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科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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ノーベル医学生理学賞 本庶佑教授に
ノーベル医学生理学賞 本庶佑教授に

今年も日本人科学者本庶佑教授がノーベル医学生理学賞を受賞した。本庶氏ご自身はもとより、日本の基礎研究が認められたことは大変喜ばしいことである。
 ガン治療薬のオブジーボの発明にいたる基礎研究で、免疫細胞の働きを抑えるPD-1分子の発見には、生命の仕組みの奥深さ、複雑さと巧みさに改めて感嘆させられる。


  テレビ会見における本庶教授の、研究に対する確固とした揺るぎなき信念は語る姿には感動を覚えた。日本の現状を憂えてノーベル賞金を基に若手研究者育成のための基金を作るという。

 ノーベル賞となると何時ものように、昨夜からマスメディアは大きく取り上げている。テレビでの受賞紹介のニュースや、討論などを聞いていると、見方が一面的・現象的な傾向があるので気になることが多い。まず言いたいことは、このよう討論の場には、研究現場のことを身を持ってよく知っている科学者を複数参加させるべきである。

 近年は日本の科学研究、特に基礎科学分野で力量が目に見えて低下していることがしばしば指摘されている。将来ノーベル賞級科学者は出にくいという。その理由として挙げられるのは、研究費の減少、研究費の配分法の歪みが第一にあげられている。確かにこれは深刻な問題である。欧米や中国などではGNPに対する研究費率は増えているが、日本はむしろ減っている。科学研究の規模の巨大化、スピード化で研究費は益々増大するから、問題は深刻である。科学研究には無駄がつきものである。また一見無駄のように見える「無用の用」にも目を向けるべきである。研究には精神的ゆとりや遊び心も必要である。「無用の用」も回り回って後で生きてくることもある。
 安倍政権は国際情勢の危機を煽って不必要な軍事費を増やし、アメリカから巨額の兵器を買わされている。それよりも科学研究費や福祉に回すべきだと多くの人は思っているだろう。
 
 日本の科学研究の現状で、憂えるべきは研究資金の不足のみではなく、その配分法である。直接的には実験費の不足のみではない。現状は、成果がすぐ目に見える研究や大型プロジェクトへの重点配分優先である(技術優先)。間接的には、大学・研究所における研究者数の減少である。科学者数を増やし、優遇すること、特に若手研究者の身分を保障し、落ちついて基礎的な問題に長年取り組める研究環境を作ることである。浮き草のような不安定な研究生活を送っている優秀な若手研究者の何と多いことか。偉大な研究成果は、一人の天才によってなされることは稀にあるかも知れないが、まずないといえる。研究者の幅が広く裾野が広がっていることが高山の存在条件である。

 国内外の多くの研究者の交流と討論を通して、その相互刺激によって素晴らしいアイデアが生まれる可能性が高い。ノーベル賞受賞者は、欧米に留学中に、あるいは協同研究で研究テーマを見つけ、発想と研究の腕を磨いた方が多いことにも注目すべきであろう。

 研究条件や研究環境とは何かを総合的に判断した議論や発言が欲しい。研究者の参加してないテレビの議論には、これらのことに着目して本質を突いた発言が見られない。
 誰かの片言節句を引用して、一面的な私見を述べているのを見かけるが、的を外れていることが多い。たとえば、「資金がないから良い研究はできない」というが、それは「何もできない人の言うことだ」といった発言もある。このようなことは稀で、特別な研究者にしか当てはまらない。昔と違い、現代では教育・研究の状況は変わっている。
 
 繰り返すが、この種の討論、議論には、経験豊かな研究者と現場の研究者を複数参加させてるべきである


追記: 
 この研究の最も偉大な成果は、免疫細胞の働きを抑えるPD-1分子の発見にある。免疫細胞の働きを抑えるPD-1に類似するメカニズムは他にもあるだろうから、それは生理学の基礎研究の成果である。それゆえ、この発見こそノーベル賞に値するものであると思う。
  だがマスメディアでは、ガン治療薬のオブジーボの発明の方が大きく取り上げられ、称賛されている。オブジーボの発明も素晴らしい成果ではあるが、それはむしろPD-1発見の応用といえるだろう。

 基礎研究であるPD-1の発見の真価を理解せず、目に見える実用的成果であるオブジーボの方にばかり目が行くのは、日本人の発想、「何お役に立つのか」 の現れであろうか。 これでは、基礎研究が重視されない日本の精神風土は変わらないだろう。
 本庶教授に限らず、これまで多くのノーベル賞受賞者が基礎科学を重視し、育てよと訴えてきたが、改善されない。


マスコミは、そのことを支持し、持ち上げるように、ノーベル賞受賞の意義を報道して欲しい。報道姿勢が歪んでいるように思えてならない。
人工知能(AI)への過信
人工知能(AI)への過信

深層学習(Deep learning)が開発されてから、AIの進歩は目を見張るばかりである。
最も困難と思われていた囲碁でトップ棋士に完勝してから、一躍世界中の注目を浴びている。今やあらゆる分野にAI技術を利用しようと、鎬を削って開発競争が始まった。いずれ、AIは人間を凌駕する時期(シンギュラーポイント)がくるだろうと予想されている。だが、総合的に人間の能力を超えることはそう簡単ではないはずだ。

 近い将来に、AI技術は社会のあらゆる分野に進出し、人間の仕事の半分はAIに奪われるだろうといわれている。そのこと自体は人口減・人手不足の助けになるだろう。しかし、新たな仕事・職業が次々に生まれるから、仕事がなくなることはないだろう。

 このように、AIに対する行き過ぎた期待と不安が交錯しているが、AIへの過信は危険である。たとえば、社員の採用にAIを導入している会社が増えているそうだ。採用合否の判定基準としていかなるデータがインプットされているか知らないが、多様な人間の能力を正しく判定できることは、まだまだ不可能であろう。AIによって、一度不採用になると、AIを導入している会社や組織から排除されてしまうそうである。その様な事例がすでにあるとのことだ。一旦AIに「ダメ」といわれた者は、挽回の機会を与えられず、社会的排除が続けられかねない」と山本龍彦慶応大教授は指摘しているそうだ(1月7日朝日新聞)。

