科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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湯川研究室同窓会
2007年 湯川研究室同窓会での話
 湯川秀樹・朝永振一郎生誕100周年記念式典・記念講演が京大で1月23日に催された。この機会にと、前日の夕刻から湯川研究室卒業生の同窓会がもたれた。出席者は大学院卒業生で26名が出席した。一番上は米寿に近い方から下は66才まで、いずれも定年を迎えた人達ばかりであった。
 参加者全員が一人一人昔の思い出を語った。湯川先生の学問に対する謙虚でかつ真摯な姿勢や、原爆廃絶と世界平和への強い想いを、それぞれの体験を通して紹介された。そのなかで、私の印象に強く残ったものがある。それは一般にはほとんど知られてない湯川先生の一面であったので、ここに紹介したいと思う。
 北海道大学名誉教授 田中 一氏の思い出である。普段は理屈っぽくドライな彼が、この話の最後に声を詰まらせたほどである。以下の文は、田中氏が、私の依頼に快く応じて書き送ってくれたものである。

 「湯川秀樹とアイヌの出会い」                   田中  一 

 1958年10月30日、恩師湯川秀樹先生は千歳空港に降り立った。3度目の北海道訪門である。このときは、ノーベル賞受賞者として始めての訪問で あった。北海道大学の招待を受けて学術講演を行うという目的であったが、各地 からの要諦に答えて、札幌、釧路及び旭川で幾つかの学校講演と市民講演を行なうことになっていた。北大から中谷宇吉郎、古市二郎及び私の3人が同行した。 3人とも北大理学部物理教室の教授であった。古市教授は後に北大の学長となった人である。
 この旅行全体に対して、北海道のライオンオンズクラブの大変な協力を頂いた。一行の中の一人古市教授は私に囁いた。「田中君、この歓待ぶりは大臣待遇どころではない、宮様待遇だよ」と。
 やがて、11月3日の午後1時頃旭川に到着し、それぞれ分かれて予定したところで講演したが、翌4日には湯川先生が市の公会堂で市民向けの一般講演を行なった。
 当日は最初にアイヌの人達の踊りの披露があって、やがて先生の講演が始まった。今回の講演旅行の最後にあたるこの講演は、聞いていてなかなか聞き応えのある格調高い、しかも分かり易い話であった。 
 講演が済んで、湯川先生は演壇の後方においてある控えの椅子に腰を下された。控えの椅子は二脚あって、私はその一つにずっと座っていた。この旅行中、できるだけ先生のそばに居るように努めていたからであろう。 講演後しばらくたっても拍手は鳴りやまない。このままではなんとも収まりがつかない。このような雰囲気を感じて、私は先生にこう囁いた。「先生、何かなさいませんか」。先生は直ぐさまお答えになった。「そうだね。何かするかな」。そう私に答えた先生は直ちに立ち上って演壇に向かった。
 会場は一瞬シーンとなった。先生の声が響いた。「皆さん、アイヌの人達のために万歳をしませんか」会 場の囁きの声迄も止まった。思いがけない呼び掛けに私も吃驚した。 とその瞬間、バラバラとした戸惑いの拍手、たちまち会場も割れるかと思う程の拍手になった。微笑んだ先生は声も高らかに、「アイヌの人達。万歳、、万歳、万歳」と 音頭をおとりになり、会場は腕、腕、突上がった腕で埋まってしまった。 

 翌朝 一行は札幌に向かうべくう旭川駅内の急行列車に乗り込んでふと窓から外の周囲を見渡した。そしてああっと驚いた。列車から見える道々にずらりと人々が立ち並んで私達を見送っている。服装からアイヌの人達であることが分かる。この頃旭川周辺にはアイヌの人達が多数住んでいたのである。私にはそれらの人達全員の見送りとも思えた。そういう見送りであった。 
 僕はこれら一連のことを時々思い出す。そしていつも胸に何かが込み上げてくる。


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