それゆえ、原子核の自然崩壊は技術的に制御不可能な現象である。
 
(2)技術で制御できる放射能
技術上の難易度の差はあるが、原理的に制御可能なものを列挙する。
・放射性元素を局所に集中する(濃縮する)こと、逆に広範囲に分散させること。
・放射性元素の原子核を人為的に変えて(元素の人工転換)放射能を弱く、あるいは強くすること。ただし多量にはできない。
・核融合:軽元素の原子核を融合させて新元素を作りエネルギーを取り出すこと。 水素、ヘリウムなどの核融合など。
・臨界値以上の放射性元素を集めて、自然崩壊でなく、連鎖反応を起こさせること:ウラン235に中性子を当てて連鎖反応を起こすなど。 
 その連鎖反応の速度を制御することは可能。原子炉内では連鎖反応の速度を抑える。原爆は連鎖反応を一挙に起こす。
・使用済み核燃料の処理:再利用するために、種々な放射性元素を化学的操作で分離すること。 それらは工業技術や医学療法に利用される。そうの中のプルトニウムは原爆の原料にもなるし、MOX燃料(プルトニウム・ウラン混合酸化物)は高速増殖炉に用いられる(技術的にはまだ未熟でしばしば事故を起こしている)。
 もう一つの処理法として、漏れない箱に詰めて地下深く埋めるなどの方法がある。
・放射線を防護壁で遮断すること。原子核崩壊で放射される放射線は低エネルギーなので、その透過力は、宇宙線中のμ粒子やニュートリーノ(中性微子)の透過力と較べてそれ程強くない。α線は厚手の紙でも遮蔽できる。比較的透過量の強いのはγ線と中性子線であるが、鉛などの厚い金属で遮ることができる。
  
(3)制御可能なことを制御する技術とその限界 
上記(1)の現象は制御不可能である。ただし、この制御不可能な確率的法則にしたがって、放射性元素を利用することは可能である。
 (2)の項目にあるように、その技術に掛かる経費を度外視すれば、原子力利用においても技術的に制御可能なものは多い。その技術には難易度と掛かる経費の差があるが、やれないことはない。だから、原発もできたのである。だが、あまりにも経費が多くかかりすぎる場合は、実質的には制御できないことと同じである。ただし、将来には技術進歩により経費が削減され実現可能なものもある。
 その技術の制御をできる限り完全なものに近づけて安全性をいかに確保するかが課題である。原発施設には安全設備を何重にも施したというが、その装置が福島原発の場合、大地震と巨大津波で破壊され機能しなくなった。何重もの安全設備も、直列式では基の一つ(たとえば電源)が破壊されると全体が機能しなくなるから安心できない。並列式設備ならその点は大丈夫だろうが、いざという時の稼働が迅速に行かない。これらの長所と欠点を考慮して、直列式と並列式を併用して互いの欠陥を補うように設計する必要があろう。その代わり、設備費は高くなる。それでも安全対策の技術には完全なものはない。
 それゆえ、掛かる経費と安全度、事故が起こったときの被害を勘案し、エネルギー対策として原発が必要か否かを判断すべきであろう。
 そのためには、基礎科学から技術までを総動員して、事故原因も含めて、原子力技術の安全性と不完全さを検証すべきである。それなしに、原子力利用政策は立てられないし、まして既存原発の再稼働は許されない。
 
(4)本質的に不完全な科学・技術 
自然科学は本質的に不完全であり、人類は自然を完全に理解し尽くすことは永久にできない。人類にとって未知なものの存在は永遠に続くゆえに、完全な科学は存在しない。その科学の応用としての技術も当然ながら不完全である。人類が経験によって得た既存の知識では気づかぬ抜け穴が技術には必ずある、つまり想定外の欠陥がある。特に、巨大技術には、カオス的予想不可能な事故の可能性が潜んでいることを配慮すべきである。カオス現象とは、小さな原因(想定外のことが多い)が長時間のうちに増幅されて大きな結果をもたらすことである。このカオス現象により思わぬ大事故を引き起こす可能性である。このように、原発に限らず、すべての技術は本質的に不完全なのである。
 したがって、技術の安全性には限界がることを十分認識する必要がある。だが、現在の科学・技術のレベルからすれば、それに掛かる経費を惜しまなければ、原子力技術はかなり安全性を維持できるはずである。その辺の技術上の問題を整理し、可能性と限界を明らかにすべきである。それなくして、感情的な議論や、感覚的判断は危険である。
 大部以前の一時期に、コンビナートなどの建設の際に「現代の科学・技術の粋を尽くした設備であるから絶対安全だ、心配は要らない」という言葉で、しばしば設備の安全性が強調されたことがある。それらの設備も次々に思わぬ事故を起こしたので、さすがにその後はこの言葉を口にする者はいなくなった。
 だが、原発に関しては、絶対安全とは断言しなかったが、「原子力村」で安全神話を作ってその上に胡座をかいていた。安全設備の不十分さや、起こりうる事故を指摘する声には耳を塞ぎ、その声を抑え込むか、あるいは批判者を排除してきた。その結果、原子力村では、暗黙のうちに日本の原発は「絶対安全」と思い込んでいたようだ。経費節約もあって、安全性を高める研究も実際の対策にも、できる限り手抜きをしてきた。日本における「原発の安全性研究」の基本的姿勢は、安全性強化の研究ではなく、「何処まで経費を削減しても(手抜きしても)大丈夫か」であるということを、当の研究に携わっている者から聞いたことがある。
 これと本質的な所で共通したものは、原発設備の中で働く現場労働者の人間性を無視した被爆防御の手抜きである。さらにひどいのは、被爆量を低くするために、線量計(測定フィルム)を外したり、鉛板で覆ったりして被爆線量を誤魔化していることである。この事実は最近福島原発の事故現場で発覚し報道されたが、程度の差はあれ昔からなされていたことである。このやり方はまさに下請け労働者の使い捨てである。
 そして、福島の原発事故が起こったら、「想定外」の原因によるものといって、原子力村の人達は言い逃れた。「想定外」ではなく想定することを怠り、あるいは避けてきたのである。だから、この事故は、人類の、特に日本の原発関係者の、驕りの結果であり人災である。

第3者委員会で事故原因の再検討を 
いまこそ、根本に立ち返って原子力技術の安全性を徹底的に検討すべきことを、良心的専門科学・技術は揃って強く世に訴え、政府を動かすべきである。民間、政府、東電、国会の4つの事故調査委員会の報告が出そろった。報告内容は不十分であるが、折角の調査報告を活かすために、それぞれの視点のよいところを綜合し、事故原因を徹底的に明らかにする第3者委員会を立ち上げるべきである。それによって、これまでの原発政策とその運用について正すべき点を正すべきである。
 また、新たに発足した「規制委員会」が正しく運用されるには、委員会の人選が重要である。それを政府と国会に任せるのでなく、民意が反映される方法を提案し、その実現に向けて運動を展開する必要がある。そして、その後も規制委員会の運営を怠りなく監視しなくてはならない。
 これらの根本的検討と改革無くして、日本の原子力行政の将来はない。このままではまた元の黙阿弥となることは目に見えている。
 ところが、規制委員会の人事は国会の承認事項であるにもかかわらず、国会がまともに機能しないので、政府は内閣の任命で委員長と委員を選任して発足させた。しかも、その委員長は原子力村に身を置いていたと批判が出ているのにである。発足当初からこれでは先が思いやられる。「新しい酒は新しい革袋に盛れ。」

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