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科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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今こそ人類は目を覚まそう!
 今こそ人類は目を覚まそう!   

 地球環境の破壊、特に地球温暖化は、このまま進むと人類生存の危機を招くだろう。今や全人類は、地球環境異変による危機的状況を真摯に受け止め、協力してそれに対応すべきである。だが、まだ危機意識が薄くCOPの議論も、先進国と新興国は自国の利害を優先させ、有効な対策が打ち出せない。さらに悪いことに、経済支配・貿易競争、開発競争に明け暮れ、他方では民族対立による国内・国外の紛争、宗教対立、無差別テロなどが各地に拡がり激しくなるばかりで全世界は騒然としている。このような状態では、地球の環境破壊による危機には目が向かず、目先の利害や生存法を考えることに精一杯となる。
 経済・開発競争や武力紛争を止め、また、便利性や贅沢を求める生活スタイルを転換しなければならないところに来ている。人類は目覚めよ!

1.核戦争による人類生存の危機は停められた 
かって人類生存の危機は原水爆戦争であった。極度の原水爆開発・貯蔵競争により、原水爆戦争が起これば人類は絶滅する寸前のところまで行った。
 だが、その危機が叫ばれて、原水爆使用禁止、核廃絶運動が世界中に巻き起こった。当時「核抑止力」論者たちの中に
は、核廃絶運動は非現実的で児戯に等しいと揶揄する者もいた。しかし、圧倒的多数の人々の熱心かつ執拗な核廃絶運動による成果と、東西冷戦の中止と相俟って、原水爆使用禁止協定や核軍縮が進んだ。こうして原水爆戦争による人類の危機は可成り遠のいた(まだ油断はできないが)。この成果は、人類の理性的判断力、精神的健全さを示すものである。 

2.環境破壊、気候異変は直ぐには停められない 核戦争による人類の危機は誰にでも直ぐ判る。それに対して、環境破壊、特に地球温暖化は徐々に進み、その危険性を身をもって理解するまでには時間がかかる。それゆえ、地球温暖化を科学的に警告するIPCC報告を無視・批判する者もいた。近年になってやっとIPCC報告が深刻に受け止められるようになった。
 地球温暖化は徐々に進むが、ある時期にその変化が臨界点に達すると、カタストロフィックに激変し破壊的事態を招く。近年の気候異常現象の急増を見ると、近い将来にその臨界点に達するように思える。環境変化の力は大きな慣性をもっているので、急には止められない。それゆえ、早く手を打たないと、気づいてから慌てて対策を立てても直ぐは停まらないから、手遅れになる可能性が高い。原水爆による危機は、原水爆使用の禁止を核保有国間で協定すれば、直ちに止めることができるから、その効果は即効的である。だが、環境破壊の慣性(運動量)は大きいので、速効は期待できない。それを停めて危機からの脱出には時間がかかる。「30年後には地球の平均気温が2度上がる」とか「今世紀末には・・」とか悠長なことを言ってられない。

3.人類はすべての生物の天敵となった
 生物は種の保存のために、他の生物を捕食する、これが食物連鎖である。それゆえ、ほとんどの生物種には天敵が存在する。これは生物の背負った根源的な「業」である。生物は自然の脅威と天敵から身を守るため、また食物として他種の捕獲を容易にするために進化してきたといえるであろう。
 人類も発生初期には天敵に悩まされた。しかし、人類は科学・技術の開発によって、自然進化を超えて種の保存・発展の機能を獲得してきた。その獲得機能は他の生物を遥かに凌ぎ、天敵がいなくなったので全地球に繁殖した。人類は今や地球の収容能力を超えるところまで増殖した。
 人類は食物としてばかりでなく、衣食住のためにすべてにわたって他の生物種を利用するようになった。今や人類は科学・技術の力によって地球を征服したかのように振る舞っている。植物の栽培ばかりでなく動物も飼育し養殖している。その結果、自然環境を破壊し、生物の飼育・養殖などによって生物界を思うままにコントロールしている。その影響は全生物種におよび、被害をもたらしている。それゆえ、人類はすべての生物の天敵になっている。
 生物界においては、天敵となる種は食物にする種類も限られており、しかもその種が絶滅しない程度に捕獲してバランスを保っているが、人類は捕獲・採取する種と数を限りなく拡大し続けている。そして必要以上の捕獲・採取によって過去に多くの種を絶滅させてきた。現代では、自然環境の破壊によって無意識のうちに莫大な種を絶滅させているそうである。すべての生物にとっての天敵となり、多くの種を絶滅させる種、人類のような種はこれまでの地球上には存在しなかった。地球全土に広がってわがもの顔に振る舞い、人間も自然の一部であることを忘れたかのように地球を操っている、その報いは徐々に現れつつある。人類は人類自身の天敵になろうとしている。

