科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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[原爆下の本因坊戦」 囲碁を文化と世界平和の使節に!
「原爆下の本因坊戦」
囲碁を文化と世界平和の使節に!




はじめに 
 囲碁は単なるゲームではない、「一種の文化である」という言葉はしばしば耳にするでしょう。昔から文化人の嗜みとして「琴棋書画」があげられてきました。「棋」はいうまでもなく「囲碁」です。「文化としての囲碁」には、礼儀を重んじ、人々の和を作り、智を磨くことで立派な人格を育成するという意味が込められたいるでしょう。また、ゲームとしても人類が生み出した最高の知的ゲームだとの評価があります。
 囲碁は文化というだけでなく、囲碁は人類にとってもう一つ重要な役割を担いうるものと思います。その役割というのは、囲碁が近年つとに国際的に普及し「世界的ゲーム」になったので、囲碁を通して人の和を造り世界平和の基礎を築こうというものです。

 昭和の囲碁界における重鎮の一人、瀬越憲作八段は「人類の垣根を越えて、心を交流し、平和を築く、それが碁の心であり、道である」と常々強調し、実践されました。その意思を受け継いで、囲碁を世界平和に活かそうとの気持ちは、日本の囲碁界に今も強く引き継がれています。
 「碁と文化」、「囲碁と平和」を象徴する最も強烈な事件は、第2次世界大戦の終戦間際に打たれた本因坊戦「原爆下の対局」です。「本因坊」は当時最も権威ある唯一の囲碁タイトルでした。

 最近、アメリカ大統領オバマがプラハで歴史的な講演をしました。
 「米国は、核兵器国として、そして核兵器を使ったことがある唯一の核兵器国として、行動する道義的責任がある。(中略)今日、私は核兵器のない世界の平和と安全保障を追求するという米国の約束を、明確に、かつ確信をもって表明する 。」
 この宣言により、核兵器廃絶の機運が世界的に盛り上がってきました。この機会に、あの「原爆下の対局」をもう一度思い起こして、「核廃絶と世界平和」を直接オバマ大統領に、また世界にアピールしたいという思いが、囲碁雑誌『囲碁梁山泊』の仲間につのってきました。
 そこで、「原爆下の対局」とその後における対局者たちの活動を紹介し、この人たちの平和を願う強い意思を世界に広めたいと思います。
 
原爆下の対局 (以後敬称略)
 現在では囲碁のタイトル戦は沢山ありますが、第2次大戦中は「本因坊戦」が唯一のタイトル戦でした。その時のタイトル保持者は橋本宇太郎本因坊でした。昭和20年(1945年)は、そのタイトルを争う第3期本因坊戦が行われる年であり、その挑戦者は岩本薫7段に決まりました。本因坊戦は日本棋院の主催という形になっていましたが、スポンサーの毎日新聞が実質的主催者でした。しかし、敗戦濃厚な時勢に、もはや囲碁どころではなく、新聞の囲碁欄さえあるかないかという状況でした。

 それにもかかわらず、瀬越憲作は「本因坊の灯を消してはならない」本因坊戦だけはなんとしてもやらねばならぬと考えて準備を進めました。しかし、日本棋院はその年の5月にすでに空襲で消失していましたから、対局場が問題でした。瀬越は広島に疎開していたので、日本棋院広島支部長の藤井順一(藤井商事社長)に協力を依頼しました。藤井の快諾を得て広島市内の彼の別邸で6月から6番勝負を行うことになりました。敗戦濃厚で物資が乏しいなか、藤井はあらゆる手を尽くしてこの対局の関係者を心から歓待する準備を整えました。ところが、当時の広島県警の第一部長青木重臣は、危険だから広島での対局はまかり成らぬと猛反対をしたそうです。このことが結果的に幸いしたのです。

 両対局者も承知したので、いよいよ対局の運びとなったのですが、空襲のために汽車は途中で止まり、東京からの岩本は広島到着が非常に困難でした。そのため対局は延期されて、3回目にやっと2人が広島に揃うことができました。第一局は藤井邸で、7月23,24,25日の3日間行われ、岩本の白番5目勝ちでした。この間、米軍艦載機が市内を機銃掃射し、対局場の屋根も壊れるほどの危険な状態でしたが、対局者も観戦者も防空壕に避難することなく、この対局を打ち終わったそうです。両対局者は当時を振り返って次のように述懐しています。

