科学・技術と自然環境について、教育を考える。
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囲碁ソフトは行動の「意味」を理解できたか 
囲碁ソフトは行動の「意味」を理解できたか 

 囲碁ソフトAlphaGoが世界のトップ棋士李セドルに圧勝して世界をあっと言わせてから、一年も経っていないのに、深層学習(Deep Learning)を取り入れた囲碁ソフトがいくつか開発された。日本で開発された DeepZenGo が趙治勲名誉名人と対局し1勝をあげた(対戦成績2:1)。これも,トップ棋士にハンディなしで1勝をあげたと、大変な話題になった。

 最近ネット碁でAlphaGo の進化版として、ハンドルネーム「Master」がトップ棋士を相手に無敵の強さを誇っている。今やプロ棋士たちは囲碁ソフトの打った新手を真似るだけでなく、囲碁の考え方まで再考を促されているところまできた。 

 これまでの囲碁ソフトは、定石や膨大な棋譜をひたすら記録し、そのデータを基に深層学習法によって帰納的に法則を学習するというものであった。しかし、最早その域を超えて、自らの着手を編み出しているようだ、と伝えられる。以前は、プロ棋士には思いつかない着手、打てない着手(疑問手)を打ってAIが勝ったので驚かされた。だが、Master の対局棋譜では、プロ棋士が感動させられる素晴らしい手が打たれているそうだ。もう棋士の棋譜から学ぶのではなく「人間の棋譜を介さずに、AI独自の強化学習で飛躍的な棋力の向上を試みているように思える。」(朝日新聞2月2日夕刊)。 

 ここまでくると、AIは質的な進化を遂げているのではないかと想像される。AIの囲碁ソフトは人間の棋譜(1次情報)を基にした深層学習によって、ある程度高いレベルの規則性(法則性)を自ら編みだし、2次的データとして蓄積しているはずだ。その蓄積されたいろいろなデータ(2次情報)の量がある閾値を超えると、それら2次情報のデータを組み合わせた着手を打つようになるだろう。すると前に入力されたデータ(1次情報)から離れだす。すなわち2次情報をもとに深層学習をするようになる。そのように「進化」したAI同士で何万、何十万局も対局を重ねれば、人間の棋譜に頼らないAI独自の法則性(囲碁理論)を編み出すこともできるだろう。AIの囲碁ソフトはその域に達したのではなかろうか。勝敗だけの問題ならば、最早、AI囲碁ソフトは人間を超えた。 

 AIの評価として指摘されてきたことは、いかにAIの機能が進歩し人間に勝てても、またロボットが人間相手に上手く応対できても、AIには「自分のしているその意味が分かってない(理解していない)」ということである。機械的に無意識に反応しているだけで、その意味を理解してないというわけである。

 そもそも「意味が分かる」とはいかなることなのであろうか。「意識とは何か」がまだよく分かっていない。
しかし、生物(高度に組織化された物質系)のごく初歩的な意識は、少なくとも次のように規定できるだろう。最初に発生した「原始的意識」とは、生物発生から間もない進化初期の生物が無意識的行動(食物摂取、光に対する反応など)を繰り返すうちに、徐々に芽生えた目的達成のための物理・化学的機能の一種といえるであろう。

 すなわち、意識を「組織的物質系の物理・化学的運動による機能の一種」と見るならば、「意識」(生物の原始的意識も含めて)とは、一つの物質系がある目的(餌を採るなど)を達成するための行動に際して、その内部に蓄積した情報を統合的に活用する内的機能(行動の起動因)といってよいだろう。ただし、原始的意識の発生過程で、どこからが「意識」といえるか明確に定義することは今のところ難しい。  

 もしこのように意識を定義できるならば、囲碁ソフトMaster も「自己の行動の意味を理解する」という意識を持つたといえるだろう。最初は人為的に仕込まれた棋譜データ(1次情報)を基に深層学習によって無意識的な着手を繰り返していた(反応していた)囲碁ソフトが、習得したデータ(2次情報)の蓄積がある閾値を超えると、AIは独自に2次情報から囲碁に勝つための高次の学習を始めることも起こりうる。その場合は、囲碁に勝つことを目的とする行動を始めたといえるであろう。

 囲碁ソフトは打ち終わった(あるいは中途の)段階でゲームの勝敗を判定できるように、最初から作られている。勝てないと判定したら中途で投了することもある。すなわち「ゲームに勝つ」という目的は決まっている。そして勝つための着手を選択するように仕組まれている。すなわち「目的は何か」は決まっていて、それに向かって行動している。