 このようなシステムが定着したら、とんでも無い過ちを犯すようになる。昔、コンピューターが銀行や公共企業に導入され始めた頃、集金や預貯金などの現場でトラブルがよく起こった。コンピューターを過信して、企業側は「コンピューターの計算だから絶対間違いない」と言い張った。だが、後にプログラムのミスであったことが判明し、企業側が謝罪した。それ以後、「コンピューター神話」はなくなった。どれほど正確な機械でも、それを作り操作するのは人間であるから、製作過程で人為的ミスの入りうることを忘れてはならない。少しでもコンピューターの基礎知識(たとえばプログラミング)のある者なら、「絶対間違いない」とはいわないはずであった。

 これと類似の過ちを再び犯さないようにしなければならない。AIも膨大なデーターを入力して判断し行動するが、そのデータとて人間が選択したものである。その与えられたデーターによってAIは学習(深層学習)するが、限られた範囲で判断する。その判断結果を絶対視してはならない。人間の能力は千差万別、個人差があり、その能力の発揮も環境や条件によって変わる。その微妙な違いを、人間なら臨機応変に判断できるが(人により差があるが)、機械であるAIにはまだできない。

 何事でも、過信による画一的な思い込みは恐ろしい。AIは急速に社会の多方面に浸透するから、トラブルも多くなるだろう。それを利用する者は、AIとは何か、その基本的なところを理解して過ちを繰り返さないように気をつけねばならない。
近代科学はなぜ東洋でなく西洋で誕生したか
近代科学はなぜ東洋でなく西洋で誕生したか

 かねてから少しずつ書きためてきた表題の原稿が、漸くこのほど完成した。下記の「まえがき」のような目的と内容である。
この種の読み物は売れないので、出版社との交渉も一苦労であるが、周囲の人たちは興味を示してくれている。
これが最後の著作のつもりでいる。


近代科学はなぜ東洋でなく西欧で誕生したか(仮題)
         -近代科学を超えて現代科学へ- 

まえがき
 近代科学の成立の意義は、その誕生自体が人類の文明史における一大エポックであるばかりでなく、それが以後の人類史を転換し発展させる原動力となったことを思えば、これほど大きな歴史的事象はないと思う。
 それゆえ、このテーマはこれまでに多くの科学史家の重要な課題として関心が寄せられ、研究されてきた。筆者は物理学が専門であり科学史が専門ではないが、科学論の研究とともに、興味をもってこの問題に取り組み、文系・理系分野の仲間と協同で長年研究会を続け、研鑽を重ねてきた。そのなかで、東洋と西洋との文化を比較検討することにより、近代科学成立の経緯と意義を考察した。その成果を不十分ながら『東の科学・西の科学』(共著)(東方出版1988)として上梓した。

 その延長として、筆者はその後も「近代科学はなぜ東洋でなく西欧で誕生したか」を考察してきた。だが、この課題は非常に広くかつ奥が深いので、限られた人数で一次資料を探索しながら進めることはおそらく無理であろう。まして語学において非力な筆者にはそれは不可能である。幸いに日本では優れた科学史家や科学論が纏められた著作や論文があり、また海外著作の翻訳もある。そこで、これまでの科学史家の努力の諸成果を二次資料として用い、筆者の科学観に基づいて科学史的に妥当と思われるそれら資料を採択することにした。その資料に頼りながら当時の文明とその歴史的動態を分析することで、筆者なりの推論と解釈を重ねてきた。それによって古代から東洋と西洋における科学の発展過程を辿り、なぜ近代科学が東洋でなく西洋で誕生したのかを、その特徴的と思われる理由を取り上げてまとめたのが本書である。
 さらに最後に、近代科学から現代科学への移行過程を概観し、自然観や論理の転換の特徴とその意義を考察する。それに基づいて、近代および現代の科学・技術に対する批判を踏まえ、今後の科学のあり方を論ずる。

 科学・技術の性格は社会制度に規定された科学の目的と科学の担い手に依存する。科学の内容と形式には、それが築かれた文化圏(あるいは民族)の自然観と思惟形式が反映している。そして重要なことは、科学の進歩・発展は一つの文化圏に閉じていては限界があり停滞するということである。科学の進歩には、その発展段階に応じた自然観と思惟形式が求められるが、それに応えうるには新たな自然観と思惟形式をもった異なる文化圏(民族)にその科学が移行し継承されてこそ可能である。そのことが科学の発展史を通して明らかになる。
 西では古代ギリシアからアラビア(イスラム圏)・ラテン・西欧へと、科学の発展段階にマッチした文化圏によって引き継がれ、近代科学が誕生した。東洋では、中国・インドともに、科学・技術の継承はそれぞれの文化圏内に閉じていたために、尚古主義に陥って自然観と発想が固定化された。そのために、中世までに進んでいた科学・技術の進歩は停滞した。
 科学の進歩・発展には、ある局面では発想の転換が必要である。そのためには、科学文明がそれまでとは異なる自然観と思惟形式をもった文化圏(民族)によって継承され、新たな発想と思考形式をもって研究が進められる必要があることを強調したい。現代科学は西洋的近代科学の論理と方法を引き継いでいるが、新たな自然観と論理をもってそれを超克し、世界科学になりつつある。


目次

序章   (23ページ)
第1節 はじめに
第2節 科学・技術の社会的機能、
(1) 現代科学・技術に対する批判について
(2) 近代科学の論理と方法について
(3)科学批判に対する問題意識
第3節 「科学」とは何か
(1) 科学の定義について
(2) 科学と自然観の相互依存
(3) 自然科学の本質:「科学は自然自体の自己反映活動」  
  科学の不完全性:自己言及型の論理
第4節 アプローチの方法 
(1) 風土論
   (i) ユーラシア大陸の代表的3地域
(i i) 風土と人間の相互依存性
(2)対象とする東西の文化圏
(3)比較項目
 (i) 自然観:宇宙観、物質観、生命観、自然と人間との関係
 (i i) 思惟形式:論理学と数学
 (i i i) 科学の方法:分類法、実証法、数学記述
 (i v) 科学の社会的地位:科学・技術の役割と担い手
 (v) 科学と宗教との関係
 (v i) 科学・技術の伝承と発展の経緯
第5節 近代科学の特徴:方法と論理
(1)観察・実験による実証性
(2)数学による記述
(3)公理論的演繹理論の体系化

