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科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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市民的教養としての科学知識の必要性

市民的素養としての科学教育の必要性
 

       
 人間社会において科学の役割は二つあり、技術を通して実生活に役立つのみでなく、自然観や思想形成という精神文明の一環としても重要である。 
 現代社会では、私たちの生活は科学・技術の成果にすっかり取り囲まれている。そして、科学・技術は政治経済を動かすところまで力を持ち、精神的にも物質的にも人間生活と社会制度を強く規制するようにさえなった。そのために、逆に科学・技術は政治のコントロールを直接受けるようになった。今や、科学・技術はそのあり方、研究開発、およびその活用法などを、一部の専門家にのみ任せておくには余りにも大きな存在となり、広く全市民の問題として自然科学は私たちの前に横たわっている。したがって、科学の基礎知識は「読み、書き、計算」と同じように、市民的教養(リテラシー)として欠かせなくなっている。このような状況を正しく捉えた科学教育として「市民的素養としての自然科学」が求められていると言えるだろう。

 衣食住、医療、資源・エネルギー、環境問題などの面で、皆の協力で社会的に解決すべきことや、個々人が自ら身を守らなければならない危険な問題が多く発生している。他方、科学・技術の社会的機能が大きくなったばかりでなく、その発展テンポが速く、かつ規模も巨大化しているので、危険な事態が発生してから対策を講じたのでは遅すぎることは、これまでの公害問題を見れば明らかである。したがって、科学・技術の適切な影響評価が必要であり、そのために自然科学と社会科学を横断する総合的科学が必要である。strong>科学・技術の力が社会で巧く機能するためには、科学者や技術者ばかりがそれを学ぶのでなく、文科系の人にも科学の基礎知識が必要である。むしろ政治、行政、司法、教育、産業、さらにマスコミなど広範囲の分野で知的労働に携わる人たちが、科学・技術の社会的機能とその影響について誤らない判断ができる基礎知識を必須とする時代である。

 だが、これらの分野の大多数の人たちは文科系の出身である。これまでの文系学生の多くは理科嫌いで、自然科学の基礎知識すら学んでない者が圧倒的に多い。そのために、日本の科学・技術に関連した政策の多くは欧米の模倣か追随であり、そして、問題が深刻化するまで対策を立てられないことが多かった。

 しかし、これからは専門家の意見を聴取し、自ら判断して方針を立うるだけの科学の基礎知識がこれらの人たちに望まれる。したがって、文系の人に科学教育をいかに行うか、その体制と教育内容を真剣に検討すべきである。また、生涯学習の一環としても、大学やマスコミの市民講座などで市民的素養としての自然科学をもっと開講すべきである。

科学・技術の社会的機能を歴史教育に!
科学・技術の社会的意義を歴史教育に!                    

科学・技術の社会的機能
 19世紀以降、科学・技術の社会的機能は次第に大きくなり、20世紀には人間生活のあらゆる分野で重要な役割を演じている。この傾向は今後ますます増大するであろう。科学・技術は人類の生活を豊かにするという正の効果ばかりでなく、自然環境の破壊や人間の精神的荒廃をもたらすという負の作用もある。
 いずれにせよ、人類文明の発生以来、科学・技術の成果は、私たちの生活を精神的にも物質的にもすっかり変えてしまった。さらに、社会制度にも大きな作用を及ぼしてきたことは明らかである。特に、近代科学の成立と産業革命は資本主義社会の誕生と繁栄には不可欠であった。また、原子力技術(産業と兵器)や宇宙開発などの巨大科学・技術は国の威信に関わるようになり、精密科学・情報技術を含む先端的科学・技術は一国の命運を左右するようになった。それゆえ、今や政治・経済は科学・技術によって動かされているといっても過言ではないだろう。
 それにもかかわらず、歴史の教科書(世界史でも)で、科学・技術の社会に及ぼしてきたその影響にほとんど触れていない。このことは大変不思議である。科学・技術の影響なしに、人類のまともな歴史が語れるとは思えない。
 近代以後のみでなく、古代からの人類史は科学・技術の発展と強くかかわっている。古代ギリシア、インド、中国の3大文明の発生には技術の発達が不可欠であったし、精神文明としての宗教や哲学は倫理とともに、生命観・自然観を主テーマにした。その頃から近代科学の成立まで、科学と哲学は一つの「自然哲学」であった。今でも、自然科学と哲学は不可分の関係にある。
 自然科学と宗教の関係も、古代には不即不離の関係にあり、宗教的自然観は長期にわたり人類の自然思考を支配してきた。近代まで宗教は、精神面ばかりでなく政治的にも、陰に陽に社会を支配してきた。したがって、自然科学も当然ながら宗教の支配下にあり、近代科学の成立前に、ヨーロッパにおいて2重真理説が説かれ、自然学の真理と神学の真理は別であるとの認識が広まった。これが、宗教と科学の分離の芽となった。17世紀に、ニュートン力学の誕生を皮切りにして近代科学が成立すると、自然科学は神の存在を必要としない論理を築いた。それによって、科学は宗教の支配から分離独立していった。
 このように、現代ばかりでなく古代から、科学・技術の果たしてきた役割は人類の歴史には無視できないものである。特に、近代科学の成立の意義は大きく、人類史の中でも特筆すべきことであると思う。