 蓄積された2次的内部情報を統合して、目的のある行動をするということは、自らの行動の「意味」を理解したといえるのではなかろうか。チューリングテストに掛ける価値があろう。

人工知能(AI)の可能性:人間思考の盲点の発掘
人工知能(AI)の可能性:人間思考の盲点の発掘

 AIの能力は素晴らしく進み、特殊な個別分野では人間を超えるようになった。そして、AIは人間の知能をいずれは超えるだろうとの予測があり、その時点を「シンギュラーポイント」と呼んでいる。だがその「人間の知能を超える」という判断には問題がある。その理由は、人間の能力を完全に知ることは不可能だからである。なぜならば、人間が人間を探究する論理は「自己言及型の論理」であるゆえに、ゲーデルの不完全性定理によって、そのような理論は原理的に不完全であり、自己完結的理論となりえないからである


 近年の脳研究で未知の領域が広がり、人間の意識の奥深さ、複雑さが改めて認識されている。それゆえ、人間の能力を知り尽くす事は不可能であり、AIが人間を超えたか否かを判定することも不可能であろう。

 今の深層学習(Deep Learning)は、学習目的の分かっている特定分野の問題について多量のデータを記憶させて、反復経験により帰納的に学習するものである。それゆえ、深層学習のソフトは個別分野適用のソフトであり、人間のように、多面的に総合的判断ができる汎用性AIではない。汎用性AIのソフトを開発する論理と方法(それは演繹的推論の論理)はまだ未知である。まして新たな物事を創造する能力を有するソフトの開発は難しい。創造性機能を有するためには、現在実行していることの意味(何のための計算か、ゲームの楽しさなど)を理解しなければならないが、コンピューターにはその意味を理解できない。したがって、人間の能力に「迫る」あるいは「超える」ようなAIを開発することは今のところできない。 

そこで、それよりも現時点でAIにとって可能性の高い開発分野は、「人間の思考形式の盲点」となっているところを発見することであろう。人間の思考形式(発想)は決まったものではなく、東洋と西洋で、あるいは民族により異なるし、また時代とともに発展進歩してきた。論理学にしても弁証法論理や形式論理がある。特に形式論学は古代から、名辞論理(三段論法)、命題論理、述語論理など次々に開発されてきた。今後も新しい論理が誕生するだろう。それゆえ、現代人の思考形式はまだ不十分で、未知の論理があるはずだ。つまり人間の思考や発想には盲点があるだろう。地球外の高等生物は我々とは異なる論理思考を持っているかも知れない。 

 現に、将棋や囲碁の対局で、人間には思いつかない着手が飛び出して、驚かされている。しかもそれで勝っている。トップ棋士が、ゲ-ムソフトを使って研究するのは人間の盲点を指摘されるからだという。人間は最初からこの手は駄目だと思って読みの対象から外してしまうものがある。しかし、コンピューターは愚直にすべての可能な手を読み尽くすので、人間が見落としていた思わぬ応手によって盲点を突かれることがあるという。
 
 単一分野の深層学習ソフトでも、このように人間の盲点の発見に繋がる。それゆえ、複数の分野の深層学習ソフトを並列に繋げば、更なる人間思考の盲点や隙間を発見することができるだろう。メモリー容量が許すならば、種々の分野の深層学習ソフトを並列処理したもう一段階高い深層学習ソフトで繋げば、ある程度の汎用性のあるものができ、きっと新たな発見があるはずである。

 しかし、問題は何が人間の盲点かを判定する基準と、それを拾い出すプログラミングの開発である。人間がコンピューターの反応全部を終始監視し続けることはできないから、それをコンピューターにさせるのである。このレベルではコンピューターの応答(動作)のほとんどのものは、ソフトを作った人間の期待に応える常識の範囲であろう。それら応答の中で異常と思われるものを取り出して、それが人間の盲点を突き、かつ有効なものと判断できるプログラミングを作らねばならない。それができるコンピューター同士でシミュレーションをするなら面白いだろう。 囲碁、将棋のようなゲームの場合は、盲点であることの判断は比較的し易い。しかし、一般の社会的現象ではその判断基準は簡単ではなかろう。

 だが、この種のソフトの開発は、「創造的ソフト」の開発のヒントを与えてくれるだろうから研究の価値があると思う。
文化としての科学を! 
文化としての科学を! 