4.慢性的経済危機 
 先進国の財政危機は構造的なもので、国家財政の赤字は累積する一方で回復困難である。新興国もやがて同じ状態に陥るだろう。
財政危機を救う方法として、金融緩和によって経済成長とインフレに逃げ道を求めようとするが、それは悪循環である。 地球環境を防ぎながらの経済成長には限界があり、実質的経済成長率は低下する。また、資本の利潤率は低下する傾向にあり、資本主義の終焉が予言されている。金融和で金はだぶついているが、融資は実質成長に向かわず、金融資本のマネーゲームに流れて、「虚の世界」が膨張し、それが人類世界を動かしている。この金融資本の「虚の世界」の膨張は資本主義経済(少なくとも物を生産し、動かす「実の世界」)を内部から蝕み堀崩している。世界経済は慢性的不安定状態にあり、慢性的危機状態にある。グローバル化世界では、一寸した局所的なマイナス要因でもカオス的に全世界に影響し、世界経済を激しく揺り動かす。
人類の人口膨張で、最早地球の収容能力を超えているから、これ以上の経済成長は無理である。産児制限で人類の人口を減らさねばならないが、新興国の人口が増加している。だが、その反面で、先進国と一部の新興国では少子高齢化が問題になっている。人口制限が粋すぎると、このような歪みが生ずる。したがって、この問題解決の道は可成り制限され、選択肢は少ない。人類はそこにもっと知恵を絞るべきだ。(「国家経済の破綻と世界経済の危機」『唯物論と現代』48号(2012)参照)
 また、そのためには、当然ながら、人類は生活のスタイルを改めて資源・エネルギーの浪費を止めねばならない。それには精神革命が必要である。科学・技術の開発のみでは地球環境は救えない。技術には限界があり、また反作用として必ずどこかに負の効果がでる。フロンガスや原発などがその典型的例である(「科学・技術革新で地球環境は救えるか」『日本の科学者』Vol.44,No6.(2009)参照)。

5.人類覚醒のルネサンス運動を! 
 環境汚染には国境がない。民族紛争・国内紛争は連鎖的に各地に起こり、難民が急増し各地に溢れている。無差別テロも国境を越えて全世界に拡がっている。戦争は人心を狂わせ人間が人間でなくなり、目が見えなくなる。テロを聖戦のためという極端なイスラム原理主義者も正常な意識と判断力を失っている。非道な無差別テロ、虐殺は絶対に許されない。イスラム教の本来の教義は「知」を尊び、学問を愛するものであったはずだ。彼らテロ集団をここまで追い込んだのは何かを考えるべきである。(注)

 紛争や戦争は環境破壊を加速させるから、人類は経済活動と紛争とで2重に環境破壊を行っている。
 地球温暖化による人類生存の危機に目を向けて、利害対立や紛争を止めるような運動を全世界で起こさなければならない。COPやIPCCなどで呼びかけ、G7もそのリーダーシップを取るべきである。原水爆禁止・廃絶運動のあの力を、再び呼び起こしてここに向ければ、不可能ではないはずだ。要は、正常な人間が目覚めて立ち上がることである。
 このような対立・紛争・競争に明け暮れていては、環境破壊による危機に目が行かない。人類は冷静になって目を覚まさねば自滅する!
 

