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『原子力とともに半世紀-森一久論説・資料集』 
日本の原子力産業に関する資料集
『原子力とともに半世紀-森一久論説・資料集』
 (森一久資料編集会)

まえがき
 森一久氏は広島に落とされた原爆で家族を失い、本人も被爆されたが九死に一生をえた。その後京都大学理学部に復学されて湯川研究室に所属し1948年に卒業した。その後、1953年ころから原子力産業会議に転身し、一生を原子力の平和利用に捧げた。東日本大震災と福島第一原発事故の前年2010年に84歳で逝去された。
 
 森一久氏が亡くなた翌年2011年の湯川研究室同窓会のメンバー2,3人の間で森氏の残された資料のことが話題になった。日本の原子力史として、秘話を含めて未公表の貴重な資料が含まれているであろうと想像した。氏の活動の場であった原子力産業協会(元の産業会議)は、その資料を整理して残す企画はないと聞いた。そこで、私が森夫人にお会いしたとき、資料をどうされるのかお尋ねしたところ、資料として活かすことができるなら保存したいが、その具体策はまだないと言われた。それがきっかけとなり、後日森夫人とのお話しで、いつの間にか私たち湯川門下の後輩3人がその任を負うようになった。だが、私たちにはいささか荷が重いので、原産時代森氏の協力者、原子力の専門家、など、の協力をえて、6人で「森資料集編集会」を発足させた。漸くこの度、この形で森一久氏の遺された論説・資料を纏めることができた。

編集の目的と意義
 1953年頃から、原子力の平和利用として原子力発電の計画が日本で動き始めた。政界と先達の科学者の一部からその声が上がり、電力経済研究所が原子力調査研究に着手した。その動きに、経団連など産業界も関心を寄せ始めた。
 他方、物理・化学の若手研究者のグループが、この原子力利用の計画を重要視して勉強会「原子力コロキウム」を行った。それを引き継いで、1954年に森一久氏らが中心になり自主的組織「原子力談話会」を立ちあげた。この「談話会」では原子力の平和利用の是非と、始めるならその条件などについて熱心な議論が重ねられた。

 丁度その頃、電力経済研究所が「原子力発電の着手を急げ」という趣旨の「建議」を発表した。それに対して原子力談話会の代表の数人が反論・抗議に押しかけ、「原爆体験からしても、平和利用といえども着手の是非についてまず慎重に議論を尽くすべきだと強く主張した。」応対にでた橋本清之助(元貴族議員)らの常務理事が、「以前軍部の独走を許した戦争責任を痛感すればこそ、日本復興への原子力平和利用の可能性を強く期待するのだ。むしろ君ら若い者こそ開発に参加して間違いない開発を目指し、チェックすべきではないか」と応じ、互いの真意を率直に長時間戦わせた。その結果、談話会側と電力経済研究所側とは、立場の違いに一線を画しながらも、世代の違いを超えて一種の共感を持つにいたった。そして、情報や資料の交換などで具体的な協力を深めていった。これが「原子力界に踏み込む第一歩であった」と、森一久氏は語っている。(『オーラルヒストリー』)。
 日本は唯一の原爆被爆国であり、また自らも被爆者として、原子力との関わりはひときわ強いと感じ,森氏は人類が原子力とどう向き合うべきかを真摯に考えていた。
 森一久氏は日本の原子力利用の開発の初期からそれに関与し、生涯原子力の平和利用に尽力した。原子力産業会議(原産)の発足から参加し、事務局長を経て最後は副会長まで務めた。その生き方は、日本のみならず国際的にも活動の場を広げ、原子力の平和利用、特に原子力発電とその周辺事業(アイソトープ、温廃水養魚など)に一生を捧げたと言えるものであった。

 また、原産を退任された後も、UCN会を設立し原子力や教育・文化などについて多面的な活動を最後まで続けた。

 日本の原子力政策、なかでも原子力発電計画の方針については、その出発点から政府(政治家)と学者との間に種々意見の対立があった。そのせめぎ合いの狭間に位置し、現実的に原子力開発を推し進めてきた原産、その中にあって実質的に原産を動かしてきた森一久氏の生涯の活動記録は原子力発電史には欠かせないものであろう。それゆえ、氏の遺された資料は、日本の原子力史にとって極めて貴重なものであるばかりでなく、国際的にも価値あるものと思われる。
 
 森一久氏が原子力産業会議を退任された2004年に、原子力産業会議が原子力産業協会に改組され、その後に原産時代の資料の一部が廃棄されたと、元秘書の方から聞き及んでいる。それゆえ、森氏の遺された原発開発記録、著書・論文、講演・記事、日記・メモ類などの各種資料には貴重なものが含まれているであろう。

 日本の原子力政策は、原子力の平和利用に徹することを掲げてきた。だが現実は、政府と産業界の経済性優先の施策に押されて原発開発を急ぐ余り、安全性に関しては杜撰なところがあった。それゆえ、政府と原子力業界の体質には批判されるべき点が多々あるだろう。

 原子力産業会議の要職にあり、政界や財界に囲まれた「原子力ムラ」の中に身を置いた者は、初期の信念を曲げてその渦中に巻き込まれがちであるが、森一久氏は節を曲げず初心を貫き通したといえるだろう。氏は原子力の平和利用の理想像を求めて、原発推進派の一人として積極的に活動し続けた。そのなかで、批判意見には耳を傾け、原子力ムラの体質に抗して苦言を呈してきた。だが今にして思えば、その積極的推進活動には批判される点も少なからずあろう。いずれにせよ、誠実かつ几帳面な人柄と私利私欲を離れた活躍を思えば、氏の遺された記録には粉飾や偽りはないと信じる。それゆえ、他に見られない真実が語られていると思う。これが森氏の資料の整理・保存を思い立った理由である。

 不幸にして東日本大震災に伴い福島第一原発の過酷事故が起こり、計り知れぬ被害をもたらした。この事故を境にして、これまでの日本における原子力発電の政策が根本から検討を迫られている。今日までの日本の原子力政策の当否を判断するに当たって、この事故原因をつぶさに検証したうえで結論をだし、今後の原子力発電の方針を立てるべきである。そのためにもこの記録を整理し纏めておくことは有意義なことであると思われる。
 福島第一原発の大事故を契機にして、日本の原子力政策は根本的に検討し直すことが強く求められている。森氏はこの事故の前に逝去されたので、この原発事故とそれまでの原発政策に対する判断を直接聞くことができないのは誠に残念である。存命であったなら、おそらく忸怩たる思いで心痛と怒りを吐露されたことであろう。

 私たちの非力ゆえにエネルギーと時間が足りず、残念ながら、取りあえず資料の散逸と破損を防ぐべくこのような形式(215ページ)で目録の作成と整理に止めざるをえなかった。後日に科学史家が日本の原子力史を編纂する上で、これらの資料がそのお役に立てば幸いである。
(「まえがき 森一久氏の遺した資料を保存するにあたり」より抜粋)

資料編集会
代表 菅野禮司:大阪市立大学名誉教授、湯川研究室卒業
曽我見郁夫:京都産業大学名誉教授、湯川研究室卒業
高田容士夫:会津大学短期大学部名誉教授、湯川研究室卒業
井上 信:京都大学名誉教授、元京都大学原子炉実験所長 
喜多尾憲助:放射線医学総合研究所名誉研究員、元原子力産業会議
藤原章生:毎日新聞編集委員

追記:この「原子力とともに半世紀 森一久論説・資料集」が欲しい方はご連絡下さい。実費と送料込み3,000円で送りします。
連絡先:メール rsugano@feel.ocn.ne.jp
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