科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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文化としての科学を! 
文化としての科学を! 

 現代は科学・技術が人文科学に比し突出して発展し、物質文明に対して精神文明が非常に遅れている。そのために、科学・技術の社会的機能に歪みが生じ、いろいろな軍事利用、原水爆開発や環境破壊などのようにいろいろ弊害がでた。 それゆえに、科学・技術のあり方に対して批判的意見がでている。その意見にはもっともな論も多いが、科学と技術を区別せず一纏めにして「科学」を攻撃する的外れのものも多い。

 自然の存在様式や運動の法則それ自体の中に価値は存在しない。人間も自然の一部であるから、科学も自然現象の一部に含まれる。「自然科学は自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動である」というのが私の科学観である。科学が自然現象の一つであるならば自然科学自体に使用価値はない。科学の使用価値は人間が技術を通して社会活動において創り出したもので自然自体にはない。科学は技術を通して善用・悪用のいずれにも利用可能であるが、科学理論自体にはどちらに利用し易いということはない。それゆえ、科学は使用価値に関して「価値中立」である。

 科学の目的、つまり社会的機能には2つある。自然の仕組みを解明する「知」の体系としての存在意義、および技術への応用である。前者は精神文明への寄与、後者は物質文明への寄与である。本来、科学は文化の一形態であり、精神文明の形成に不可欠である。

  「真善美」は古代から最も崇高なものとして求められてきた。科学的知はこの「真善美」の「真」の探求の成果である。「科学知」の理論形式は美しく「美」でもある。その意味で科学は価値を有する。技術として役立つことを主体とする科学ではなく、これからの科学は、真善美と一体となる精神文明としての科学、思想としての科学が求められる。そのためには基礎科学をもっと重視すべきである。

 自然科学は本来自然哲学であった。今また科学と哲学との共生が求められている。哲学との共生がなければ、精神文明としての科学、思想としての科学は存在しえない。その様な科学は、資本主義社会では、技術の下僕となる。現代では、科学は国家の支配下にあり、技術の下僕となっている。この状態を脱して、「思想としての科学」の復権を唱えたい。 以前、私は拙著『科学は自然をどう語ってきたか』(ミネルヴァ書房)で「精神文明としての科学の復権」を主張した。

 今年度のノーベル医学・生理学賞の受賞者大隅良典氏は、基礎科学を重視し、「科学が文化として受け容れられる社会を望む」といわれた。この思想に強く共鳴する。

追記:
 近年、大学と防衛省との共同研究が増えている。大学や民間企業へ防衛省から共同研究の誘いが急増し、予算も増えている。
学術会議でも「軍学共同研究」を巡ってその可否が盛んに議論されているが、反対意見が大勢をを占めている。

 その議論のなかで、「科学・技術の2面性(デュアルユース)」が問題になっている。上記のように、科学は技術を通しての利用価値に関しては中立である。それゆえにこそ、科学者は科学理論が悪用されないように監視し発言せねばならない。それが科学者の社会的責任である。「科学の価値中立論」は科学の利用につい科学者は無関心であることを許すわけけではない。
  科学が平和と人類の幸福に貢献し、悪用を阻止できる社会こそ文化国家であり、そのような社会でこそ「文化としての科学」となりうる。
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