 現代は科学・技術が人文科学に比し突出して発展し、物質文明に対して精神文明が非常に遅れている。そのために、科学・技術の社会的機能に歪みが生じ、いろいろな軍事利用、原水爆開発や環境破壊などのようにいろいろ弊害がでた。 それゆえに、科学・技術のあり方に対して批判的意見がでている。その意見にはもっともな論も多いが、科学と技術を区別せず一纏めにして「科学」を攻撃する的外れのものも多い。

 自然の存在様式や運動の法則それ自体の中に価値は存在しない。人間も自然の一部であるから、科学も自然現象の一部に含まれる。「自然科学は自然自体が人類を通して自らを解明する自己反映活動である」というのが私の科学観である。科学が自然現象の一つであるならば自然科学自体に使用価値はない。科学の使用価値は人間が技術を通して社会活動において創り出したもので自然自体にはない。科学は技術を通して善用・悪用のいずれにも利用可能であるが、科学理論自体にはどちらに利用し易いということはない。それゆえ、科学は使用価値に関して「価値中立」である。

 科学の目的、つまり社会的機能には2つある。自然の仕組みを解明する「知」の体系としての存在意義、および技術への応用である。前者は精神文明への寄与、後者は物質文明への寄与である。本来、科学は文化の一形態であり、精神文明の形成に不可欠である。

  「真善美」は古代から最も崇高なものとして求められてきた。科学的知はこの「真善美」の「真」の探求の成果である。「科学知」の理論形式は美しく「美」でもある。その意味で科学は価値を有する。技術として役立つことを主体とする科学ではなく、これからの科学は、真善美と一体となる精神文明としての科学、思想としての科学が求められる。そのためには基礎科学をもっと重視すべきである。

 自然科学は本来自然哲学であった。今また科学と哲学との共生が求められている。哲学との共生がなければ、精神文明としての科学、思想としての科学は存在しえない。その様な科学は、資本主義社会では、技術の下僕となる。現代では、科学は国家の支配下にあり、技術の下僕となっている。この状態を脱して、「思想としての科学」の復権を唱えたい。 以前、私は拙著『科学は自然をどう語ってきたか』(ミネルヴァ書房)で「精神文明としての科学の復権」を主張した。

 今年度のノーベル医学・生理学賞の受賞者大隅良典氏は、基礎科学を重視し、「科学が文化として受け容れられる社会を望む」といわれた。この思想に強く共鳴する。

追記:
 近年、大学と防衛省との共同研究が増えている。大学や民間企業へ防衛省から共同研究の誘いが急増し、予算も増えている。
学術会議でも「軍学共同研究」を巡ってその可否が盛んに議論されているが、反対意見が大勢をを占めている。

 その議論のなかで、「科学・技術の2面性(デュアルユース)」が問題になっている。上記のように、科学は技術を通しての利用価値に関しては中立である。それゆえにこそ、科学者は科学理論が悪用されないように監視し発言せねばならない。それが科学者の社会的責任である。「科学の価値中立論」は科学の利用につい科学者は無関心であることを許すわけけではない。
  科学が平和と人類の幸福に貢献し、悪用を阻止できる社会こそ文化国家であり、そのような社会でこそ「文化としての科学」となりうる。
科学と技術は区別して論ずべきだ
  科学と技術は区別して論ずべきだ 
 (この記事は「月刊エネルギーレビュー」誌の5月号に「随筆」として掲載されたものである。)

 現代は科学・技術の恩恵は計り知れない。だが科学・技術が他の分野に比し突出して進歩したためにその弊害もでている。原水爆、環境汚染、原発事故などがその典型である。そのために科学・技術に非難の矛先が向けられることが多い。その際、科学と技術を混同し一纏めにして、「科学」のせいにする。科学と技術はその目的も社会的役割も別であるにもかかわらず、「科学=技術」と誤解した議論が多すぎる。この混同から日本では一語で「科学技術」とされる。欧米では通常“science and technology”と区別されている。