第1章 古代文明における科学と技術 (58ページ)
第1節 古代の4大文化圏における自然観と技術
(1)エジプト文明
(2)メソポタミア文明
(3)インダス文明
(4)黄河・長江文明
第2節 古典科学の発祥:技術から科学への進展
第3節 中国文明における古典科学
(1)中国の自然観
(2)中国の宇宙観・天文学
(3)中国の物質観
(4) 中国医学と本草学
(5)中国の思惟形式
(6)中国の伝統数学
(7)物理学的科学と技術
(8)科学の社会的地位:科学・技術の役割と担い手 
第4節 インド文明と古典科学
(1)インドの自然観
(2)インドの科学・技術の性格
(3)物質観:元素論、原子論
(4)物理学的科学:運動論
(5)インド錬金術
(6)生命観と医薬術
(7)思惟形式:論理学
(8)インドの数学
(9)科学の社会的地位:科学・技術の役割と担い手
第5節 ギリシア文明と自然哲学 
(1) 古代ギリシアの自然観
 (i)第1期 イオニア的自然観(自然学)
 (i i)第2期 アテナイ期の自然観(自然学)
 (i i i)第3期ヘレニズムの自然観(自然学)
(2)古代ギリシアの宇宙観・天文学
(3)物質観:元素論と原子論
(4)古代ギリシアの医学
(5)ギリシアの思惟形式
(6)ギリシアの数学
(7)古代ギリシアの科学と技術
 (i)物理的科学  
 (i i)技術
(8)アリストテレスの総合
(9)自然学の社会的地位と担い手
(1 0)ローマ帝国の科学・技術
第6節 古代科学文明のまとめ

第2章 中世における科学・技術 (31ページ)
第1節 中国の自然観と科学・技術
(1)中世中国の自然観
(2)宇宙論・天文学
(3)中国の技術
(4)思惟形式
(5)中国数学の黄金時代
第2節 中世インドの科学
(1)インド数学
(2)インドの運動論 
(3)インド科学の停滞理由
第3節 アラビア科学(イスラム圏の科学)
(1)ギリシア・ヘレニズム科学の移行
(2)イスラムの自然観
(3)アラビア科学の特徴
(4)アラビアの天文学
(5)物質論と錬金術
(6)物理的科学:観測・実験科学の芽生え
(7)アラビアの医学
(8)アラビアの数学
(9)アラビア科学の貢献  
第4節 中世西欧の科学・技術
(1)12世紀ルネサンス
(2)中世西欧の自然観
(3)数学的実験科学の方法:グロステスト
(4)14世紀西欧ルネサンスとその影響
(5)中世西欧の科学・技術
 (i) 静力学
 (ii) 運動論
(6)天文学・宇宙論
(7)コペルニクスの地動説
(8)空間革命
(9)中世西欧の技術
第5節 まとめ:中世における科学の継承
(1)異民族による学術文化の受容と発展
(2)学術の継承・発展の条件

第3章 近代科学の形成 (43ページ)
第1節 近代物理学誕生の前夜
(1)新たな科学のための哲学
(2)デカルトの自然哲学 
第2節 近代物理学の形成 
(1)ガリレイの功績
(i)地動説の力学的擁護 
(i i)自由落下法則
(i i i) 慣性法則の発見
第3節 近代科学の基礎となる自然観
(1)真空の存在
(2)原子論的自然観
(3)機械論的自然観
(4)数学的自然観
 (i)数学化の意義
(i i) 数量化の可能なものと不可能なもの
第4節 デカルト物理学
第5節 惑星に関するケプラーの法則:円のドグマからの脱出
第6節 学協会の設立達成
第7節 ニュートンの総合
(1)ニュートン力学の成立 
(2)『プリンキピア』とその意義
(3)ニュートン派とデカルト派の対立:万有引力をめぐる論争
第8節 第一科学革命
(1)科学革命は二段階で達成
(2)自然法則概念の転換
(3)ニュートン力学成立の社会的影響
第9節 近代物理学の完成へ
(1)ニュートン力学の整備から解析力学へ
(2)微分積分学の誕生:数学革命と科学
(3)力学的決定論
第10節 科学の前線が拡大:物理、化学、生物学
(1)電磁気学
(2)光学
(3)熱学から熱力学へ
(i) 熱素説 
(i i) 熱の運動論
(i i i) 熱機関:カルノー機関
(i v) エネルギー保存則
(v) エントロピー増大則
(4)熱(分子)統計力学
(i) 熱力学の 実体的基礎づけ
(i i)時間反転不変性とエントロピー増大則の矛盾の問題
(5)原子論に基づく近代化学の形成 
(6)生物学の新展開
( i ) 解剖学・生理学
(i i) 細胞学の形成
(i i i) リンネの近代分類学
(i v) ダーヴィンの進化論
(7)近代科学の完成 
第11節 西欧近代科学の性格と論理的特徴
(1)近代科学の基礎にある三つの自然観と「絶対性」の概念
( I ) 三つの自然観
(i i)「絶対性」の概念を骨格とする理論体系
(2)近代科学の論理構造
(i)観察・実験による実証法
(i i) 数学による記述とその効用
(i i i) 演繹的理論の体系化