 「2人ともまだ40才前後であるから、藤井さんのいうようにこのまま死んでも本望というわけにはいかない。さりとて、羽織袴の対局者が真っ先に飛び出すわけにもいかず、とうとう3日間やせ我慢をして打ち終わりました」と、正に命懸けの碁だったわけです。
 第一局目の時は、猛反対の青木部長が東京に出張したので、その留守に藤井邸で打たれたのですが、青木が帰ってきてそれを知るとかんかんになって怒り、対局場を郊外に移動することを厳命しました。
 懸命に対局場を用意してくれた藤井に詫びて、五日市吉見園の島脇勘市(中国石炭社長)の事務所で打つことになりました。対局は8月4,5,6日の3日間。6日の朝、8時過ぎ、空襲警報も解除されたので、始めようと前日までの手順に従い石を並べました。
 「その時、空に一機の米軍機。あれは偵察機らしいから大丈夫だろうと話し合っていると、落下傘が高い空からきらきらと光りながら降りてくる。(中略)

 そのうちに飛行機の姿が見えなくなり、同時にピカッと閃光が広がった。写真を撮るためのマグネシウムをたいたみたいに、対局場が真っ白になった。
 なんだろうと見ているうちに、広島の上空に入道雲のようなものがむくむくと持ち上がる。気がつくと、異様な物音が轟々と迫ってくるようだ。あれっと思う間もあらばこそ、わたしたちの部屋に突っ込んできた。
 我に返ったとき、私(橋本)は庭の芝生に突っ立ていた。急いで部屋に引き返すと、瀬越先生は畳の上に茫然と座り込み、岩本さんは碁盤の上にうつ伏せになっている。なにもかも吹っ飛んでいた。窓ガラスは全部こわれている。
 大変な爆弾らしいということは想像できたが、広島市内の様子はまだ判っていない。部屋をあらかた取り片づけ、午後になって再び盤に向かった。対局3日目で、局面はすでに寄せに入っていたから、そう長い時間はかからなかった。私の白番5目勝ちになった」(『囲碁専業五十年』より)。

 囲碁が終わった頃、対局場の前を原爆で傷ついた被災者たちがぼろぼろに焼けただれた衣服で通り始めたそうです。その有様は時間とともにひどくなり、地獄絵と化していきました。広島市内の被害は筆舌に尽くしがたい残酷無比な状況であったことは、周知のことなので改めてここに記すまでもないでしょう。

 瀬越憲作は三男と甥を失い、爆心地近くの藤井一家はもちろん、広島支部役員たちも全部亡くなりました。これはただ事ではないことがわかり、第三局は中止になりました(この後は戦後打ち継がれた)。

 第二局目の対局場は爆心地から10キロメートルほど離れていたので、瀬越や対局者は奇跡的に命拾いをしました。対局を郊外に移動させた青木重臣は期せずして命の恩人となったわけです。
 軍部はこのときの爆弾を「新型爆弾」とだけ発表したので、原子爆弾であることの真相は終戦後に知らされました。

 「火の玉宇太郎」といわれた橋本の述懐。「どうしてわたしたちが、そういう危険きわまりない情勢下で碁を打ったか。新聞社から対局料が出るわけではない。すべて手弁当か愛好者の好意によっていた。だから生活のためではないことははっきりしている。『われわれは棋士である』という意識。棋士である以上は、自分の都合だけから、あるいは環境や状況が悪いからというような理由で対局を避けるわけには参らぬ。いわんや、本因坊戦の挑戦手合いという重要な碁です。少々の無理や困難があっても、それをやるのがわたしたちの責任でもあり義務でもある・・。こういう考えが、意識するしないにかかわらず働いたのでしょう」(『囲碁専業五十年』より)。まさに「棋士の一分」です。
 この壮絶な本因坊戦は、囲碁史の一ページとして永久に残るでしょう。いや残し、語り継がねばなりません。

囲碁を通して世界平和を! 
 危うく命拾いをしたこの人たちは、瀬越憲作の意思を継ぎ、平和を願って囲碁を世界に普及することに熱心に取り組んだのです。とくに岩本は、それ以後の生涯をそのことに捧げました。
 岩本薫の述懐、「これ以降、私の人生観は変わったと思う。いっぺん死んだのだ。どうせ死んだものなら、これからひとつ碁会のために尽くそうではないか。そんな気持ちを抱くようになった。」(『本因坊薫和選集』)
 その言葉通り岩本は、囲碁普及を通して世界平和へ貢献するという瀬越の情熱を受け継いで一生を捧げたのでした。「橋本君を見て思い出すことは、瀬越師の囲碁の普及への強烈な信念である。八十路を越えて、私は瀬越師のことがなおさら思い出されるのである。人類の垣根を越えて、心を交流し、平和をきずく、それが碁の心であり、道である、というのが瀬越師の信念であった。そうした瀬越師の心を思いつつ、私は海外各国に囲碁センターをつぎつぎ建設し、それを拠点に国際普及をはかることがわれわれ碁にたずさわるものの使命であると思う」(岩本薫「風雪七十年」より)。