 自然科学の本来の目的は自然の仕組み・法則を解明し認識を深めることであるが、自然科学には二つの社会的役割がある。自然の仕組みを知ることにより知的欲求を満たすこと、およびその知識を技術として活用することである。前者は自然観や哲学の形成など精神文明にも寄与するから、真善美の一翼として科学は精神文化の一部である。後者の技術への応用は物質文明への寄与である。ここで留意すべきは、科学の理論は客観的自然法則の発見であり、それ自体には技術としてどのように活用するかは含まれないことである。すなわち科学は技術を通して善用・悪用いずれにも利用されうる両刃の剣であるが、科学自体はどちらに利用され易いかは示さない。技術的利用価値に関しては中立である。善用か悪用かは技術として活用する人間(社会制度)の問題である。

 現代では科学と技術は密接になり、基礎科学から技術利用までの時間・空間的距離は極めて接近しているために、両者を「科学」として論じられる傾向が強い。この区別をしない議論は本質を踏み外して反科学論に至り、人類の未来を見誤ることになりかねない。

附記:科学の価値中立性についてさらに詳しい考察は、拙稿「科学の価値中立性」(『日本の科学者』Vol.50.  No.7.2015年7月; 「科学の「価値中立性」と技術との関係」『唯物論と現代』(第54号、2015年11月を参照されたい。
ご希望の方には、メールでご連絡下さい、原稿を送ります。私のメールアドレス: rsugano@feel.ocn.ne.jp)
『原子力とともに半世紀-森一久論説・資料集』 
日本の原子力産業に関する資料集
『原子力とともに半世紀-森一久論説・資料集』
 (森一久資料編集会)

まえがき
 森一久氏は広島に落とされた原爆で家族を失い、本人も被爆されたが九死に一生をえた。その後京都大学理学部に復学されて湯川研究室に所属し1948年に卒業した。その後、1953年ころから原子力産業会議に転身し、一生を原子力の平和利用に捧げた。東日本大震災と福島第一原発事故の前年2010年に84歳で逝去された。
 
 森一久氏が亡くなた翌年2011年の湯川研究室同窓会のメンバー2,3人の間で森氏の残された資料のことが話題になった。日本の原子力史として、秘話を含めて未公表の貴重な資料が含まれているであろうと想像した。氏の活動の場であった原子力産業協会(元の産業会議)は、その資料を整理して残す企画はないと聞いた。そこで、私が森夫人にお会いしたとき、資料をどうされるのかお尋ねしたところ、資料として活かすことができるなら保存したいが、その具体策はまだないと言われた。それがきっかけとなり、後日森夫人とのお話しで、いつの間にか私たち湯川門下の後輩3人がその任を負うようになった。だが、私たちにはいささか荷が重いので、原産時代森氏の協力者、原子力の専門家、など、の協力をえて、6人で「森資料集編集会」を発足させた。漸くこの度、この形で森一久氏の遺された論説・資料を纏めることができた。

編集の目的と意義
 1953年頃から、原子力の平和利用として原子力発電の計画が日本で動き始めた。政界と先達の科学者の一部からその声が上がり、電力経済研究所が原子力調査研究に着手した。その動きに、経団連など産業界も関心を寄せ始めた。
 他方、物理・化学の若手研究者のグループが、この原子力利用の計画を重要視して勉強会「原子力コロキウム」を行った。それを引き継いで、1954年に森一久氏らが中心になり自主的組織「原子力談話会」を立ちあげた。この「談話会」では原子力の平和利用の是非と、始めるならその条件などについて熱心な議論が重ねられた。

 丁度その頃、電力経済研究所が「原子力発電の着手を急げ」という趣旨の「建議」を発表した。それに対して原子力談話会の代表の数人が反論・抗議に押しかけ、「原爆体験からしても、平和利用といえども着手の是非についてまず慎重に議論を尽くすべきだと強く主張した。」応対にでた橋本清之助(元貴族議員)らの常務理事が、「以前軍部の独走を許した戦争責任を痛感すればこそ、日本復興への原子力平和利用の可能性を強く期待するのだ。むしろ君ら若い者こそ開発に参加して間違いない開発を目指し、チェックすべきではないか」と応じ、互いの真意を率直に長時間戦わせた。その結果、談話会側と電力経済研究所側とは、立場の違いに一線を画しながらも、世代の違いを超えて一種の共感を持つにいたった。そして、情報や資料の交換などで具体的な協力を深めていった。これが「原子力界に踏み込む第一歩であった」と、森一久氏は語っている。(『オーラルヒストリー』)。
 日本は唯一の原爆被爆国であり、また自らも被爆者として、原子力との関わりはひときわ強いと感じ,森氏は人類が原子力とどう向き合うべきかを真摯に考えていた。
 森一久氏は日本の原子力利用の開発の初期からそれに関与し、生涯原子力の平和利用に尽力した。原子力産業会議(原産)の発足から参加し、事務局長を経て最後は副会長まで務めた。その生き方は、日本のみならず国際的にも活動の場を広げ、原子力の平和利用、特に原子力発電とその周辺事業(アイソトープ、温廃水養魚など)に一生を捧げたと言えるものであった。

