科学・技術と自然環境について、教育を考える。
  • 05«
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • »07
「豊かさ」とは
   「豊かさ」とは何か

 
最近、科学・技術の発展により物質的な面で生活は随分豊かになったが、しかし環境破壊や精神的ストレスが増して、人間として本当に豊かな生活と言えるか、との反省がなされるようになってから久しい。


 だが「豊かさ」とは何かと、問われると漠然としていて明確には答えられない面がある。「豊かさ」の感じ方には主観が入り、同じ状況に居ても豊かと感ずる者もいるし、感じない者もいる。確かに「豊かさ」というものは人により違い明確に定義しにくい。しかし、現代社会の生き方に不満や危惧を抱く人が増え、本当の「豊かさ」とは何かを問い、それを求めるようになったているからには、やはり「豊かさ」にも共通の認識があり、客観的要素と尺度が有るはずである。心理現象ですら心理学として科学の対象になるのであるから、社会的現象である「豊かさ」の概念も不十分ながらも定義できるはずである。人間として本当に豊かな生活が送れる社会を作るためにも、「豊かさ」の概念を一度はっきりさせ、共通認識をもてるようにする必要があるだろう。

 そこで「豊かさ」の定義を試みてみた。生活の満足度、豊かさの感じ方は個人により異なるし、社会的、自然的条件により相対的と成らざるをえない部分があるが、それらの条件になるべく依存しないように、できるだけ客観的定義を試みた。

 まず、心身ともに豊かであるための前提は、社会の平和と健康である。
その上で、「豊かさ」とは、個人的かつ社会的生活において精神的・物質的自由度の度合い(程度)と、生活に必要不可欠な拘束度の度合いとの比率が大きいことである。この比率が大きいほど、一般的に「豊かさ」は増す。 要するに人間生活を送るに最低必要な拘束(制約)が少なく、精神的にも物質的にも自由度が大きい程豊かさが増すと言うわけである。この「自由度」は「可能性の程度」でもある。

 具体的な例で言えば、一日のうちの自由時間(余暇)と拘束時間(労働、睡眠、食事など)との比率が大きい方が豊かである。また経済面では最低生活費(衣食住費)が拘束であり、エンゲル係数が小さい程経済的自由度は大きく豊かである。他方、精神的豊かさは思想の自由、教育及び文化的娯楽の享受の自由度、物質的には要求に応じて入手できる自由度、つまり欲望充足度が大きいことである。
 
 しかし、個人の欲求の充足度は社会的に制約される。お互いに迷惑を掛けない範囲で個人の自由度を最大にできる条件の備わった社会は豊かな社会といえる。その条件は社会の技術水準や生産力、あるいは自然環境にも依存する。労働と文化・娯楽の選択の自由度にしても、遊んでばかりいると精神的に充たされず、仕事をしたくなるから暇が有ればよいとばかりはいえない。昔は「晴耕雨読」が精神的・物質的に満足な生活の例とされた。現代社会では精神文明・物質文明が進み複雑であるから、「晴耕雨読」だけでは計れないが、やはりこれは豊かさの基本であろう。 

 人間も自然の一部であるから、人間の思うままに自然を変えることはできない。自然との共生、環境破壊のない範囲に人間の活動は制約される。しかし、生物は生きている限り自然に作用し(利用し)、その結果自然を変えざるをえない。
 だが、人類は自然を自然に働きかけうる自由度(余地)には限度がある。その自由度(余地)が大きいほど、また、あるがままの自然を享受できるほど、自然の豊かさに恵まれているといえる。人口の稠密度、環境破壊度が増せばその自由度と自然の恩恵は減る。

 この様に拘束度と自由度の判断は個人の主観や判断に依存するばかりでなく、個人的条件(健康度、能力など)、経済的・技術的条件、あるいは社会的・自然的条件などにも依存する。しかし、それらの条件を考慮して適用すれば、この「豊かさ」の定義は客観的基準となり、有効であろう。

 昔(19世紀頃まで)は地球は無限としてよかったが、現代では有限であることを強く認識させられる。物質的に豊かになろうとして無闇に生産力を高めると自然破壊に繋がるから、それ以上の物質的欲求は制限される。他方、技術開発によって自動化、高能率化が進めば一日の労働時間がそれに反比例して減るわけではない。逆に機械化、自動化が進んで便利になればなるほど、社会全体の仕事量は増える。その機械が発明される以前には無かった仕事が生じ、関連する仕事の量がそれ以上に増す場合が多いからである。

 たとえば、新幹線ができてから、人々はいかに忙しくせき立てられるようになったか。携帯電話によって会社人間は24時間拘束されるている。能率は上がったが多くの人たちは余暇が増えてない。コピー機ができてから以前は無しですました資料のコピーを必要以上にして配布したり、ファイル保存をするようになった。コピーの手間、紙の製造からごみの処理まで含めてどれほど社会の仕事が増えたことか。この状況は社会的な拘束度が増したことを意味する。昔子供の頃、「君らが大人になる頃にはロボット時代になり、半日以下の労働で済むようになるだろう」、その結果、「人間はその余暇をどう過ごすかが問題となるだろう」と聞かされたものだ。だが現在の日本ではむしろ「過労死」が社会問題になっている。

 格差の酷い今の社会にこの「豊かさ」の基準を当てはめえてみると、いかに社会が歪んでいるかがわかる。このままでは精神的豊かさどころではない人がどんどん増えていくであろう。

 近代以後、現代社会の人類は自らを追い立ててストレスの多い不自然な状態に遮二無二突っ走る狂気の集団となり、加速度を付けて自滅の道をひた走っているように思える。各国は常にある程度の経済成長を維持しなければ不況になり経済的危機となるという。経済成長は永遠に続けられるはずはないから、このような経済の仕組みは変えなければならないだろう。

 もうこの辺で軌道修正し、この様な状態から脱して自由度を残したゆとりのある「豊かな」生活を求めるべきである。能率や便利さを追い続けることや、飽くなき物質的欲望を求めることを止めて、人生の価値観を転換すべきである。 それには「知足」が必要である。

 (この定義は10年程前に書いたものであるが、今また思い出して加筆したものである。)
スポンサーサイト
この記事へのコメント

管理者にだけ表示を許可する
 
Copyright © 2005 自然と科学. all rights reserved.