 囲碁の品格は、心、技、体の見事な調和のなかで鍛錬し磨き抜かれた芸をぶっつけ合うことによって生まれる高い緊張感に満ちたリズム、この格調は歴史の中で棋士たちによって築かれ、それが伝統として受け継がれてきたものだと、岩本は述べています。 橋本も師である瀬越憲作の意思を継いで活動しました。囲碁に関しては「天才宇太郎」、「火の玉宇太郎」といわれた棋士ですが、人柄は温厚で囲碁の普及と平和を願う気持ちは人一倍強かったそうです。橋本の弟子、関西棋院の宮本直樹九段も師の心を体して、常々言っています「囲碁は平和のための使節です。世界平和には碁が一番いいと信じます。だから平和の時代に囲碁は最も盛んになるのです。」

 「原爆と囲碁」の奇しき因縁は、「囲碁と平和」を一層強く結びつけたように思えます。
 このエピソードに登場する人たちばかりでなく、戦後日本の多くの棋士が、またそれを支えてアマチュアが、アジアをはじめ世界各国で普及活動を続けてきました。その努力が実っていまでは囲碁は世界ゲームとなり、文化・平和の使節の役割を立派に果たしていると言えるでしょう。

文化としての囲碁 
 戦後間もなく、9月に「週間朝日」が囲碁を取りあげました。食べる物にこと欠きやっとその日を暮らしていたときに、人々は健全娯楽として、かつ文化としての囲碁を求めたのでしょう。延期になっていた「本因坊戦」の再開を機に、新聞の囲碁欄もその年のうちに復活しました。対戦の結果は2勝2敗で日本棋院のあずかりとなりました。

 囲碁は別の名を「手談」といいます。「手談」とは、言葉は通じなくとも、対局者が碁盤の上に黒石と白石を交互に一手ずつ打つことにより、自らの意思と相手の意図を互いに読み取ることで心が通じ合う、というところから生まれた呼び名です。

 「昔とちがって海外での普及活動もずいぶん楽になった。第一の理由は、わが国が経済大国にのし上がり国際的地位が向上したことがもちろん大きいが、囲碁そのものが一つの文化、芸術として見られている点である。この「囲碁は芸術である」という響きはどれほど私の胸に一種の感動となってしみ通ることか。これは囲碁が神秘的なゲームであることだけでなく、なにか奥深い哲理を含み、しかも人間同士の心が言葉なくても交流しあうという不思議な親和力をもっているからではないか」(岩本「風雪七十年」より)。 

 昔から囲碁の効能に「囲碁五得」というのがあります。いわく、「得好友、得人和、得教訓、得心悟、得天寿」。これこそ囲碁が文化と友好平和の使節として相応しいものであることを示すものでしょう。

 「文化としての囲碁の品格」、「平和の使節としての囲碁」を是非もう一度見直して欲しと願い、この一文をものしました。
 
 最後に、筆者の思いに共感して、関係資料や思い出話を快く提供してくださった宮本直樹九段に感謝します。
 
            参考文献
・志智 嘉編『風雪の記録:橋本宇太郎勝負碁二十番』囲碁新潮(昭和43年9月)   「私の履歴書」
・橋本宇太郎著『囲碁専業五十年』至誠堂(昭和47年2月)「いわもと」
・関西棋院監修『橋本宇太郎の世界』山陽新聞社 (昭和59年)
橋本宇太郎「原爆の下で」、岩本薫「風雪七十年」
・橋本宇太郎対話講座『囲碁一期一会』難波塾叢書48、(平成4年)「原爆下での対局」
・岩本薫著『囲碁を世界に(本因坊薫和回顧録)』講談社 1979年
・岩本 薫著『本因坊薫和選集』岩本薫先生棋譜編纂会(平成7年9月)「囲碁人生九十 年薫和随想」

付記:
岩本薫 国際囲碁普及に貢献
 1945年の東京大空襲による日本棋院焼失時には、自宅を仮事務所にするなどして、瀬越憲作らと日本棋院復興に尽力した。1958年に訪米、続いて1961年からアメリカに1年半滞在してから海外普及に情熱を注ぎ、アメリカ・ヨーロッパ各国・南米等を訪問して囲碁の指導と普及を行った。
 1975年にロンドンに囲碁会館を建設。1986年、囲碁「薫和サロン」ビルを日本棋院に寄付し、それを売却した5億3千万円を資金として岩本囲碁振興基金を設立。1989年にはサンパウロに南米囲碁会館を建設、1992年にアムステルダムにヨーロッパ囲碁文化センター、1995年にシアトルとニューヨークに囲碁会館を建設するなど、世界各地での普及に尽くした。ヨーロッパ囲碁文化センターの日本間は「薫和」と名付けられている。
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