第4章 現代科学-20世紀の科学 (20ページ)
第1節 20世紀における科学の展開
(1)科学の新展開
 (2)現代科学は世界科学となった
第2節 第2科学革命
(1)物理学革命の始まり:相対性理論
 (i)特殊相対性理論
 ( i i )一般相対性理論
(2)量子力学の誕生:最大の物理学革命
 (i)前期量子論の意義と役割について
 ( i i ) 量子力学の成立
(3)素粒子論:究極物質を求めて
 (i)相対論的場の量子論と反粒子
 ( i i ) 素粒子論の始まり
 ( i i i ) 素粒子の複合模型 : クォーク
 ( i v ) 物質の階層性
 ( v ) 相互作用の統一理論
(4)進化する宇宙:膨張宇宙論
(5)量子化学と物質科学
(6)生物学革命
(7)情報科学の誕生
第3節 現代科学の論理の特徴
(1)絶対概念から相対概念へ
(2)物理学の理論構成にみる質的変化
(3)新たな概念による自然界の再分類
(4)要素還元的分析法を超克して

終章 今後の科学の意義と目的:第3科学革命 (7ページ)
第1節 自然科学は「人類による自然自体の自己反映」
(1)自然・人類・科学の関係
(2)科学の不完全性:自己言及型の論理
(3)自然との共生を目指す科学・技術
第2節 21世紀の科学
(1)第三科学革命:複雑系科学、認知科学の誕生
(2)21世紀の科学は名実ともに「世界科学」となり得るか
(3)科学の価値について:科学と技術の区別を 
本格的人工知能(AI)の始まり
本格的人工知能(AI)の始まり

初歩から自己学習するAI
 人工知能(AI)の開発のなかでも、囲碁ソフトの急速な進歩にはみなが目を見張った。トップのプロ棋士を追い越すのはまだまだ先との予想に反し、ついに2016年にアルファ碁(Alpha-Go)が出現してトップ棋士に圧勝した。アルファ碁の出現は囲碁界ばかりでなく、人類社会に大きな衝撃を与えた。その後の改良によりアルファ碁は更なる進歩を遂げて、人間のレベルを超えたので、人間を相手の囲碁を打ち切り引退すると宣言した。今度は、囲碁AI同士の対局で研鑽するという。
 AIの長足の進歩は、深層学習(deep learning)ソフトの開発によっている。深層学習のAIはパターン認識の分野で開発され、それを囲碁ソフトに応用して成功した。

 深層学習のソフトは、莫大な量の情報(画面など)をAIに記録させ、それによって帰納的に法則性を学習させる方法である。
 初期Alpha-Goの場合は、最初に囲碁ルール、定石、手筋など基礎的な知識を与えておき、その上でプロ棋士の打った棋譜何千万局を記録させて、学習させるというものであった。その学習により、単に人間の打った手を真似て学習するというのではなく、莫大な数の棋譜(1次情報)から帰納的に法則的なもの(2次情報)を編み出して着手を選らぶというものであった。その2次情報は、人間の棋譜から与えられた知識(1次情報)を超えたものであることは、アルファ碁がプロ棋士は避けて打たない着手(発想外の着手や悪手とみなされる着手)を打って勝ったことである。
 それでもアルファ碁の着手は、人間の棋譜を学習して得たものであるから、まだ人間の世界に止まっているとか、いくら強くても囲碁AIはその着手の意味を理解してない(なぜその手を選んだか説明できない)ということが、人間にとってせめてもの救いであった。囲碁AIはその着手の意味を理解してないか否かは議論の余地のあるところだが、AIはまだ人間の手のひらの中にあったろう。ところが、それも怪しくなる事態が起こった。

本格的AIの始まり
アルファ碁を開発してきたDeep Mind 社が新たに開発したAlpha-Go-zero は人間の打った棋譜には一切頼らず、自習で棋力を向上するものである。ただ囲碁のルールのみ入力し、あとはそのコンピュータ同士で自己対局させ、学習させるというものである。その棋力の成長速度はまさに脅威的でる。学習を始めて3日後、400万局の自己対局で初代アルファ碁を超えたという。初代アルファ碁相手に、アルファ碁ゼロは100戦全勝したそうだ。40日で2,900万局をこなし、2代目のアルファ碁マスターを追い越して、100番勝負は89:11で勝ったそうである。
 人間の棋譜から学んで成長するよりも、かえって白紙のまま自学で成長する方が早いのだろうか。人間からの情報や指導なしに、自己学習によって棋力を向上させる囲碁ソフト、これこそ人工知能である。
 アルファ碁ゼロの棋譜を見ると、その進化過程で発見した定石や手筋などは人間のものと極似しているという(大橋拓文6段,)。すると、進化の道筋は本質的なところでは一つなのだろうか。囲碁以外の分野でも、人類の進化過程で開発してきた文化の形式と同様のパターンをAIは自己学習で辿るであろうか。ゲームなどルールや形式が整った理論的なものは、発達のパターンは限られているのかも知れない。数学のような論理的なものは、その発達のパターンや形式は、AIも人類と似たものを形成するかも知れない。
 しかし、言葉などはそう単純ではないだろう。ある一つの言語における必要最小限の文法と単語だけを教え、AI同士会話をさせて、言語の発達をみるのも興味あることである。あるいはもっと初歩から、AIの言語の発達過程が見られたらもっと面白い。チョムスキーの言語理論がテストできる。

 物事の発達に関するこの研究は、人類とAIとの共存社会はいかなる形態や制度になるか、また地球外文明の形態を想像する上でも参考になる重要な情報である。

 それにしても、人類が何千年も掛けて営々と積み重ねて達成した囲碁の殿堂は、わずか40日ほどで超えられてしまった。恐ろしいといえば、まさに恐ろしいことである。
 人間の指導なしで進歩するこの技術は囲碁AIに限らず、今後いろいろな分野に応用されていくだろう。本格的AI時代の始まりである。今のところは、個別分野でのルール・規則など基礎的知識のみを仕込んだAIの開発であるから汎用性はないが、いずれ近いうちに2種、3種の分野を統合した多用性の自己学習AIが氾濫するだろう。そうなると、本当に人類とAIの共存社会が始まる。だが、この技術を野放しにすると、人類の破滅を招く危険性を有する。その意味ではとんでもないAIが出現したといえる。
科学の「価値中立性」と技術との関係
科学の「価値中立性」と技術との関係