近代力学成立の影響
 ニュートン力学成立の影響は単に物理学にとどまらず、自然科学全般、思想界、および社会にも強く及んだ。それについて概観してみよう。

 まず第一にニュートン力学が地上界の力学現象と天文学(特に太陽系の惑星運動)において成功し権威を獲ち取ると、物理学の研究に拍車が掛かった。そして、ニュートン力学は実験科学の方法として、自然科学全般の論理と方法の手本とみなされるようになった。

 第二には、それが世界観の転換をもたらしたことである。アリストテレス以来引き継がれてきた天上界と地上界の間にあった壁は完全に取り除かれ、二つの世界が万有引力と力学法則によって統一された。これだけでも大きな思想革命であるが、自然観への作用はそれに止まらなかった。近代科学は神の助けを必要としない論理を獲得したので(宇宙創生時の神の一撃を除き)、科学者は次第に自然科学の原理を理性の力によって自然自体の内に求めるようになった。すなわち、科学はそれ自体で存立し独自の方法を持つものとして、宗教から独立する道を歩み始めたる。こうして西欧社会は「信仰の時代」から「理性の時代」へと脱皮し、それによって科学の性格も変化した。それ以前の17世紀までの西欧の自然哲学、すなわちは自然科学の目的は宇宙を創造した神の計画(意志)を理解することであったが、ここに至って、科学は自然の仕組みそのものを理解することを目的とし、それを人間の幸福のために活かすことにあるとみられるようになった。後者の観点、すなわち科学の技術的性格はF.ベーコンの思想を受け継いでおり、18世紀の啓蒙主義に強く見られる科学観である。このことは、長期的には宗教の権威を失墜させ、「宗教革命」への道を拓いたことを意味するから、近代力学成立の宗教への影響は計り知れないものがある。 

第三は思想界への影響である。自然科学が神と訣別し、信仰の時代から理性の時代を迎えたことは思想革命であり、それゆえ新たな哲学が求められた。ヒューム、カント、ディドロなど多くの思想家・哲学者が近代科学に基づく自然観や哲学の形成に努力した。
 ヒュームは神学や形而上学に災いされずに、ロック的内観(内省)とニュートン的実験科学の方法とによって人生や自然を探求しようとした。ヒュームのこの思想はカントを覚醒させ、カントをしてニュートン力学の論理を哲学的に基礎づけることに向かわせた。
 カントはニュートンの実験科学の方法を肯定的に理由づけ、自然学的認識の客観性を(観念論ではあるが)一応基礎づけたといえるであろう(『純粋理性批判』)。カントは、それまでの神を中心とする世界理解ではなく、神の視点を離れて人間の自然認識の能力の限界を明確にしようとした。彼は時空の存在論的意味を明らかにすることで、自然と人間の認識能力の関係を把握しようとした。カントの認識論は、人間の思考形式に依拠する観念的なものとする点で観念論的ではある。しかし、経験によって得られた個別知識を理性の働きによって整合的に体系化するのが自然科学であると考え、自然認識は「われわれにとっての客観性」の追究であるという点で、カントの認識論は「客観的観念論」といわれる。
 他方ではこれとは別に、力学的自然観から生じたもう一つの問題があった。自然法則は原因-結果の必然的因果律に従うとする力学的決定論を認めると、すべての自然現象は宇宙初期の条件によって定められていることになる。もし自然は力学法則にしたがって機械的盲目的に運動しているのであるならば、人間の一人ひとりの運命さえも宇宙創生時に決定されているとみる運命論に陥る。さらに、それは人間の自由意志とは何かという、人生観にとって深刻な問題をも投げかけた。この問題は現代の哲学にも尾を引いている。

第四には, 社会的影響として、理性の時代に相応しい啓蒙主義が特に18世紀のフランスで盛んになったことも見逃せない。そのなかでもディドロを中心にして「百科全書」が編纂されて(1751~72)新しい科学の姿を啓蒙した。この啓蒙主義はフランス革命の精神的準備を与えたことはよく知られている。このことは、社会的な影響としては最も大きなものであろう。

第五には,自然科学が学問として社会的権威を獲得すると同時に、科学者の社会的地位が高くなったことがあげられる。ニュートンの科学的功績を讃えて、彼に貴族の称号が与えられたことはその象徴である。また学協会の活動が盛んになり、大学での科学教育も普及するようになって,科学者が職業として成り立ち、科学が社会における一つの制度として認められるための素地が築かれた。例えばフランスでは、革命の後ナポレオンが科学・技術を重視する政策を打ち出してから、エコールポリテクニークから有名な科学者が輩出された。科学と技術の結合は産業革命により急速に高まり、科学の物質文明への寄与が大きくなった。 

