科学・技術と自然環境について、教育を考える。
  • 09«
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • »11
科学・技術の信頼を取り戻す教育を
科学・技術の信頼を取り戻す教育を 

3・11東日本大震災の後、科学・技術に対する信頼が失われた、という声をしばしば見聞きする。それは震災以後、日本の科学者・技術者、および政府の科学・技術行政に向けられた言葉でもある。その原因は福島原発の事故によるものばかりでなく、トンネルの天上落盤事故に象徴される技術管理の杜撰さが次々に露呈されているせいであろう。

 地震規模予測の失敗、原発敷地内の活断層調査の杜撰さ、そして「原発の安全性神話」作り、事故後の対応の拙さなど、批判されても仕方がないものが多い。原子力村の馴れ合いと隠蔽体質が明るみに出て、そこに身を置いた原子力科学者および原発関連の役所と企業への不信は頂点に達したが、それに対する根本的反省と改革は期待できない状況である。先日明るみにでた、事故調査委員会を騙してまでの東電の事故隠しのための調査妨害には、国民の怒りは頂点に達した。

 ところで、科学・技術の急速な進歩により技術の専門細分化が進み、一人では掌握・管理しきれない部門が多くなった。電化製品の修理一つ取っても、電気店では修理できず、そこから修理専門工場に持っていかねばならない。このことはあらゆる科学・技術の分野で見られる。この現象は、技術者が自分の専門技術と関連する部門について広い知識がなく、ひいては総合的な判断力の欠如につながることを意味する。土木工事についても、事後の管理は技術専門化の意見よりも、技術知識のない行政側の指導が優先されるから、点検の仕方も杜撰であった。また、技術者も現場をみて綜合的判断ができないために、事故の可能性を見逃していた。

 現在の社会制度は、科学・技術の急激な発展・進歩に対応できないまま取り残されている。20世紀以降は、科学・技術時代といわれるようになった。個人の日常生活ばかりでなく、社会的営みでも科学・技術が全面的に浸透している。行政、司法、教育、産業などあらゆる分野で、科学・技術なしでは済まされなくなっている。いまや、科学・技術は政治・経済まで動かす時代である。それゆえ、社会制度をそれに相応しいように変えていかなければならない。それには社会のあらゆる分野のリーダーとなる者は、専門化の意見を聞いて正しく判断を下せるだけの科学・技術に関する基礎知識を身につけるべきである。すでに、科学は「読み、書き、計算」にならぶ基礎教養(リテラシー)の一つである。科学教育のあり方を根本的に検討すべきである。

 そして、これまでのように文系出身者主導ではなく、科学・技術の専門家の意見を尊重するような制度を作らねばならない。そうしないと、折角の優れた日本の科学・技術が活かされず、世界の動きに後れを取る。
 この面では日本の制度は大部遅れている。そればかりでなく、真っ当な意見を述べる学者を敬遠して、御用学者を取り込む傾向があった。各種審議会や諮問委員会の人選にそれが見られる。「原子力村」がその典型である。これも科学・技術不信を招いた原因である。このような風習を早急に改めるべきである。
 専門化の意見を尊重する制度のもとでは科学者・技術者の社会的責任は非常に重いから、自らを正しく律し国民から信頼されるようにしなければならない。一般的に、日本では「長いものには捲かれろ」式に、権力に取り入ったり、「・・村」に取り込まれたりして節を曲げる傾向があるから、そのような風土も改めて行かねばならない。それは教育の問題でもある。

 好むと好まざるとに関わらず、これからの人類社会(世界)は科学・技術なしにはやっていけないから、それに対応できる社会組織を構築しなければならない。そのためには国民から信頼されるような専門家を育成しなければならない。その一助として次のことを提起したい。
 最近の大学教育は専門知識偏重であって、学生は狭いテクニカルな知識の習得のみに汲々としていて、このような社会的問題に関心が薄い。この傾向は理系・文系を問わず言えることである。大学の教養部が廃止されてから一般教養が欠如し、その上に高校からの教科目選択制のため視野が狭くなった。専門分野に埋没した「タコ壷教育」が蔓延し、その結果社会の歪みが至る所にでている。

 この「蛸壺」状態から脱して視野を広め、社会的責任を自覚させるための講義を卒業前にすべきである。専門分野の教育を一通り学んだ大学4年、あるいは大学院修士を卒業する前の半年間にそのような講義を必修科目として履修させるのでる。それまでに自分の学んできた専門科目はその分野でどのような学問的位置にあるのか、そしてその専門分野の社会的役割は何かを十分認識させる。また、科学論や科学・技術史を通して科学の社会的機能を学ばせ、科学者・技術者の社会的責任を自覚させるのである。ここで大事なことは、この講義を必修科目とし、形式的な履修に終わらせないことである。入学直後の一般教養科目と違い、専門知識を学んだ後なら、このことをよく理解できるはずである。 
 
 私は以前、一般教養科目で「科学方法論」を講義したことがある。入学直後の学生は理系・文系を含めてほとんど自然科学と科学史の知識がない。その学生に物理学中心の「科学方法論」を教えるには、初等物理学と科学史を織り込んで講義をせざるをえなかった。それゆえ、概論的で深く掘り下げたものにはならなかった。古代から東洋と西洋の自然観、思考形式、社会制度を比較しながら、それが科学・技術の論理と方法にどう反映されてきたかを話した。それでも、このような話は初めて聞いたので内容的にも興味を持ったという感想がかえってきた。
 卒業前ならば、もっと内容のある講義を効率よくすることができるはずだ。そうすれば、専門以外にも視野を広く持つことの大切さが判るだろう。そして科学・技術の社会的機能を認識し、科学者・技術者の社会的責任を少しは自覚した人間を社会に送り出すことができるだろうと思う。

 ただし、この方法のネックは、大学生は3年生から就職活動をするそうなので、落ち着いてこのような講義を聴かないだろうということである。入学時期の検討も大事かも知れないが、就職活動により落ち着いて勉強できない制度を改めねばならない。もう一つは、教員もそのような意識が希薄であるから、この講義のできるスタッフが不足していることである。その分野(科学・技術史、科学論)の現役教員や、教育経験を積んで広い見識のある定年後の元教授を非常勤講師とするなり、工夫すればできないことはないだろう。

この種の講義だけでは科学者・技術者の信頼が回復できるわけではないが、少なくともおの種の講義は大学を卒業して社会に出る前の最低限必要な教育であり、かつ大学としての義務だと思う。
スポンサーサイト
この記事へのコメント

管理者にだけ表示を許可する
 
Copyright © 2005 自然と科学. all rights reserved.