 福島第一原発事故を契機にして,「科学の価値中立性」に関する議論が復活している。科学は価値中立性であるという説に対して、原爆や原発事故と絡めて、最近「中立説」を否定する主張が展開された。その主張の論拠には基本的ところで誤解があるので、価値中立説を擁護する立場から、価値中立否定論を批判する。誤った議論が広まると、科学・技術への批判が行き過ぎると日本の科学政策を誤り,へたをすると反科学論になりかねない。それゆえ,適格な議論が望まれるからである。
  その論点の主な根拠は、1)科学と技術は、その目的も論理も異なるゆえ、両者を区別すべきであること、2)科学の存在意義は自然認識にあり、科学理論は「科学知」として価値を有すること(没価値ではない)、3)技術的利用価値について科学は中立的(良くも悪くも利用されるが、科学理論自体は利用方法を示さない)であるというものである。

 「科学の価値中立説」の否定論は、科学・技術の社会的役割の現象面に目が向けられ, 科学と技術の社会的機能を混同して科学を否定的に捉える方向に行きがちである.資本主義社会のもとで科学・技術が先行する現代では, 科学・技術利用の弊害が多く現れているので, そのことから科学は価値中立ではあり得ないと結論づけるのは論理的に飛躍がある。この主張には、「科学の価値」(科学知としての価値)を技術を通しての「利用価値」とみる誤解と混同がある。そう結論する前に, 科学の目的とは何か, 科学の価値とは何かをその本質にまで立ち戻り, 科学と技術の関係, および科学・技術の社会的機能を考察すべきである。

1.科学と技術の価値について 
科学の本来の目的は, 自然の仕組み・法則を解明することにより, 自然認識を深めることである(ここでは「科学」を「自然科学」として考察する)が, 自然科学には二つの社会的機能がある。一つは、自然認識を深めることにより知的欲求を満たすこと, 二つにはその知識を活用して生活に役立てることである。前者は人類の知的欲求を満たすと同時に, 自然観や哲学の形成など精神文明に寄与するから, 科学は精神文明の一部としてそれ自体で存在意義がある。後者は, 技術を通して物質文明への寄与である.
それゆえ, 「科学の価値」には, 科学理論それ自体(科学知)の有する「理論的価値」と, 技術を通して社会生活に活用する「利用価値」とがある。この両者を区別して科学の価値を考察すべきである。社会的「利用価値」は技術的応用の価値であり, 科学理論の有する「理論的価値」ではない。真善美に価値を認めるように, 科学知はそれ自体価値を有する。人間には.自然の仕組みについて強い好奇心があり, それを知る喜びがあるからである。それゆえ、科学は価値とは無縁な「没価値」ではない。自然科学は客観的に存在する自然の仕組みや自然法則を探究するものであるから、科学知は技術的利用価値とは独立である。
科学理論(科学知)の価値評価は, その理論の正確さと普遍性によって決まる.つまり,自然の仕組みの解明に対して適用範囲が広くかつ厳密正確な理論ほど科学的真理に近く, したがって知る喜びも大きい.さらに, そのような理論は科学研究における理論の有効性 (適用範囲と応用力)が大であるから「理論的価値」は高いといえる。ただし、科学理論も、科学の進歩に伴って変化してきたから, 科学理論に対するこの価値評価も絶対的・不変的なものではない。科学も完全ではなく本質的に不完全である(拙著『『科学はこうして発展した―科学革命の論理―』(せせらぎ出版 2002))。
科学理論の真偽の評価は, 実証に基づいて社会的・歴史的になされるものであるから, その理論の価値評価も個人的好みや信条ではなく, 社会的・歴史的に客観的になされるべきである.それゆえ, 「科学の価値中立性」に関する判断も, 現代の状況だけで決まるのではなく、地域や時代を超えて 社会制度にも依存せず普遍的になされるべきである.
 科学理論の技術への活用における「利用価値」に関していえば,それは両刃の剣であり,善用・悪用いずれにも利用できる。社会制度や文化様式・生活スタイルにより,科学の技術的利用の仕方も異なる。科学理論自体には利用目的はなく、善用し易いとか悪用し易いといった体質はない、すなわち利用価値に対して中立である。善用するか悪用するかは技術を考案する側にある。
 他方、技術の価値についていえば、科学と技術は,その存在目的が異なるので価値判断は同一には扱えない。それでも、技術知識そのものは、科学と同様に,価値中立的であるとの考え方もある.その技術を誰が何時何処で利用しようと, 同じく有効に働くからというわけである.問題はその技術の利用目的と利用方法であり, それによって技術の善悪が決まるというのである。だが、技術は,社会的であろうと個人的であろうと, 生活の手段に活用するために生まれた。それゆえ、個々の技術はその使用目的が限定されているから、善用・悪用の区別がつきやすい。そこが科学とは判断基準が異なる所以である。
 技術とは何かを, 武谷は「技術とは人間実践(生活的実践)における客観的法則性の意識的適用である」と規定した(武谷三男『弁証法の諸問題』理論社1961)。この定義は, 技術の最も本質的なところを捉えているであろう。(技術を「労働手段の体系」と規定する, いわゆる体系説もあるが, それは技術の実体論的把握であり不十分であると思う)。武谷の「意識的適用説」によれば, 技術は目的を遂行するために法則性(法則として確立する前の知識も含む)を意識的に適用するのであるから, 利用価値と切り離せないだろう。
 技術の価値評価は,利用価値の高低でなされる。技術の有効性は、 利用効率や使いやすさ, および有益と弊害との兼ね合いで決まる.有効性の高いものほど技術としての価値は高い。だが, 技術には完全なものはなく, 大なり小なり必ず欠陥と弊害がある。それは技術そのものの不完全さに由来するものと, 利用者の利用法によるものとがある.