 第六には,近代科学を応用した技術の開発と産業革命によって、物質文明は飛躍的に発展し、日常生活を変えてしまった。それが行き過ぎて、現代では自然環境破壊などの負の影響が出始めた。

>歴史教科書は科学史家との協力で 
 これらの結果、徐々にではあるが,宗教と科学の社会的地位と影響力は逆転して行った。それまでは西欧においてはキリスト教が精神的にも社会的にも優位にあって、人間社会を陰に陽にコントロールしてきた。東洋においても、宗教の力は同じように強かったといえるだろう。したがって、科学も宗教の下に置かれていたために、科学の発展とともに多くの摩擦が生じた。地動説を擁護したガリレイの宗教裁判はつとに有名である。それ以外に自然観でも、宗教と科学の関係は対立ばかりでなく、協力的な面もあった。

 いずれにせよ、今では宗教と科学の関係は逆転し、精神的な面でも物質的な面でも科学は人間生活と社会制度を変える力を持つに至った。現代社会で科学・技術の果たしている役割を見れば、そのことは歴然としている。また、自然科学の進歩により、宗教の教義も、科学理論と矛盾するものは変化せざるを得なくなった。この意味でも近代科学の成立は、大きな宗教革命と精神革命を引き起こしたといえる。
 これらの変化の波長は長く、漸次にしかも長期(100年のオーダー)にわたって起こったので余り意識されないが、近代力学の成立はこの意味でも人類史上特筆すべき歴史的事象なのである。したがって、その意義を科学史としてばかりでなく、社会科や歴史科で取り上げて、科学・技術の社会的機能を詳しく教えるべきだと思う。

私はかねてから、このことを科学者や歴史学者に主張してきた。自然科学者は同意するが、歴史家は自然科学についてほとんど無知・無関心であって、私の言に耳を傾けない。なかには耳を傾ける人もいるが、科学の知識がないのでそのような歴史教科書を書くことができないという。そこで改めて提唱したいことは、歴史と科学史の専門家が協力して新たな歴史教科書を書くことである。

 
また、現代のように科学・技術は政治経済までも動かす力を持ち、日常生活の隅々にまで浸透していることを思えば、理科や科学史以外の教科を通して科学の果たす意義と役割を総合的に教えることが必要であろう。
科学と生涯教育
 若い頃、学校で学ぶ自然科学は難しくて分からないといって、理科嫌いになる人が多い。最近特に、若者の理科離れが進んでいます。
 小・中学生の頃は、経験も浅く、ものを考える習慣が余りないので、科学のような論理的な考え方に着いていけないのでしょう。天体や植物のような自然現象を観察するうちは楽しいけれど、だんだん抽象的な理論になると分からなくなり、いわゆる「落ちこぼれに」なってしまう。子供の知識や精神年齢に較べて、理科は高い知識を教えているのかも知れません。それでも、「習うより慣れろ」と言うこともあり、辛抱して勉強すれば面白みも湧いてくるのですが、辛抱できずに逃げ出してしまう生徒が多いのです。

 積み上げ式の知識と思考訓練が必要な理数科は、一旦落ちこぼれると、ますますひどくなるので、高校ではもう手遅れになってしまいます。これが理科離れの大きな原因の一つでしょう。

 しかし、大人になると、経験も豊かになり、それとともに思考力や判断力が強くなるので、若いとき分からなかったことが、割合簡単に理解できることが多くあります。学校では理科嫌いであった人でも、成人してから自然科学の解説を聞くとよく理解できて、自然について興味を持ち、さらに聞きたくなることがあります。私はこのような人を多く知っています。
 最近、老人対象に自然科学について話を頼まれることがあります。なかでも、宇宙に関する話には大変興味を示すお年寄りが多いです。定年退職後は、それまで仕事にかまけて考える暇もなかったけれど、自分の人生を振り返えるときに、ふと、自然とは何か、その自然のなかで、人間はいかなる存在かといったことを考えるようになるのでしょう。私の話のときも、みな大変興味を持ってくれ、熱心に質問をされました。
 これだけ科学・技術の進んだ社会では、自然科学に無知ではいられないでしょう。「読み、書き、計算」と同じように、自然科学の素養が必要ではないでしょうか。自然科学を通して無限に時間・空間を拡げ、想像によってロマンを追うことができます。だから、生涯教育の一環として、是非とも自然科学をもっと採り入れるべきだと思います。
 熟年大学とかカルチャーセンターなどいろいろありますが、自然科学に関する講座はほとんどありません。これは大変残念なことだと思います。 
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