科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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エネルギー問題を通して思う人類の未来
 エネルギー問題を通して思う人類の未来


 18世紀における動力機関の発明のよってもたらされた産業革命以後、人類は資源とエネルギー利用を急速に増大させてきた。動力と機械技術の開発により資本主義お目覚ましい発展を遂げた。そして、20世紀の科学・技術の全面的開花とその発達は、凄まじい勢いで物質文化の発展を推し進めた。その結果、20世紀には地球の資源とエネルギーの枯渇が問題になったほどである。さらには、人類は地球環境を破壊し、地球温暖化による気象異変が起こっている。この地球環境の破壊は人類の奢りによる「地球支配の思想」によってもたらされたもので、その報いが災害としていま人類に返ってきたのである。自然からのこの「しっぺ返し」に気づき、地球の温暖化を防ごうと温室効果ガス(CO2やメタンガスなど)の排出を削減する努力を始めた。

問題の根本はクリーンエネルギー源のことではなく、エネルギー利用量の削減 
 現代のグローバル化時代では地球は一つに繋がり、その渦に巻き込まれた全人類は24時間フル稼働を続けて、休みのない激しい競争に追い立てられるようになった。それゆえ、エネルギー・物質資源の利用は急加速度で指数関数的に増大していくから、自然破壊からの反作用もそれに併行して必然的にひどくなる。
 そのためにCO2を多く排出する石炭・石油の消費を減らし、太陽光や風力の自然エネルギーと原子力発電にエネルギー源を求めるようになった。しかし、いずれも一長一短があり、その開発と有効利用には限界がある。自然エネルギーの利用の技術開発はまだ不十分で、効率よい活用には技術的に改良すべき点や社会的条件を整えるという問題がある。自然エネルギーの利用が最も安全で望ましい形態であるが、近い将来のうちにそれのみで増大するエネルギー需要を満たすのは無理のように思える。また、原発は石油・石炭のように温室効果ガスを出さず、発電コストも安いといってもてはやされ、効率よいエネルギー源としてその開発が推し進められてきた。だが、原子炉は一旦事故が起こると過酷な災害を引き起こす。チェルノブルイや福島第一原発の事故は、その恐ろしさを如実に示した。また、発電コストが低いという評価も、原子炉の廃炉、使用済み核燃料の処理、事故対策の費用を無視した評価値であり、実はむしろ高くつくことが漸く認識された。
 それでもいま、温暖化を防ぐためにと、自然エネルギー利用か原発利用かを巡り、盛んに議論されている。特に日本では福島の原発事故以後、原発の安全性神話が崩壊して「脱原発」、「反原発」の声が高くなったが、それでも地球温暖化を防ぐには原発は必要であるという主張も依然としてある。そのなかで、日本政府は原発維持と原発輸出計画を推し進めている。その政府方針に対する賛否の意見が戦わされている。反原発の声の方が遙かに大きいが今の政府は世論に耳を貸そうとしない。
 このエネルギー源をどこに求めるかを巡る議論は、地球温暖化を防ぐために、差し当たって緊急の課題ではあるが、長期的に考えるとどうも議論の方向、つまり目を向ける方向が間違っているように思える。その理由は、このまま行けば人類はエネルギーの利用量を際限なくいくらでも増大させてゆき、やがてエネルギー源の開発は限界に達して需要に追いつかなくなるだろう。発展途上国が先進国なみになれば、CO2は削減よりも排出の方は増大して、温暖化抑制は不可能である。それゆえ、クリーンエネルギーの開発はさし当たり必要だが、その方法には限界がある。それよりも人類の生活スタイルを転換させてエネルギー使用量を抑制する方策の議論が不可欠である。そのためには現在の経済体制を、ひいては社会制度をも変えねばならないだろう。行き過ぎた物質文明を止めて、生活スタイルを変えるべきだとの主張は、以前はかなり見られたが最近あまり聞かれなくなった。