2.本質論と実体論の意義 
科学と技術の価値とは何かについて述べたが、その評価基準と社会的機能を論ずるために、まず認識に関する武谷三段階論をベースにして、本質論、実体論、および現象論の意義を考察する。
物事の本質を把握しそれを規定することは、特に科学的認識において肝要である。現象から本質の認識に至る過程で、現象が発現している実体の把握が必要であること、そして、逆に本質規定から、実体を通して本質が現象する様式を理論的に展開することで、科学理論は一応の完結をみたといえる。これが認識に関する武谷三段階論である。
 弁証的認識法として、昔から「現象と本質」の把握が重視されてきた。だが、その本質から現象を説明するためには、本質がいかにして具体的現象として発現するか、その機構まで明らかにしなければ本質認識に至らないし、認識は十全ではないというのである。一般的に本質は抽象的であり、直ちに現象と結びつかない。本質が現象として現実に発現するには、その舞台が必要である。武谷はその舞台を「実体」と呼んだ。認識に関する武谷三段階論における「実体」の内容が曖昧であるとの批判があるが、現象が「発現するための舞台」とみれば、「実体」の意味内容は自ずと明らかになるだろう。その「実体」には物質的実体ばかりではなく、現象を担う舞台のモデルとしての実体や構造なども含まれる。「実体」という表現は狭く誤解を招くので、私は「実体・構造」と言ってきたが、本質の「発現の場」という方がより適切であろう。たとえば、天文学・宇宙論では太陽系の構造や宇宙模型(有限か無眼か、階層的かも含む)も入る。また、実体というと不変的存在と採られがちであるが、この「実体」は絶対的不変であるとは限らない(絶対不変なものは存在しない)、その現象の続く範囲で相対的に不変であればよいから「発現の場」が相応しいと思う。
本質が規定されたなら、それに基づいて「発現の場」を規定し、最後にその「場」を構成する実体や構造を通して現象が発現する機構(形式)を説明する。これができて本質的な理論体系が完成したことになる。それゆえ、「発現の場」の構造と機能の解明は不可欠である。本質論的演繹体系とはこのようなものであろう。
本質規定が間違っていると、当然ながら発言の場と現象の展開を誤る。たとえば、力学の場合、アリストテレスのように、物質運動の本質的概念を静止とし、基本法則を速度と力の比例関係とするのは誤認であった。それゆえ、そこから演繹される運動現象の説明は誤っていた。それに対して、ニュートン力学は慣性運動を物質の本性とし、加速度と力の比例関係を基本法則とすることで、運動の本質を正しく規定した。こうしてニュートン力学の3法則を基礎とする理論体系は力学現象を見事に説明し、力学に関する本質的理論体系となりえた。
本質論は、現象理解や説明に対してそのまま直接的に役立つとは限らない。だが、即役に立たない理論は無用であるわけではない。その本質規定から演繹されるものが正しく有効であれば、その本質論は現実的に有効性を発揮する。ニュートン力学の基本的3法則はそれだけでは、直ちに自然の理解に直結しないが、それから演繹されるエネルギー保存則や運動量保存則などの諸法則は自然の仕組みの解明に威力を発揮する。そして、力学の技術利用にも有効的に結びつく。それゆえ、本質規定が即役に立つか否かではなく、その規定が正しいか否かがまず問題である。本質規定が妥当であれば、それから法則や現象は正しく演繹される。本質規定が間違っていれば、それから導かれる事柄は誤りであり、自然理解を誤らせるばかりでなく、技術利用にも悪影響を与える。また、科学の価値中立性の判断においても同様である。それゆえ、「本質規定」の意義とその重要性を強調しておきたい。
 本稿では、以下、認識の武谷三段階論を修正して、「本質―発現場―現象」とする。

科学の場合
 科学とは何かについて、いろいろ議論がある。バナールは『歴史における科学』で、古代から現代までの科学について規定している。それに依拠して、肯定的によく引用されるが、その規定には疑問があり肯定しかねる。
 バナールによれば、科学は社会活動の面でも、歴史的にも多面的であり、内在的な科学の定義は不可能である。唯一の方法は外延的な記述にならざるをえないと主張し、現代における科学の主要な諸面として、彼は次の5つを挙げている。
(1)一つの制度として、(2)方法として、(3)知識の累積的伝承として、(4)生産の維持・発展の主要な要因として、(5)宇宙と人類に対する信条と態度を作り直す強力な影響力の一つとして。

 この規定は、科学とあまりにも広く捉え、科学と技術を混同することになる。バナールの科学のこの外延的規定に反対して、牧二郎は科学の本質規定を提唱し、本質-実体-現象として、立体的に科学を捉えるべきだと主張した(牧 二郎『岩波講座 哲学I』)。その詳細は割愛するが、このような考えに基本的に賛成である。ただし、その科学の本質や実体規定は不完全であるように思えるので、それを参考にして筆者独自の科学の規定を次のように提示した(拙著『東の科学・西の科学』序章,東方出版1988)。
  
  科学の本質規定:(i) 自然科学は人間の社会的営為として、物質の存在様式と物質の運動・発展の原理・法則を認識する実践活動である、(ii) 歴史的・社会的に蓄積された知識体系であり、それによって合理的かつ整合的に自然の仕組みを説明することを目的とする、(iii) その知識体系(理論体系)は予言能力を有し、直接または間接的に実証可能である。(この科学の規定について補足説明が必要であるが省略する。詳しくは上記文献を参照されたい。)
  科学の本質が発現する場(「実体」に対応)は、研究制度(組織)、研究方法(パラダイム)、および理論体系である。次に、この発現の場によって自然の仕組みや現象を説明し、さらに新たな事象を予言するのが科学の現象論である。ただし、科学理論は本質的に不完全であり、科学的事実というものも相対的な真理であって、科学の発展により変わる。だが、実証的科学は客観的に存在する自然の仕組みや法則の認識を着実に進めてきた。
 この科学の規定により、自然の仕組みを解明する理論体系は人類の知的欲求を充たす「科学知」として価値を有する。自然の仕組みや法則自体には価値はないから、この科学知としての価値は科学の研究活動の中での有効性(確実さと適用範囲)、すなわち理論体系の中での価値「理論的価値」である。それゆえ、この「理論的価値」は技術を通しての「利用価値」とは異質であり、それとは関係ない。
 