(注) キリスト教、イスラム教の元は一つで、ユダヤ教から分離した。中世までのイスラム教は、学問を愛し理性的であり、寛容であった。
 イスラム原理主義者をここまで追い込んだのは、長い歴史があろう。中世の西欧キリスト教徒が、十字軍によってイスラム圏から領土を奪回してから、聖地の争いが続いている。 その後、20世紀になってから、ソ連の過酷な支配に抵抗するアフガニスタンの地下組織でテロが培われた。さらに中東の紛争に欧米が介入し、その政策の失敗がイスラム教の宗派間の対立を激化させた。そこに、アメリカの主導のもとで、国連がイスラエルの建国を進めるために、その地にいたアラブ人を追い払って難民化した。これが中東紛争の大きな要因の一つとなった。これらの要因が重なって、彼らを過激な反米、反欧思想を育てた。それがイスラム原理主義者の無差別テロを生んだ。特に、ブッシュ大統領が、大義なきイラク戦争でフセイン政権を倒してから、テロが世界に拡がった。
 無差別テロは、人道的にも絶対に許されることではないが、彼らをここまで追い込んだ責任はソ連や欧米にあると思う。その元を正さねば感情的対立は高まるばかりであろう。大部分のイスラム教徒は、無差別テロはイスラム教の原理に反すると信じ、反対している。彼らが反テロ運動に立ち上がるならば、過激派は孤立無援になろう。そのためには、世界は中東政策とテロ対策の方針も転換せねばならないように思う。
理研の悲劇
理研の悲劇

 理研の再生科学総合センター副センター長笹井芳樹氏の自殺が報じられた。STAP細胞論文の「捏造」とミスの発覚から始まった騒動の中で起こった大きな悲劇である。

 このSTAP細胞論文の事件は、現代の科学研究制度と学会運営の歪みが生んだ結果といえるだろう。熾烈な研究競争の中で生き残るために、研究者の研究姿勢とモラルが徐々低下しに歪められてきた。この現象は日本だけに見られるものでなく、世界的な現象であろう。

 現代の科学研究は、理論分野の特別な研究を除いて、多額の研究費を必要とする。研究費を獲得するために、研究成果を挙げねばならず、無理をして論文を作るようになった。これがデータ捏造・改竄や盗作論文が増える原因である。近年、東大を始め有名大学教授の盗作・捏造論文のニュースを見聞するようになった。それは多分氷山の一角であろうと想像される。 
 
 大学・研究所における研究者の評価は、論文数と論文が一流雑誌に掲載されたことで決まる。評価が上がれば、経常研究費以外に、外部から科研費などいろいろな名目の研究費を獲得できる。あるいは研究成果以外に、学会における人脈や「顔」で研究費を集める者もいる。いずれにせよ、研究費を外から獲得してくる者が、その組織のボスになり実権を握るから、また論文数も増え学会や組織内での評価が上がる。このお陰でその研究組織は大きくなり有名になる。この傾向は、体質の歪んだ学会では悪循環となる。この下地を作ったのが、国・公立大学の独立法人化と大学教員の任期制という文部科学省の政策である。すべて制度は運用の仕方で良くも悪くもなる。日本の風土と現在の社会情勢では悪い方に作用した。 

 現代の科学研究制度の問題点は(1)研究費と装置の肥大化、(2)論文数など(短期の)成果主義による評価、(3)研究者のポストは任期制が多く身分が不安定、そのために短期に成果を出さねばならない、(4)研究が大規模化し、個人や単一組織では不可能となり、多数グループの協同研究が必要、などである。

 (4)の協同研究は、一つの専門分野ではカバーできない複雑な研究課題が多くなっているからであるが、専門化が進みお互いに他分野の研究内容が十分理解できない状態になっている。それゆえ、協同研究ではなく寄り合い研究である。今度のSTAP細胞論文に見られたように、それぞれの大学・研究所のグループ長が他グループのやった内容をきちんと理解していなかった。全体を統括するはずの笹井センター長も指導監督ができていなかった。それでも、論文に名前を連ねるという無責任体制がまかり通るわけである。もっと酷い例は、論文数を増やすために、教授や研究長はその研究に何の寄与がなくとも論文に名前を入れさせることである。(それが慣例になっている分野もある。)

 戦後、理研は研究成果を挙げて評価も高まったので、研究費も組織も肥大化し昔の面影はなくなった。組織が肥大化すれば、統制も取れなくなり、人事や研究組織の運営に歪みが生ずる。それが近年の理研の状態で、理研のこの体質に対して批判的意見はでていた。小保方さんのSTAP細胞騒動の初期から、この事件は個人の問題ではなく、理研の研究組織の問題であるとの指摘はあった。

