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科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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自然・人間・科学:自然との共生のための科学
自然・人間・科学:自然との共生のための科学

  自然を支配し、人類のために自然を利用するという、かつての行き過ぎた思想による科学・技術の反省から、自然との共生を目指す科学・技術が求められている。以下の考察は、科学と技術を区別し、科学について論ずる。
 
 人間は宇宙進化の過程で生まれたものであり、人間も自然の一部であるから、「自然科学は自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動」ということになる。 
 人間の思考も、自然認識の行為も自然現象の一部である。したがって、自然認識という行為(科学)も自然現象の一形態である。それゆえ、科学研究において、自然と人間とは相互依存的存在であり、いずれが上位とか下位ということではない;
                     自然 ~ 人間
  それに対して、キリスト教の「神―人間―自然」という階層的自然観は、神が人間と自然を創生し、神に仕える人間のために自然が在るとみなす。この自然観によれば、人間は自然よりも上位にあることになる。すると、人間は自然の外に立って自然を対象化して自然を認識するという姿勢となる。それが嵩ずると、科学・技術の力で自然をコントロールしようとする意識、すなわち自然支配の思想が生まれる。

  しかし、自然科学は自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動という科学観に立つならば、人間が自然の外に立ち「自然を対象化」して(同列とみなさない)自然を認識するという態度ではなく、自然を内から共感的に認識するという姿勢になるだろう。「内からの共感」とは、科学者の精神的姿勢にかかわるもので、何を探究するかという研究課題の選択に留まらず、科学の方法にも及ぶ。観察・実験にしても、自然を破壊するような方法、手段は取るべきではない。つまり自然に答えを強要するのではなく、穏やかに問い掛けるような方法でなされる。たとえば、原水爆実験、自然環境に影響する様な遺伝子操作などは排除されるということである。この科学観こそが、自然との共生のための科学に導くものであると思う。

  この科学の規定によれば、自然科学は自己言及型の論理であるから、ゲーデルの不完全性定理により、科学は原理的に不完全である。人間はいかに逆立ちしても、自然の外に出ること、つまり自然法則を超えることは不可能である。その意味で、人間は自然界における特別の存在ではない。この人間の限界を自覚するならば、自然の内に在って、自然法則に従い、自然と共生せざるをえない。それに反して、無理に人工的に自然を乗り越え、コントロールしようとすると、痛いしっぺ返しがくる。

存在の理法: 相互規定的自然の仕組み
  この自然界におけるすべての存在(物質、時空、エネルギー、エントロピーなど)は、何らかの形式で相互に関連し合っていて、単独に独立した存在ではない。個々のものは相対的自立性を保つと同時に、相互連関の内に存在していることは明らかである。それらは相互前提的に対立物として存在し、相互依存の関係にあることが、全ての存在の基本的形式である。
さらに、それらの存在様式そのものが、互いに持ちつ持たれつの相互依存によって決まる。つまり、「存在の理法」は相互規定的構造になっている。全ての現象で「作用-反作用の法則」が成立していることからも、物事が相互依存の関係にあることは明らかである。だが、そのことはそこに存在するものが相互作用を通して相互に反映しあっていることを表現しただけであって、存在様式そのものが本質的に相互規定的構造にあるというのではない。ここにいう存在の理法の相互規定性はもっと強く本質的である。その典型は、宇宙の時空構造と物質分布の相互規定性である。
人間が共感によって自然を認識すべきであるというのも、この人間と自然との相互規定的関係に根ざしていると思う。

  東洋の自然観の「自然論」は、自然の運動・変化は「自ずから然る」「なるべくして成る」というものである。この思想は、「自然はなるようにしかならぬという達観した態度」であり、悪く言えば、それ以上自然の仕組みや法則を深く追求することを止める、思考停止の姿勢である。この自然観からは近代科学的な法則概念は生まれないだろう。しかし、見方を変えて、現代的な自然科学の法則観に立てば、自然には自己組織化、自己発展の能力が備わっていて「自ずから然る」という観点、すなわち複雑系科学の自然観になる。
  自然自体、および自然の部分系としての物質系(物質と時空からなるシステム)には自己運動、自己発展する能力が内包されている。ある一定の条件(構成要素の数、相互作用の種類、境界条件など)を満たす物質系には自らの内的相互作用によって起こる運動変化により、新たな質や機能が発現する。この己組織化、自己発展を創発(emergence)という。これが自然の進化力であり、その原理・法則を追求するのが複雑系科学である。
自然界の創発はいかにして起こり、いかなる方向に進むのかそれはまだほとんど分かっていない。生物の進化は、突然変異と自然淘汰によるのではなく、内的条件と境界条件(環境)に規定され、自然環境に適合した創発(適応的自己組織化)によるものと思われるが、自然進化の方向もそれと同じメカニズムによるものであろう。
創発の機構を科学的に解明しようとしても、科学の不完全性により、完全な解明は不可能である。だが、完全な解明は不可能でも、できる限りその真相に近づくことは可能である。

自然(宇宙)の自己実現
  自然(宇宙)はその内的能力により、開闢以来次々に新たな組織や機能を自ら生みだしつつ進化してきた。それは、「自然自体の自己実現」の過程といえるであろう。だが、その創発の方向は、何かある目的が定まっているわけではない。
 では「自然の自己実現」とは何か。自然(宇宙)の生成時に、自然に備わっていた内的条件(時空的、物質的条件)と境界条件により、その創発能力は定まる。その創発能力が発揮されて、いかなる方向に宇宙は発展進化するかは、外的条件(境界条件、環境)にも規定される。そして、創発の発現形態(様相)はその時々の内的・外的条件により定まるから、前もって予定されたものではない(初期条件で決まる必然的決定論ではない)。

  自然(宇宙)に具わった創発能力を十全に発揮して、自己発展(進化)しうる限界状態(最適応状態)を実現することが、自然の「自己実現」だといってよいだろう。このような創発による自己実現は目的論のように前もってその目標が定まっていないゆえ、発展過程の途中の状態でも、その時々で自己実現の過程にあるわけである。(人間が先祖から受け継いだ自らに備わった能力をもって、環境に適応して自己実現するのと同じ。)

  自然の一部である人類の営為も、この自然の自己実現の一環である。科学は自然の自己発展の原理と仕組みを解明し認識するものであるが、「科学は自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動」であるから、その科学活動は自然の自己実現の様相と仕組みにマッチしたもののはずである。したがって、「自然科学」は、自然を対象化し切り離して、人間の欲望に従って、自然に関する知識を切り取り利用するのではなく、自然の自己実現の過程に繰り込まれていることを意識しつつなされるべきである。これが「自然との共生」のための科学の姿であろう。
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