技術の場合
 技術論においても武谷三段階論が適応される。技術とは生産的労働手段の体系であるとする戸坂潤らの「労働手段体系説」と,「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用」であるとする武谷三男の「意識的適用説」とが対立し長い論争があった。 
  「労働手段の体系説」によれば、生産技術の主体をなすものは、道具、機械、装置といった労働手段であるが、これらの労働手段がばらばらの状態では技術とは呼べない。これらが結合され、目的に適応した操作にしたがって働かされてはじめて技術となる。つまり、個々ばらばらの労働手段ではなく、「労働手段の体系」こそが技術である、というわけである。さらに、「本格的な技術は生産関係の一定の歴史的段階における労働手段の客観的体系に集中されるもの」であり「技術は生産性の水準を決定する労働手段を構成する体系」であるという。
  この技術規定は、ある程度レベルの進んだ「本格的技術」、「社会的技術」を想定したものであろう。そうならば、初歩的、かつ個人的レベルまで含めた技術一般を総体的に捉えたものではなく、一次期の歴史的側面を捉えたものといえる。そのような規定は本質論とはいえない。技術のごく初歩的なレベルでは、目的意識をもって石器で材料を砕くとか、単純加工といった個人的なものや、体系化まで行かない技術もある。個々の労働手段を結合して、目的に適応した操作ができる体系が技術であるならば、それは生産手段の体系として、技術が現実に発現する舞台(場)ということになる。すなわち、それは技術の本質ではなく、技術の発現形態に関わる規定である。
  それに対して、「人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用」であるとする「意識的適用説」は、個人的レベルや初歩的な技術(まだ理論的にも社会的に体系化されてない経験的レベル)も含めて技術一般を射程に入れた規定である。「客観的法則性」は自然法則を「法則」として理論的に認識する以前の「規則性」などの経験的知識も含まれる。そして、「意識的適用」には、目的を遂行するために技術がより有効となるように、法則性を意識的に適用するという意味もある。この意識的適用こそは、技術の本質が発現する場として「生産手段の体系」をどのように形成するかに関わる重要な点である(後述)。
この技術規定は、個人的・社会的な技術にも、初歩から高度の技術レベルにも適用するから、人類の歴史を通して一貫して通用する普遍的な定義である。それゆえ、技術の最も基礎的本質を捉えているといえるだろう。生産活動における現象形態は生産物(広義の産物であり物質とは限らない)として現れる。本質としての技術が「発現する場」は生産過程における「生産手段の体系」である。その形態は技術レベルや社会制度により異なる様式を取る。その時代の社会制度と技術レベルを考慮して、目的遂行のためにその技術が最も有効に働くような技術体系(労働手段)を意識的に工夫・選択するわけである。その場合に、生産手段の所有形態や階級性が関わってくる。生産手段の所有者はその技術を最大限に活用するように、利益が最大になるように生産手段の体系を設定する(意識的適用)。それゆえ、「意識的適用説」は社会制度と無関係ではない。技術を目的意識的に人類のために有効に活用するには、社会制度はいかにあるべきかとも関わってくる。この技術の本質規定も抽象的一般的であるから、直ちに社会活動と直結はしていないが、生産手段をどのように体系化するか、その選択を通して間接的に社会の在り方を方向付けるわけである。 
  このように「生産手段の体系説」は技術の「発現場」(実体)の在り方を規定するものであり、それのみでは技術の規定としては不完全である。この「労働手段の体系説」と本質論である「客観的法則性の意識的適用説」とが相まって、技術論は十全となる。 
技術は、人間がある特定の目的を成し遂げるために、法則(性)を意識的に適用するのであるから、利用目的が特定化されているゆえ、利用価値と切り離せない。そして、個々の技術の利用価値の評価は、効率や使い易さと弊害(全ての技術につきもの)との兼ね合いで決まる。その価値評価の基準は社会全体に依存するものと個人に依存するものとがある。いずれにせよ、その本質規定からいって、技術には利用価値が内包されている。

3.科学の「価値中立説」と「没価値説」について
 「科学の価値中立説と技術の適用説は社会変革の理論たりえない」との主張(宗川吉汪「科学価値中立論者に問う」『日本の科学者』49, 7)があるが、それは肯定しがたい。  これまでの科学の価値中立説や没価値説の議論は、科学の社会的機能、特に技術的利用価値についての判断が主であるといえる。この問題を考察するには、まず科学と技術を区別すること、さらに科学の「理論的価値」と技術を通しての「利用価値」とを区別すべきことを強調しておきたい。この「二つの価値」の区別は科学の「価値中立説」と「没価値説」について論ずる際に必要なことである。