 STAP細胞の発見では小保方さんを前面に出し、功を焦ったか、マスコミを利用し大宣伝をした。この勝ち誇ったような発表態度と宣伝法は行き過ぎであったろう。STAP細胞研究グループはその反動の大きさに耐えきれず、論文撤回まで追い込まれた。その原因の背景は、肥大化による歪んだ理研の体質と上記のような学会の競争状況とがあるだろう。理研の動きはこの問題を、論文捏造の個人的レベルにして、研究所の責任を逃れようとしているようにとれる。その犠牲になったのが笹井、小保方さんであろう。

 マスコミの報道もそれを助長した。論文捏造と誤りは研究者のモラル違反として批判されるべきだが、問題の本質は理研の組織・運営、および成果主義による金と権威頼みの学会の歪みであると思う。そして、STAP細胞が本当に存在するのか否か、その検証である。マスコミは報道の視点を変えて欲しい。

 小保方さんは笹井氏の自殺により、一層大きな重圧で押しつぶされるかも知れない。笹井氏の小保方さん宛の遺書に、「STAP細胞の存在を実証して欲しい」とあったそうである。小保方さんが本当にSTAP細胞があると思うなら、その重圧に耐えて研究を続け実証して欲しい。

 このようなゴシップは学会のみではない。社会が腐敗すれば、この種の腐敗はすべての業界で浸食するものだ。近年、日本で次々に暴露されたのは、食料産地の偽造、有名レストランの食材・メニューの偽造、警察の報告書の偽造・紛失、原発事故の情報隠蔽と幹部の責任逃れ、など挙げれば切りがないほどである。

 それにしても思うことは、今や人間社会のみでなく、環境汚染による異常気象で自然も破壊されている。自然と社会の破壊、これらはみな人間の「業」のなせる結果である。人類は舵を取り直さなければ自滅するだろう。
「大飯原発再稼働差し止め裁判」について
「大飯原発再稼働差し止め裁判」について

 大飯原発3,4号機の再稼働を差し止める判決を福井地裁がだした。その判決では 経済性や生活の便利さよりも、個人の生命や生活に関する人格権を重視した素晴らしい判決である。判決の前文は次のように述べている。

 「ひとたび深刻な事故が起これば多くの人の生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業に関わる組織には、その被害の大きさ、程度に応じた安全性と高度の信頼性が求められて然るべきである。このことは、当然の社会的要請であるとともに、生存を基礎とする人格権が公法、私法を間わず、すべての法分野において、最高の価値を持つとされている以上、本件訴訟においてもよって立つべき解釈上の指針である。
 個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。したがって、この人格権とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できることになる。」

 続いて、地震強度の予測、事故の安全対策、使用済み核燃料の処理などについて、関電の主張を具体的に批判・反論している。

 これらの判断および判決は、関電のみならず他の原発を含めて、日本における原発政策、安全対策の杜撰さを具体的に指摘したものであり、そして市民の日常的感覚、常識的判断にもマッチしたものであると思う。
 これまでの日本の原子力政策と安全対策についての根本的検討も反省もなく、また事故原因や事故状況調査も不完全のまま、しかも不十分な情報開示(情報操作、隠蔽)のまま、原発再稼働することは許されない。これらの根本的検討をした上で、世界一の地震国であることを考慮し、現在の科学・技術水準で何処まで安全性が保障されるのかを検証し、それを公開して国民的議論によって決定すべきであると、私はかねがね主張してきた。
 最近の政府と電力関連企業の動きを見ると、旧体質の「原子力ムラ」が復活しつつあるようだ。これでは「脱原発」と言わざるをえない。

 それにしても不可解なことは、原発裁判の判決は法的拘束力がなく、規制委員会の審査結果が安全とでれば政府は原発の再稼働を認めうるということである。現に、菅官房長官は福井地裁の判決後、この判決に拘束されることはないと言った。それはすなわち、規制委員会が安全と認定すれば、再稼働させる方針とだいうことである。 これでは何のための訴訟受理と裁判であるのか、そして判決なのか分からない。この判決は世論に影響を与えて「脱原発」、「反原発」運動が勢いを増すという点では社会的意義があるだろうが、法的拘束力がないのでは、何のための裁判かと言いたい。日本国は三権分立の法治国家であるはずだが、そう単純ではないらしい。行政府がこの判決を無視できる仕組みを分かるように教えて欲しい。政府には説明責任がある。 福井地裁の判決文は、裁判所の責務として次のようなことを述べている。原発技術の危険性の本質とそれがもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて十分に明らかになった。このような危険性が万が一でもあるかが判断の対象とされるべきであり、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しい、と。それにもかかわらず、判決は政府を拘束できないとは!?