グローバル化された市場での開発競争
 以前の米ソの冷戦時代には新兵器の開発と軍需産業の競争に血道を上げていたが、ソ連崩壊により激しい冷戦は幸いにして止まった。現在は資本主義の下で世界はグローバル化されて一つになった(中国も現在の経済制度は資本主義である)。交通・通信技術の発達で行動時間は短縮され、地球はどんどん狭く一つに結ばれてきた。その結果、先進国間の経済競争は激しくなり、さらに発展途上国も先進国に追い着こうとして開発競争に参加してきた。いまや世界中は科学・技術の開発競争と経済発展の競争の坩堝のなかでひしめき合っている。この状態をもたらした社会的基盤は、市場原理優先の資本主義制度である。市場経済の競争に巻き込まれたら止まることはできない。そこでの競争こ負ければ生き残れないから懸命に走らざるをえない。そのために科学・技術の開発競争ばかりでなく、経済競争では寝る間も惜しんで24時間の活動を維持しなければならない。地球の半分は常に昼だから、グローバル化された世界は24時間稼働し続けているからである。
 スピード化・便利さと物質的豊かさを求めて科学・技術は急速に発展し、先進国では物質文明の全面開花である。それによって人間の精神構造まで歪みだしているが、その中で育った若い世代はこれが当たり前の生活と思っているから、異常さに気づかずまた次の便利さを求めていく。新たに開発された技術により新製品や改良品が次々に作り出されて市場に出回るから、新陳代謝が激しく無駄が多くなる。市民は便利さを求めて生活必需品以外に多くの物を買わされている。それを買うために収入を増やさねばならず無理をして働くようになった。能率のよい機械化進んでいるのに、労働時間は短縮されるのでなく逆に長時間労働を強いられている。昼夜の区別が薄れて睡眠不足は慢性化している。
 この傾向は、規制のない市場原理優先の資本主義の下でグローバル化された世界では必然であって、ますます激化されるであろう。その結果、地球環境と人類社会は変調をきたす。毎日追い立てられるような生活の人間はストレスが蓄積されて心身ともに犯されていく。すでに、ノイローゼや分裂症など精神病患者が増えている。この行き着く先は、都会の人間の集団発狂であろう。

技術開発のみでは地球環境は救えない
 今の開発競争を続ければ資源・エネルギーはいづれ枯渇する。資源のリサイクル、エネルギー源の開発といっても限度がある。環境保全のための科学・技術を開発して危機を救うというが、その方法にも限界があって地球環境は救えない。技術はプラス効果のみでなく、必ずマイナス効果を伴うからである。原発やフロンガスなどがその典型例である。石油に替わるシェールガスも、その採掘と使用の課程のどこかでいずれ弊害がでるであろう。もう一つの例は、資源節約のための小型化である。小型化技術も一時は有効であるが、逆にその技術を利用した新製品が出現し、その大量生産によってそれ以前よりも資源の消費量が増えることもある。真空管に代わるトランジスター、ダイオードの発明で通信機器は小型されたが、ICを用いたパソコンや通信機器が氾濫した。激しい新機種の開発で、売れ残り使い捨ての無駄がひどく資源節約どころではない。これも制御のない資本主義の市場競争のもとでは必然的現象である。
 要するに、技術開発のみでは限界があり、地球環境は救えないから、人間の意識を変えて生活スタイルを転換する以外に救いの道はないだろう。新幹線よりも速い磁気浮揚リニア-モータカーは必要ないし、情報公害をもたらした情報機器もこれ以上便利な物は要らない。有り余る食料・物資の過剰生産を止めよう。もうこれ以上のスピードや便利さを求める開発競争を止めて、むしろ物質文化を抑制して精神的に落ち着いた生活にすべきである。精神文明を進めることで豊かな生活は可能であり、人類の発展進化は維持できる。そのためには政治・社会制度を変えねばならないと思うが、グローバル化時代には一国でそれを行うことは不可能である。サミットがリーダーシップをとって、その手立てを真摯に検討すべきである。クリーンエネルギー源の開発も必要だが、本質的解決にはならない。

生活スタイルと経済社会制度の転換を
 福島原発事故以来、地球温暖化を防ぐためにエネルギー源やCO2排出削減の問題は盛んに議論されるが、開発競争を止める意見や節電・省エネルギーの話は下火になったように思える。人類の未来を救うための本質的解決は、人間の生き方、社会制度(規制のない資本主義)の転換によって、無駄を省き省エネ・省資源に徹することにあると信ずる。
 グローバル化時代には、それは一国ではできないから、この意識を世界中に巻き起こさねばならない。インターネットやスマートフォンの普及は人間生活や思考法を急速に変えつつつある。だが、300年続いた資本主義社会のもとで培われた生活スタイルはそう簡単に転換はできないだろう。このような社会変革は一朝一夕では不可能であるから、早期から長期にわたり声高に言い続け、人類の意識を変えていかねばならない。
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