科学の「価値中立説」と「没価値説」は区別すべきである 
  経験科学の価値についてヴェーバーの「価値自由Wertfreiheit」論がよく引用される。それによれば「価値自由」には二種の「自由」があって、「研究における価値からの自由」と「社会的実践における価値判断への自由=価値判断の表明」である。「研究における価値からの自由」の場合は「価値自由」と「没価値」とをほぼ同義とみなされるようである。経験科学が客観性を保つためには価値判断から分離されねばならないとし、経験科学が教えうるのは人間の行為の目的にいかなる手段が適合するかのみであって、何をなすべきか(価値判断)を示すことはできないと主張して、理論の実践的意図とその評価を厳しく拒否したわけである。
だが、この科学理論の「没価値説」には疑問があるし、科学理論の社会的実践(技術として活用)においては、価値とは無関係でありえず、没価値とは思えない。この疑問を解決するには科学の「没価値説」と「価値中立説」とを区別することにあるというのが筆者の考えである。
  科学理論の「没価値説」は、科学的事実は価値から独立していて価値とは無縁であること、そして科学理論は価値評価や価値判断を行うことはできない、というものであろう。他方、「価値中立性」は科学理論(科学知)としての価値と、その技術利用の価値について、価値判断を一切排除するものではない。価値中立説は科学知の価値、すなわち「理論的価値」の存在を認めた上で、科学的認識活動における科学理論の有効性に関しては価値判断をする。そして、技術的「利用価値」と無関係ではないが、善用・悪用いずれも可能であり、どちらに利用しやすいかには係わらないという意味で価値中立である。その「理論的価値」は科学的事実にかかわるものであり、技術的「利用価値」に関わるものではない、両者は明確に区別されるべきである。すなわち、科学理論は価値中立ではあるが没価値ではない、というのが筆者の意見である。
  科学者は科学の技術的利用価値については善用・悪用の判断はするが、その判断基準は科学的事実(自然法則など)に基づくものではない。科学理論(科学的事実)の技術的利用は、科学理論自体が行うのではなく、人間の目的的行動である。つまり、科学理論自体は、善用・悪用のいずれかに荷担する特質があるわけではない。技術として利用するとき社会に及ぼす影響によって判断するのである。
  価値中立説は没価値説と違い、「科学的事実」を適用した技術的利用価値の存在を認め、その上で利用価値にはこの二面性があるから科学は価値中立であるというのである。利用価値がそのような二面性を持ちながらも、科学的事実(自然法則)の追求はそれに囚われない、それが科学というものである。
  また、科学研究における課題の選択には科学者の自然観や価値判断が当然入るであろうが、この「価値判断」は人類の知的欲求である科学知に関する判断、または科学研究における理論の有効性に関す判断である。課題の選択にこのような科学者の判断が入ったとしても、研究の結果得られた科学的事実(自然法則、自然の仕組み)には善悪はなく、それ自体は価値中立である。
このように、科学の「価値中立説」と「没価値説」とは異なるものであるから、混同してはならない。

科学の価値中立説(没価値説)社会変革の理論たりえないか?
  科学の「没価値説」は人間的発展を目指す理論たりえないともいう(宗川吉汪「科学の価値中立論擁護批判」『日本の科学者』51,12, 2016)。
  科学の「価値中立説」および「没価値説」に反対する主張をみると、社会変革に役立たない学説・理論は誤りであるか、または存在意義がないとでも言いたいように思える。もしそうなら短絡的であり、学問とは何かを誤解していると思う。そして、人間存在の意義と人間営為の目的を余りにも狭く捉えていると思う。  
  社会制度(資本主義経済、階級社会など)の変革ばかりが社会変革ではない。自然の脅威から身を守る手段や生産力の発展なども、また精神・思想の発展・進歩も「人格権の発展」に資す社会変革であろう。人類の歴史の中で、科学・技術の発展は、それ自体で社会制度や人間の生き方を変革する力となってきた。
人間の営為は個人的にも社会的にも、また物質的にも精神的にも非常に多面的であり、人間は社会制度の変革のためだけに生き、科学を研究しているのではない。精神的、物質的豊かさを求める文化活動も重要な要素である。科学は精神文明の一翼であり、それ自体存在意義を有している。
  社会変革に直接的に役に立たない論説は存在意義がないわけではない、「本質と実体」のところで述べたように、本質的理論は直接的に社会活動や変革に寄与しなくとも、正しい本質論から導かれる理論は社会的機能において有効性を発揮する。一例としてニュートン力学を初めとする近代科学の成立の歴史的意義を述べる。ニュートン力学の成立はヒューム, カント,ディドロなどの哲学・思想に多大の影響を与えた。さらにニュートン力学の成立に影響されて、新しい科学の姿を説いたフランス百科全書派の啓蒙主義はフランス革命の精神的準備を与えたといわれている。また、近代科学は神を必要としない論理を獲得したので,自然の原理を理性の力によって自然自体の内に求めるようになり,宗教から独立する道を拓いた。こうして西欧社会は「信仰の時代」から「理性の時代」へと脱皮し,やがて宗教と科学の社会的地位を逆転させたのである。
また、技術に関する武谷の「法則性の意識的適用説」は技術を有効に活用させるために、いかなる技術体系を選択すべきかとかかわる。その際に、社会制度が技術の有効利用に適切であるかどうかの判断にもかかわってくる。それゆえ、武谷技術論は社会変革と無関係でも、社会変革に対して無力でもない。
 価値中立説や技術の意識的適用説は社会変革の理論となりえないと、切り捨てることはできない。ここの判断で重要なことは、その説が正しいか否かであり、そして人類の営為において、その波及効果まで含めた存在意義である。その説が正しければ、いずれ社会の発展や変革に貢献するだろう。

4.終わりに
 科学は価値と一切関わりのない「没価値」ではなく、科学知として「理論的価値」を有する。だが、自然の仕組みや自然法則そのものには「価値」は存在しないから、理論的価値は人間の知的欲求を満たすという点での価値、および自然の認識活動における理論の有効性(正確さ、適用範囲の広さなど)に対する価値である。科学理論は技術として善用・悪用いずれにも利用されるが、科学理論自体には善用・悪用いずれかに味方する性質はない。それゆえ科学は利用価値に関しても中立である。
 「没価値性」と「価値中立性」との区別、および「理論的価値」と技術的「利用価値」との区別をして、この種の問題を論ずべきである。
 誤解のないように付言すると、科学は「価値中立」だからといって、科学を研究する科学者が科学の利用について「われ関せず」という態度は許されない。科学者も社会の一員である。科学が悪用されないように監視し、また悪用されたなら反対すべきである。科学は利用価値中立である故に、科学者はいっそう強く利用法を監視して、悪用防止に努めなければならない。それは科学者の社会的責任として当然の義務である。科学の価値中立論こそ、科学研究と技術利用について、主観や偏見に囚われず正しい判断をもって社会的に発言できるのである。そのためにも、科学の「本質」と「発現の場」を正しく認識する必要がある。科学の価値中立性の議論は、正にその本質規定と発現の場に関わるものであろう。

この記事は、すでに「科学の価値中立性批判」に反論した論稿をまとめたものである。
 「科学の価値中立性について」『日本の科学者』Vol.50, No.7, 2015.
 「科学の価値中立性と技術の関係」『唯物論と現代』No.54、2015.11.
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