 国民の声・世論を無視し、裁判所の判決も無視あるいは蔑ろ(選挙の1票の格差)にし、首相の個人的意思・好みに従って、国民に考える余裕も与えずに駆け足でことが進められていく日本、こんな状態は許されるべきでない。
エネルギー問題を通して思う人類の未来
 エネルギー問題を通して思う人類の未来


 18世紀における動力機関の発明のよってもたらされた産業革命以後、人類は資源とエネルギー利用を急速に増大させてきた。動力と機械技術の開発により資本主義お目覚ましい発展を遂げた。そして、20世紀の科学・技術の全面的開花とその発達は、凄まじい勢いで物質文化の発展を推し進めた。その結果、20世紀には地球の資源とエネルギーの枯渇が問題になったほどである。さらには、人類は地球環境を破壊し、地球温暖化による気象異変が起こっている。この地球環境の破壊は人類の奢りによる「地球支配の思想」によってもたらされたもので、その報いが災害としていま人類に返ってきたのである。自然からのこの「しっぺ返し」に気づき、地球の温暖化を防ごうと温室効果ガス(CO2やメタンガスなど)の排出を削減する努力を始めた。

問題の根本はクリーンエネルギー源のことではなく、エネルギー利用量の削減 
 現代のグローバル化時代では地球は一つに繋がり、その渦に巻き込まれた全人類は24時間フル稼働を続けて、休みのない激しい競争に追い立てられるようになった。それゆえ、エネルギー・物質資源の利用は急加速度で指数関数的に増大していくから、自然破壊からの反作用もそれに併行して必然的にひどくなる。
 そのためにCO2を多く排出する石炭・石油の消費を減らし、太陽光や風力の自然エネルギーと原子力発電にエネルギー源を求めるようになった。しかし、いずれも一長一短があり、その開発と有効利用には限界がある。自然エネルギーの利用の技術開発はまだ不十分で、効率よい活用には技術的に改良すべき点や社会的条件を整えるという問題がある。自然エネルギーの利用が最も安全で望ましい形態であるが、近い将来のうちにそれのみで増大するエネルギー需要を満たすのは無理のように思える。また、原発は石油・石炭のように温室効果ガスを出さず、発電コストも安いといってもてはやされ、効率よいエネルギー源としてその開発が推し進められてきた。だが、原子炉は一旦事故が起こると過酷な災害を引き起こす。チェルノブルイや福島第一原発の事故は、その恐ろしさを如実に示した。また、発電コストが低いという評価も、原子炉の廃炉、使用済み核燃料の処理、事故対策の費用を無視した評価値であり、実はむしろ高くつくことが漸く認識された。
 それでもいま、温暖化を防ぐためにと、自然エネルギー利用か原発利用かを巡り、盛んに議論されている。特に日本では福島の原発事故以後、原発の安全性神話が崩壊して「脱原発」、「反原発」の声が高くなったが、それでも地球温暖化を防ぐには原発は必要であるという主張も依然としてある。そのなかで、日本政府は原発維持と原発輸出計画を推し進めている。その政府方針に対する賛否の意見が戦わされている。反原発の声の方が遙かに大きいが今の政府は世論に耳を貸そうとしない。
 このエネルギー源をどこに求めるかを巡る議論は、地球温暖化を防ぐために、差し当たって緊急の課題ではあるが、長期的に考えるとどうも議論の方向、つまり目を向ける方向が間違っているように思える。その理由は、このまま行けば人類はエネルギーの利用量を際限なくいくらでも増大させてゆき、やがてエネルギー源の開発は限界に達して需要に追いつかなくなるだろう。発展途上国が先進国なみになれば、CO2は削減よりも排出の方は増大して、温暖化抑制は不可能である。それゆえ、クリーンエネルギーの開発はさし当たり必要だが、その方法には限界がある。それよりも人類の生活スタイルを転換させてエネルギー使用量を抑制する方策の議論が不可欠である。そのためには現在の経済体制を、ひいては社会制度をも変えねばならないだろう。行き過ぎた物質文明を止めて、生活スタイルを変えるべきだとの主張は、以前はかなり見られたが最近あまり聞かれなくなった。