 また、原産を退任された後も、UCN会を設立し原子力や教育・文化などについて多面的な活動を最後まで続けた。

 日本の原子力政策、なかでも原子力発電計画の方針については、その出発点から政府(政治家)と学者との間に種々意見の対立があった。そのせめぎ合いの狭間に位置し、現実的に原子力開発を推し進めてきた原産、その中にあって実質的に原産を動かしてきた森一久氏の生涯の活動記録は原子力発電史には欠かせないものであろう。それゆえ、氏の遺された資料は、日本の原子力史にとって極めて貴重なものであるばかりでなく、国際的にも価値あるものと思われる。
 
 森一久氏が原子力産業会議を退任された2004年に、原子力産業会議が原子力産業協会に改組され、その後に原産時代の資料の一部が廃棄されたと、元秘書の方から聞き及んでいる。それゆえ、森氏の遺された原発開発記録、著書・論文、講演・記事、日記・メモ類などの各種資料には貴重なものが含まれているであろう。

 日本の原子力政策は、原子力の平和利用に徹することを掲げてきた。だが現実は、政府と産業界の経済性優先の施策に押されて原発開発を急ぐ余り、安全性に関しては杜撰なところがあった。それゆえ、政府と原子力業界の体質には批判されるべき点が多々あるだろう。

 原子力産業会議の要職にあり、政界や財界に囲まれた「原子力ムラ」の中に身を置いた者は、初期の信念を曲げてその渦中に巻き込まれがちであるが、森一久氏は節を曲げず初心を貫き通したといえるだろう。氏は原子力の平和利用の理想像を求めて、原発推進派の一人として積極的に活動し続けた。そのなかで、批判意見には耳を傾け、原子力ムラの体質に抗して苦言を呈してきた。だが今にして思えば、その積極的推進活動には批判される点も少なからずあろう。いずれにせよ、誠実かつ几帳面な人柄と私利私欲を離れた活躍を思えば、氏の遺された記録には粉飾や偽りはないと信じる。それゆえ、他に見られない真実が語られていると思う。これが森氏の資料の整理・保存を思い立った理由である。

 不幸にして東日本大震災に伴い福島第一原発の過酷事故が起こり、計り知れぬ被害をもたらした。この事故を境にして、これまでの日本における原子力発電の政策が根本から検討を迫られている。今日までの日本の原子力政策の当否を判断するに当たって、この事故原因をつぶさに検証したうえで結論をだし、今後の原子力発電の方針を立てるべきである。そのためにもこの記録を整理し纏めておくことは有意義なことであると思われる。
 福島第一原発の大事故を契機にして、日本の原子力政策は根本的に検討し直すことが強く求められている。森氏はこの事故の前に逝去されたので、この原発事故とそれまでの原発政策に対する判断を直接聞くことができないのは誠に残念である。存命であったなら、おそらく忸怩たる思いで心痛と怒りを吐露されたことであろう。

 私たちの非力ゆえにエネルギーと時間が足りず、残念ながら、取りあえず資料の散逸と破損を防ぐべくこのような形式(215ページ)で目録の作成と整理に止めざるをえなかった。後日に科学史家が日本の原子力史を編纂する上で、これらの資料がそのお役に立てば幸いである。
(「まえがき 森一久氏の遺した資料を保存するにあたり」より抜粋)

資料編集会
代表 菅野禮司:大阪市立大学名誉教授、湯川研究室卒業
曽我見郁夫:京都産業大学名誉教授、湯川研究室卒業
高田容士夫:会津大学短期大学部名誉教授、湯川研究室卒業
井上 信:京都大学名誉教授、元京都大学原子炉実験所長 
喜多尾憲助:放射線医学総合研究所名誉研究員、元原子力産業会議
藤原章生:毎日新聞編集委員

追記:この「原子力とともに半世紀 森一久論説・資料集」が欲しい方はご連絡下さい。実費と送料込み3,000円で送りします。
連絡先:メール rsugano@feel.ocn.ne.jp
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