グローバル化された市場での開発競争
 以前の米ソの冷戦時代には新兵器の開発と軍需産業の競争に血道を上げていたが、ソ連崩壊により激しい冷戦は幸いにして止まった。現在は資本主義の下で世界はグローバル化されて一つになった(中国も現在の経済制度は資本主義である)。交通・通信技術の発達で行動時間は短縮され、地球はどんどん狭く一つに結ばれてきた。その結果、先進国間の経済競争は激しくなり、さらに発展途上国も先進国に追い着こうとして開発競争に参加してきた。いまや世界中は科学・技術の開発競争と経済発展の競争の坩堝のなかでひしめき合っている。この状態をもたらした社会的基盤は、市場原理優先の資本主義制度である。市場経済の競争に巻き込まれたら止まることはできない。そこでの競争こ負ければ生き残れないから懸命に走らざるをえない。そのために科学・技術の開発競争ばかりでなく、経済競争では寝る間も惜しんで24時間の活動を維持しなければならない。地球の半分は常に昼だから、グローバル化された世界は24時間稼働し続けているからである。
 スピード化・便利さと物質的豊かさを求めて科学・技術は急速に発展し、先進国では物質文明の全面開花である。それによって人間の精神構造まで歪みだしているが、その中で育った若い世代はこれが当たり前の生活と思っているから、異常さに気づかずまた次の便利さを求めていく。新たに開発された技術により新製品や改良品が次々に作り出されて市場に出回るから、新陳代謝が激しく無駄が多くなる。市民は便利さを求めて生活必需品以外に多くの物を買わされている。それを買うために収入を増やさねばならず無理をして働くようになった。能率のよい機械化進んでいるのに、労働時間は短縮されるのでなく逆に長時間労働を強いられている。昼夜の区別が薄れて睡眠不足は慢性化している。
 この傾向は、規制のない市場原理優先の資本主義の下でグローバル化された世界では必然であって、ますます激化されるであろう。その結果、地球環境と人類社会は変調をきたす。毎日追い立てられるような生活の人間はストレスが蓄積されて心身ともに犯されていく。すでに、ノイローゼや分裂症など精神病患者が増えている。この行き着く先は、都会の人間の集団発狂であろう。

技術開発のみでは地球環境は救えない
 今の開発競争を続ければ資源・エネルギーはいづれ枯渇する。資源のリサイクル、エネルギー源の開発といっても限度がある。環境保全のための科学・技術を開発して危機を救うというが、その方法にも限界があって地球環境は救えない。技術はプラス効果のみでなく、必ずマイナス効果を伴うからである。原発やフロンガスなどがその典型例である。石油に替わるシェールガスも、その採掘と使用の課程のどこかでいずれ弊害がでるであろう。もう一つの例は、資源節約のための小型化である。小型化技術も一時は有効であるが、逆にその技術を利用した新製品が出現し、その大量生産によってそれ以前よりも資源の消費量が増えることもある。真空管に代わるトランジスター、ダイオードの発明で通信機器は小型されたが、ICを用いたパソコンや通信機器が氾濫した。激しい新機種の開発で、売れ残り使い捨ての無駄がひどく資源節約どころではない。これも制御のない資本主義の市場競争のもとでは必然的現象である。
 要するに、技術開発のみでは限界があり、地球環境は救えないから、人間の意識を変えて生活スタイルを転換する以外に救いの道はないだろう。新幹線よりも速い磁気浮揚リニア-モータカーは必要ないし、情報公害をもたらした情報機器もこれ以上便利な物は要らない。有り余る食料・物資の過剰生産を止めよう。もうこれ以上のスピードや便利さを求める開発競争を止めて、むしろ物質文化を抑制して精神的に落ち着いた生活にすべきである。精神文明を進めることで豊かな生活は可能であり、人類の発展進化は維持できる。そのためには政治・社会制度を変えねばならないと思うが、グローバル化時代には一国でそれを行うことは不可能である。サミットがリーダーシップをとって、その手立てを真摯に検討すべきである。クリーンエネルギー源の開発も必要だが、本質的解決にはならない。

生活スタイルと経済社会制度の転換を
 福島原発事故以来、地球温暖化を防ぐためにエネルギー源やCO2排出削減の問題は盛んに議論されるが、開発競争を止める意見や節電・省エネルギーの話は下火になったように思える。人類の未来を救うための本質的解決は、人間の生き方、社会制度(規制のない資本主義)の転換によって、無駄を省き省エネ・省資源に徹することにあると信ずる。
 グローバル化時代には、それは一国ではできないから、この意識を世界中に巻き起こさねばならない。インターネットやスマートフォンの普及は人間生活や思考法を急速に変えつつつある。だが、300年続いた資本主義社会のもとで培われた生活スタイルはそう簡単に転換はできないだろう。このような社会変革は一朝一夕では不可能であるから、早期から長期にわたり声高に言い続け、人類の意識を変えていかねばならない。
無計画な原発一斉再稼動の申請
無計画な原発一斉再稼動の申請

 電力会社は休眠中の原発の早期再稼動を強く望み、その準備をしていたことは周知のことであった。原子力規制委員会の審査基準が公表されると、待ってましたとばかりに4電力会社は一斉に停止中の原発に対して基準の適合検査を申請した。東京電力は地元に事前相談もなしに申請しようとして、事故の被害者と福島県知事の怒りで申請を引っ込めざるをえなかった。

 電力会社が原発の再稼動の必要性を言うのは、「電力不足」がその理由ではなく、石油発電のコストが高いので会社経営、つまり財政問題であることは明かである。現在停止中の原発を使えば当面の経営は改善されるだろう。しかし、将来のことを考慮すれば、必ずしも経営改善とはならない。
 その理由は、使用済み核燃料の処理、老朽炉の廃炉、事故対策費用などの将来計画・将来像がなく、それらの経費を計算に入れてないからである。原発の発電コストは自然エネルギー発電と較べて必ずしも廉価ではないことは周知の事実である。原発を再稼動すれば処理できない使用済み核燃料はどんどん溜まり、困ることは目に見えている。それゆえ、今の原発再稼動は、当座の経営危機を先送りするだけになる可能性が強い。
 
 福島第1原発事故の原因もまだ明かでなく、避難民の救済・保証と汚染除去も不充分のまま政府と東電は「事故収束」を計ろうとしている。東電は事故原因の情報を隠し、調査委員会の調査妨害までしてきたので、事故の全貌もまだ明らかでない。不測の事態が次々にでて、その都度目先の対策に追われてきた。今度は事故現場近くの海側に設置した観測用井戸の地下水から、放射性セシウム134と137の急増が発見された。今後、廃炉終結まで何がでるか分からないだろう。事故原因と状況を徹底的に追求せず、しかも情報を隠蔽しているから、次々に不測のトラブルが起こり、その都度対処療法的にトラブルを処理してきた。

 以前このブログに「東電には原子力発電の管理能力なし」(4月)という一文を書いた。今度の再稼動申請の仕方を見ても、地元の了解をえられる見透しはなく、たとえ了解が取れたとしても遅れるので、他社と一斉に足並みを揃えて申請し、既成事実を作ってから地元を説得しようとしたのではなかろうか。また総合的事故対策計画と観測態勢ができてないから、先日の井戸地下水のセシウム急増にしても、原因がいまだに分からない。もう一度「東電には原子力発電の管理能力なし」と言いたい。国家管理にして、根本から事故原因を究明し、しっかりとした方針を立てるべきである。

 しかし、自民党と安倍内閣にはそれを望めそうにない。原発再稼動も政府の方針に添って進められているようだから。原発の事故原因究明も終わらず、使用済み核燃料の処理、老朽炉の廃炉などの将来計画もないままの再稼動には非常に多くの人が強く反対している。それにも関わらず、参議院選挙では再稼動を押し進める自民党・安倍内閣が圧倒的に優勢というのはどうしてだろう。やはり「意思と行動の乖離」だ。 
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